北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【3】普通科部隊の行進(2012-04-29)

2019-03-31 20:02:40 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■普通科,第15連隊と第50連隊
 第14旅団記念式典観閲行進は前回の第15普通科連隊観閲行進に続き第50普通科連隊、そして第14偵察隊の観閲行進へと進みます。

 善通寺駐屯地の歴史は1961年の第2教育団善通寺移駐から始まりました。1959年に大久保駐屯地にて創設された第2教育団は信太山第4陸曹教育隊、大久保第107教育大隊、信太山第108教育大隊、大津第109教育大隊、善通寺第110教育大隊、という編成でした。

 大久保駐屯地は京都府宇治市、京都市内から地下鉄で一本の大久保です。実はこの大久保駐屯地、困ったときは大久保駐屯地、という程に草創期の自衛隊には重視されていた駐屯地で、一時は中部方面総監部にあたる管区総監部も大久保に置く、という話が合ったほど。

 管区総監部を置くという背景には当時京阪神地区の旧軍施設は朝鮮戦争に伴う国連軍施設として最大限活用されており、活用されていないものは大蔵省管理、日本経済は朝鮮特需により戦後不況を脱するかに見えていたものの財政状況は最悪で、とても土地余裕が無い。

 宇治市では、しかし大阪中心部には遠すぎるという事で、しかし国連軍接収が解かれた場所はそのまま大蔵省管理となる為、書類上管理が終了する前に実質的に撤収した大阪中心部の適地を自衛隊が先に確保する、という構図で幕僚がジープにて巡回したという逸話も。

 大阪第二空港、戦前から残る大阪の小型機用ローカル空港とその周辺の空き地が旧軍により飛行場とされていましたが、朝鮮戦争と共に国連軍が大阪第一空港だけでは必要な空輸能力を満たせず、大阪第二空港を拡張使用していましたがその近くに空き地があるという。

 大阪第二空港の近くとはいっても空地は兵庫県側に在るといい、元々旧軍時代には大阪城が陸軍第四師団司令部庁舎として使用された歴史を振り返れば、大阪第二空港は大阪中心部からは遠いものの、神戸大阪に近い利点も。大阪第二空港はまたの名を伊丹空港という。

 管区総監部、中部方面総監部と1962年の師団改編により創設された第3師団は、伊丹空港近くの伊丹駐屯地と千僧駐屯地に総監部と司令部を置く事となり今日に至ります。続いて続々入隊する新隊員へ第2教育団が大久保に置かれたのですが、手狭である事は否めない。

 第4施設団と、新たに普通科連隊を従来の普通科大隊に戦車中隊までを有する大型編成を改め中隊基幹の小型編成とする際に大久保駐屯地には新編第45普通科連隊も将来的に置かれる事となります、要するに次の部隊が待っているので先にできた部隊は動く必要が、と。

 1961年に善通寺駐屯地へ第2教育団は移駐しました。四国は京阪神地区や山陽広島地区と中京地区等と人口ではそれほど大きくはありませんが、多くの新隊員が志願しており、四国にて前期教育を終えた隊員は緊張高まるソ連を睨み北海道防衛の第一線へと赴きました。

 四国防衛は広島第13師団、現在の第13旅団の所管となっています。第13師団の警備隊区は非常に広く、山陽山陰四国9県、つまり、山口県、広島県、岡山県、島根県、鳥取県、香川県、愛媛県、徳島県、高知県、一つの方面隊に匹敵する師団警備隊区といえますね。

 当時の第13師団は師団司令部以下、米子第8普通科連隊、善通寺第15普通科連隊、山口第17普通科連隊、第13特科連隊、第13戦車大隊、第13偵察隊、第13通信大隊、第13武器大隊、第13輸送大隊、第13補給大隊、第13衛生隊、第13音楽隊、という編成です。

 広島海田市へ師団司令部を置く一方で山陽地区に普通科連隊が無いのは有事の際の即応に問題が、という事で1970年に海田市へ第46普通科連隊が新編され、普通科連隊四個を基幹とする定員9000名の甲師団となりました。しかし、管区が広すぎる事に代わりはない。

 山陽山陰四国9県は実際に広大だったようで、これを象徴する師団の装備がありました。第13飛行隊の装備でL-19観測機、という航空機が陸上自衛隊で最後まで装備されていたのです。L-19観測機、1965年の大怪獣ガメラやバルジ大作戦で登場した古い観測機ですね。

 飛行隊にL-19観測機、既に観測ヘリコプターとしてOH-55やOH-6の配備が進んでいた時代ですが、第13師団の当時の管区は広すぎまして、連絡飛行にOH-55では全く航続距離が足りなかった為、固定翼機としてL-19が残されていたという構図です。それ程に広い。

 四国善通寺に第2混成団が新編されたのは1981年、1976年に制定されました初の防衛大綱には四国への作戦部隊配置が明記されていまして、1976年は我が国が石油危機に伴う高度経済成長の終焉、狂乱物価と景気後退に見舞われている中の四国混成団創設決定でした。

 緊張緩和の時代ではありましたが、我が国防衛政策は画定に10年を要する為、これも現在の中国脅威への西方シフトというべき統合機動防衛力整備事業が本格化したのは中国海洋進出が本格化した十年後に当る頃ではありますが、緊張緩和時代に決定したという訳です。

 新冷戦がソ連軍アフガン侵攻により始まったのが1979年でしたので、十年遅れの防衛政策ですが、四国混成団創設の1981年と離隔を置かず実現したのは一つの僥倖といえるものでしたが、広すぎる第13師団管区の四国部分を独立した混成団へ移管するという方針が。

 第2混成団が創設された背景には四国からへ自衛隊草創期に北海道へ向かった新隊員が北海道から郷里近くへ退官前の異動を願う時代、という実情を前述していますが、同時に第13師団が山陽山陰地区の防衛へ重点を置く必要性がありました、ソ連の海洋進出という。

 ソ連の海洋進出は1979年にソ連太平洋艦隊初の航空母艦として空母ミンスクが回航され、従来のミサイル巡洋艦と共に強襲揚陸艦イワンロゴフ級の建造と太平洋への配備等、太平洋正面におけるアメリカ海軍の圧倒的な戦力への挑戦者が生まれた構図があったのですね。

 日本海正面においては、日本海を隔ててソ連太平洋艦隊主力の展開するウラジヴォストークがあるのですが、空母ミンスクと強襲揚陸艦イワンロゴフと共に編成される両用作戦部隊が日本の本州日本海沿岸へ限定侵攻を加える可能性が現実的脅威として生じてきました。

 西日本への大規模侵攻という蓋然性は後方連絡線の長大化からソ連軍にとり現実的ではありませんでしたが、海軍歩兵大隊を日本海沿岸の過疎地域や離島へ限定侵攻させ、政治的要求を我が国へ迫る、全面戦争と異なる制限戦争を仕掛けられる可能性は充分ありました。

 第2混成団はこうした背景によりその創設が急がれると共に、流石に四国進攻という脅威は無い事から、太平洋からソ連軍が四国に着上陸するような状況であっては既に東京も京都も駄目になっていますからね、その上で四国の混成団は戦略予備となり得たといえます。

 第14旅団に繋がる第2混成団、1981年新編時の編制は一個普通科連隊基幹とする増強戦闘団に近く、混成団本部、団本部中隊、第15普通科連隊、第2混成団戦車隊、第2混成団特科大隊、第2混成団施設隊、第2混成団後方支援中隊、第2混成団音楽隊、以上の通り。

 1981年という年は陸上自衛隊変革の一年でもありました。新たに階級に陸曹長が創設されまして、一等陸曹の頭打ちとなった状況を打破した変革が行われました、言い換えれば幹部自衛官至上主義がアメリカ陸軍影響を受け下士官の地位向上が行われた年度なのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【くらま】日本DDH物語 《第五五回》巡洋艦隊構想,ヘリコプター巡洋艦&ミサイル巡洋艦

2019-03-30 20:13:45 | 先端軍事テクノロジー
■戦後日本の巡洋艦隊再建構想
 護衛艦が19500tまで大型化した現代では若干想像力が必要ですが、巡洋艦規模の護衛艦建造は1970年代の日本には非常に難しいものでした。

 8300t型ヘリコプター巡洋艦構想と6000t型ミサイル護衛艦構想、もちろん実現していません、しかし実現していましたらば、海上自衛隊は巡洋艦隊を護衛隊群の中枢に置く編成となっていたのかもしれません。そして現実的な脅威として、ソ連太平洋艦隊の増強が顕在化しており、太平洋正面はアメリカ海軍が全体の安定化を、とは不確定要素が生まれる。

 カリフォルニア級原子力ミサイル巡洋艦がベルナップ級ミサイル巡洋艦に続いて建造されますが、こちらはMk13発射装置を前後に配置しています。そしてイルミネータとしてSPG51Dを四基、前後に各二基を搭載しました。ソ連の超音速対艦ミサイルを運用する超音速ミサイル爆撃機へ、空母を護る為にはこうした強力な防空艦が必要となった訳です。

 実際のところミサイル発射装置の即応性やイルミネータの配置がどのように影響するのかは、前方からの脅威への対応、ミサイルの知識が十分ではなく申し訳ないのですが、海上自衛隊は最終的に護衛艦はたかぜ型としてMk13を艦首側に配置したミサイル護衛艦を建造し、たちかぜ型に後部、はたかぜ型に艦隊前方を警戒するとの運用に収斂してゆきます。

 8300t型ヘリコプター巡洋艦構想と錯綜した6000t型ミサイル護衛艦構想は、しかし、8300t型ヘリコプター搭載護衛艦がターターシステムを搭載していた場合、飛行甲板にMk10単装発射装置を並べるとは考えられませんので、ミサイル発射装置は艦首側の前部に配置されていたことでしょう。ここで艦隊前方の防空警戒が実現していた可能性は、ありますね。

 具体的には護衛艦はるな型検討当時になんとか基準排水量を5000t規模としてターターシステムを搭載する構想はあったのですから、8300t型ヘリコプター巡洋艦構想に盛り込めなかった影響が違う形で検討されたのでしょうか。しかし、実現していれば6000t型は巡洋艦規模といって過言ではなく、海上自衛隊に巡洋艦隊が整備されていたこととなりました。

 しかし、たちかぜ型建造は、第一次石油危機の影響長期化と第二次石油危機という不安定な時代を背景に長期化し、6000t型ミサイル護衛艦構想というものは実現しませんでした。しかしながら、6000t型ミサイル護衛艦構想はソ連海軍のカーラ級対潜巡洋艦の6600t、クレスタⅡ級対潜巡洋艦の5700t、キンダ級ミサイル巡洋艦の4700tよりも大型の構想です。

 8300t型ヘリコプター巡洋艦構想と6000t型ミサイル護衛艦構想、もちろん実現していません、しかし、思い起こせば7200t型ミサイル護衛艦こんごう型、13500t型ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが型、7700t型ミサイル護衛艦あたご型、19500t型ヘリコプター搭載護衛艦いずも型、8200t型ミサイル護衛艦まや型、一世代遅れまして実現はしているのですね。

 超音速爆撃機Tu-22Mバックファイア、海上自衛隊が護衛艦の将来計画を検討するなか、1969年に初飛行を迎えたソ連の最新鋭機は1972年より大量生産に移行します。射程600kmのKh-22は超音速対艦ミサイルで、数十機が飽和攻撃を自衛隊に対しかける可能性は、バックファイアの目標が米空母である為に低いのですが可能性は皆無でもありません。

 8700t型ヘリコプター搭載護衛艦として、全通飛行甲板構造を採用する新しい護衛艦の構想はこの頃から検討の課題となりました、8300t型ヘリコプター巡洋艦とは設計思想が異なる構造で、イギリスにおいて開発されたハリアー攻撃機を搭載し、AIM-9空対空ミサイルを搭載し、バックファイアのミサイル攻撃を迎撃しよう、という研究が、開始された訳です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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平成三〇年度三月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2019.03.30-03.31)

2019-03-29 20:06:37 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 年度末という季節を皆様いかがお過ごしでしょうか、今週末は西日本を中心に全国の駐屯地などで桜並木一般公開も多く、お近くの駐屯地など尋ねてみるのもよいでしょう。

 第1空挺団創設61周年記念行事-習志野駐屯地祭、千葉県船橋市の空挺団創設記念行事です。この季節には桜祭りが多い中、空挺団は祈念式典や空挺自由降下を展示します。流石に訓練展示は一月の空挺初降下がある分、習志野駐屯地祭では行われませんが、過去には観閲行進が駐屯地祭に併せ実施されています。空挺資料館も一般公開されるとのこと。

 春日井駐屯地創設52周年記念行事、東京からも名古屋からも中央線にて一本で、名古屋に隣接した春日井市にあります。第10後方支援連隊と第10施設大隊に第10偵察隊が駐屯しており、今年は桜花満開の季節に重なりました。偵察隊の87式偵察警戒車や軽装甲機動車、後方支援連隊の87式戦車回収車等を駆使した訓練展示やオートバイドリルが有名ですね。

 伊丹駐屯地創設68周年記念行事、守山駐屯地創立60周年行事、中部方面隊HPに掲載されています。ただ伊丹駐屯地は例年10月に方面隊記念行事が行われる為、桜並木公開が主要行事と考えられ部外園芸と喇叭演奏に音楽演奏と高機動車体験試乗等に限られるようです。守山駐屯地も例年9月に師団祭が行われ、今週末は桜フェスティバル、のもようです。

 朝霞駐屯地一般公開、陸上総隊司令部の置かれる朝霞駐屯地の桜並木が一般公開されます。桜並木だけ、式典や観閲行進に訓練展示などは行われないようですが、中央観閲式が行われる朝霞訓練場と共に基本的に駐屯地祭を一般公開する事が無い司令部施設である為、陸上総隊、という看板を見る為だけでも花見とともに歩みを進める、一興かもしれません。

 在日米陸軍キャンプ座間 日米親善桜まつり、在日アメリカ陸軍総司令部と第1軍団前方司令部及び国連軍後方司令部が置かれるキャンプ座間の一般公開です。桜並木の一般公開を主とした行事で、アメリカンフード屋台等も並びますが、装備品展示も行われる年度がありました。西太平洋地域の司令部施設がありますので、手荷物検査や身分証明は厳重です。

 練習艦隊近海練習航海部隊は明日土曜日に佐世保へ入港します。練習艦かしま、練習艦やまゆき、護衛艦いなづま、入港時間は発表されていませんが、30日土曜日から4月1日月曜日まで佐世保に寄港し、佐世保を出航して後には4月4日木曜日に青森県大湊基地へ入港します。佐世保基地は土曜日かしま、日曜日いなづま、やまゆき、一般公開が行われる。

 さて撮影の話題を。JR西日本が新たに117系電車を夜行列車へ改修する計画が具体的に示されました。新しい夜行列車は“銀河”、かつて夜行急行として東京と大阪を結んだ列車名の復活です。この列車、運行経路と時間帯によっては山陽地区の自衛隊行事撮影へ新しい選択肢を供する事となるかもしれません、広島の海田市や山口の岩国に防府、山陰地方は美保航空祭など。

 ブルートレイン富士にて岩国基地日米フレンドシップデイを撮影へ展開した事がありますが、京都を深夜に出発しますと早朝の時間帯に広島や岩国に到着するダイヤは、非常に便利でした、けれども廃止されてしまいましたので現在は使う事が出来ません。そして現在定期運行される夜行列車はサンライズ瀬戸-出雲、この連結した寝台特急電車のみという。

 新しい銀河は不定期運航となるようでして、老朽化した国鉄時代の新快速電車というべき117系を改修する為、速度にはあまり期待はできないのですが、簡易寝台等を備え、所謂クルーズトレインのような過度な豪華さ故に日常利用ができないような列車とはならない方向性との事でして、117系は数は減ったもののまだまだ残っていますので、登場は今から楽しみです。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭


・4月4日:大湊基地近海練習航海部隊入港…http://www.mod.go.jp/msdf/
・3月31日:第1空挺団創設61周年記念行事-習志野駐屯地祭…https://www.mod.go.jp/gsdf/1abnb/
・3月31日:在日米陸軍キャンプ座間-日米親善桜まつり…https://twitter.com/usfj_j
・3月31日:春日井駐屯地創設52周年記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/10d/butai/sta/kasugai/
・3月30日:守山駐屯地創立60周年行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/
・3月30日:伊丹駐屯地創設68周年記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/
・3月30日-4月1日:佐世保基地近海練習航海部隊入港…http://www.mod.go.jp/msdf/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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【映画講評】A Bridge Too Far/遠すぎた橋(1976)【5】作戦はどのように間違ったか

2019-03-28 20:19:59 | 映画
■マーケットガーデン作戦
 マーケットガーデン作戦を描いた映画に併せた作戦の検証、今回が最終回です。年度内に纏められますね。

 マーケットガーデン作戦について、過度に専門的な視点は省略しますが、ベルギーから69号線沿いにオランダ全域を奪還する、しかし最終到達線がドイツオランダ国境、ドイツ軍が最も兵力を集中させているジークフリート線の手前に設定しているのですよね、ここに進出されますとジークフリート線からの重戦車による逆襲が想定されます。大丈夫なのか。

 作戦前提でオランダ領内にドイツ軍の大半は残っていない、という前提があるのですから、それならばジークフリート線まで後退したドイツ軍の増強は史実よりも大きく見積もる必要があった。そしてジークフリート線を越えてドイツ領内ルール工業地帯を占領する、次の作戦への視座に立てばジークフリート線突破は必要だ、すると大きな問題が生じます。

 ジークフリート線は第30軍団の3個師団で突破できる可能性はあったのか、特に前進軸を69号線に限定しているという事は、ジークフリート線突破の補給路も69号線一本に頼る訳ですから、容易に遮断されます。また、事前情報として、オランダ領内にドイツ軍部隊はほぼ撤退を完了、との大前提があったのですから、内陸部ではなく沿岸を進めなかったか。

 オランダ沿岸部には実際には当時ドイツ第15軍が居ました。第15軍は1944年6月のオーバーロード作戦、連合軍ノルマンディ上陸に際してフランス沿岸部に駐屯し大打撃から再編成中の部隊でしたが、マーケットガーデン作戦をオランダ内陸部ではなくオランダ沿岸部で実施するならば、非常に優勢な連合軍の艦砲射撃支援を受け得た位置関係にある。

 戦略目標がオランダ領内のV2ミサイル基地破壊、その為のオランダ奪還ならば、沿岸をロッテルダムとアムステルダムに向かって前進する事で目的は達せますし、アムステルダム港湾施設はドイツ北部進攻への戦略補給拠点となり得る。そして支援作戦として、本作戦での69号線に沿って機甲部隊を進出させ、沿岸部と併せ第15軍を挟撃し得たでしょう。

 オランダ沿岸部は、特に河口の扇状地に位置していますので機甲部隊の前進は簡単ではありませんが、第15軍にも同様の条件であり、特に扇状地の孤立地形に第82空挺師団と第101空挺師団を投入するならば、逆に空挺堡を護りやすい地形防御として利用できます。砲兵火力への脆弱性は残りますが、ここは艦砲の支援により対砲兵戦を展開し得るのです。

 ロッテルダム沿岸へ大規模上陸作戦を行う事は、オーバーロード作戦での上陸用舟艇や沿岸用特殊重車輌を掃討損耗している為に不可能であったでしょう、オーバーロード作戦前年に検証的に実施されたディエップ上陸規模の作戦ならば展開し得た可能性がありますが、本格内陸進攻の能力はありません。ただ、戦艦等の損耗は無く、火力支援は出来得ました。

 マーケットガーデン作戦は拙速であった、とはモントゴメリー大将が戦機熟した、と判断しての作戦立案で在った背景が説明されるのですが、前進軸として69号線に固執する必要はありませんでしたし、ドイツルール工業地帯侵攻を期すならば、ジークフリート線突破が不可欠となり、最終到達予定線を設定するには参加兵力が過小であると気付くはずです。

 69号線、ジークフリート線攻略を考えるならば69号線一本では交通量が不足する、と痛感するでしょう。実際にはオランダ全域を奪還するならば、他の国道とロッテルダム港やアムステルダム港を使用できそうですが、過去、シェルブール港奪還の際に港湾を撤退前のドイツ軍が破壊し、一ヶ月以上使えないという可能性の再来も考慮する必要はありました。

 浸透作戦へ転換する事は出来なかったか、要するに69号線に沿ってアルンヘムへ進撃する際に道路が狭すぎて最先鋒の近衛装甲師団を航続する歩兵師団が超越し戦闘加入出来ない状況で、例えば後続する第50歩兵師団を69号線に滞留させるのではなく、69号線から周辺部へ浸透し、ドイツ第15軍の側面を脅かす分断作戦に転換する事が出来たならばどうか。

 マーケットガーデン作戦がアルンヘムのライン川手前1.8kmの距離で第30軍団の攻撃衝力が枯渇した背景には、常に第15軍が69号線へ攻撃を加え遅滞戦闘を強いた為でした、この為に陸路で結ばれている地域へも補給が滞る状況があったのですね。それならば69号線周辺部を制圧しない事は非常に不明瞭です。第30軍団の3個師団に限界があった訳だが。

 連合軍がフランスへ投入した師団数は実数で44個師団、すると空挺師団を併せて一割強をマーケットガーデン作戦へ投入した構図です。逆に言うならば、第30軍団以外に投入し得る新戦力は明らかに残っています。追加投入は戦力の逐次投入であり悪手である事は否めませんが、浸透作戦に切り替えたならば逐次投入ではなく第二段作戦と云い得るでしょう。

 パットンならば、どうこの作戦の臨んだか。若干横道にそれますが、マーケットガーデン作戦を振り返りますと、オープニングに写真でのみ登場する連合軍南部軍のパットン第3軍の存在を考えさせられます。第3軍は横紙破りの大胆な戦術をち密な計算に基づき強行します。69号線沿いに浸透作戦を展開させ沿岸部の支隊と協同、第15軍を分断殲滅するか。

 バルジの戦い、個の映画の直後が舞台で、1944年12月にドイツ軍が行ったアルデンヌ地方での冬季攻勢、映画“パットン大戦車軍団”にも描かれています、“遠すぎた橋”で戦い再編中の第101空挺師団がアイゼンハワー大将の機転でバストーニュを確保するのですがドイツ軍に包囲される。この救出に転用されたのはザールブリュッケン近郊に展開中だったパットン第3軍団でした。

 パットンはアイゼンハワーの展開所要時間への問いに48時間、と即答しました。ザールブリュッケンからバストーニュまで160kmありますので、マーケットガーデン作戦の100kmよりも長く、準備時間は遥かに短いのですが、作戦受領の可能性を想定した時点から、隷下部隊に可能な能力を冷静に計算した上で48時間という数字を導き出し、達成しています。

 バストーニュ包囲は第1SS装甲師団、第9SS装甲師団、第12SS装甲師団が加わる非常に懸念すべき規模でした、言い換えればバストーニュに立てこもる第101空挺師団は街道上の緊要を押えており、バルジの戦いへ参加するドイツ軍44個師団の主要補給路へ側面から脅威を与えていた事の証左ですが、第3軍は第101師団が瓦解する前に合流できたかたち。

 第3軍は主要街道と共に利用できる側道全てを利用し、峻険な地形を選定し機動しています。この背景には“都市と森林は兵を呑む”として避けるべき地形を逆説的に不期遭遇以外の遭遇戦を回避、少数部隊との遭遇は撃破し得る規模の部隊で浸透にちかい接近経路の選定を行った事で為し得た。ではマーケットガーデン作戦、思い切った戦術をとれるパットンが指揮したらば、と戦術研究の観点から、考えてしまいますね。

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【京都幕間旅情】墨染寺(貞観寺旧蹟寺院),荘園の栄華散りて花のこる桜寺と深草山に桜花の香

2019-03-27 20:11:38 | 写真
■桜だけが伝える平安朝の栄華
 京阪本線墨染駅の改札から西へ向かい少しだけ歩みを進めますと、桜寺という春を感じる名の小さな寺院があります。

 墨染寺、京都市伏見区の寺院です。京阪本線墨染駅がありますので、この界隈に由来があるとは考えていましたが、実は大学時代からのこの近辺の友人が仕事で伊丹に、伊丹市にも墨染寺があったよ、とのお便りがあった。そこで、そうだ京都の墨染寺へいこう、と。

 京阪8000系の写真もついでに一寸の余暇を愉しむつもりでしたが、深草界隈の風情は散策すると深みが良い。墨染寺は京阪墨染駅の近くにありました、ただ、墨染駅は“すみぞめえき”ですが墨染寺は“ぼくせんじ”と読む、活字やメールでは伝わらない読み方ですね。

 深草山墨染寺、山号を深草山とする日蓮宗の寺院です。深草はこの界隈の地名ですが、地名として深草は“ふかくさ”と読みますが深草山は“じんそうざん”という。歴史は深く、あの貞観年間874年に建立されました。もともとは貞観寺といい墨染寺は旧蹟寺院という。

 貞観年間といえば、東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震と同規模の巨大地震である貞観三陸地震マグニチュード9巨大地震があり、古富士噴火として知られる地質学上の富士山最大規模の巨大噴火である貞観富士噴火があった、まさに災厄の年間でした。

 貞観寺の旧蹟寺院である墨染寺、故にその規模は墨染桜の木々に本堂に墓所と限られるのですけれども、貞観寺そのものが嘉祥寺西院として建立された真言宗寺院でした。嘉祥寺は仁寿年間852年に、この深草の地一帯を荘園としていまして、末寺を建立し更に広げた。

 嘉祥寺は、もともと仁明天皇崩御にともなう陵墓として建立された経緯がありまして荘園を広げてゆきますが、末寺としての墨染寺は時の太政大臣藤原基経が寛平年間891年に病没した際の墓所となった事で崇敬を集める。貞観寺の数少ない旧蹟となったのはこのため。

 上野峯雄、平安時代の歌人で藤原基経のあった峯雄は、“深草の-野辺の桜し心あらば-今年ばかりは-墨染に咲け”と基経の旅立ちを悲しんだところ、この地に薄墨のような桜花が咲いた事に気付き、この地を“墨染”と称したとの由来が、千年以上前の891年の事でした。

 桜寺、と愛称されるようになった墨染寺ですが、対して本山貞観寺は普明院や法勝院と子院を広げ荘園も深草一円のみならず亀岡に岐阜の大垣や静岡の浜松へと広げてゆきます。これは生前に藤原基経が清和天皇護持へ嘉祥寺を掲げた為の誤った威光の拡張といえます。

 清和天皇護持を掲げ荘園を際限なく広げた嘉祥寺は、当たり前ですが清和天皇崩御と共に急速に勢力を失い、東寺の末寺へ、貞観寺領も平安朝末期には有名無実化し、寺そのものの記録も応仁の単を最後に消えてゆく。桜寺と愛称されるようになった墨染寺だけが、残った形ですね。

 日秀尼、この墨染寺が歴史の表舞台に帰るのは豊臣秀吉の姉である瑞龍院妙慧日秀尼が帰依した事で転機を迎えます。墨染寺は豊臣秀吉の伏見城からも指呼の距離にあり、荒れ寺とはなっていましたが、日秀尼は秀吉はじめ多くの寄進を募り、寺院を再興したと伝わる。

 墨染櫻寺、歴史上墨染寺は嘉祥寺西院貞観寺深草旧蹟という位置づけであり、桜寺とは愛称でしたが、豊臣秀吉の治世下で墨染櫻寺という名が定着したわけですね。日秀尼により再興された墨染櫻寺は、伝教大師の子安愛嬌鬼子母神像を本尊とし、崇敬を集めています。

 桜寺、という名を前に豪華絢爛桜花満開を期待し荘厳な寺院を探したならば実のところ拍子抜けするかもしれません。しかし、毎年この地で開かれる桜祭りでは等身より大きな子安愛嬌鬼子母神像が御開帳となり、京都には静かな、桜花の饗宴が拝観者を迎えています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【映画講評】A Bridge Too Far/遠すぎた橋(1976)【4】マーケットガーデン作戦の検証

2019-03-26 20:02:46 | 映画
■巨大空挺作戦失敗の背景と影響
 映画紹介も第四回となりましたが軍事作戦検証のいい機会という事で、あと少しだけ“遠すぎた橋”舞台であるマーケットガーデン作戦の検証を行いたく、お付き合いください。

 マーケットガーデン作戦を検証しますと第30軍団の接近経路と前進軸が国道69号線という片側一車線道路に集中しており、正直なところ攻撃を受けたドイツ軍としては国道69号線さえ遮断するならば、容易に補給を干上がらせる事が可能でした。実際ドイツ軍は手持ち兵力で混成機甲部隊2個を編成し、常時69号線に接触を維持、第30軍団を牽制した。

 第30軍団にとり、これは同時にLD発起線が目標に対し理想な垂直とは真逆の水平に設定せざるを得ませんでした。これは重要な欠陥を意味します、何故ならば結果的に王立近衛装甲師団、第43歩兵師団、第50歩兵師団と戦力逐次投入の状態が自然に形成されている為なのです。では複数に前進軸を分散させるべきか、それですと今度は戦力が足りません。

 前進軸が国道69号線のみであった点ですが、側道は無かったのか。第30軍団長ホロックス中将は、激戦地となっているアルンヘム橋梁から25km西方のレーネン橋梁に攻撃目標を変換し渡河を要望しましたが、上級指揮官であるモントゴメリー大将に25kmの逸脱は危険と却下され、FCL最終到達予定線へ前進軸の狭さが結果的に破綻の要因となりました。

 レーネン橋梁への前進軸の拡大は実施を決断しているならば、ドイツ軍の視点からは正面緊迫の散開を意味し、併せて連合軍渡河器材の能力はフェーヘルでの運河渡河によりドイツ軍も認識しており、25kmの戦域拡大に見合った成果が期待出来た可能性が残りますが、なにしろ第30軍団には3個師団のみ、当時の師団正面は基本22km、際どい賭けでもある。

 無線通信の欠如、マーケットガーデン作戦の多々ある最大規模の問題の中で筆頭に近い一つは無線通信機の故障です。短期間に準備が為された作戦とは本論でも強調するところですが、劇中にも端的に描かれる通り、無線機準備が不充分であり、周波数帯がBBC公共放送帯と一致した為の通信不能や周波数帯に適合した発振端子やアンテナ欠如等の不手際が。

 絶対航空優勢と共に展開されたマーケットガーデン作戦は、孤立した空挺部隊にあって必要な通信手段を確保しているならば、P-47やP-51,ハリケーン等の優勢な戦闘爆撃機を縦横無尽に利用し近接航空支援が可能だった筈ですが、無線機を欠いていた事、特に連合軍航空基地はまだイギリス本土にあり、戦場上空での滞空時間の短さと相まってしまいます。

 レオパルド1戦車がパンター戦車役として劇中に登場していますが、第2SS装甲軍団にはティーガー2重戦車も60両程度配備されており、空挺部隊の軽火力で対抗を強いるのは無理というものです。近接航空支援を要請した場合でも戦場到達に配置時間を要し、その細部を調整する為の長距離無線機は二基の内片方が破損と片方が損傷に部品不足というもの。

 近接航空支援の概念は当時アメリカ海兵隊が太平洋戦線において試行錯誤を続けていた時代、航空掩護の域を出るものではありませんでしたが、例えば大陸へ航空拠点設営の猶予を待てない状況でも例えば護衛空母数隻を転用、戦線近傍に航空拠点を設置し、近接航空支援を実現したらば、状況好転した可能性もある。しかし、その場合こそ無線が不可欠だ。

 ただ、準備期間の短さは別の視点から通信不充分を生んだとも言われています、それはレジスタンスとの協力欠如です。当該地域は100kmに昇る広範囲、数千名規模のレジスタンスが連合軍の救出に備えていました。僅か数日間の準備期間ではとても連携は出来ません。しかし、実施していたらば空挺部隊は一般電話回線が維持されていた事を知ったでしょう。

 前進出来ないのか、アルンヘム橋梁まで1.6kmの距離で第30軍団が攻撃を断念する様子が劇中に描かれます。1.6kmといいますと遮二無二突破出来そうにみえますが、一つ手前のナイメーヘン橋梁確保の後の第30軍団攻撃計画再編成の時間は第2SS装甲軍団にも天恵と云えるほどの時間猶予をもたらします、1.6kmの地域にティーガー2が集まっていました。

 攻勢時間の概念を再検討した場合、既に過ぎていると共に前進軸が国道69号線に集中していた為、第30軍団は側面攻撃の余裕を持ちません、前述の通り逐次投入の状態、新戦力と云いますか最後方の第50歩兵師団を新戦力に投入しようにも道幅が狭すぎ、前方の師団を超越し攻撃に加入する事が簡単には出来ないのです。逆にドイツ軍は側道を駆使している。

 情報収集の不徹底により、そもそも作戦立案が失敗であった、とも言えます。準備期間が短すぎたのですが、情報優位を獲得できていません。ドイツ軍としては第2SS装甲軍団という最強の手駒を秘匿した状況で、連合軍空挺部隊が飛び込んできた構図です。そして、モーデル元帥が橋梁爆破を禁じた事が言い換えれば連合軍に作戦継続を強いた構図もある。

 ただ、マーケットガーデン作戦がもう少し緻密な準備と兵力増強とともに実施されていたならば、成功した可能性は充分あります、そしてその意義はあった。こういいますのも、ベルギーからオランダへ連合軍が前進し、その全域を奪還する事が出来ますと、ドイツ西方軍とB群集団主力を分断する事が出来ます、西方軍そのものを遊兵化させる事が出来た。

 ドイツ西方軍とB群集団主力を分断、ライン川のオランダドイツ国境まで進出しますと、ドイツオランダ国境はドイツ軍がジークフリート線として要塞化しています。すると当然ジークフリート線の突破は困難であり、第一次世界大戦のような膠着状態が懸念されるのですが、逆に言えば連合軍南部集団の視点から、北方に大量の敵を拘束したかたちとなる。

 しかし、実態は、と言いますとモントゴメリー大将は連合軍の虎の子である空挺軍五個師団の内、作戦に参加した三個空挺師団を壊滅させる事となり、ノルマンディ上陸での損耗と併せ、即応可能な空挺師団全てを使い切る形となります。そしてなによりもモントゴメリー大将がこの作戦が失敗である事を最後まで認めなかった事が後々影響してくるという。

 第30軍の兵力ではジークフリート線まで前進したとしてその後のドイツ軍増援部隊との戦闘はとてもかなわない状況ですし、なによりも壮大な目標を提示しつつ、その補給路が片側一車線の道路一本に依存する状況では、旧日本軍のインパール作戦のように、この作戦も、その目的は理解できるが、参加兵力と補給見積もりが甘すぎたといわざるを得ません。

 この作戦は90%成功したが-あの橋はちょっと遠すぎたな。この認識は映画の最終段階で示されるところですが、総指揮官であるモントゴメリー大将の率直な感想でした。しかし第82空挺師団や第101空挺師団等米軍参加部隊は率直に戦闘詳報を作成し、参謀総長と連合軍総司令官アイゼンハワー大将が、米軍から見た実情と認識を共有する事になりました。

 アイゼンハワー大将は政治的立場からモントゴメリー大将の認識を共有する形を取りますが、不信感が醸成された事も確かです。その根拠として、モントゴメリー大将の連合軍北部軍に対する補給は一段落し、それよりも再編成を優先する事になる。再編制中にドイツ軍はアルデンヌ冬季攻勢、映画バルジ大作戦に描かれた反攻を招く事にもなってゆきます。

 パットン大将の連合軍南部軍はそのまま前進を続け、順調にオーストリアまで進出しますが、第二次世界大戦の要諦はドイツの首都ベルリン進攻にあり、次の北方攻勢は春の目覚め作戦まで行われず、連合軍のライン川渡河、マーケットガーデン作戦の目標が達成されるのは1945年4月、ドイツ降伏直前まで着手されない事となりました。この意味は大きい。

 ドイツの首都ベルリン占領は東部戦線を前進したソ連軍により為される事となり、同時に延長線上に東西冷戦構造の醸成へ繋がってゆくわけです。ここまで論述しますと、論理飛躍と言われるかもしれませんが。尤も、この不信感が逆にアルデンヌ冬季攻勢に際しアイゼンハワーが独断で反撃計画を立案、ドイツ軍を撃退できたという背景に繋がるのですが。

 ただ、我々も思い当たる点は多いのですよね。準備不足に情報不足を上層部の面子と勢いで無理を強いた結果に大損害、判子の有無で消し飛ぶ合理性の検証、市場調査よりも上層部の直感で立案された計画を現場が共有できず間違った方向の同床異夢、取引相手との調整祖語と曖昧な見積に監督者の責任逃れや逃亡、実社会では企業等で日常茶飯事です。それだけに本作は学ぶことが多いのではないでしょうか、ね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【緊急特集】goo blog 20190325点検後の仕様変更-編集利便性致命的低下への批判的検証

2019-03-25 20:19:43 | 北大路機関特別企画
■goo 旧管理画面復帰を切望
 今回は2005年7月29日運営開始以来初となる運営面での記事ですが、どうかお付き合いください。

 本日、GOOブログサービスは1200時までのメンテナンスを完了しました。ただ、このメンテナンスによりブログ編集仕様が大幅に変更、記事管理の様式が根本から一新、過去の記事編集や長期な掲載を行わないユーザーには大変便利になりました。その分、長い記事や連載記事を掲載するユーザーには不便となります。裏方的な内容ですがお付き合いを。

 非常に使い難くなった-無駄な労力が増える-これでは記事管理が出来ない。これが今回のGooブログサービスメンテナンスにおける率直な印象です。2014年から利用していますが、ここまで大きな変更は経験がありません。非常に使い難くなった、その最たるものは“記事の管理”です。メンテナンス前は管理が容易であり確実に更新する事が出来ました、が。

 記事管理、メンテナンス前は“公開状況-記事タイトル-公開/予約日時-カテゴリ”と表示され、情報量は多くはないのですがブラウザを動かさずとも今後二週間程度の記事作成状況が管理できたのですが、アップデート後は一つ一つの記事情報が大きくなり、スマートフォン版本文と同じような表示が管理画面にも表示されています。しかし此処に問題がある。

 スマートフォンは縦長画面ですが編集作業はパソコンで行います。探せばあるのでしょうが、縦長モニターというものは一般的ではありません、すると、同時に表示される記事が数件のみとなってしまうのですね。先の読めない世の中ではありますが、正直、数十日分の予備記事を作成した上で時事記事を掲載する北大路機関では記事管理上非常に不便です。

 憤怒をこうした形で表現する事は、2005年のWeblog北大路機関創設以来の特殊な記事です、が、声を挙げずにはいられません。運営側から見れば単なる一個のWeblogですが、14年間にわたり掲載を継続しているのですから、Weblog北大路機関を運営する北大路機関としても一定以上の責任があります。その責任を果たすための努力もしています。故に、と。

 一番の問題は、定期掲載です。分りやすく表現したらば、手帳のダイヤリーが1頁二日分の見開き四日分という状況で酢ヶ月後の予定を管理しろ、という様なもの。例えば日曜特集は日曜日に掲載しますが、管理画面には曜日が表示されません、時事記事を優先掲載した場合、日曜特集を繰り下げ掲載へ編集せねばなりませんが、一週間後には別の日曜特集があり全て動かさねばなりません。この場合、ブラウザに十数個の記事を確認できる場合と三つ四つでは、二週間後の管理難易度が違う。

 第七回と第六回、基本的に第六回の方が先に来ますが、管理画面が此処まで使い難くなる場合、誤って第七回を先に掲載する事故も起こり得ます。望んで行ったのではなく、一週間先、二週間先に記事を作成し、その上で時事記事を描き下ろし掲載した場合、確認機能がここまで悪化しますと、気付かずに飛ばしてしまう事も起き得るのです、限界がある。

 連載記事を掲載しているのは伊達や酔狂で掲載しているのではありません、どのようにして毎日記事を掲載しているかはよく尋ねられるのですが、工夫を重ねなければ仕事の最中に開く実に掲載を維持することなど不可能です。記事を確実に提供できるように準備しているのです。そして時事記事等優先度の高い記事を掲載する際には、一つ一つ繰り上げて編集する。当然です、災害や安全保障上の記事を順番通り掲載していたらば、一か月後二か月後になってしまう、そんな速報記事は当然、有り得ません。

 毎日更新、簡単な事ではありません。ブログ専従記者でもない限り、仕事が立て込むのは当然であり二日三日編集作業が出来ぬ状況もあるのです、故に一週間に七回記事を作成するのと毎日確実に一回記事を掲載するのでは難易度が全く違うのです。その為に、最低50回分の記事を待機状態に置き、予備記事として文書だけは100日分を維持しておくのです。

 管理画面は慣れの問題でしょう、そう考えたのですが、何しろ前の記事管理画面では14記事をスクロールせず確認できました、ブラウザ3転移分で二が月先まで確認できた、これが3記事4記事では先の記事を確認するにはブラウザを遥か下までスクロールさせなければなりません。京都幕間旅情、陸海空自衛隊主要行事実施詳報、準備が滅茶苦茶になる。

 マクロ的な視点から記事作成が出来なくなる。弊害の一つにこうした問題が考えられます。陸海空と観光記事に行事紹介、北大路機関は2005年の創設以来、読者関心事を考慮し複数分野の重複を避ける記事を作成して参りました。しかし、今回の変更によりなにしろ三日分四日分しか俯瞰できないのですから、これでは中長期的な記事作成が出来なくなります。時事記事に割いた分だけ次の掲載が大きく狂ってしまう。

 記事の傾向、当然ですが、京都幕間旅情が毎日続かないように編集の長期的な調整に留意しています。勿論陸上自衛隊関連記事や海上自衛隊関連記事だけが延々続かないように配慮しています、これは十日後二十日後に掲載される記事と調整し、初めて可能となるもので、日程確認を十数日と直近三日四日のみという状況では、確認の煩雑さがまるで違う。

 コメント管理も非常に煩雑になりました、コメントを公開するかスパム削除するのか、誤操作しやすい配置となっているのです。改修前は管理画面において、後悔するのか削除するのかが明白にカーソルが離隔されていましたが、新管理画面では真逆となっています。要するに公開動作を行たつもりが、カーソル遷移の誤差で抹消される可能性があるのです。

 SNS,個人の情報発信手段は多様化しています、これは反比例して出版産業等情報発信における伝統的媒体が縮小する中で価値観の多様性を支える重要な要素を占めるものといえるでしょう。それでは数多い個人の情報発信手段の中で、特に電子媒体に絞ってのWeblogが有する優位性は何でしょうか。私見ですが過去情報の検索性と継続性であると考えます。

 Weblogの優位性は例えばTwitterやFacebook等と比較しますと、過去記事の検索性において、例えばTwitterやFacebookでは一年前か一年一ヶ月前の情報を探す事が容易ではありません。TwitterやFacebookを誹謗中傷する訳ではありませんが短文投稿記事主体の媒体は長文での検証性ある命題を扱う事は想定していないものなのですね。故に普及したが。

 Gooブログサービスの今回の改訂は、TwitterやFacebookのような短文投稿記事、中長期的な記事から、短文投稿型、長文を掲載せず、数日以上前の記事との連接性を重視しないユーザーが増えた事を受けての利便性の変容が進む証左なのかもしれません。ただ、TwitterやFacebookの躍進は、ユーザー棲み分けであり、Gooユーザーの需要にこたえているのか。簡単に言うならば、短文のみを掲載する需要のユーザーならば既にブログサービスから転向してしまったのではないでしょうか。

 旧管理画面に他ユーザーからの反論が多く寄せられているとしたらば、せめて管理画面を新旧選択できるようしておくべきではなかったか。記事管理画面を十数記事から三記事乃至四記事に削減するならば、せめてブラウザ上に毎月ごとのカレンダーを表示させカレンダー上に記事名を掲載できるよう管理画面に多様性を持たせる事は出来なかったのか、と。

 読者皆様に置かれましては今後も質の高い記事を提供できるよう、努力は続けますが、連載記事の管理が非常に煩雑且つ困難となり、限られた時間で掲載しなければなりません。今後は管理に注力する事から、誤字脱字の管理や一日当たりの掲載記事文章量の縮小、部内では3CPTと呼称する緊急用短文記事による代替の可能性もありますが、ご理解下さい。

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【G3X撮影速報】江田島.練習艦隊近海練習航海部隊&外洋練習航海部隊出航(2019-03-16)

2019-03-24 20:00:49 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■CANON-PowershotG3X
 北大路機関ではCANON-PowershotG3Xが望遠を担当しCANON-PowershotG7Xが広角を担当する、こうした運用が今後の速報記事となりましょう。

 練習艦隊かしま、やまゆき、いなづま、すずつき、江田島基地を一斉に出港してゆきます。しかし、練習艦かしま錨泊中、海底地形から錨が固着してしまったようで錨が上がらない、捨錨も難しく、なんと艦隊は護衛艦いなづま先頭に出港してゆく事となりました。

 やまゆき、はつゆき型護衛艦を転用した練習艦です。はつゆき型は1982年から12隻が量産された2900t型護衛艦、護衛艦隊の主力を担っていましたが、現在は除籍が進んでいます、後継となる3900t型護衛艦の建造が進めば、歴史へと去ってゆく貴重な艦型といえる。

 かしま、いなづま、旧海軍兵学校という情景を。G3Xでの撮影ですが、旧海軍兵学校の陸奥41cm主砲塔がしっかりと分かる情景です。旧海軍はこの校舎の配置を軍艦の上部構造物を模して建築したという、写真でも遠目に見ますと一瞬三隻並んでいるよう錯覚しますね。

 いなづま、むらさめ型護衛艦です。9隻が量産され、拡大改良型に当る護衛艦たかなみ型、防空強化型の護衛艦あきづき型、対潜対空能力向上型に当る護衛艦あさひ型と共に各種20隻が量産されたうちの一隻で、揚錨に時間を要する旗艦に代わり、練習艦隊を先導します。

 すずつき、あきづき型護衛艦の一隻で、こちらは弾道ミサイル防衛任務支援用に護衛艦隊へ4個置かれている護衛隊群へ各1隻の4隻が建造されました、上部構造物は多機能レーダーFCS-3の搭載で印象を変えていますが、船体基本配置の共通性等も分かる事でしょう。

 最新鋭護衛艦二隻が先導する、本来は練習艦かしま先頭で出航するところですが、期せずして護衛艦を先頭に、勇壮な出航となりました。そして江田島の遠景ですが、山肌や道路に点々、対岸の呉市も含めまして昨年に相次いだ豪雨災害や土砂災害の傷跡が痛々しい。

 かしま、揚錨作業完了したようです。艦隊が出航から落伍する、というのは少々不恰好ですので遅れながらも揚錨作業が完了した事は朗報です。今回の椿事ですが毎年何度も投錨している江田内でも、こんなことは起こり得るのだ、と教訓になるのではないでしょうか。

 いなづま先頭の艦隊出航、実はこの日土曜日の天候は雨天予報が出ていまして、練習艦隊出航に合わせたかの様な快晴は思わぬ僥倖といえましょう。しかし、叢雲が点々と陽光を遮りまして陽光に照らされる護衛艦とそうでない艦艇が不思議な情景を醸し出しています。

 すずつき、へ陽光が。連続写真をしっかりと撮影出来ましたのは新装備CANON-G3Xがレリーズ撮影に対応している為、三脚上に固定し左手の小指と薬指で操作しつつ、主力機種EOS-7Dの操作を同時並行出来る為です。EOS-M3やG7Xはこれが出来ない不便さがある。

 DD-105いなづま、基準排水量4400tという水上戦闘艦としてはかなり大型の護衛艦です。設計はバブル期という日本経済が非常に余裕があった時期の護衛艦であり、設計の余裕が最新あさひ型に至るまでの様々な変更を受け入れる事が出来たという平成時代の名艦です。

 DD-117すずつき、イージスシステムを補完する僚艦防空能力を有する護衛艦です、むらさめ型の拡大改良型を防空強化した護衛艦ですが、むらさめ型建造当時に先進的な艦容からミニイージス艦の愛称を識者や愛好家から冠せられ、艦隊にはミニイージス艦が20隻揃う。

 艦隊まで距離はあるもG3Xにて撮影の写真、1型センサーというAPS-C機種に準じるセンサーを有するコンパクト機種に35mm換算28-600mmという望遠レンズを組み合わせた、非常に大型で重い機種なのですが、今回、その重さに見合った性能を発揮してくれました。

 練習艦隊出航は、観艦式と地方隊展示訓練を除けば稀有といえる艦隊行動を撮影できる機会です。しかし、地方隊展示訓練は2014年に実施されたのが最後、2015年は観艦式実施年度により実施されず、2016年には熊本地震対処で艦隊行動計画が再編されてしまいます。

 地方隊展示訓練は横須賀に佐世保と舞鶴に呉と大湊が、相模湾や伊勢湾、玄界灘か佐世保沖、大阪湾か広島湾、若狭湾か美保沖か新潟沖、石狩湾か陸奥湾、各地方隊が実施していたのですが、2017年からは自衛隊の実任務増大で実施できなくなってしまったのですね。

 南西諸島警戒監視任務、実任務増大とは要するに海上自衛隊が沖縄と鹿児島県島嶼部を中心に続々と出現する中国艦へ警戒暗視を行う為に艦隊が手一杯となり、ロシア海軍の動静も頻繁となってきた為、展示訓練へ部隊を回す事が出来なくなった為、という事情がある。

 警戒監視任務では護衛艦だけでは手が足りず、訓練支援艦にミサイル艇と掃海艇まで動員する状況でして、2018年12月の新防衛大綱に護衛艦不足を補う為の哨戒艦という新区分を設定した事はご承知の通り、今回も外洋練習航海部隊が1隻のみとなってしまいました。

 TV-3519やまゆき、TVとは練習艦の意味ですね。はつゆき型護衛艦は基準排水量2900tで満載排水量は4000t、対空対潜対水上の各種誘導弾と艦載ヘリコプターを有するガスタービン推進のシステム艦で、ガスタービン艦特有の巨大な吸排気系統が目を引く艦容ですね。

 やまゆき出航と牡蠣筏、江田島らしい情景ですね。今年度の練習艦隊出航では稀に艦隊行動を立ちはだかる江田島の風物詩、牡蠣筏曳航舟という椿事はありませんでした。しかし当方もこの日出発時間を間違え広島到着が遅れ、御馳走の牡蠣三昧もありませんでした。

 TV-3508かしま、揚錨間に合って良かった、という構図です。錨をよくみえみますと、海底泥土がしっかりと固着している様子が、此処からも確認できます。上手く錨把力が働かない位置に錨泊しますと走錨事故の原因ですが、働き過ぎても、というところでしょうか。

 かしま揚錨作業の遅れで一時は出航できないかにみえた瞬間でしたが、旧海軍の戦史では戦闘で落伍した旗艦が次席指揮官乗艦の後続艦に委ねて、実際に在った事ですけれども、平時の練習艦隊出航でも踏襲される、自衛隊は実戦を意識した組織という事なのでしょう。

 海上幕僚長乗船の交通船も出航へ。海上幕僚長はこの交通船で東京の竹芝桟橋から防衛省本省へ帰る、訳では決してなく、呉基地へ交通船で戻りヘリコプターにて防衛省本省へ戻ります。尚私はいつもお世話になっている方に三原駅まで送っていただきまして新幹線へ、感謝です。

 かしま、いなづま、やまゆき、近海練習航海部隊は21日まで神戸港、26日から28日は沖縄の中城、30日から4月1日まで西海の守り佐世保、4日から6日まで北方防衛の大湊、8日から10日までご当地舞鶴、12日から5月3日まで呉、三机を経て7日に横須賀へ至る。

 横須賀では5月7日から20日まで長期間入港しまして、呉基地入港も半月以上という非常に長期間といいますか、もう少し中京地区や基地以外の港湾へ寄港し見聞を広める機会と艦艇広報を、とも思うのですが昨今情勢は不穏であり、その反映という事なのでしょうか。

 練習艦隊は外洋練習航海部隊は今も東南アジアの友好国へ、近海練習航海部隊は日本各地の寄港地を廻っています。海上自衛隊の同胞は厳しい周辺情勢に併せその能力の強化を、厳しい財政情勢下で頑張っています、彼らの旅路の、その前途が明るいよう祈りましょう。

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宮古警備隊新編-宮古島駐屯地来週開庁,沖縄県南部先島諸島防衛空白地域への新しい一歩

2019-03-23 20:11:50 | 防衛・安全保障
■第15旅団の沖縄南部防衛整備
 第15旅団は現在、防衛上の空白地となっている沖縄県南部地域先島諸島へ来週新たに警備隊を新編し、駐屯させます。

 宮古警備隊が3月26日に新編、併せて宮古島駐屯地が開庁を迎えます。新設の宮古警備隊は第15旅団隷下部隊となり、第15旅団は2014年の旅団改編以来の増強改編となります。併せて南西諸島防衛は、先島諸島の防衛が事実上の防衛空白地帯でしたが、新中期防衛力整備計画とともに実施される石垣島への駐屯地新設と共に順次改善される事となります。

 沖縄県南部の防衛、これは先島諸島が何故脅威に曝されているかを理解する事で重要性が分ります。先島諸島は沖縄本島と台湾島の中間に位置、台湾有事の際には中国軍が米軍の介入を阻止する為に確保する必要があるのです。先島諸島に地対空ミサイルや地対艦ミサイルを中国が配置する事で米軍介入を阻止できる、確保出来ねば台湾有事は起こしにくい。

 台湾を護るために先島諸島に自衛隊を置くのか、と批判もあるかもしれませんが、言い換えれば日本の国土を悪用させない為の施策です。また台湾は日本の中東や欧州アフリカ東南アジアからのシーレーン上に位置しており、実際問題、太平洋戦争はここを失落した事で日本全土が飢餓状態となり、継戦能力を失いました。これは日本が仮に親中政策を執ろうとも中立を宣言し様とも、地形上の要点は変わりません。

 沖縄県南部、中国はヴェトナムやフィリピンから武力奪取した環礁を人工島化し、超水平線レーダーの建設や飛行場の建設、地対艦ミサイルや地対空ミサイル部隊の配置を行い、周辺海域への武力行使へ転用しています。戦争が起こる事はだれも望みません、沖縄県南部の守りを固める事は、日本が周辺地域での戦争を望まない事を明白に示す事とも、なる。

 第15旅団は那覇駐屯地に司令部を置き、第51普通科連隊、第15高射特科連隊、第15ヘリコプター隊、第15偵察隊、第15施設中隊、第15通信隊、第15後方支援隊、第15特殊武器防護隊、第101不発弾処理隊の2200名規模の部隊ですが、宮古警備隊の新編により2550名規模の旅団となります。しかし石垣島等へ、今後も旅団増強は続く事となります。

 12式地対艦誘導弾か88式地対艦誘導弾、03式中距離地対空誘導弾、宮古島には当面警備隊を中心とした380名程度の部隊が置かれるのみですが、将来的にはこれらの装備も配備されましょう。要するに奄美警備隊と同じ地対艦ミサイル中隊に地対空ミサイル中隊という陣容が宮古島にも整備されるという事で、更に石垣島へも数年内に警備隊が置かれます。

 沖縄本島に第15旅団隷下部隊は駐屯していました、那覇駐屯地と八重瀬分屯地に知念分屯地と勝連分屯地に白川分屯地と南与座分屯地、全て沖縄本島です。もう一つ、台湾近傍に与那国駐屯地がありますが西部方面隊隷下の沿岸監視隊が置かれるのみ、これが宮古島への警備隊駐屯により長大な沖縄県島嶼部での要点を確保する見通しだけは、付いたかたち。

 防衛上の空白地帯、宮古島を含む先島諸島には航空自衛隊のレーダーサイトが置かれているのみです。レーダーサイトには警備小隊も配置されていますが、空中機動部隊強襲等に対応できるものではなく小規模の遊撃部隊から本土の増援部隊が到着するまでの施設防護を担当する規模でしかなく、中国艦艇等が周辺を遊弋する中、懸念事項となっていました。

 宮古島駐屯地は26日の開庁と共に宮古警備隊が置かれますが、将来的には地対艦ミサイル中隊や高射特科中隊が配置される計画です。この地域へのミサイル配備は周辺国との関係に留意する必要も考えられますが、過去に北朝鮮弾道ミサイル実験が沖縄近海において実施された際、航空自衛隊が宮古島へペトリオットミサイルを展開させた事例はありました。

 ただ、見通しは付いた、としますのは、南西諸島防衛は非常に広大であり、冷戦時代の北海道防衛、陸上自衛隊は道北の第2師団を重装備で固めると共に戦車団や特科団の配置と第7師団の機械化部隊改編、本州の名古屋や広島と熊本等からの内地師団緊急展開準備等、防衛上の投入可能である資材の大半を準備していました。沖縄はこれで充分といえるのか。

 先島諸島は沖縄本島から375kmを隔てており、沖縄本島からは自衛隊の特科火力支援等は最大射程の地対艦ミサイルでも射程外です。そしてなにより、通信の維持だけをとっても衛星通信を除けば通信中継点さえありません。警備隊について、第8師団の奄美警備隊を紹介した際、警備隊は指揮機能に余裕を持たせ、増援中隊を受け入れる、と説明しました。

 警備隊の増援部隊を展開させる際、第15旅団の第51普通科連隊が展開する事となるでしょう、第51普通科連隊は旅団普通科連隊であり、隷下に3個普通科中隊を置いています。そして空中機動へ、ヘリコプター隊を有する編制が第15旅団の編成上特色です。ヘリコプター隊はUH-60JA多用途ヘリコプターとCH-47JA輸送ヘリコプター等を装備しています。

 UH-60JA多用途ヘリコプターとCH-47JA輸送ヘリコプター等は航続距離が1000km程度あり先島諸島は行動半径に含まれます、が数は充分ではありません。実はかなり前に第15ヘリコプター隊は第12ヘリコプター隊、北関東の名高い空中機動旅団の第12旅団型部隊、と聞いていましたので各8機を有していると解釈していましたが、どうも当方の勘違い。

 第101飛行隊という島嶼部を飛行できる高度な航空機が旅団改編前から配備されていました。南西諸島では本州に相当する広大な地域に島嶼部が広がり、救命救急支援に関する災害派遣に備えてのものですが、有事における部隊展開には空中機動を必要とする事も云うまでもありません。しかし、ヘリコプター隊は高性能機はありますが、規模として師団飛行隊を強化した程度、と。

 警備隊を隷下に二個、石垣島と宮古島に配備する一方で、沖縄本島には普通科連隊一個、というものでは警備隊を有事の際に増援する事が難しく、しかも先島諸島まで、これは京都広島間に匹敵し、ヘリコプターで移動するにも三重県明野駐屯地から静岡県富士駐屯地までの距離に相当、どのように増援を展開させるか現段階で万全とは中々言い切れません。当面の課題です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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平成三〇年度三月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2019.03.23-03.28)

2019-03-22 20:10:55 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 梅花の季節と桜花の季節が久々にひらく今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか、今週末の自衛隊行事紹介です。

 練習艦隊近海練習航海部隊の護衛艦と練習艦は昨日、神戸港を出航しましたが、来週26日火曜日から28日木曜日まで沖縄の中城へ寄港します。中城と発表されていまして勝連の沖縄基地ではなく中城湾港へ入港するのですね。尚、練習艦隊の入港時間や一般公開については発表されていませんが、停泊中の護衛艦では電燈艦飾などの実施が考えられましょう。

 来週は全国で陸上自衛隊改編行事が目白押しです。第11旅団と第6師団は即応機動連隊改編と共に即応機動旅団と即応機動師団の改編、また富士教導団戦車教導隊と東部方面混成団第1機甲教育隊の統合による機甲教導連隊の新編、宮古島駐屯地開庁と宮古警備隊、奄美駐屯地及び瀬戸内分屯地開庁と奄美警備隊新編行事等が非公開ですが、実施されます。

 さて先週のカメラの話題を。CANON-G3Xは35mm換算600mmというズーム機能を有している、こう紹介しましたが、センサー性能の多寡を度外視したらば、ズームの世界はまだまだ広い。その筆頭としまして、NIKON-COOLPIX-P1000という機種があります。その光学ズームは驚く事になんと3000mm、渋滞にて航空祭に間に合わない場合でも車窓から機動飛行が撮れましょう。

 NIKON-COOLPIX-P1000はスマートフォンサイズの微小精緻なセンサーを一眼レフへ中望遠ズーム水準のレンズを組み合わせた筺体へ一体化させた機種で、3000mmというズームにはかなり無理を強いているのでしょうが、意外なほどに操作性は良く、特に京都市北区から晴れていれば如意ヶ岳の大文字火床横に立つ人物を識別できるほどの性能を誇る。

 光学ズームと電子光学ズームを併用した場合は画質が落ちるものの12000mm相当まで達するとの事で、どれくらい凄いかと問われれば土星の輪が見える程という。ここまで来るとフォーカシングや被写体を追尾するには、多少の撮影技術が必要となりますが、APS-Cやフルサイズカメラとは一風違った画角というものが、今後は醸成されてゆきそうですね。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭


・3月26日-28日:中城港近海練習航海部隊入港…http://www.mod.go.jp/msdf/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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