■初詣二〇一八:大津京近江神宮
初詣は昨年滋賀県の方に非常にお世話になりましたので、ありがとう滋賀、感謝の念を込め、比叡山を越えて滋賀県大津市へ行ってまいりました。
近江神宮、大津市に所在していましてこの街は京都から比叡山を挟みお隣の琵琶湖畔に広がる美しい滋賀県の県都です。京阪電鉄が直接乗り入れている大津市、その琵琶湖岸を沿線とする京阪電鉄石山坂本線沿線に旧官幣大社である神宮の森が比叡へ広がっています。
初詣に歩みを進め、石段を仰ぎ見て聳える二の鳥居、二の鳥居が深い木々の木洩れ陽に桜花が浮き、それは独特の風情を醸し出しており、神宮の山道の木々に囲まれた静寂を更に歩を進めた刹那の情景の転換には、新鮮な気概が湧く、不思議な錯覚を味わえるでしょう。
ちはやふる、との小倉百人一首の競技かるたに挑む女子高生たちの姿を描いた漫画作品、アニメ化もされた作品の舞台となっていますこの近江神宮は、皇紀二六〇〇年国家記念事業にあわせ1940年に創建された、比較的新しい神社で、時の祖神、文化学問の神徳がある。
天智天皇を祭神として祀り、天命開別大神の別名と共に滋賀に広がるこの神社は、西暦667年に天智天皇がこの地を近江大津宮として遷都した由来があり、ちはやふる舞台となったのは天智天皇が小倉百人一首第一首目を詠んだ所縁がありまして、かるた大会の会場です。
かるた名人位クイーン位決定戦が一月高上中旬の土曜日に、高松宮記念杯歌かるた大会が一月上中旬の日曜日に執り行われていまして、ともに日本最大の競技かるた大会という位置づけです。ちはやふる、ではこのかるた名人位クイーン位決定戦が舞台である訳です。
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつゝ、天智天皇御製和歌の句碑が近江神宮に飾られていますが、この他にも神宮には実に一三もの句碑や歌碑が境内に並びまして、小倉百人一首第一首目を詠んだ天智天皇の時を超える一句等に浸れる空間が広がる。
漏刻式水時計を我が国にて最初に設置した天智天皇の威光を伝えるべく、近江神宮には時計製造企業からの寄進も厚く、境内には機械式時計や電子時計に砂時計と各種時計を収めた時計館宝物館や、実務者の教育に当たる近江時計眼鏡宝飾専門学校等が並んでいます。
近江造という、独特の建築様式が採用されていまして、これは我が国寺社建築の中で昭和初期に完成を視た他の寺社仏閣には無い様式です。昭和15年に創建された故ですが文化的にも貴重とされ国の登録有形文化財となりましたが、創建翌年太平洋戦争が始りました。
時の祖神を祀る近江神宮創建翌年に太平洋戦争が開戦しまして、皮肉にも対米開戦の真珠湾攻撃が僅かに最後通牒より十数分先んじて開戦した事で騙し討ちの汚名を着る事となり、先に攻撃を加えたイギリスからは反論が無かったのに対し、緒戦優勢を穢してしまいます。
太平洋戦争は皆様ご承知の通り、半年間で地球の一割を占領するに至りましたが、その後広げ過ぎた戦線を維持する国力を有さないわが国は徐々に連合軍へ圧倒され、工業生産力の多寡と戦略の稚拙さから本土が空襲、350万もの犠牲者を出し、敗戦へ追い込まれました。
昭和天皇は1945年12月、敗戦を迎えたその年に、戦後復興を祭神天智天皇へ祈念するとして勅令を発し、神道指令による旧官幣大社の解消とともに勅祭社に治定されることとなりました。昭和天皇の勅令という勅祭社治定は極めて稀有で、復興への熱意が受取れます。
近江造の社殿は、本殿、内拝殿、外拝殿、外拝殿と内院回廊、内院回廊、神楽殿、栖松遥拝殿、楼門、一の鳥居、二の鳥居と続いていまして、昭和の建築ながら、崇敬の厚さ、そして和歌の一句は時を超える事が出来る一種不思議なものだと風情を感じられるでしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
初詣は昨年滋賀県の方に非常にお世話になりましたので、ありがとう滋賀、感謝の念を込め、比叡山を越えて滋賀県大津市へ行ってまいりました。
近江神宮、大津市に所在していましてこの街は京都から比叡山を挟みお隣の琵琶湖畔に広がる美しい滋賀県の県都です。京阪電鉄が直接乗り入れている大津市、その琵琶湖岸を沿線とする京阪電鉄石山坂本線沿線に旧官幣大社である神宮の森が比叡へ広がっています。
初詣に歩みを進め、石段を仰ぎ見て聳える二の鳥居、二の鳥居が深い木々の木洩れ陽に桜花が浮き、それは独特の風情を醸し出しており、神宮の山道の木々に囲まれた静寂を更に歩を進めた刹那の情景の転換には、新鮮な気概が湧く、不思議な錯覚を味わえるでしょう。
ちはやふる、との小倉百人一首の競技かるたに挑む女子高生たちの姿を描いた漫画作品、アニメ化もされた作品の舞台となっていますこの近江神宮は、皇紀二六〇〇年国家記念事業にあわせ1940年に創建された、比較的新しい神社で、時の祖神、文化学問の神徳がある。
天智天皇を祭神として祀り、天命開別大神の別名と共に滋賀に広がるこの神社は、西暦667年に天智天皇がこの地を近江大津宮として遷都した由来があり、ちはやふる舞台となったのは天智天皇が小倉百人一首第一首目を詠んだ所縁がありまして、かるた大会の会場です。
かるた名人位クイーン位決定戦が一月高上中旬の土曜日に、高松宮記念杯歌かるた大会が一月上中旬の日曜日に執り行われていまして、ともに日本最大の競技かるた大会という位置づけです。ちはやふる、ではこのかるた名人位クイーン位決定戦が舞台である訳です。
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつゝ、天智天皇御製和歌の句碑が近江神宮に飾られていますが、この他にも神宮には実に一三もの句碑や歌碑が境内に並びまして、小倉百人一首第一首目を詠んだ天智天皇の時を超える一句等に浸れる空間が広がる。
漏刻式水時計を我が国にて最初に設置した天智天皇の威光を伝えるべく、近江神宮には時計製造企業からの寄進も厚く、境内には機械式時計や電子時計に砂時計と各種時計を収めた時計館宝物館や、実務者の教育に当たる近江時計眼鏡宝飾専門学校等が並んでいます。
近江造という、独特の建築様式が採用されていまして、これは我が国寺社建築の中で昭和初期に完成を視た他の寺社仏閣には無い様式です。昭和15年に創建された故ですが文化的にも貴重とされ国の登録有形文化財となりましたが、創建翌年太平洋戦争が始りました。
時の祖神を祀る近江神宮創建翌年に太平洋戦争が開戦しまして、皮肉にも対米開戦の真珠湾攻撃が僅かに最後通牒より十数分先んじて開戦した事で騙し討ちの汚名を着る事となり、先に攻撃を加えたイギリスからは反論が無かったのに対し、緒戦優勢を穢してしまいます。
太平洋戦争は皆様ご承知の通り、半年間で地球の一割を占領するに至りましたが、その後広げ過ぎた戦線を維持する国力を有さないわが国は徐々に連合軍へ圧倒され、工業生産力の多寡と戦略の稚拙さから本土が空襲、350万もの犠牲者を出し、敗戦へ追い込まれました。
昭和天皇は1945年12月、敗戦を迎えたその年に、戦後復興を祭神天智天皇へ祈念するとして勅令を発し、神道指令による旧官幣大社の解消とともに勅祭社に治定されることとなりました。昭和天皇の勅令という勅祭社治定は極めて稀有で、復興への熱意が受取れます。
近江造の社殿は、本殿、内拝殿、外拝殿、外拝殿と内院回廊、内院回廊、神楽殿、栖松遥拝殿、楼門、一の鳥居、二の鳥居と続いていまして、昭和の建築ながら、崇敬の厚さ、そして和歌の一句は時を超える事が出来る一種不思議なものだと風情を感じられるでしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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