昨夜、「新型コロナ」の感染対策分科会の会長をされている(?)尾身茂氏が、「第9波の入り口に入った」という趣旨の話をされている。
讀賣新聞:尾身茂氏「コロナ第9波の入り口に入ったのではないか」…5類移行後1か月で感染2.5倍
この見出しを読むだけでも、尾身氏は「2類相当から5類に移行した為、感染拡大が始まっている」と、警告をしているような印象を受ける。
確かに、「新型コロナ」の感染症としての扱いが5類になってから、感染者(=陽性者も含む?)が増えた、という数字は確かなモノだろう。
そのことに反論する気はない。
ただ、この5類になったことで、社会生活がどのように変わったのか?という視点が、尾身氏の言葉からは感じられない。
国内での移動が自由になっただけではなく、海外からの旅行者などの受け入れも積極的になってきたのが、ここ1か月の状況だ。
感染症の予防対策の基本の一つが「移動しない」ということだったことを考えれば、人が国内外を問わず自由に往来するコトができるようになれば、それだけでも感染症リスクは高まる、ということでもある。
5類移行はGW明けではあったが、今年のGWの観光地は「行動制限の解除」によって、多くの人たちが大挙して出かけていた。
移動に加え、いわゆる「人混みが各地で起きた」ということをかんがえれば、感染症拡大のリスクは十二分にあった、ということになる。
そのような条件を加味して1か月で2.5倍増加と言っているのか?というと、甚だ疑問なのだ。
何故なら、これまで日本政府が発表してきたデータは「人の生活行動」などを含めたものではなく、単に関係医療機関を受診して発見された感染者数を発表してきただけだからだ。
「数字」は正確なモノである、と子供の頃から教え込まされてきた感のある私たちからすれば、「感染者数」という数字は動かしがたい事実として受け止めてしまう。
しかし、データというモノはその「数字の背景にあるモノ」を分析した上で、調整をする必要がある(時がある)。
何故なら、データの公平性の為だ。
データというモノは、同一条件で行われた実験などによって得られる数字であって、単純に「医療機関で感染者として見つかった数字」ではない。
冷静に考えれば、当然のことではあるのだが、最近では「タイパ(=「タイム・コスト・パフォーマンス」の略か?)」と言って、何でもかんでも、「早い」ことが良いことのようにとらえられる風潮が、若い世代を中心に起きている(ように感じている)。
この「早い」の中に、「考える速度が速い」ということが、含まれていれば良いのだが、どうやら「他人様が創ったモノ」を適当にピックアップをし、自分では考えない、という傾向があるのでは?という、気がしている。
「自分で考える」ということは、それなりの情報を集め・自分なりに考え・分析をする、という面倒くさく、時間のかかる順番を要する。
「タイパ」という考えの対極にあることなのだ。
しかしこの「自分で考える」ということを習慣づけないと、今回の尾身氏の発言を知って「やはり新型コロナは怖い。行動制限をし、マスクをする生活をしなくては、自分の身が危険にさらされる」と思い、行動するようになる。
行動するだけではなく、感染拡大が懸念されていた頃の「新しい生活様式」を守らない人を、攻撃するような発言や行動をとることに疑問を持たなくなってしまう。
とにかく「政府(及び政府関係者)の話だから正しい」と思うのではなく、「本当にそうなの?自分の考えとの違いは?」という疑問を持ち、考える事が、「コロナ禍」で停滞した日本人の思考力の復活に大切なの気がするのだ。