北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

天皇ご退位【宮中退位礼正殿ノ儀-天照大神退位礼当日賢所大前ノ儀】令和へ,平成最後の日

2019-04-30 20:00:01 | 北大路機関特別企画
■昭和の遺産-平成の遺産
 天皇陛下におかせられましては本日、宮中退位礼正殿ノ儀-天照大神退位礼当日賢所大前ノ儀を終えられまして、ご退位されました。

 平成時代は昭和の遺産というものを上手く受継いで平和を達成する事が出来ました。それでは明日からの令和時代はどう考えるのか。難しい視点ですが、東西冷戦の始まりから今日まで我が国は平和を基調として国家を反映させる事が出来ました、これは昭和の遺産が在った為、と考えるのですよね。ただ平和憲法は大切だ、と応じられれば首肯はしない。

 平和憲法、しかし平和憲法は結局として自主自発的に在ったものではなく、第二次世界大戦の敗戦が在った為といえます、反論もあるでしょうが、そういう方に問いたいのは、仮に日本が連合国の一員として大戦に参加した結果として、現在のような平和憲法に明治憲法が改正される事は有り得たのでしょうか。つまり、あの結果があり、この憲法がある。

 昭和の遺産というのは、日本に対して軍事的挑戦を行う事の難易度の高さを周辺国へ誇示した事にあるのではないか、と。勿論反論は認めます、しかし、太平洋戦争と日中戦争、あの二つの戦争を戦い抜いた事で最後にはソ連も参戦、間違えてあそこで勝ってしまえば、世界征服、という冗談が成り立つような程の非現実的な戦争をやりきってしまったという。

 太平洋戦争の敗戦と共に、戦後が或るのですが、太平洋戦争と日中戦争を通じて日本の軍事力というものを世界に誇示してしまった事での、変な形での平和、というよりも日本に対する軍事的挑戦を行う上での難易度の提示を第二次世界大戦を経て行った事が、戦後の平和、勿論我らが同胞の努力もありますが、平和、という果実を享受できたともいえます。

 令和時代は明日から始まりますが、それではその昭和の遺産はまだ有るのか、ここまで読まれた方は素朴な疑問を持たれるでしょう。少なくとも日本には戦争を第一線で経験された方は少なくなっています、これは同時に、日本と戦争で戦った世代の方々も少なくなっている事を意味します。外交手段の延長として戦争という選択肢を安易に用いない実績だ。

 平成と昭和の遺産としまして、例えば我が国の隣国は戦後日本以外周辺全ての国と戦争している、そんな国と比べるならば、余り摩擦を起こさない国、という印象は有り得ると思うのですよね。ここまでは昭和の遺産を受け継ぎつつ、平成の遺産というものを継承出来たようにも思う。平和という意味での遺産は、あまり硝煙に塗れない形で継承出来た、と。

 しかし、平和の継承は、我が国が現在の施政を維持するだけでは、日本そのものの平和が周辺地域の平和と不可分であるという原則を維持する事については、難しくなるのかもしれません。東西冷戦の二極構造が冷戦後の単極多様化構造に転換した後に、アメリカの、軍事力意外に公正と自由に依拠した民主主義、という国際公序へ挑戦する動きが出始めた。

 日本は超大国にはなれませんし、成るつもりもないでしょう。中国は超大国を目指しているようですが無理でしょう、超大国の要素とは太平洋と大西洋、つまり欧州アフリカ地域と環太平洋地域へ同時に関与出来る国のみです、アメリカはその適地にありますし、ロシアはシーパワーと経済力はさておき地政学的要件は備えています、が中国にそれは無い。

 平成の遺産、変動が予見できる昨今、ここで考えてみたいのは昭和には直感を行政へ反映し印象で受け取るという、それは日本という国はそれ程豊かでは無かったからこそ醸成された世論というものがあるように思います。平成の遺産というものは、考えてみれば格差や差別という認識が社会というよりも広い分野で考えられるようになったのですけれども、それ程か、ということです。

 平成の遺産は一例で、学位を持つ人々一つとっても膨大な規模を養成する事が出来まして、実際、人材の養成というものだけで視ても昭和時代以上の規模を養成出来ています、昭和時代は当時の国民生活基盤から、やろうと思っても簡単ではなかった。故に人材という意味での国力は現在非常に大きく、今後生じるであろう困難を克服する原動力ともなり得ましょう。

 平成時代は昭和時代の遺産を取り崩し、そして平和を継承する事から、その平和に依拠した繁栄を謳歌する事は出来ました、では令和時代はどうか。超大国にはならずとも、地域大国である事に変わりなく、規範というものを醸成し国際公序を形作る地位を、上記の平和と繁栄から導き出しました。これには責任が伴う、平成時代からの宿題といえましょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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桜前線東海道陸海空自衛隊紀行:陸(駒門)海(横須賀)空(岐阜),平成最後の桜花満開観桜情景

2019-04-29 20:19:13 | 北大路機関特別企画
■平成最後の防衛桜街道を往く
 平成最後の桜の季節はいよいよ京都では幕を閉じようとしていますが、東下りの道程を往きますとそこはまだ桜街道が広がります。

 いずも、ヘリコプター搭載護衛艦いずも型一番艦の母港横須賀基地逸見埠頭停泊の情景をヴェルニー公園の桜並木越しに撮影しました。海上自衛隊最大の護衛艦は満載排水量27000tという巨大な一隻ですが、桜花越に眺める情景では一時の平安を思わせるものです。

 きりしま、こんごう型ミサイル護衛艦2番艦とヴェルニー公園の噴水と桜花と共に撮影です。海上自衛隊護衛艦に山岳名、旧海軍巡洋戦艦や巡洋艦名を襲名したのは1973年の護衛艦はるな、続いて護衛艦ひえい、しらね、くらま、続き護衛艦こんごう、きりしま、です。

 ヴェルニー公園から横須賀基地吉倉桟橋を望見する。ヴェルニー公園はJR横須賀駅と京浜急行汐入駅前に広がる臨海公園、対岸にはアメリカ海軍横須賀施設も望見できまして、夜間でも居酒屋繁華街に隣接し鉄道駅からも近い、夜景撮影の名所として知られています。

 桜と錨、という旧海軍以来の伝統ですが海上自衛隊基地では護衛艦と桜並木を構図に収められる位置が、基地の中を除けば意外に限られていまして、ヴェルニー公園に十数本並んでいます桜の木々は海上自衛隊、いや世界でも恐らく貴重な桜と艦船を撮れる場所です。

 第1戦車大隊10式戦車と駒門駐屯地の桜並木、自衛隊行事と桜は意外に重なるようで実はこの季節挙行される行事は限られています、四月第一日曜日が一日か六日か、で桜前線と行事が四月第一週に行われるのか第二週に行われるのか、とで開花時期と重なるか決まる。

 機甲教導連隊戦闘中隊の16式機動戦闘車と桜並木、駒門駐屯地は桜並木が素晴らしい駐屯地です。ただ、式典会場と一般席の中間に桜並木が広がっていますので、桜並木と行事を同時に撮影可能な位置というものは限られています。それでも、この満開との重なりは。

 駒門駐屯地祭は今年度久々に撮影へ展開したのですが、前回撮影した年度よりも一般公開区画がかなり狭くなっていまして、対して機甲教導連隊新編という節目の年度であった事もあり、来場者の規模は過去にない程に多くなっていまして、これは非常に驚きました。

 機甲教導連隊第4中隊の74式戦車と満開の桜、桜の開花期間はご存知の通り非常に短く、式典が数日空いてしまうか、若しくは雨天一日を挟むだけで驚くほど桜吹雪と共に青葉の季節となります。今年度の駒門駐屯地祭は開花と重なった、来年度はどうなるのでしょう。

 C-1-FTBと桜並木、岐阜基地飛行開発実験団所属航空機と岐阜基地界隈の桜を撮影しました。航空祭と桜開花の時期は基本的に重なりません、唯一の例外は毎年四月上旬に行われます熊谷基地さくら祭でしょうが、熊谷基地には滑走路や航空部隊の常駐はありません。

 C-1-FTBと桜並木を別の角度から。航空祭と開花時期は中々に重ならないのですが、桜の開花時期に航空自衛隊基地の日常訓練での離着陸を桜並木と重なるよう構図を工夫し撮影する事は出来ます。基地周辺が全て桜、という訳ではありませんので少々探しますが、ね。

 F-2戦闘機と桜並木、撮影において留意しなければならないのはF値を高く採りますと露光時間が長くなり、要するにこうした写真になってしまう、という。そして桜並木越に撮影しようと構図を考えますと、真横から航空機を撮影する場合、航空機は速い、ということ。

 F-15戦闘機と桜並木、C-1-FTBよりも高度が低かった為に撮影の構図決定には少々と難渋しました。できるならば新鋭F-35戦闘機と桜並木を撮影したいところですが、平成時代では成就できなくとも令和時代にはF-35と桜並木という構図をしっかりと撮影したいですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【G3X撮影速報】第2護衛隊群いせ,はるさめ,横須賀基地へ佐世保から寄港(2019-04-14)

2019-04-28 20:14:49 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■いせ寄港,横須賀高台散策紀行
 横須賀は坂の街ですが、その散策は海上防衛力の静かな抑止力を俯瞰する不思議な日常を醸し出してくれます、今回はその散歩の様子を紹介しましょう。

 いせ、ヘリコプター搭載護衛艦いせ、佐世保基地から横須賀基地へ寄港していました。ひゅうが型護衛艦2番艦、満載排水量19000tの全通飛行甲板型護衛艦です。アメリカ海軍横須賀施設のアーレイバーク級ミサイル駆逐艦よりも遥かに大きな艦容が象徴的ですね。

 ときわ、湾口に護衛艦いずも。いずも型ヘリコプター搭載護衛艦1番艦が、いせ、の背景に見えます。いずも型は満載排水量27000tと更に大型化しており、現在、F-35B戦闘機搭載の準備が着々と進められています。ときわ、とわだ型補給艦も本来は大型なのですが。

 はたかぜ、むらさめ、てるづき、おおなみ、たかなみ。海上自衛隊主力護衛艦の勢揃い。この撮影地は昔安針台公園めざし迷った挙句到着した場所、地元の御婦人にも基地の護衛艦を一望するならば、とお勧め頂いている京急逸見駅北西の路地を登った頂の場所です。

 ロナルドレーガン、ニミッツ級原子力空母です。こちらは撮影地へ移動する路地からふと撮影、横須賀散策はふと路地の木々や家々の狭間から望見できる日米艦艇の威容との偶然に近い出会いが、趣き深いのですね。併せ寺社仏閣祠に地蔵尊も数多く歴史の深さを知る。

 いずも、海上自衛隊最大の護衛艦いずも型1番艦です。いせ横須賀入港に併せて、いせ、も大型ですので桟橋を空ける為に沖止めとしたのでしょう。長大な飛行甲板が望遠レンズの圧縮効果により一際強調されます。穴守不動尊、近くには横須賀八八カ所巡りの参道が。

 ベンフォード、バリー、ジョンSマケイン、カーティス-ウィルバー、アーレイバーク級ミサイル駆逐艦が勢揃いです。手前に見えていますハイカラな船は横須賀軍港めぐり遊覧船、1400円で45分間の港内クルーズを楽しめまして、1100時から1500時まで毎時運行です。

 ロナルドレーガン、子育地蔵尊という元禄時代1697年に安置された地蔵尊から階段路地を登る途上に撮影しました。遊覧船では真正面から見ますが、真横から他の対象物と共に俯瞰しますと大きさが改めて実感、いずも型護衛艦と排水量で実に四倍の巨大水上戦闘艦だ。

 しらぬい、最新鋭護衛艦を改めて撮影です、母港は大湊なのですが母港初入港前にこの時点で三週間に及ぶ横須賀逗留となりました。万蔵寺と久杉橋という山頂の寺院がありまして、此処から稜線に沿って散策しますとこの歩道と半壊のベンチが佇む撮影地に至ります。

 あまぎり、しらぬい、きりしま、はるさめ、いせ、と護衛艦が並びます。はるさめ、は佐世保基地第2護衛隊群の護衛艦で、いせ、と共にこの前日に横須賀へ入港したという。物言わぬ艨艟を一望の地に並べ平和祈念姿勢を誇示する、抑止力の象徴のような情景ですね。

 あまぎり、しらぬい、きりしま、はるさめ、先ほどの情景をヴェルニー公園から撮影してみました。ヴェルニー公園はJR横須賀駅から京急汐入駅前を経てアメリカ海軍施設の近く、横須賀ショッパーズプラザ、閉店してしまいましたが、ここまで続く長大な臨海公園です。

 あさぎり型護衛艦あまぎり、むらさめ型護衛艦はるさめ、あさひ型護衛艦しらぬい。世代差が良く分かる。横須賀ショッパーズプラザ、ダイエーだかイオンが入っていてレストラン街があり、散策の終着点として重宝していましたが、閉店の模様、一寸残念で寂しい。

 いせ、真横から撮影です。ひゅうが型護衛艦、装備満載のF-35Bを運用できないと調査研究結果があるという。ただ、空母としてではなく制海権確保への情報優位戦域航空優勢確保に使うならば満載の必要は無く、久々に視た艦容と共にその去就を考えてしまいました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【G7X撮影速報】第12旅団祭/相馬原駐屯地創設60周年祭,桜榛名と雪赤城(2019-04-13)

2019-04-27 20:18:28 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■さよなら!OH-6D観測ヘリ
 相馬原駐屯地祭、G3Xは支援カメラとして観閲式に加え訓練展示も撮影できる性能を誇示しましたが、G7Xについてもまだまだ第一線の性能があります。

 相馬原駐屯地祭、今回はG7Xでの装備品展示の様子を紹介しましょう。G3Xよりも広角で優れているカメラです。撮影したいのはOH-6D,陸上自衛隊ではOH-6AにOH-6Jと半世紀以上に渡り貢献している観測ヘリコプターですが、旅団からはいよいよ退役という。

 OH-6D観測ヘリコプターは取得費用が3億円程度、更に近代化改修で機体よりも高価な暗視装置等を追加し能力を向上させていますが、後継機OH-1の量産で調達が終了しました。ただ、OH-1が高調達費等で調達中止となり後継機が浮いている最中でのOH-6D除籍です。

 CH-47JA輸送ヘリコプター、第12旅団の主力装備です。戦車の四倍以上を要する高価な装備品ですが、相馬原駐屯地祭では毎年、CH-47JAの特別塗装機を地上展示していまして、この一種、無骨ともいえるCH-47JAも快晴の青空と共に非常に美しく佇んでいました。

 CH-47JAはこの春に長野県や山梨県や静岡県で多発する山林火災において強力な輸送力を以て空中放水による山林火災消火に大活躍していまして、実はこの日も山林火災が発生しており、災害派遣要請が出されるかという緊張下での旅団行事挙行であった、とのこと。

 UH-60JA多用途ヘリコプター、師団飛行隊や旅団飛行隊は安価なUH-1Jが主流であり、全天候飛行性能や長大な航続距離を有する高性能であるUH-60JAを装備するのは、第12旅団と鹿児島県島嶼部を管区に抱える第8師団に沖縄県を警備管区とする第15旅団のみ。

 FH-70榴弾砲や81式短距離地対空誘導弾と旅団の主要装備が並びます。FH-70は単体で有ればCH-47で空輸可能、めったにやりませんが81式短距離地対空誘導弾も発射装置と射撃式装置を車両から分離するならばCH-47での吊下げ空輸は可能です。重いですが、ね。

 輸送防護車は中央即応連隊からの装備品展示参加です。しかし、車高の高いこの種の車両は邦人救出用に少数装備する他にも普通科部隊の機動車輌や後方支援部隊の戦闘支援任務用に数が必要であるようにも思います。遠景には16式機動戦闘車、駒門駐屯地の車両です。

 AH-1S対戦車ヘリコプター、木更津駐屯地第4対戦車ヘリコプター隊の機体です。年々老朽化により用途廃止されており、後継機のAH-64D戦闘ヘリコプターはミサイル防衛重視の予算不足により調達中断のまま、そろそろAH-64Eを30機程度取得が必要ではないか。

 60式装甲車、まだ現役なのか、と驚かれるかもしれませんが武器学校の保存展示装備を土浦駐屯地から輸送したもの、という。428両程調達された戦後初の国産装甲車で、馬力不足や車内過小に晩年は老朽化に悩まされた車両ですが、昔の装備、という事で特別展示だ。

 60式自走無反動砲、まだ現役なのか、と驚かれるかもしれませんが武器学校の保存展示装備を土浦駐屯地から輸送したもの、という。今年は相馬原駐屯地創設60周年ということで古い装備品を並べているのですね。昔は普通科中隊の対戦車小隊に2両が配備されていた。

 60式自走無反動砲、本州九州含め普通科連隊全体で10両が配備、これとは別にジープ搭載106mm無反動砲も対戦車小隊に各2門ありました。難しいのは理解できるのですが、戦車駆逐車と機動打撃用に16式機動戦闘車や89式装甲戦闘車を各連隊に10両程度必要と思う。

 74式戦車と61式戦車の保存装備、第12旅団は第12師団時代に隷下へ第12戦車大隊を置いていました。相馬原駐屯地地区の一般公開地区での写真です。戦車は車内が一般開放されていまして、61式戦車については写真撮影が可能でした。中々に興味深い一日を過ごせました、ね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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平成三一年度四月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2019.04.27-04.29)

2019-04-26 20:01:17 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 平成も令和へ、皆様いかがお過ごしでしょうか。思えば本日が平成最後のプレミアムフライデーである事はさておきまして、平成最後の自衛隊関連行事紹介といたしましょう。

 水陸機動団創隊1周年及び相浦駐屯地創設64周年記念行事が実施されます。陸上自衛隊島嶼部防衛能力整備事業の主軸として昨年創設の水陸機動団は創設1周年を迎えました。佐世保市の相浦駐屯地には島嶼部防衛及び水陸両用作戦を担う水陸機動団本部とその主力に当る第1水陸機動連隊と第2水陸機動連隊及び水陸機動団偵察中隊が置かれています。

 水陸機動団は佐世保基地崎辺地区に隣接する崎辺分屯地が2019年3月26日に開庁を迎えたばかりで、分屯地にはAAV-7水陸両用車を運用する水陸機動団戦闘上陸大隊の大隊本部と第1中隊が駐屯しており、記念式典では陸上自衛隊の装甲車として最も車体の大きなAAV-7の観閲行進と水陸機動団固有の60mm迫撃砲等の参加する訓練展示が注目でしょう。

 大村駐屯地創設67周年記念行事、27日土曜日に執り行われます。大村駐屯地には第4師団隷下の第16普通科連隊と第4施設大隊、およびその支援に当る第4後方支援連隊の施設整備隊と第1普通科直接支援中隊が駐屯しています。第4師団は3月に最新鋭の16式機動戦闘車を装備する第4偵察戦闘大隊を改編創設し地域配備師団へ改編を完了した直後です。

 中部方面混成団創立12周年大津駐屯地祭、滋賀県大津市は琵琶湖畔の大津駐屯地祭です。海軍大津航空隊跡地に所在し、中部方面混成団本部と第109教育大隊に第4陸曹教育隊が駐屯している他、記念行事では隷下の第110教育大隊と即応予備自衛官主体の第47普通科連隊及び第49普通科連隊等が参加します。徒歩行進の規模では全国有数といえましょう。

 下志津駐屯地創設64周年記念行事-高射学校つつじ祭り、千葉県四街道の陸上自衛隊高射学校創設記念行事です。87式自走高射機関砲や11式短距離地対空誘導弾に03式中距離地対空誘導弾と陸上自衛隊高射特科部隊の幹部教育及び戦術研究と新装備評価試験を行う陸上自衛隊の教育部隊で、高射教導隊には陸上自衛隊の各種高射特科装備が全て揃っています。

 鹿追駐屯地創設62周年記念行事、27日土曜日に挙行されます。帯広第5旅団隷下の第5戦車大隊が駐屯しています。第5戦車大隊は90式戦車3個中隊を基幹とし、2004年には戦車大隊に本部管理中隊を加えた第5戦車隊へ拡大改編となりましたが、2011年に現在の第5戦車大隊へ縮小改編、今に至る。来場者が比較的少ない戦車部隊行事として知られる。

 鹿屋航空基地エアーメモリアルかのや2019、鹿児島県鹿屋市に所在する海上自衛隊鹿屋航空基地の航空祭です。南西諸島防衛の要衝であり、P-3C哨戒機を運用する第1航空群、UH-60Jを運用する第22航空隊、海上自衛隊で唯一TH-135を運用する第211教育航空隊、SH-60Kを運用する第212教育航空隊が展開、P-3Cでの度肝を抜く機動飛行が有名です。

 米海軍厚木基地-日米親善春まつり2019、第5空母航空団の最大拠点として永らく君臨していましたが、空母航空団は岩国航空基地へ移駐を完了、現在は第7艦隊第51軽対潜ヘリコプター飛行隊と第5空母航空団第77海上攻撃ヘリコプター飛行隊と第12海上戦闘ヘリコプター飛行隊が展開しています。春祭りではF/A-18E等戦闘攻撃機が大挙展示されます。

 舞鶴基地一般公開、10連休となっていますが舞鶴基地は北吸桟橋を一般公開しまして、第一弾としてイージス艦あたご一般公開を行います。あたご型ミサイル護衛艦一番艦、日本本土を弾道ミサイル攻撃から防衛する中枢の一隻で、この他、海軍記念館なども一般公開される。佐世保基地や呉基地などの一般公開情報は、各地方総監部HP等をご覧ください。

 さて平成も令和へ。昔は平和だったか、十年一昔といわれる昨今ですが、確かにここまでWeblogを長く続けていますと、始めた当時は平和だった、といえるのですよね、安全保障的な意味でも部隊の忙しさという意味でも人口密度という意味でも。安全保障的な意味で平和だったという事は、艦艇広報や公開展示に動員できる艦船や装備と航空機に余裕があった、ということ。

 海上自衛隊の展示訓練等は2014年を最後に実施できていませんが、北大路機関創設当時から数年は、護衛艦の体験航海が抽選ではあったものの当日券というものがありまして、出入港を撮影していますと、部隊広報に地本や募集相談員の方に乗りますかと問われてそのまま乗れたものなのですよね、そして参加艦艇も多かった、電燈艦飾も物凄い規模でした。

 安全保障情勢の変容による自衛隊への関心の高まりとインターネットメディアの普及による自衛隊行事の知名度という視点から来場者が増えまして、その上で広報行事に参加できる艦艇の数が限られてきますと、体験航海というものは非常に難しくなりまして、展示訓練を2014年以降開催出来ない状況です。こう考えれば、十年の昔は平和だったのですね。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

・4月27日:鹿追駐屯地創設62周年記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/nae/5d/01_unit/butai/04_shikaoi.html
・4月29日:下志津駐屯地創設64周年記念行事-高射学校つつじ祭…https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/
・4月27日:米海軍厚木基地-日米親善春まつり2019…https://twitter.com/USFJ_J
・4月27日:中部方面混成団創立12周年大津駐屯地祭…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/macb/
・4月28日:水陸機動団創隊1周年及び相浦駐屯地創設64周年記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/gcc/ardb/
・4月27日:大村駐屯地創設67周年記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/wae/4d/oomura/index.html
・4月28日:鹿屋航空基地エアーメモリアルかのや2019…https://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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【榛名防衛備忘録】自衛隊観艦式2019と中国青島沖国際観艦式2019,停泊観艦式からの変容

2019-04-25 20:17:28 | 防衛・安全保障
■日本型洋上移動式観艦式の時代
 自衛隊観艦式、考えてみれば当然ですが、個人Weblogで配信できるようになったのは平成初期には不可能だったのですね。こうした技術革新とともに観艦式の在り方も移ろう。

 観艦式、海上自衛隊の観艦式は1961年観艦式より停泊式観艦式を移動式観艦式へ転換させ、今日に至ります。実のところ、艦位を保持し艦隊運動と陣形運動を行う事は簡単ではなく、技術が発展するまでは海上自衛隊以外にはなかなか実施できないものでした。なにしろ、基準艦に対して単縦陣を維持し航行する事だけでもGPS普及前には簡単ではありません。

 海軍特別大演習観艦式、海上自衛隊の観艦式が移動式観艦式を採用する背景には旧海軍が天皇天覧下で海軍力を展示した海軍特別大演習観艦式の影響が挙げられます。海軍特別大演習観艦式は統帥権を治める天皇天覧という海軍最大規模の海上演習であり、駐在武官も招く国威発揚を兼ねた大演習に付帯した観艦式であった為、移動式観艦式を採用しました。

 移動式観艦式は停泊式観艦式と比較し、高い技量が必要となっていて自衛隊くらいしか行っていない、と一種通説として言われていたのですが、韓国海軍や中国海軍が十年に一度の規模で実施する観艦式や海軍演習に伴う観閲式では普通に移動式観艦式が行われているよう思えるが、何故だろう、とはお友達の素朴な疑問、そこでひとつ、調べてみました。

 観艦式、それでは停泊式観艦式は海軍力を誇示できないのか、と問われるならば寧ろ逆で、現代観艦式のはじまりとなった1897年の大英帝国ビクトリア女王即位六〇周年特別観艦式では、艦隊運動を天覧させる艦隊運動の技術よりも自国海軍と友好国、多数艦艇集め稼動状態を維持している事が、天覧観艦式としての国威発揚としての意味が在ったのでしょう。

 大英帝国ビクトリア女王即位六〇周年特別観艦式、停泊式観艦式を行っています。艦隊運動を19世紀末に展示する事が出来たならば、無線通信実用前の旗流信号と発光信号のみで艦隊運動を統括し、国家元首へ展示する事が出来たならば、それは非常に大きな海軍力の誇示となったでしょうか、航空機開発前では、その様子を俯瞰し誇示する事が出来ません。

 海軍特別大演習観艦式と海上自衛隊観艦式、海軍力の誇示と海上防衛力の展示という点で共通点があります、こういいますのも現在自衛隊には国家元首天覧の演習は勿論観閲式もありません、ただ、行政府の長たる内閣総理大臣は中央観閲式と観艦式に航空観閲式へは観閲官として臨席します。一方、海上自衛隊演習等演習への観閲官としては出席しません。

 自衛隊観艦式は内閣総理大臣臨席のもとで行われますが、海上自衛隊演習の様な実動演習への臨席が実現しない中で、観艦式に展示訓練を含めた事に意味があるのでしょう。中国やロシアに台湾や韓国では軍事演習の観閲官を大統領が担う事は多く、自衛隊統合演習や海上自衛隊演習に内閣総理大臣が臨席する必要性も感じるのですが、如何なものでしょう。

 移動式観艦式は、無線通信により可能となりましたが2000年代に入り、艦艇へのGPSの普及により難易度が下がりました。現在は10年に一度の韓国国際観艦式や中国海軍観艦式においても広く実施されています。一方、移動式観艦式は過去にもフランス海軍が1995年の観艦式においてクレマンソー級空母2隻を動員し実施していますが、近年増加の傾向が。

 国威発揚と記録方式、という観点から停泊式観艦式と移動式観艦式の時代の要請が変わってきている、という表現が妥当でしょうか。停泊式観艦式が主流であった20世紀、特に第一次大戦前から第二次世界大戦に掛けては新聞メディアの影響力が大きく、一枚の大判写真に多数の艦艇を並べる事が出来る停泊式観艦式が、その国威発揚に威力を発揮しました。

 大艦隊を洋上に展開させる勇躍威容は写真では物凄い迫力がありますが、一つの画角に収まる艦船数では停泊式観艦式には及ばず、記録映画のような映像が必要です。しかし、記録映像やテレビ動画は新聞、保存するだけで延々閲覧できる記録メディアには1990年代初頭にも、それ程及びませんでした。実際、昭和の観艦式は写真よりも動画が、探しにくい。

 あだちビデオ観艦式。東陽カメラセンターと当時よばれた自衛隊観艦式ビデオソフトが、実は移動式観艦式を世界に普及させた、という視点も挙げられるかもしれません。軍広報等を除けば、観艦式を映像ソフトとして大量に販売したのは東陽カメラセンター時代のVHSが世界初といいまして、この迫力の映像は各国の武官も参考に購入していた、とは同業の方のおはなし。

 映像の迫力は、しかし見る人が少なければ国威発揚に繋がりません、こうした中で、移動式観艦式は同時に映像メディアの進展と共に位置づけを高めてゆきます。重要な変化は、中継動画Web配信と映像Web共有技術の発信です。かつては難しかった動画配信は今や、スマートフォンにて5G通信以前の3G通信技術でも即座に共有できる時代となりました。

 停泊式観艦式は、と問われますと、新しい問題に直面しています、情報の拡大です。要するにかつては観艦式の日時でさえインターネット普及前は軍港都市でも無ければ、調べない限り分らないものでした。これがインターネットで共有できるようになりますと、例えば観艦式会場周辺の港湾からプレジャーボート等での接近し撮影が容易となったのですね。

 インスタ映え、という単語がありますが、停泊式観艦式は軍艦を出入港以外動かさない分簡単か、と問われますと、洋上での群衆整理が大変となりますし、なにしろ立ち入り禁止のロープ数十kmで観艦式の会場を囲んでしまう訳にも参りません。そして衝突事故でも発生したならば、それはそれで大問題です。それならば沖合から動画配信する方が、安全だ。

 中国軍はユーチューバー、という訳ではありませんが、従来は頑張って洋上での移動式観艦式を行ったとしても国威発揚へ共有する事は難しかった、この課題が動画配信技術の発達と、新聞写真比重の相対的変化により、動きがある観艦式への需要が高まった為、といえるのかもしれません。観艦式のかたちも、変化している、といえるのかもしれませんね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】平野神社,平成最後の満開桜花迎える上七社一社で台風倒壊の拝殿復興へ誓い

2019-04-24 20:01:12 | 写真
■観桜発祥の地,平野神社
 梅花名所北野天満宮、その隣には観桜発祥の地である平野神社の社殿が西大路通沿いに広がります。

 平野神社、京都で桜名所はと問われれば筆頭に挙げる神社の一つです、京都には観桜の名所が多々あり御所の桜も二条城の桜も東山の桜も嵐山の桜も素晴らしい、しかし筆頭に此処を挙げる、何故ならば桜の花見とは桜が神紋の此処平野神社から始まったのですから。

 桜の神紋、武家政権の時代と共に貴族政治の時代には花見の代名詞は梅花の見物が風情とされていました。そして驚く事にこの平野神社創建の当時は桜並木は無く、実は桜とは山里に佇む山桜、人知れず咲く桜花の観桜が、平安朝での観桜様式であったようなのですね。

 桜花溢れる花見は大陸起源、とは隣国はじめ起源主張趣味の諸国が日本文化へ主張するものですが、山桜は日本の原種であり、人知れず咲く桜花を武者修行の最中に愛でる武者の心の休が、花見を梅花から桜花へ移ろい、そしていつか並木が植えられるようになった。

 二十二社は上七社の一社である平野神社は古来、天変地異等の騒擾に際し朝廷から直視を以て鎮撫の祈祷を行う神社の一つです。現在は神社本庁の別表神社の一つに列せられていまして、また神仏霊場巡拝之道94番且つ京都14番札所としても位置付けられています。

 源頼朝の武家政権の時代に入りますと、清和源氏足利氏始め桜を家紋に取り入れる勢力の台頭と共に公家との区分から花見に観桜を嗜む流れが広がり、ここ平野神社の神紋が花見と観桜という二つの異なる理念が合流し、平安朝後期に平野の観桜を定着させました。

 観桜の名所である平野神社、ここは桜並木だけではなく桜苑が境内に広がり、喧騒を隔てた観桜を愉しむ事が出来ます。桜苑は花山天皇が寛和年間の985年に植樹した千年以上の歴史を湛える由緒がある。古木というよりも、この地が観桜の始まりといえる場所という。

 魁桜、本殿に至る東神門に隣接し花枝を広げ、四殿二棟第一第二殿連結第三第四殿連結構造の平野神社独特の本殿へと至ります。しかし、昨年の今頃までは、いや夏を過ぎるまでは東神門から本殿に至る境内に拝殿が江戸時代建築の美しい情景を醸し出していました。

 台風21号災害、平野神社の平成最後の観桜は同時に昨年西日本を襲った相次ぐ豪雨災害と台風被害から復興の決意を固めるものといえるかもしれません。平成30年の京阪神は、大阪府北部地震を合せ、猛暑酷暑と共にほぼすべての災害が襲うという、試練の一年でした。

 拝殿倒壊、台風21号では大阪市を中心に強風暴風が甚大な被害を及ぼしましたが、此処平野神社も例外ではなく17世紀の造営以来連綿と受け継がれてきました拝殿が強風被害により完全に倒壊してしまうという災厄に見舞われています。今は取解き式が終わったばかり。

 接木の拝殿とも親しまれる倒壊した拝殿は慶安年間1650年に東福門院徳川和子により寄進された京都府指定文化財です。今年は取解き式を終えた拝殿が復興に向け端緒に就いたばかり、寄進を募る提灯が並ぶ様子は平成最後の年に訪れた試練の一年を恰も物語るよう。

 平野神社、観桜へ桜苑は有料となっていますが静謐が保たれています、そして出店が本格的な居酒屋の雰囲気を醸成する桜並木、所謂どんちゃんさわぎ系花見もその出店にて愉しむ事が出来ます。無粋な、と思われるかもしれませんが、花見は進化している訳ですね。

 平野神社、残念ながら今年の観桜は終盤です。平成最後の観桜の次は令和年間の観桜が始ります。平野神社へは京都駅から市バス205系統、若しくは山陰線円町駅から北へ西大路通りを北上し、北野白梅町を少し北へ歩みを進めれば、桜花に代え青葉が迎えてくれます。

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【7D特報】岐阜基地撮影,F-4特別塗装機とC-1FTB&F-2B試作機塗装撮影(2018.02.22)

2019-04-23 20:02:36 | 詳報 陸海空自衛隊関連行事
■青空に舞い降りる防空の精鋭
 岐阜基地撮影“【7D特報】岐阜基地撮影,(2018.02.22)”物凄く間が空いたが、一年前の4月12日に前半を掲載しまして後半を公開し忘れていたもので令和前の平成に間に合った。

 F-4EJ改戦闘機409号機、特別塗装機は小牧基地航空祭まで維持されるのでは、と現地の方のお話がありました。小牧基地航空祭は過去、九月ごろに実施されていましたが最近は三月の年度末に行われています。すると、ここで好条件で撮影できたのはぎりぎりだった。

 F-4EJ改戦闘機、429号機、岐阜基地飛行開発実験団所属の機体なのですが垂直尾翼を見ますと部隊マークが空白となっています、この機体は三菱重工小牧南工場にて定期整備、を行った機体という。非常に古い機種ですが日本には製造整備基盤がありまだ飛ばせる。

 T-7練習機906号機、初等練習機で岐阜基地航空祭でも最初に飛行する機体なのですが、天候偵察と最初の編隊飛行の後に着陸してしまいますので、岐阜基地航空祭だけではじっくりと見る事が出来ない機種でもあります。本当に静かな航空機で気づけば頭上、という。

 F-2B戦闘機101号機、飛行開発実験団所属機、こう説明するまでもなく実験評価試験用塗装の鮮やかな機体が此処岐阜基地所属機である事を示しています。F-2B戦闘機には現在開発中の超音速で射程も長い、XASM-3空対艦誘導弾開発の支援という重責が待っています。

 F-2B戦闘機101号機、タッチアンドゴーです。岐阜基地撮影はここ各務原市航空公園が名鉄二十軒駅から近く、少し歩けばコンビニがあり、しかも着陸の航空機を間近に撮影できます。近くを航空機が飛行しますので、愛犬を戦闘機とコンデジで、という撮影も一興だ。

 F-4EJ改戦闘機409号機、岐阜基地はここ航空公園の他に岐阜基地を俯瞰する三井山城址公園や航空宇宙博物館、離陸を撮影する岐阜分屯地岐阜基地正門付近等が撮影場所としてあるようです。昔は撮影適地を探し徒歩で外周14kmを実際に自分で歩いたものでしたね。

 T-4練習機603号機、飛行開発実験団所属機、この日撮影に到着した直後に出迎えてくれました機体です。天候偵察に再度離陸したのでしょうか、岐阜基地周辺が晴れていた場合でも試験を行う遠州灘や太平洋上が曇天で視界不良という事はよくある事だそうですから。

 T-4練習機、768号機、この前に732号機、T-4練習機が連続して再度飛来です。増槽で燃料を十分に搭載しているのでしょうから、浜松基地に戻ったのではなくほかの基地や洋上での機動訓練飛行を行ったうえで再度、岐阜基地上空へ訓練へと進出したのかもしれない。

 CH-47J輸送ヘリコプター52962号機、陸上自衛隊の輸送ヘリコプターです。50億円以上の高価な航空機ですが、災害派遣での能力は抜群で陸上自衛隊と航空自衛隊では総計100機以上を取得しているのに加え延命改修も行っています。川重岐阜工場で生産されている。

 C-1FTB、この日最後の大物、といいますか、このC-1FTBが離陸する様子を見ていましたので、このC-1FTBを撮影し帰路に就く事としていました。C-1FTBはC-1輸送機初号機で古い機体ですが飛行時間は短い、現在は大型機材の搭載試験などの任務に就いています。

 C-1FTBは一回岐阜基地上空を航過飛行の後に着陸へと向かいました。銀色に輝く機体、導入当初は全て銀色の錆止め塗装のままでしたが、現在すべてのC-1輸送機は迷彩塗装となっていますので、原色のC-1は、このC-1FTBのみとなっています。撮影できてよかった。

 T-4練習機632号機、帰路に撮影です。名鉄各務原線で名鉄岐阜駅へ、そして東海道本線岐阜駅で新快速に乗る。各務原線は毎時急行二本と普通二本が運行されていますが、二十軒駅は急行通過、3km先の名電各務原駅が急行停車駅ですので、満足を確認し撤収しました。

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機動戦闘車配備半減か?滝川新編の第10即応機動連隊報道画像と89両の16式機動戦闘車納入

2019-04-22 20:10:13 | 防衛・安全保障
■4個即機連と機教に戦偵大配備
 新任務増大を前に必要な装備が部隊数に追いつかない、防衛破綻という懸念が2000年代後半から指摘されているところです。

 16式機動戦闘車は充足しているのか、これは自衛隊関連行事などでの観覧席での一つの定番の論点です。即応機動連隊は、四国の第15即応機動連隊と北熊本の第42即応機動連隊では本部管理中隊&第1普通科中隊&第2普通科中隊&第3普通科中隊&機動戦闘車隊第1中隊&機動戦闘車隊第2中隊&火力支援中隊、との編成でした。極めて強力といえる。

 しかし滝川の機動戦闘車は単一中隊の車体表記でした。これは4月20日2100時からNHK総合で放映の“NHKスペシャル 平成史 第7回「自衛隊 変貌の30年~幹部たちの告白~」”において新しい運用体系として北部方面隊における即応機動連隊の訓練展示や北部方面総監視閲の際の様子を描いた際に車体に“10即機-戦”と記載されていたのですね。

 89輌、今年度までに受領の機動戦闘車は89輌でしかありません。しかし、2019年3月に四つの機動戦闘車部隊が改編創設されます、南東北の第22即応機動連隊機動戦闘車隊と北海道滝川の第10即応機動連隊機動戦闘車隊、福岡駐屯地の第4偵察隊を増強改編した第4偵察戦闘大隊、戦車教導隊第4中隊から独立した駒門の機甲教導連隊戦闘中隊、以上です。

 2018年に改編となりました即応機動連隊の第一陣、第15即応機動連隊と第42即応機動連隊は機動戦闘車隊が二個中隊編成を採用しています。その詳細は非公表ですが、恐らく各中隊は3両小隊3個基本とし中隊本部車両を有する10両程度の編成、機動戦闘車隊全体では、この2個中隊20両に加え本部車両を若干数加えた21輌か22輌編成、と考えられます。

 偵察戦闘大隊は、第4師団HPの改編記念行事を俯瞰する限り、16式機動戦闘車と87式偵察警戒車に軽装甲機動車とオートバイ等が整列し部隊旗を受領する様子などが掲載されていまして、大隊本部と戦闘中隊に偵察中隊、と推察できます。二つの即応機動連隊と偵察戦闘大隊に機甲教導連隊、やはりどう考えても機動戦闘車の量産数が合わないのです。

 滝川駐屯地の第10即応機動連隊は2019年3月の改編で第10普通科連隊を増強改編したものです。 前年改編の四国善通寺第15即応機動連隊機動戦闘車隊は “戦1”と“戦2”との表示を示していまして、2個中隊基幹である事が容易に分かるのですが、北海道滝川の“10即機-戦”表記では、機動戦闘車は1個中隊のみであるように考えざるを得ません。

 ただ、人員規模について、北部方面隊は第10普通科連隊の駐屯地が所在する滝川市に対して、第10普通科連隊の第10即応機動連隊改編後の人員規模を850名と説明しています、滝川市は人口増になるとして歓迎していますが、この850名という人員規模は第15即応機動連隊と第42即応機動連隊と同数でして、実のところ機動戦闘車の規模が同数の可能性も。

 四個即応機動連隊と新編の第四偵察戦闘大隊に機甲教導連隊戦闘中隊所要を考えると確実に不足する、が、10即応機動連隊と22即応機動連隊が一個中隊とした場合は、機動戦闘車隊を22輌編成と仮定して4個即応機動連隊所要で88両、ほぼ89両の納入数に達し、第4偵察戦闘大隊と機甲教導連隊所要が不足します。が、第二陣の即応機動連隊を縮小したら。

 第15即応機動連隊機動戦闘車隊22輌,第42即応機動連隊機動戦闘車隊22輌,ここに今年改編の第10即応機動連隊機動戦闘車隊11輌,第22即応機動連隊機動戦闘車隊11輌,第4偵察戦闘大隊11輌,機甲教導連隊戦闘中隊11輌,合計88輌となります。ここに整備教育を行う武器学校所要を1両加えるとぎりぎり89輌,となるのですね。説得力ある一致と思う。

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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【3】CH-47J飛行展示(2011.12.11)

2019-04-21 20:10:52 | 航空自衛隊 装備名鑑
■那覇基地の歴史と共にあゆむ
 那覇基地航空祭、飛行展示が限られた年度故に少々間延び気味ですが那覇基地の歴史を話題としつつ当時の情景を紹介しましょう。

 那覇基地、安全保障や防衛問題に関心のない方々にとってみれば沖縄県といえば米軍基地との印象がありますが、当たり前ですが対領空侵犯措置任務に当っているのは航空自衛隊です。那覇基地第9航空団は当時第83航空隊として南西諸島防空任務に当っていました。

 第83航空隊は1973年10月16日に創設、F-104戦闘機やF-4EJ戦闘機を経て現在のF-15戦闘機へ機種転換しました。2016年1月30日に第83航空隊は飛行隊を増強し第9航空団へと拡大改編を受けました。もっとも新田原基地から一個飛行隊を引き抜いて、ですが。

 第83航空隊、1972年の沖縄返還とともに沖縄県という広大な空域を航空自衛隊は管区に返還されることとなり、まず茨城県百里基地より第207飛行隊を編入することとなります。第207飛行隊はF-104戦闘機を運用しています。F-104は基地の保存展示機として並ぶ。

 F-104は航空自衛隊初の超音速戦闘機ですが、飛行隊として1966年に創設されます。しかし、百里基地第7航空団はF-104を上回るF-4EJ戦闘機のマザースコードロン、つまりは最初の飛行隊として続く飛行隊の要員を練成する拠点部隊が置かれることとなりました。

 第207飛行隊は余裕が生まれまして、F-104戦闘機ごと南西諸島へ転地される事となりました、当時の戦闘機は現代の陸海空情報を包括管理し戦域優勢への統合第一線端末、というような大げさなものではなかったため、飛行隊単位で毎年戦闘機を量産できた時代です。

 1973年1月1日より第207飛行隊は第83航空隊隷下部隊としてアラート待機を開始しました。那覇基地は在日米軍の訓練空域と重複する空域が多く、そのために難渋することも多いということなのですが、それでも航空自衛隊戦技競技会では優勝する事も少なくない。

 戦技競技会優勝という、第207飛行隊は優秀な飛行隊といえたわけです。しかし1986年にはF-104戦闘機の老朽化もあり部隊廃止となりました。こうして沖縄県の防空はその後継機となるF-4EJファントムへと受け継がれてゆくわけでして更にF-15イーグルへと続く。

 沖縄の防空を一手に担う、これは一大防衛事業でもあり、1972年5月15日の沖縄返還に先だって自衛隊は綿密な準備を行います、8月1日には臨時沖縄派遣隊を編成、10月11日にはこの派遣隊を拡大改編する形で南西諸島の防空は各部隊創設準備の臨時部隊へ改編が。

 臨時那覇基地隊、臨時第83航空隊、臨時警戒管制隊に臨時管制隊と臨時救難隊、臨時部隊を順次創設します。受け入れ準備が完了した時点で11月10日にF-104が轟音とともに那覇基地へ到着しました。翌年元日にはF-104の第207飛行隊が実任務体制へ移行します。

 F-104の第207飛行隊はこうして、対領空侵犯措置任務アラート待機へ移行したことは前述の通り。防空任務は更に1973年2月15日に高射訓練隊というかたちで那覇と知念および恩納に分屯基地を開き、同年10月16日、これら部隊を正式に部隊新編へ移行しました。

 南西方面航空混成団、南西航空警戒管制隊、第5高射群、那覇基地隊、と再編、こうして沖縄防空の体制は編成完結しました。F-4戦闘機、ファントムは中距離空対空ミサイルも運用可能、1985年に配備されました。千歳基地の第302飛行隊が那覇に移駐したのです。

 この千歳基地は北海道のソ連にもっとも近い戦闘機部隊基地、そして1981年から航空自衛隊へは現在も主力戦闘機の座に輝くF-15戦闘機の配備が開始されており、千歳基地はF-15戦闘機を必要としていました。F-15は迎撃よりも制空権確保が目的の高性能戦闘機です。

 このため、第302飛行隊は旧式となったF-4を運用していた関係もあり、もう少し安全な、安全というのも当時中国空軍には沖縄を戦闘行動半径に含めた戦闘機を全く持っておらず、ソ連海軍は軽空母しか有していませんので戦闘機の脅威が無い上に、地域が安定していた。

 在比米軍と在沖米軍が防備を固めている当時、F-4戦闘機でも南西諸島の防空は安泰、という考え方があったのですね。第302飛行隊は航空自衛隊史のなかでも転換点となる事案に直面した飛行隊でもあります。もともと飛行隊は1974年に千歳基地で創設されました。

 第302飛行隊は編成完結を経て1975年からアラート待機に移行しましたが、1976年9月6日の緊急発進にさいし国籍不明期が突如高度を下げ低空を函館空港に緊急着陸するという事件が発生、マッハ3を越えるソ連最新鋭戦闘機MiG25函館亡命事件が発生しました。

 このMiG-25函館亡命事件はソ連群特殊部隊が戦闘機機密維持の任務により函館へ強襲する準備があるとのアメリカ情報があったとされ、航空自衛隊は津軽海峡上空の24時間戦闘空中哨戒CAPを開始、函館駐屯地第28普通科連隊が即応体制を維持し、最大限の警戒が敷かれた。

 北海道全域が、第11師団と第1戦車団も待機体制をとったといわれ、海上自衛隊はソ連船の津軽海峡周辺遊弋をうけ護衛艦と駆潜艇や掃海艇を常駐させ警戒を強化、東北方面隊も津軽地区警戒強化という極めて緊迫した状況となりました。この一件は調べてみますと興味深い話が多い。

 第302飛行隊はこの日ソ関係が最大の緊張度を帯びたMiG-25函館亡命事件の最初の緊急発進を行った部隊だったのですね。那覇基地へ移転した第302飛行隊は、1987年12月9日、ソ連領空侵犯機警告射撃を実施します。緊急発進し実弾で警告を行ったということ。

 自衛隊史上初と成る実弾によるソ連機への警告射撃はTu-16偵察機が繰り返し領空侵犯を実施したため、繰り返し領空外退去を求め、進路上を領空外に誘導を試みるものの、沖縄本島上空に侵入、緊急発進機は南西方面航空混成団司令部へ警告射撃の許可をもとめた。

 正式に警告射撃実施が命令、自衛隊発の警告射撃が二回にわたり実施されました。那覇基地では強制着陸に備え64式小銃を準備しソ連捕虜に備えましたが、Tu-16はそのまま着陸を拒み領空外に、その後先島諸島上空を領空侵犯した後にソ連本土方面へ飛去りました。

 本事案は在日米軍も支援体制をとっていたといい、その後Tu-16は北朝鮮平壌近郊の空軍基地へ着陸しています。しかし、日本政府は過去に例がないほどの厳しい態度でソ連に抗議し、ソ連国防省はTu-16領空侵犯機操縦要員の階級降格と航空機搭乗禁止を行いました。

 ソ連側はTu-16領空侵犯について、計器故障による領空侵犯であり故意ではないと強調しましたが、アメリカメディアを中心にソ連航空機は沖縄本島さえ確認できない地紋飛行能力の欠如を皮肉る報道を行い、結果的にソ連側はその威信を落とすこととなっています。

 幸い今日まで続く警告射撃の事案は発生していませんが、今日、沖縄周辺空域は中国からの国籍不明機が多数接近し、冷戦時代の北海道を越える緊張の空となっています。実際問題、最盛期は一日の航空祭で七回とか八回の緊急発進が離陸してゆくという状況になる。

 何故沖縄県だけ、という印象は無いでもないですが、師団規模の着上陸を想定する必要があり自衛隊が四個師団で北海道の防備を固めた冷戦時代の北海道程は緊張状態にはありません。しかし、国境に近い都道府県というものは周辺情勢の影響に直面するようですね。

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