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憲法記念日二〇二四(3),本土決戦主義旧防衛政策と危惧される世代交代の平和趣味巡る世論分断

2024-05-05 20:12:55 | 北大路機関特別企画
■七七年間の日本国憲法
 専守防衛を厳正に解釈しますと本土決戦等着上陸を待ってからしか防衛戦闘が行えないという憲法上の制約が少なくとも二〇二二年まではありました。

 本土決戦主義、と揶揄され批判こそあり、批判の中には特にシーレーン防衛というような日本国家の存続を考えた場合に、本土だけ無事であっても国家が機能しない状況というものが当然あり得る、という批判もあれば、憲法改正にも本土決戦にもハンタイという、日本そのものにハンタイする声もあるほどで複雑でしたが。この矛盾点の議論は薄いのです。

 ソ連核実験前に制定された憲法、という視点は既に記しましたが、その後のソ連核実験や朝鮮戦争といった転換点を前にした場合でも憲法の冗長性は、若干傍目には無理があるのではないかという視座であっても自衛隊の創設と日米安全保障条約締結により、憲法の範囲内である故の国会での立法により正統性を得ました。立法府は国権の最高機関である。

 統治行為論、日本に憲法裁判所を、という声は日本維新の会などの声はありますが、憲法裁判所が設置されているフランスなどの事例をみますと軍事など安全保障にかんする訴訟は基本的に統治行為論、政治問題とされるゆえに受理さえされないという実状があります、これゆえに統治行為論、政治の問題は司法府が管轄外としている実情があるのですね。

 77年間の日本国憲法、冗長性の枠内として現代の安全保障を是認するのか、それとも改正の手続き、何しろ一応日本国憲法は大日本帝国憲法から改正されて誕生したという議会手続き上の事実があるのだから、戻すとまでは行かずとも、改正を真剣に考えるのかについては一応の議論の余地があるようにも思うのですけれども。そして77年という期間は。

 軍事技術について、ともあれ冗長性により解釈をかえるという手法を用いて憲法の枠を越えることなく超えた構図が現在の防衛にはあるのですが、2022年国家防衛戦略による反撃能力整備、これは1947年当時には想定されなかった戦術ミサイルの射程延伸、接近拒否領域阻止の具現化のために膨大なミサイルが日本を射程に収めたという情勢の変化ゆえ。

 マルチドメインドクトリンと接近拒否領域拒否、要するに中部太平洋と中国大陸を挟んだミサイル戦が、最後の手段ではなく恐らく最初の第一撃となるであろうアメリカと中国のインド太平洋を巡る緊張関係を前に、日本を移動させるでもできない限り、現状のままの防衛政策では無理がある、ということは少なくとも現状を分析し知っておくべきなのか。

 軍事技術が脅威として顕在化しているもので、この脅威を実定法ではない憲法に求められるのか。さて、こうした状況を背景に痛感するのは手段としての平和主義か結果としての平和を求めるのか、憲法は国民に平和を強いるのか、平和を約束するのか、という憲法における平和の位置づけというものへの問いです。これは世代交代を考えるとより難しい。

 移民に日本は排他的過ぎる、とはバイデン大統領がこのGW期間中に発言し物議を醸したところですが、もう一つ、云わずとも空気を読め、ではありませんが、過去の戦争の反省、というものを、戦争での従軍経験のある方が多く旅立たれた今日、過去の戦争というとそもそも今の世代の方に、原罪のようなキリスト教じゃああるまいし、共有できるのかと。

 移民の方にとっては、そもそも日本で第二次大戦を経験した訳でもなく、逆に日本に侵略された経験を持つ国からの移民さえある中で、日本人になったのだから反省しろ、そしてその為に侵略されても無防備で蹂躙され奪われ犯されることさえ受容れろ、というのは流石に無理があり過ぎます、そして国家が国民を守らない事こそ、異常と映るでしょう。

 イギリスへの移民の方の発言、この世代や出身の多様化というものを痛感したのは、昨今の新興移民の方がBBCなどの取材に応じた発言の中に、チャールズ三世国王の為には死ねない、という発言が在った為でして、要するに平和の強制というような手段を用いた場合、今後日本は世論の分断を引き起すのではないか、という危惧があるのですよね。

 世論分断というものは、アメリカを見る通り難しいといいますか恐ろしいものが有ります。これはアメリカの場合は人種的な伝統と云える分断とともに昨今は陰謀論による世論分断があり、ここにフェイクニュース、その流布には第三国の政治的意図が、認知戦というかたちで介在している分析もあるのですが、これにより分断の溝が拡大しているという。

 原罪のような平和の強要というものには絶対反対で、それは世代交代や、その受け取る世代や所属とともに受け止め方が違う事から一種の差別や世論の分断というものを生み得る事となります、すると敗北と荒廃からの平和主義というものは本来平和創造が目的であり平和趣味のような安全保障への無関心とは真逆のものといえるのではないでしょうか。

 手段としての平和主義というのは、結果が戦争であっても戦争を防ぐための努力に平和的ではない予防外交などは許さないので、結果が戦争であったとしても失われる人命や財産は国民全体で哀悼し受け入れようというもの、現行憲法を厳粛に解釈しますとこのような、国民の犠牲というものの強要にちかいこととなってしまう。少なくともこれが現実です。

 結果としての平和を希求するならば、すると九条二項をどう解釈するのか、憲法上、私兵を認めているわけでもなく、すると憲法上の軍隊でなければ際限ない武装と運用が可能、と考えることとなるのですが、それはそれで憲法を冗長性という一文だけで乗り越えるには限界がないかということなのですが、ここまで議論が進まず、なし崩し的な今がある。

 解釈改憲、こう揶揄され政治用語とまでなっています現行憲法ですが、その上限があるのか、ないのか、そして周辺では北朝鮮核武装とロシアウクライナ戦争、台湾海峡の問題をまえに、どこまで日本としての平和主義を維持することができるのか、手段としての平和主義の継続に関するコストというもの直視しているのか、という視点も必要なのですね。

 平和のコストというのは、手段としての平和主義、つまり戦時に国家が軍事力により国民を守る事に制限を、憲法を厳正に解釈するならば制限どころか被害を被る際に国家は憐憫の言葉を示す以外には何もできない、こうなる為、コストを支払うのは国民自身が家屋を爆撃により破壊され人命を蹂躙されて財産を失うこと、このコストを容認しろ、という。

 ただ、今後日本が大きく移民を受け入れる余地、若しくは太平洋戦争の記憶を共有できる世代からの世代交代へ向かう現実を正面から受け止めるならば、この条文で大丈夫なのか、若しくは有事の際に憲法上国家が国民を守れないならば私兵など武装の自由を認めるか難からの代替手段が無ければそれは国家ではない、という批判が生じるのは必至ではないか。

 統治行為論という選択肢がある以上、改憲が絶対に必要であるとは考えないものの平和というものを結果ではなく手段としてしか認めない平和趣味のような政策では、下手をすると世論の分断を生んでしまう、それは結果的に平和主義というものを共有する事は出来ない。そして太平洋戦争敗戦から79年、過去の戦争価値観共有は物理的に難しいのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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