日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「自分の好きなモノ」を探し、見つけ「自分を発見する」

2021-06-03 19:44:12 | ビジネス

朝日新聞に、面白い記事があった。
朝日新聞:同じコーヒー豆、店が変われば味も 京都の11店が企画

記事そのものは「有料会員記事」なので、全文を読むことはできないのだが、読める範囲だけでもその概要はつかめるはずだ。
そして、面白いだけではなく、このような試みは生活者自身にとっても「自分を試す」機会ではないのか?という、気がしたのだ。

コーヒーそのものをほとんど飲まない私なので、「コーヒーの味」に関して一言がある訳ではないので「出されたコーヒーは基本飲む」ようにしている。
逆に言えば、「コーヒーの味が分からないから、気にせずに飲める」ということになる。
一方、「コーヒーが大好き」という知人は、「〇〇のコーヒーは濃いばかりで、コーヒーそのものの美味しさが感じられない」とか、「××のコーヒーは、自分好み」という話をする。
コーヒーに限らず、ある程度嗜好性の高い食品は、このような「自分好み」の味や香りがあるのだと思う。
そのような「嗜好性の高いコーヒーを、同じ素材で飲み比べる」というのは、「自分を発見する」ことと同じなのでは?という気がしたのだ。

記事にあるように、同じ産地のコーヒー豆であっても、焙煎の仕方、コーヒーの淹れ方、飲む器によって、味や香りが変わるだろう。
もしかしたら、お店の雰囲気ということも、影響するかもしれない。
もちろん、このような「飲み比べ」というイベントは、以前からあった。
新酒が出来上がった頃、複数の酒蔵が集まって行う「新酒の飲み比べ歩き」だ。
残念なことに、お酒の場合「アルコールを受け付けない人」が一定数いらっしゃるのと、昨今の厳しい規制により「ほろ酔い気分で街中を歩く」ことそのものに、厳しい目が向けられるようになっていると、イベントとして参加することに抵抗感を持たれる方もいらっしゃるだろう。

ただ、このような「自分の好みを知る」という機会は、案外少なくなっているのでは?という気がするのだ。
その理由の一つが、ファーストフードやコーヒーチェーンの全国化なのでは?という、気がしている。
ファーストフードや全国展開をしているコーヒーチェーンの魅力は、「どこに行っても同じ味」という「安心感」がある。
それを悪いとは思わないし、何より「どこに行っても同じ味」という「安心感」は、海外などに行くと実感することだ。

それと逆の発想が、今回京都のコーヒー専門店11店で展開しているような、「個性のマッチング」なのだ。
「個性のマッチング」によって「自分」という思い込みの枠を外すことができれば、それは新たなチャレンジを手に入れる、ということにもつながっていくのでは?

これは「コーヒー」という飲み物ではあるが、アイディア次第では「個性のマッチング」の場を提供することができるのではないだろうか?
時には、パーソナルカラー診断のようなプロの手を借りる事もあるだろう。
それは一時期流行った「自分探しの旅」のようなモノかもしれない。
「自分探しの旅」よりも、もっと身近で手軽にできる、というメリットは大きいと思うし、これからはそのような「個性のマッチング」というビジネスが、支持されるようになるような気がしている。





「コロナ禍」だからこそ、三笠宮彬子女王殿下の言葉の重さを感じて欲しい

2021-06-02 20:38:59 | 徒然

和楽」という、日本文化について特化した雑誌がある。
その「和楽」のWebサイトに、三笠宮彬子女王殿下がエッセイを、寄稿されている。
彬子女王殿下の、日本文化に対する造詣の深さだけではなく、宮家に生まれ育つということはこういうことなのか?ということを感じさせてくれる内容で、すっかりファンになっている。

彬子女王殿下と言えば、学習院大学を卒業後オックスフォード大学のマートンカレッジで、日本美術史を学ばれた方でもある。
そのような背景を持たれる彬子女王殿下だからこそ、今の日本の「コロナ禍」における文化支援に対して、一言したかったのだろう。
和楽Web:彬子女王殿下が今、届けたい思い。演劇や音楽の力、舞台に込められたイノリノカタチ

「彬子女王殿下が書かれている」という重みもあるのだが、やはりその造詣の深さには感服するばかりだ。
何より、日本の文化の柱の一つとなっている「歌舞」が生まれ、発展してきた背景には「祈り」の表現としての「歌舞」がある、という指摘はとても重く深いと感じる。

というのも、随分前だが宗教史学者の中沢新一さんのお話しを、聞く機会があった。
話全体のテーマは、宮沢賢治の生涯と作品だったと思うのだが、その中にやや唐突な感じで「シャーマニズム」について、話された事を覚えている。
確かに日本では、「田植え歌」や「土踊り」と呼ばれる、豊作を願う歌舞と共に農作業をし、八百万の神々にささげてきた、という歴史がある。
そしてその「シャーマニズム」の話よりも前、日本でもヒットした映画「フットルース」にも「宗教と歌舞」について語られる部分があったことを、思い出したのだ。

映画「フットルース」そのものは、青春映画として括られているはずだが、映画の最後のほうに聖書「コヘレトの言葉」が引用されているのだ。
「コヘレトの言葉」として引用されているのは、「詩編149編3節」の「踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でて、ほめ歌をうたえ」という部分だ。
映画では、気難しく若者たちの音楽や踊りを禁止する司祭に対して、高校生たちがこの言葉を引用し説得に成功する、という印象的な場面で使われていたのだ。

洋の東西を問わず、人は大昔から「歌をうたい、その歌に合わせて踊る」ことを、神々に奉げてきた、という歴史があるのだ。
確かに「コロナ禍」の状況では、人が集まり「歌をうたい。踊る」ということ自体が難しい、ということは十分理解している。
だからこそ、様々な音楽イベントや舞台、映画などが延期され、中止となったのだ。
今年に入り、「新型コロナ対策を万全に行う」という条件付きで、再開され始めてはいるが、「コロナ禍前」のような状況には程遠い。

そして彬子女王殿下が指摘されているように、「多くの文化が発展してきた背景には、祈り」があった、ということなのだ。
その文化に対して、日本が行ってきた政策はどのようなモノだったのだろう?
「自粛」という言葉によって、人の行動が制限されたことは仕方ないが、文化という視点で何か支援がされたのだろうか?
文化の中に含まれる「祈り」という視点を持つことで、もっと違った支援策ができたのでは?という、彬子女王殿下の言葉はとても重く感じるし、そのような視点が持てる政策もまた必要だったのではないだろうか?という気がしているのだ。


「我慢の限界」と五輪開催という「不公平感」が及ぼす、感染拡大

2021-06-01 20:21:34 | アラカルト

日刊ゲンダイに、「人の心理と行動」について、興味深い記事があった。
日刊ゲンダイ:【東京五輪】五輪強行開催で自粛解除と感染拡大 人は不公平感と損に弱い

この記事は、「東京オリンピックが強行開催されたら」という前提で、専門に研究をされている方が人の心理と行動についての話が書かれている。
記事を読んで納得できるのは、専門に研究をされている方の言葉だからだ。
そして、東京オリンピックが強行開催される前の今ですら、業種別に「自粛対応策」が違うために、業界だけではなく生活者に不信感を抱かせている、という状況にある。

そのことに気づいているのかいないのか、様々な業種が以前よりも「自主的対応策」を取りながら、五月雨的に営業を再開している。
既に「不公平感」を持ち、「真面目にやっているだけ損」という気持ちが、強くなり始めている、ということなのだ。

それはビジネスをする側だけの問題ではなく、生活者自身も「1年以上自粛してきたのに、ゴールが見えないままオリンピックをするなんて、馬鹿にするのも大概にして欲しい」という気持ちの方が、勝っているような気がするのだ。
もちろん、粛々と「自粛生活」を継続されている方も数多くいるが、今の状況ではどこかの時点で雪崩を打ったように、生活者が「自粛なんてやってられるか!」という、気持ちから自粛前以上の歯止めの効かなくなってしまう、という問題を十分に含んでいると感じている。

そしてその予兆は、過去何度もあった。
国会議員さん達が、「後援会のパーティー」を開いたり、複数の議員での飲食などが報じられ、時には「直接会うことが、重要なんだ」と、嘯くようなコメントをした重鎮と言われる与党議員もいた。
このような「国を動かす人達」の行動が、報じられる度に生活者の不満は蓄積している。
そのような行動をした議員さん達は、一応に「自覚が足りず、すみませんでした」と、謝罪コメントは出すのだが、その謝罪コメントに現実味がかんじられずにいる生活者は、議員さん達が思っているよりも遥かに多い。
その謝罪の現実味が感じられない事から、少しづつ「自粛」の範囲が緩くなってきているのだ。

そして今年に入ってから「何が何でも東京オリンピックは開催する」というIOCやJOC、政府関係者の言葉などから生活者の「やってられない」気持ちは、徐々にピークに達し始めている。
「やってられない」と感じる大きな理由が、この記事にある「不公平感」と「損をしている」という感覚なのだ。
この感覚がピークに達した時に起きることは、空気をいっぱいに入れた風船がはじけるような状況と同じで、収拾がつかなくなる、ということは案に想像することができる。

だからこそ、明快な「収束の為のロードマップ」を示す必要があったのだ。
それを「気合と根性」で乗り切ろうとしてきたこと。
次々と変異株が生まれる状況。
遅々として進まないワクチン接種。
等が重なり、政府やオリンピック関係者への信頼は失墜している、という状況にある。

果たしてこのような生活者の心理と行動を、どれだけオリンピック関係者や政府関係者は理解しているのだろう。
理解していなくても、理解しようという努力をしているのだろう。
「リスク管理」の中には、「心理や行動」についても、理解をし考える必要がある。
そのような人物が、東京オリンピック関係者や政府関係者にどれだけいるのか?とても不安に感じている。