北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】墨俣城(岐阜県大垣市),この写真のリアリティとデジタルは難しいAI時代の現実感

2024-11-20 20:24:00 | 旅行記
■長良川と城郭
 歩いて撮影名所を丹念に探していますとこんな景色が在ったのかと驚く事もあります。それは既知のものなのかもしれないけれども自分にとって発見であれば。

 一夜城と長良川に流れ込む墨俣川、この構図は散策の際に偶然見つけました構図となっていまして、いやこの城郭、何度も行っていますとともにあの忘れもしない2020年、新型コロナウィルスがCOVID-19と呼ばれる前、こっそり花見に遠出した場所だ。

 生成系AIでこのくらい簡単に描けるよ、とはお仕事の付き合いある方の発言で、しかしこれ凄く傷ついた、現実の光景というものを簡単に日常でAIという単語にて浸食しないでほしいなあ、とも。たぶんあの方は現実と空想の境界線があいまいなのだろうか。

 長良川に流れ込む様子を間近に撮影してみますと、いやここ、立ち入り禁止でもおかしくない場所なのだけれども注意書きは無く、そもそも前日が雨天でなければ流れもさほどではない場所なのだろうか、しかし迫力は物凄く、城郭を際立たせている。

 掘割までは再現されていない一夜城だけれども、治水のための施設がそのまま、恰も城郭の一部のような迫力を醸しているもので、ちょうど暗渠のように長良川に調整治水として流れ込む一画を、もう一歩進めば危険かもしれない構図で撮影した。

 安全と危険の境界線、神戸市内を散策していて大きな猪さんとこんにちわした際とか、けっこうな高波の中で艦艇の写真を恐らく大丈夫だろうという区域から雄姿といえるすがたを、これはもう経験と自己責任の世界なのか、撮影した際のことなど。

 頭を使わなければ危険だ、豪雪の中で散歩した山道や大雨が凄いなあと言われた豪雨が後に西日本豪雨と言われることになる中で撮影したものなど、思えば貴重であるとともに、しかし撮影しておいてよかった、と安どするような情景なども数多いなかで。

 生成系AIの写真と、一応苦労した情景の物を安易に比較されるのもなあ、と考えるところ。ただ、ディープフェイクというかたちで、錯覚させる目的で使用できる領域まで細部まで作りこまれた合成写真というものは簡単に取れるようになりましたが、さて。

 合成されたものは本物の写真の代替となるのか、このあたりは考えなければならない段階なのかもしれない。いや、生成系AIで満足するならば、世の中の情報をすべてディープフェイクで構成させて満足する事は人によっては出来る時代が来るのかもしれない。

 オンライン修学旅行、というのが、あれは児童虐待の一種ではないかと危惧するのだけれども、COVID-19の最中に辻褄合わせで旅行できない代替として映像を見せるだけで修学旅行を味わえ、という、結構無理を押し通したものがあったが、10年後には。

 リモートワークを例に取れば、エッセンシャルワーカー以外は在宅で自己完結させることが不可能ではない時代となった、オンラインに特化した通信制大学などが今後増えてくるわけで、もちろんリモートワークは本邦では下火となりつつあるけれども。

 ワーケーションという、これまではリモートワーク、COVID-19の最中には閑散とした観光地でリモートワークを行い、合間時間に観光するという、いわば観光地というリアルと、リモートワークという一種デジタルを両立させる方法が模索されていたが。

 景気減速、というものを背景に考えるかもしれないが、ワーケーションではなくデジタル観光で満足する人が増えるならば、これはもう景気減速下でも交通費や宿泊費、体力さえ無用となり、そこで満足する人が増えるのかなあ、と寂しく、いや懸念する。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都発幕間旅情】墨俣城(岐阜県大垣市),一夜城の別名は長良川河畔に歴史浪漫がささえる豊臣秀吉の出世城

2024-11-20 20:00:26 | 旅行記
■一夜城探訪
 岐阜基地航空祭にて話題となりました岐阜県は一夜城こと墨俣城に行った話題です。

 墨俣城、岐阜県大垣市墨俣町墨俣に所在する城郭です。模擬天守となっていますが、大垣市というのは大垣駅前に大垣城もありますので、城郭が多くて羨ましいなあ、と思ってしまうところ。岐阜県にはこのほか、岐阜城や郡上八幡城に天守閣が。

 豊臣秀吉の出世城、と呼ばれていまして、それは豊臣秀吉が未だ木下藤吉郎だったころ、織田信長の美濃攻略への重要な前進拠点として短期間で築城を果たしたという。当然天守閣を有するようなところではなく、実態は野戦築城に近い形だったという。

 永禄9年こと西暦1566年に築城したというところ、いまの地図を見ると、木曽川と長良川が離れていて、渡河が大変そうに見えるけれども、当時は木曽川堤防も長良川堤防もない時代なので、ほぼほぼ近くを流れていた時代があるという。

 大垣市墨俣歴史資料館、これが正式名称なのですが、美濃を侵攻するならば木曽川渡河が大変で長良川はその先、実際にやったのか、という疑問符はあるという。一応このあたりに城郭があったのは確かで、池田恒興の家臣伊木忠次が改修した記録はある。

 信長公記、織田信長スゲー集ともいわれる日本初の信長ファンブックは太田牛一が著したもので、ここに洲股要害という砦のような描写があるけれども木下藤吉郎が築いたかは触れていない。江戸時代の寛政年間に書かれた絵本太閤記にはでてくるけれども。

 遺構もないところに、平成初期、観光誘致のために複合式層塔型三重四階RC造模擬天主閣を造営したというものだけれども、一方で、2㎞程離れた岐阜県岐阜市柳津町の佐波八幡神社には一夜城築城の木材を供出した事で社領安堵となった記録とかもある。

 木曽川と長良川は定期的に氾濫を繰り返し、というよりも岐阜基地航空祭の際に見える金華山山頂の岐阜城とかは、金華山そのものが100万年単位で丘陵地が木曽川と長良川の氾濫に削られてあの標高になったというのだから。堤防は江戸時代のもの。

 薩摩義士伝、という木曽川堤防を幕府の命令により築堤し、農民から尊敬された歴史が岐阜にはある。ただ、薩摩義士伝、といま検索するとむさくるしいオッサンが第一話ひえもんとり、とか、肝練りじゃさあ今宵は存分に楽しめ、と出てくるのだけれど。

 二層櫓はあった、改修により高櫓が構築された、ともいわれていますし、渡河点は戦略上の要衝であるので室町時代には斎藤氏自身が城郭というか防御施設を造営して斎藤利為を城主に置いた、という記録があったりするのだけれども、一夜城説は。

 大河ドラマなんかでは一夜城は重要な展開となるのだけれども、司馬遼太郎が新史太閤記にも記しているのだけれども、結局のところこの城郭の大半は浪漫で形成されているのだよなあ、という印象です。地元に城郭があるのとないとでは、違うのかもしれない。

 城下町には、寺町があって明台寺など複数の寺院があり、一応旅館と、鮨屋に中華と焼肉屋でははなくって焼き芋屋か、そして小学校中学校もある、昔は大垣氏に合併される前に墨俣町という地名であった。すると地元に城郭があると郷土愛に、繋がる、か。

 墨俣城というのは、過疎化が進む現代にあって、地元に城郭があるという事で、御城の城下町に帰省するというもしくは、ここに定着するという、いわば過疎化からこの地域を護っている歴史ロマンなのかもしれない、そんなことを散策の際、思いましたね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都発幕間旅情】大阪城,南海トラフ地震と水の都巡るもう一つの焦点は"大阪関西万博"の混迷と遅れ

2024-10-02 20:22:11 | 旅行記
■大阪関西万博
 大丈夫なのかという話題をもう一つ。

 大坂城、大阪城、いまは大阪城と呼ぶべきか。この大阪城なのですが大阪といいますとどうしても懸念してしまうのは南海トラフ地震もその筆頭ではあるのですが、大阪万博、定番ですが間に合うのか、というところでしょうか、工事が難渋している。

 万博誘致には成功したものの、万博会場を離島にしてしまったことで建設工事に時間を要するばかりか、せっかく地下鉄を乗り入れられるようにトンネル工事をおこなったものの、あれを軽便鉄道にして資材運搬に活用出来ていない様子を残念に思う。

 大規模工事といえば、この大阪城を筆頭に中世の時代からこの大阪の十八番のように思っていたものですから、難渋している様子はちょっとなあ、と。地盤が軟弱地形であることから大手ゼネコンの多くが工事参加を辞退したという事情もあるのだが。

 大阪城造営は、時の権力者が中心となり工事と基本構想を固めた、だからこそ、まあ大坂夏の陣冬の陣で灰燼に帰す結果とはなったものの、基礎部分の工事が盤石であったからこそ耐え抜き再建、第二次大戦では軍司令部となり、B-29の爆撃にも耐えた。

 大阪関西万博、電車に乗っていますと中吊り広告はもちろん、京阪電鉄や近鉄はラッピング電車で万博号を、JR西日本も加わっていますし、阪急電鉄も全面ラッピングではないもののラッピングをおこなっています、南海電鉄も確か、阪神電鉄のは見た。

 メトロ、大阪メトロでは万博の大規模輸送に備えて新型車両を大量導入し、いきなり21世紀のメトロな感じになったのですが、同時に輸送力確保へ前の万博の際に導入した半世紀前の旧型車両も維持していて、この百花繚乱こそ万博準備なのだなあ。

 しかし、会場のほうが、ね。着工していないパビリオンが少なくない数となりまして、特に日よけとして用いる円環状の木製建築物が会場中心をぐるり回っている状況で、これさえ資材搬入を阻んでいるという。変な話お堀を作った後で天守閣を造るような。

 パビリオンについては、70年大阪万博では各国独自建造パイリオンが未来的な印象を強調することとなったのだけれども、結局難工事という話と大阪の建設労働者不足などの関係から一つの大きな建物に複数の国々が入るという方式が中心となっていて。

 パビリオンが画一的な、ともすれば愛知県のリトルワールド以下の規模となってしまった時点で、ちょっとなあ、と思ってしまうのだ。それならばこの大阪城を万博会場にしたほうがまだよかったろうに、その間天守閣にどう観光客を入れるかは課題だが。

 万博に対する期待値は、と問われますと聞けば混雑緩和のためにWeb事前予約制という、もちろんスマートフォンにどこの誰が造ったかわからないアプリをがんがんいれる事に抵抗のない方はへいきなのだろうが、まず私は面倒さから煩雑で行く気がなくなる。

 太陽の塔といいますか岡本太郎的な旗振りも、小松左京のような世界観も、そもそも今回の大阪関西万博の顔となるデザイナーがよくわからない方ですし、一本筋とおるメッセージよりは万博を誘致することそのものがゴールだったのではないか、なんて。

 軟弱地形の問題はどう解決したのか、もしくは今後どうするのか。来場者の事前予約制をもう少し当日予約に柔軟に対応できるよう制度を見直せないか、COVID-19の予防接種のように予約をもう少しいろいろな方式で対応できるよう、してほしいものですね。

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【京都発幕間旅情】大阪城,南海トラフ地震と城郭-城址公園の防災拠点としての意義

2024-10-02 20:01:45 | 旅行記
■大阪城と防災拠点
 城郭の歴史よりはなにかコラム的なものとなっているのですけれども。

 城郭と防災、日本ではこの分野をもう少し考えてほしいように思う。大阪城が災害に強い立地であることは、上町台地の上に位置する関係で既出だけれども。例えば南海トラフ地震で最大の被害が想定される高知市は、高知城が確実に生き残る標高にある。

 大阪城と高知城のほかに、やはり津波が襲来する和歌山市も和歌山城は台地のうえにあって、独立峰のようにまわりに高台がないので津波が襲来した場合でも横にそれて標高が49mある和歌山城はほぼほぼ津波被害から安全と考えてまちがいありません。

 南海トラフ地震ではやはり津波の直撃を受ける徳島市も、これはまわりに高台といいますか山に面しているので城址に逃げ込む必然性は必ずしもないのですが、徳島城は標高が61mある。岸和田城と尼崎城は、ちょっと防災評価の必要がある高さだけれど。

 一国一城令が江戸時代に発布されるまえには数多くの城郭と城塞、砦なんかがあったわけですが、特に国境監視の城塞は高台にあるところが多く、ここに、復元天守でも櫓でも建設するとともに観光施設兼用の防災備蓄倉庫とできれば、と考えるのですね。

 平成時代の行政改革で無駄を省きすぎて公共投資を抑えたことが、阪神大震災や東日本大震災など複数ある平成以降の低成長時代に影響したようにおもえまして、これは建設省を国土交通省に切り替えてしまったことが無関係では無いように思うのです。

 大阪城造営をはじめ、いやこの場合は大坂城か、豊臣政権時代の大阪は莫大な公共投資により好景気を、官製需要は限界が来るものなのだけれども、次の発展の土台を造ったことは確かです。そして、平成時代では公共投資が鈍った、低成長が続いた、と並ぶ。

 国土強靱化計画、もちろん防災をメシノタネにすることへの批判は受け止めねばならないことなのでしょうが、たとえば郷土史とか遠足とかで地元に城址公園があれば義務教育の時代から通うことは確かです、知っている場所となる。そこが避難所になれば。

 天守閣というのは有事に備える防災倉庫です、とは姫路城天守閣で説明されていたところか、模造銃ですが火縄銃がずらりならび中世のYAMAMOTOとかFirstのような感じとなっている様子をご覧になった方、も多いでしょうが、あの倉庫が平時の天守閣でした。

 現代の城郭構造も、高台に城址公園を整備して連絡道路を確保するという前提ではあるのですが、櫓を寝泊まりできる避難所として、そして天守閣などを防災倉庫として、平時は格納している可搬式太陽光発電パネルや毛布や非常食などを備蓄しておけないか。

 非常食は数年で消費期限が過ぎる、と反論されるかもしれませんが、そういうものはお城祭り、という感じで有償提供してしまえばいいのです、大人数用保存スープとか大型の缶詰とか、備蓄米とか、最近は非常食もまともな味のものが増えているから。

 のぼうの城、忍城を舞台に安土桃山時代、石田三成の大軍勢を相手に籠城戦を戦い抜いた映画がありましたが、あの映画では周辺住民を場内で保護し籠城していました、大災害に対してもああいう構図をとれる城址公園が全国にあればなあ、と思うのですね。

 普通に避難所を増やせばいいだけ、という反論もあるかもしれませんが城址公園ならば観光名所として維持費を自弁できる余地が生まれますし、避難所を子供の遊び場や遠足の目的地とするには限界がありますが、城址ならば平時から人が集まる場所となるのだ。

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【京都発幕間旅情】大阪城,海に開かれた大阪-南海トラフ地震では梅田周辺が津波被害に遭うという事前想定

2024-09-25 20:23:09 | 旅行記
■海に開かれた大阪
 大阪は水の都と呼ばれていますがもともと八十島といわれた立地を土地改良により造成した海抜の低い文字通り海に向け開かれた街です。

 大阪の街を飛行機やヘリコプターでみてみますと、地震はともかくとして津波に対して大きな脆弱性があることがわかります、それは中心部梅田と大阪湾が離れているように見えますが、淀川が広い河口を大阪湾に向けて開け放っているための危惧というもの。

 淀川の河口は広く大阪湾に向けられていますが、梅田の北側で大きく曲がっています、ここに津波が侵入しますと直進しようとする津波が新大阪と大阪駅の中間部分の屈曲点で正面からぶつかり、堤防を乗り越える懸念が生じるのですね、ここから堤防は低い。

 湾内はもうひとつ、大阪港埋め立てにより津波の速度をそぐ、そぐといってもその地形上に多くの市民が生活を営んでいる地形、地形上の利点はあるとはいえ、中之島も迂回した津波の直撃を受ける立地にありまして、津波に対してあまりに無防備だ。

 石山といわれた丘陵地に築城された大坂城は、そういう意味で津波から直撃を免れる立地にありまして、ここを選んだ秀吉はなかなか先見の明があったのだなあ、と。いや、石山本願寺をここにたてた顕如さんの見立てなのか、今見ても関心させられるのです。

 南海トラフ地震が発生した場合、紀伊水道を加太淡路の由良水道へ津波が到達した場合は確実に大阪湾内に津波が侵入します。航空機から大阪の街を眼下に望んだ際には、ここ、津波対策は高層ビルと高架道路を結ぶ垂直避難しか方法は無いように思えてきて。

 神戸はどうか、といわれますと市街地が傾斜地にあるので、摩耶と六甲にそって少し移動するだけで急激に標高が上がります、ここはちなみにJRや阪神阪急線をこえたあたりで勾配がでてきますので、散策してふと後ろを振り返ると高低差に驚くことがおおい。

 顕如さんや秀吉さんはおそらく南海トラフ地震まで考えたようには思えません、大阪城築城前の天正地震では津波被害はそれほどでも無い、ほかの被害が大きすぎたという理由はあるのでしょうけれども。しかし立地は奇跡的なまでに配慮されていたといえる。

 東日本大震災、懸念してしまうのは長周期震動などの影響も未知数なのですが、東日本大震災が発災した2011年、主要駅や公共建築物は安全確認のために利用者を外に出すことで対策官僚としていたのですね、これにより大量の避難民滞留が起こっています。

 東急電鉄などは避難民を全部駅の外に出して駅を閉鎖して無事終了、としたことがのちに東京都の小池知事に非難されることとなりましたが、大阪で、津波の来る路上に多くの避難民を出した場合はそのまま押し流されることになりかねない、ということ。

 梅田まで津波が来る、というのは大阪市が2012年に作成した南海トラフ地震ハザードマップに示されているところです。じゃあ大変だ駅に収容しよう、と阪神電鉄が覚悟を決めると、阪神梅田は地下駅なので映画の"地震列島"のように大変なことになるのだが。

 地震列島、1980年の東宝映画で首都直下型地震が舞台となっていましたが、丸ノ内線が水没する描写が当時の営団地下鉄、今の東京メトロに相当非難された。同じような描写があった"逮捕しちゃうぞSECONDSEASON"ではそんなにいわれなかったのだけれども。

 上町台地や大坂城まで徒歩で移動できることが望ましいのですが、何にもかににも大阪市の人口を考えると、由良水道を津波が超えるまでに全市民避難させるということはあまりに非現実的です、すると垂直避難と高層避難所間の移動を考えねばなりません。

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【京都発幕間旅情】大阪城,夏の南海トラフ臨時情報と歴史地震の天正地震を受けての耐震構造という巨大城郭

2024-09-25 20:00:37 | 旅行記
■最も初期の耐震構造
 新幹線長期計画運休と地震臨時情報と物凄い熱さと空母カブールとこの夏は色々ありました、ラファールもタイフーンも来たね。

 南海トラフ臨時情報が発令されたのは今年八月八日、こちらは88艦隊の日ということで盛り上がっていまして、イスラエル大使を長崎平和記念式典に招かないことで波乱を生んでいた九日の前日に九州は宮崎県にて比較的大きな地震が発生したわけでした。

 大阪城、この大阪城は地震災害と大きな関わりがありまして、そしてこの大阪という大都市そのものも南海トラフ地震と所縁が、所縁というのも嫌なので想定被害地域、というべきなのでしょうか、含まれてしまっていますので、今回はこの視点から。

 日本で最も初期の耐震構造建築物、といいますと多くの方は五重塔を思い浮かべるのかもしれません、東京スカイツリー建設の際に五重塔の心棒という建築様式が耐震構造として採用された、ということが幾度か、ニホンノギジュツスゴイと紹介されたゆえ。

 五重塔の心棒、しかしこれ、明確に耐震構造であることをしめす文書などがのこっているわけではなく、そもそも仏教建築である五重塔が耐震構造を採用しているというならば、ご本堂の建築様式に耐震構造を採用しないのはなぜか、となってしまう。

 ストゥーパ、五重塔を含めた仏塔は仏教建築においては舎利殿という、要するにお釈迦様の遺骨を奉じる場所となっています、すると簡単に倒れては困る、となりますので耐震構造だ、といってしまえるのかもしれませんが、それを示す文献がないのですね。

 舎利殿と心棒の関係は、耐震構造という視点は結果的に副次的な要素があり、舎利を天と繋ぐ宗教的な要素があるのかもしれませんし、もしくは実際に耐震構造も、模型が現存しないだけで耐震研究の結果として残ったのかもしれず、研究はまだまだ余地がある。

 大阪城は、しかし、この大阪城は、この、といいますと1936年に建築されたものが現存する大阪城ですから、鉄筋RC構造の大阪城を示すと耐震せいはあるのでしょうけれども、最初の大阪城、いや大坂城というべきか、こちらの耐震性のほうは文献がある。

 大坂城を築城したのは豊臣秀吉ですが、この少し前に天正地震という、歴史地震としてみても有史以来最大の、関東大震災や濃尾地震よりもおおきな直下型地震が発生していまして、この際に豊臣秀吉恩顧の家臣がかなりの数、倒壊などで亡くなっています。

 なまずにちゅういすべし。天正地震ののちに造営することとなりました大坂城の建築に、豊臣秀吉自身が地震に耐えられる城郭を求めている書簡がありまして、耐震性に留意した建築物を注文している建物というのは、これが最古なのではないか、と。

 天正地震ののちに、大坂城そのものは大坂戦役、大坂夏の陣大坂冬の陣とで灰燼に帰しているわけですから、耐震構造物は失われている、といわれるのかもしれませんが、城壁石垣を含めて大坂城としてみるならば、拡張はおこなわれているものの基礎部分は。

 熊本地震における熊本城をみればわかりますように、石垣を水平ではなく斜度を以て敷き詰めておきますと地震の揺れに対して石垣が水平移動せず、加重が上下にかかることでお互いに支え合って倒壊を回避するという構造が、地震後の研究で判明しています。

 大坂城も熊本城も城普請は加藤清正、耐震構造の研究を重ねたことで崩れにくい城郭を造成していた、昔の建物であってもやれることはあったのだが、さていまはどうだろう、手抜きはないか大丈夫なのか400年後の今、とふとそんなことを思ったりするのですね。

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【京都発幕間旅情】長浜城,公園管理者は巡回時に気付くはずだ!イラガ幼虫大発生

2024-08-07 20:24:54 | 旅行記
■歴史ある城址の管理
 特定の城郭についてこういう事を書いておくことは心痛む事なのですが今回のいっけんで予定が大幅にくるってしまったのも事実だ。

 長浜城、豊臣秀吉が一国一城の城主となった歴史の地、その遺構は天正地震によりそのまま琵琶湖に沈んでしまい、僅かななわばりと地名が残るだけなのですが、JR長浜駅前に再建された模造天守閣をながめると、ここは城下町なのだ、と再確認できるのです。

 長浜城は美しい城郭なのですけれども、今回散策しまして膨大な数のイラガの幼虫が闊歩していて、これは頭上の木々にいるわけですので落ちてこないとも限らない、毒棘をもつイラガの幼虫です、間違えて踏んで、その日に半ズボンやスカートを着ていたならば。

 散策していて、驚いた、気づけば地雷原の真ん中にいるような感じか、いや、地雷原というのは埋まっているので頭上から降ってくるものではない、しかも、イラガの幼虫、その毒棘はほんとうに産毛くらいの補足小さいものですが、痛みはスタンガンよりも。

 スタンガンよりも、エアソフトガンよりも、痛いと言いますか、痛みが数時間後に引いたその十数時間後に腫れてきて、痛み、電気のような、しかし疼痛のような、これが繰り返すのです、スタンガンの痛みはその瞬間限りですが、イラガ幼虫の毒棘は、単なる始まり。

 人生に経験が必要、といいますが、あの痛みは一度体験してしまうと学習するものです、子供の頃に木々の木立に遊んだ頃に遭遇してしまう、しかし見た目はきれいなのです、痛いと言われても、なにしろイラガの幼虫は小さく、松食い虫ほど大きさがない。

 長浜城公園、管理者の方には是非お願いしたいのが、この期間は桜並木に対策をしてほしい、ということです。桜祭りのあと、4月中旬の長浜祭りがおわったころに業者に依頼して殺虫剤を散布してもらえば、発生しません、すくなくとも数だけは抑制できる。

 予算不足はわかるのですが、40cm四方、いや30cm四方に一匹いるというか、群れているので40cm四方に二匹という感じか、八月初旬も初旬です、散策路に普通にイラガの幼虫が落ちていた、これは頭上の木からおちてくるので、首もとや肩にさえ落ちかねない。

 頭上の脅威、地面を移動するのではなく落ちて足下に蠢いているのですから、危険なのです。殺虫剤散布が予算面で駄目ならば、せめて桜並木のところをしばらく、七月から九月まで整備中ということにしてトラロープを張って封鎖してしまってはどうでしょうか。

 子供の好奇心に一致した蛍光色の生き物なのですが、もっている毒棘はろくなことがおきないいやな思い出を残してしまいます、もし散歩している子供が拾ったら、いや、半ズボンやスカートで散策していて歩いて舞った土や石礫とともに足に毒棘が飛んだら。

 今の時代、どの自治体も予算がないことは理解しています、けれども管理者なのですから最低限管理してもらわないと、公園利用者に危険が及ぶ。これは30cm四方で蠢いているのですから、注意してね、という但し書きで回避できないほどの数なのですから。

 自己責任論というものがありますが、過保護というわけではなく、熊の出没に注意書きだけではなく警戒して対応するように、実際に脅威があり、しかも管理者がいる公園では自己責任として利用者が強力な殺虫剤、ハチバズーカ20連発のような対策はできません。

 長浜城はすてきな公園なのですけれども、公園の状況を把握していないような現状は、管理者を名乗るならば管理するか、いっそ解放区にしてしまう覚悟を持つか、ということです。ここは豊臣秀吉ゆかりの地、歴史があるのだから自覚してほしいのです。

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【京都発幕間旅情】長浜城,頭上の脅威-公園管理者は管理を!イラガ幼虫大量発生中

2024-08-07 20:00:08 | 旅行記
■頭上の脅威
 こういうことも書かねばならないのだ。

 万人に読んでもらいたいと文章を作成している北大路機関ですが、こんかい、あれ、の写真だけは撮っていないので載せていませんが、ムシが嫌いな方は読まずに、別の記事、楽しいグルメカテゴリのほうに移動してもらいたい、けれども書くべきと思い記事とした。

 管理者を名乗る以上は管理してほしいなあ、というところはいろいろなところで実感するところでして、いや、北大路機関についても過去、あらし、ととれかねない書き込みについて、一応は規約には反していないのだから、と掲載していた際に指摘されたことも。

 城郭、さて。書き込みの方は、城郭に書き込みというか落書きがあったという話ではありません、まあそれ普通に器物損壊ですので警察が動いてくれる、しかし今回警察が動かない難しい問題が。それは、イラガ幼虫の大発生です、公園はしっかり管理してほしい。

 長浜城、といいますか長浜は東海道本線と北陸本線を経て新快速ですぐに行くことができまして、古い町並みとともに琵琶湖の湖畔、山城に寺社仏閣と散策していますと実に奥深く、その気になれば敦賀にでるのもすぐ、彦根の彦根城なんかは対岸、というか南に。

 彦根城は長浜城から、天守閣の上から確かに城山がみえまして、G3Xの望遠レンズを使えばその天守閣もみることができる。行きたくなれば新快速にのって案外近い、安土城址もそれほど遠くないですし、散策路として考えるならば近江八幡にいっても水路が美しい。

 イラガの幼虫、さてその散策路へと行きまして、いつもどおり湖畔の城郭という情景を撮影したいところで、まずは運動公園から噴水の方へあゆみすすめてゆきます、が、予算不足なのか噴水は稼働していませんでした、水だけ溜まって、それはなにかもの寂しさ。

 ネコさんがみあたらないなあ、と気づいたのはそのあたりなのですけれど、まあ、暑かったですから避暑地になるような隠れ家にいるのだろう、とさらに城郭へと歩み進めました。梅林に桜並木、長浜城は春がいちばん美しいのですが、こう見上げると夏もいい、か。

 桜並木の散策路に沿ってビワイチ、琵琶湖を自転車で一周する経路が整備されているので、ここと情景を考えて構図におさめたり、また、自転車が走っていませんでしたから、すこしだけ徒歩でその経路を楽しんだりして、そしていよいよ天守閣を撮影へとまえへ。

 桜が散ってはや数ヶ月というもう八月の灼熱で、おやおやと気づいたのは花弁の滓のような、そう桜吹雪のもう少しあとに地面に積み重なる花弁のようなものが地面にさっと、黒ごまを思い切りまき散らしたよう散見されまして、しかしあまり考えずに構図のみ考えて。

 黄緑色の。気づいたのは公園のベンチで一休みと言いますかレンズを交換しようとしたときに気づきました、いる、いた、いる。動いているか、動いている、一つだけか、黄緑色のものは五匹、六匹、視線を動かすとまだまだ、しかも、全部動いている、すべてに。

 蠢く、という文字はその漢字のつくりだけで意味が伝わるよう、考えた人は偉いなあ、と思う。イラガの幼虫が、黄緑色の蛍光色が目を引くイラガの幼虫が、ベンチの下だけで二桁の数字でうごいていた、蠢いていた。文字をみるだけで蠢くあの情景を思い出す。

 ここはだめだな、と思い、移動しようとふと足元を見れば蛍光色、黄緑色の蛍光色、蠢いている。花弁なんかではなく、ぜんぶこれ、イラガの幼虫が頭上の桜並木の葉を餌に饗宴を繰り広げている結果の、幼虫のふんであったのですね。公園が管理されていない。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都発幕間旅情】犬山城,決戦の関ヶ原と天下分け目の会戦巡る万華鏡の如き複雑怪奇

2024-07-03 20:20:29 | 旅行記
■犬山城の歴史
 犬山城も城郭でありその歴史は戦いの歴史でした。

 犬山城の歴史を紐解きますと大きな戦乱というのは小牧長久手の戦いが挙げられる、これは清須会議、本能寺の変を経て次の盟主を選定した際の、事実上羽柴秀吉の傀儡となってしまった織田信長の次男織田信雄と羽柴秀吉との摩擦が遠因となっています。

 羽柴秀吉は先手を打って配下の蒲生氏郷に伊勢侵攻を命じ、信雄の家臣佐久間信栄がまもる峯城で攻城戦に発展、この際に織田信雄は犬山城の城主中川定成に伊勢救援を命じ、犬山城が戦力空白地帯となった事から、秀吉は次の一手を打ったことで事態急変へ。

 池田恒興、池田氏といえば姫路城ですけれどもこの時は大垣城主、秀吉は池田恒興に犬山侵攻を命じたのでした。いや歴史紐解けば池田恒興は犬山城を居城としていた時代がありまして、城郭の弱点構造を熟知している、それは後堅固という構造にありました。

 木曽川を挟んだ隣には鵜沼城が、当時すでに破却されたものの遺構がのこっていまして、狭隘地形ではあるものの戦いの時期が三月の渇水期であり、木曽川には砂州が形成されていた、池田恒興はこの砂州へ舟艇10隻を準備して夜間渡河を強行したのですね。

 天正12年こと1584年、織田信長の没後二年にして美濃と尾張の境界線は戦乱の地となったのですが、伊勢出兵中の中川定成は叔父の中川清蔵主を留守居役に置いていたものの、兵力不十分となり落城します。ただ、織田信雄と羽柴秀吉はのちに和睦している。

 犬山城は木曽川渡河点にあり、小牧長久手の戦いとして羽柴秀吉と徳川家康の全面衝突の懸念が生じた際には戦略要衝となりました、が、逆にやや南の小牧城を確保していた家康は巧みな戦術機動と行動秘匿に成功し、決戦へ持ち込むことに成功していまして。

 小牧長久手の戦いは小牧城に籠城している家康を決戦に誘引しようと秀吉が家康の根拠地駿河侵攻を開始した時点で既に家康が先んじて主力を有利な地形に小牧城から陣地変換し攻撃したことで秀吉の決戦兵力撃破に成功、膠着状態のまま痛み分けとなる。

 織田信雄と羽柴秀吉の和睦はその後なのですが、時代的には現存する天守閣はまさにこの時から、防衛強化の一環として造営を開始していたという時期的に一致するのです。そしてこの城郭は、関ケ原の戦いまで安寧の時間を過ごすことになるのですが。

 関ケ原の戦いでは、清須城主福島正則は東軍に、しかし岐阜城の織田秀信が西軍となり、当時の犬山城主石川定清は西軍につくこととなり、清須は、駅の位置を見ても判りますが、危険な突出部に取り残されることとなりました。織田秀信は犬山へ増援を送る。

 西軍は郡上八幡城主稲葉貞道と美濃黒野城主加藤貞泰そして美濃菩提山城主竹中重門らに犬山城防衛の増援を命じ7700名が籠城の準備を進めますが、逆に岐阜城が手薄となり福島正則は岐阜城攻めを敢行、この際に織田秀信は籠城せず野戦に打って出て負け。

 岐阜城落城とともに犬山城に詰めていた稲葉貞道と加藤貞泰そして竹中重門は、隠密裏に家康の家臣井伊直政や本田忠勝を通じて恭順の意思を表明、関ケ原の戦いその12日前に犬山城は開城する事となりました。あまりもの突然の情勢変化と言える。

 犬山城はこののち平穏な時代を過ごしている、いや、実のところこの急激な変化というものは指揮系統が不明確な時代故の関ケ原の戦い、小早川秀秋の行動を予見するような流れだとも思えるのですが、今も生きる城郭は何も語らず、生き証人として健在です。

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【京都発幕間旅情】犬山城,豊臣秀吉が羽柴秀吉だったころ木曽の畔に優美な城郭が造られ始めた

2024-07-03 20:00:21 | 旅行記
■信長の野望と戦の城塞
 犬山城の天守閣へといよいよ歩みを進めます。

 城郭の天守閣は戦艦の艦橋のようだ、とよく例えられるところでして実際に唐破風と多層の屋根などの構造物は、戦艦の艦橋構造物、複雑な形状ではあるけれども一つ一つに意味がある構造物、という点で不思議と一致します、戦闘用という点でもやはり同じ。

 戦艦の艦橋、こう例えるのですけれどもそれならば金剛型戦艦一つとって金剛に比叡と榛名に霧島、艦橋構造物の形状は細部が全く異なる訳です、そしてこれは開戦後竣工し終戦前に空母12隻の艦載機を相手に沈んだ戦艦大和でさえも、艦橋は変化があった。

 艦橋構造物と城郭天守閣、艦橋は電探なり機銃増設なり見張り台なり指揮所なり改修が加えられるのですが、そう、犬山城も唐破風など、見た目を優美に、という壊走が行われるようになったのは江戸時代に入って、成瀬氏が城主となった時代のことではある。

 攻城戦、犬山城は優美ではあるのですが相応に実戦を重ねています。いや実は天守閣造営の時期は判別されているのですが、ここに城郭を造営されて後ずいぶん経ってから天守閣が造営されているわけでして、史実を見ますと前後する、その実戦を見てみよう。

 永禄年間の戦い、記録されている限り犬山城が築城の後に最初に実戦に投入されたのは永禄8年こと西暦1565年のことで、此処を攻めたのは尾張の英雄、小学生でも知っている、アニメにもよく出てくる、異世界にも最近行く、あの、織田信長でありまして。

 信長の野望、が始まる少し前なのですが当時の犬山城主は織田信清、実父織田信康が犬山城主であったために世襲として城主を継いだのですが、織田信長の岩倉城攻めが成功しますと、岩倉、名鉄岩倉駅が犬山駅から15分くらいのところに在って友人も家建てた。

 岩倉城攻めが成功しますと、この際の領地分配をめぐり織田信清は信長と対立、ここに永禄年間犬山城攻城戦が始まります。この戦いは信長から見ますと実は従兄弟とのたたじゃうであるのですが、この際に信清は美濃の斎藤氏を頼るものの呆気なく落城へ。

 斎藤氏と織田氏の対立の萌芽はもう少し前なのですが、この際の犬山城攻めは資料が残っておらず、特に城郭がどのような構造となっていたのかも不明です、ただ同時、三光寺山という、岐阜県へもう少し下流に橋梁が掛かっている当たりに廓があったとも。

 三光寺山は、こここそがもともとの犬山城ともいわれるのですが、天守閣から木曽川を望みますと、確かにここを抑えなければ美濃と尾張の境界線であり、隠密裏に美濃から渡河された場合には三光寺山は死角となるため、先制確保する必要がある地形という。

 織田信長の時代はこうした一度の戦いこそありましたが、そののちに犬山城は平穏無事、まあ城主は大変であったことは理解するものの庶民農民市民には安泰な時代と言えるのかもしれません、このあたりが騒がしくなりますのは豊臣秀吉の時代なのですから。

 豊臣秀吉が羽柴秀吉だったころ、と書き出すと仮面の忍者赤影のような響きになってしまうのですが、このころ急速に勢力を増す秀吉と、既に本能寺に散った織田信長の生前からの盟友、徳川家康との対立が先鋭化し、犬山城も俄かに慌ただしくなってゆく。

 賤ケ岳の戦い、これはお隣滋賀県は近江の湖北の戦いですが、織田信雄、織田信長の次男が尾張と伊勢に伊賀を継ぐこととなりまして、この際に犬山城は再び戦乱の時代にあって、木曽川河畔において美濃ににらみを利かせる戦略上の要衝となってゆきます。

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