■二年目のコロナ禍を越えて
東日本大震災十周年と二年目のコロナ禍が続きましたが大晦日を今年も無事迎える事が出来ました。

COVID-19との戦いに明け暮れたともいえる2021年もいよいよ大晦日、みなさま如何お過ごしでしょうか。世界はオミクロン株の大津波とさえ評される規模の感染拡大に曝され、また膨大な死者数を重ねた諸国では戦々恐々という状況が続いています。2020年のコロナ禍は2021年内に終息を踏んでいましたが、来たのは変異株の集束、クラスターでした。

日本はうまくやっている、実のところこの認識です。いや2021年夏の感染拡大は、コロナウィルスが季節性感染症であり冬の乾燥した空気とともに拡大する感染症であることを考えますと、いよいよ観念というものを考えさせられたものだと正直に白状します、しかし、驚いた事ですが、東京五輪とパラリンピックの閉幕とともに嘘のように感染は縮小します。

オリンピックとともに縮小した感染、これは一日100万接種という、当初は無謀とさえいわれた全国規模のワクチン接種躍進により物理的に追い込んだ構図が一つ挙げられるのと、もう一つは、単一民族国家、こう揶揄さえされるほど防災や平和と人命尊重への基本的な価値観の共有が、感染対策としての自粛で不思議な程に、一致した点が挙げられましょう。

オミクロン株、この出現さえなければ、2022年はもう少し安穏として、例えば九州や東京にくらいは物見遊山や買い物に出かけられたほどに収束していたのではないかとおもいました。もちろん水際対策があっての前提ですが。そして現在も重ねて厳重を極めすぎた水際対策、WHO世界保健機関から行き過ぎを指摘された水際対策は一定の効果がありました。

感染対策の勝利、いまはまだ暫定的なものですが、2020年も2021年も、人口一億あたりの年間死者数は一万を越えていません、この勝利といえる状況はどのようなものがあるのでしょうか。不思議と日本の感染対策は自粛頼り、都市封鎖やマスク着用法的義務、ワクチン強制接種や強制入院措置を執らずして、感染抑制は何故かなんとかなっているという。

強権国家への変貌。実のところCOVID-19による感染拡大は脅威でしたが、これを機に日本が強権国家へ変貌する事への支持、感染対策を考えれば強権を国家に付託する必要へと追い込まれる構造が醸成されることを危惧していました、もっとも、COVID-19は致死率2%という、数字で50名の感染者の内5名が重症化し1名が死亡する危険なものでしたが。

国家が必要な決断を結果へとつなげる際に、もちろん強権というものはある程度必要だとは認識しています、しかしそのためには準備と議論を積むべきものであり、拙速よりも決断を重視し、ともすれば1925年治安維持法のような法整備を、政府が行うのではなく国民がこれ以外手段のない状態へ追い込まれ、厳しい措置が法整備される可能性もありました。

結果としては強権でない故に成功した部分がある。諸外国の封鎖措置や強制隔離と移動制限は、結果として反発を招き、ミニマムアクセスというべき、政府が規制しているが厳しい規制の中で許されることは最大限行うという主権者の刹那的とさえいえる反発、これが拡大の下地を醸成し、却って感染拡大の温床を醸成したように思える。日本と逆に。

自粛主体の強制措置は、ある意味で強制力は持たないが、ここに自己責任論、感染対策の主役は国民一人一人なのだという変な国民主権主義を強い、飲食店店主や事業所長や経営者一人一人にアメリカのCDC長官並の権限を授権させたことは、却って日本全体での感染対策に成功したといえるのかもしれません。それも初期の感染抑制という成果所以ですが。

500万以上の死者。世界をみますと日本の成功は例外的です、辛い犠牲。実のところ単一民族国家という揶揄は、民族学的には誤りであっても、空気を読める人間の社会総体という意味でみれば、日本の成功に繋がったのかもしれません。それほどに大規模な感染拡大を、経済的に制御可能な余地がありながら許した諸国の構図には散見できるよう思うのです。

政治は権力を欲するという性悪説ではなく、国民の支持により成り立つ性善説に依拠してなお、その国民を守るためには強権を発動するほか内として、民主国家であり自由な諸国であった西欧や北米の諸国家が、並ぶようにコロナ対策の名の下に強権を発動し、しかしかえって逆効果である様子は、海外報道に偽り無く示されています。悲劇的とさえ云えた。

有事法制。実のところ日本は危機に曝されていない状況での危機管理への議論に政治的禁忌というほどではありませんが冷淡といいますか消極的な部分があります。実は危機管理というものは余裕のある平時にこそ研究すべき命題なのですが、先読みの拙さか果たして建前本音の論争は平時に抜けられないのか、モラトリアム主義なのか、まだわかりません。

緊急事態法制というものはこうした時節に討議すべき命題であったのかもしれませんが、これに準じて超法規的措置というものを制度、こちらは官僚機構が、嫌うためにどうしても場当たり的な特別措置法が制定されるか、有事の際を想定していない平時的な有事法制を整備するにとどめる、ある種の悪弊があります。危機に際して急に整備するのだから。

危機に際しては、平時にないのであれば場当たり的な特別措置法が取って代わるものですが、何しろ緊急立法措置に近いものを強いられ、そしてもともと必要なものが存在しなかった故に制定されるために特別措置法が後の法整備への基礎として存続してしまいます。この構図が、COVID-19に際しても踏襲されることを実は懸念していたのが率直な印象だ。

緊急事態法制は必要なものであっても、場当たり的に制定されてしまっては、それこそ現行憲法下に連綿と構築してきました戦後日本での価値観の基盤が破綻してしまいます、そして自粛という強制措置を有さない緊急事態宣言が昨年発令された際、その危機が具現化しつつあるのではないかという懸念が実のところあり、それは今年の夏も同じでした、が。

幸いにしてこの懸念は杞憂ともなりました。ただ、これが新しいモラトリアムの続きとなったのが現状です。このままでは良いとも思わないのですが、強権主義への行き過ぎと反発という、不可逆的な価値観の総転に繋がらなかったことは僥倖でもあり、だからこそ落ち着いた緊急事態法制への広い議論というものに繋がれば、とも緩く期待する次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
東日本大震災十周年と二年目のコロナ禍が続きましたが大晦日を今年も無事迎える事が出来ました。

COVID-19との戦いに明け暮れたともいえる2021年もいよいよ大晦日、みなさま如何お過ごしでしょうか。世界はオミクロン株の大津波とさえ評される規模の感染拡大に曝され、また膨大な死者数を重ねた諸国では戦々恐々という状況が続いています。2020年のコロナ禍は2021年内に終息を踏んでいましたが、来たのは変異株の集束、クラスターでした。

日本はうまくやっている、実のところこの認識です。いや2021年夏の感染拡大は、コロナウィルスが季節性感染症であり冬の乾燥した空気とともに拡大する感染症であることを考えますと、いよいよ観念というものを考えさせられたものだと正直に白状します、しかし、驚いた事ですが、東京五輪とパラリンピックの閉幕とともに嘘のように感染は縮小します。

オリンピックとともに縮小した感染、これは一日100万接種という、当初は無謀とさえいわれた全国規模のワクチン接種躍進により物理的に追い込んだ構図が一つ挙げられるのと、もう一つは、単一民族国家、こう揶揄さえされるほど防災や平和と人命尊重への基本的な価値観の共有が、感染対策としての自粛で不思議な程に、一致した点が挙げられましょう。

オミクロン株、この出現さえなければ、2022年はもう少し安穏として、例えば九州や東京にくらいは物見遊山や買い物に出かけられたほどに収束していたのではないかとおもいました。もちろん水際対策があっての前提ですが。そして現在も重ねて厳重を極めすぎた水際対策、WHO世界保健機関から行き過ぎを指摘された水際対策は一定の効果がありました。

感染対策の勝利、いまはまだ暫定的なものですが、2020年も2021年も、人口一億あたりの年間死者数は一万を越えていません、この勝利といえる状況はどのようなものがあるのでしょうか。不思議と日本の感染対策は自粛頼り、都市封鎖やマスク着用法的義務、ワクチン強制接種や強制入院措置を執らずして、感染抑制は何故かなんとかなっているという。

強権国家への変貌。実のところCOVID-19による感染拡大は脅威でしたが、これを機に日本が強権国家へ変貌する事への支持、感染対策を考えれば強権を国家に付託する必要へと追い込まれる構造が醸成されることを危惧していました、もっとも、COVID-19は致死率2%という、数字で50名の感染者の内5名が重症化し1名が死亡する危険なものでしたが。

国家が必要な決断を結果へとつなげる際に、もちろん強権というものはある程度必要だとは認識しています、しかしそのためには準備と議論を積むべきものであり、拙速よりも決断を重視し、ともすれば1925年治安維持法のような法整備を、政府が行うのではなく国民がこれ以外手段のない状態へ追い込まれ、厳しい措置が法整備される可能性もありました。

結果としては強権でない故に成功した部分がある。諸外国の封鎖措置や強制隔離と移動制限は、結果として反発を招き、ミニマムアクセスというべき、政府が規制しているが厳しい規制の中で許されることは最大限行うという主権者の刹那的とさえいえる反発、これが拡大の下地を醸成し、却って感染拡大の温床を醸成したように思える。日本と逆に。

自粛主体の強制措置は、ある意味で強制力は持たないが、ここに自己責任論、感染対策の主役は国民一人一人なのだという変な国民主権主義を強い、飲食店店主や事業所長や経営者一人一人にアメリカのCDC長官並の権限を授権させたことは、却って日本全体での感染対策に成功したといえるのかもしれません。それも初期の感染抑制という成果所以ですが。

500万以上の死者。世界をみますと日本の成功は例外的です、辛い犠牲。実のところ単一民族国家という揶揄は、民族学的には誤りであっても、空気を読める人間の社会総体という意味でみれば、日本の成功に繋がったのかもしれません。それほどに大規模な感染拡大を、経済的に制御可能な余地がありながら許した諸国の構図には散見できるよう思うのです。

政治は権力を欲するという性悪説ではなく、国民の支持により成り立つ性善説に依拠してなお、その国民を守るためには強権を発動するほか内として、民主国家であり自由な諸国であった西欧や北米の諸国家が、並ぶようにコロナ対策の名の下に強権を発動し、しかしかえって逆効果である様子は、海外報道に偽り無く示されています。悲劇的とさえ云えた。

有事法制。実のところ日本は危機に曝されていない状況での危機管理への議論に政治的禁忌というほどではありませんが冷淡といいますか消極的な部分があります。実は危機管理というものは余裕のある平時にこそ研究すべき命題なのですが、先読みの拙さか果たして建前本音の論争は平時に抜けられないのか、モラトリアム主義なのか、まだわかりません。

緊急事態法制というものはこうした時節に討議すべき命題であったのかもしれませんが、これに準じて超法規的措置というものを制度、こちらは官僚機構が、嫌うためにどうしても場当たり的な特別措置法が制定されるか、有事の際を想定していない平時的な有事法制を整備するにとどめる、ある種の悪弊があります。危機に際して急に整備するのだから。

危機に際しては、平時にないのであれば場当たり的な特別措置法が取って代わるものですが、何しろ緊急立法措置に近いものを強いられ、そしてもともと必要なものが存在しなかった故に制定されるために特別措置法が後の法整備への基礎として存続してしまいます。この構図が、COVID-19に際しても踏襲されることを実は懸念していたのが率直な印象だ。

緊急事態法制は必要なものであっても、場当たり的に制定されてしまっては、それこそ現行憲法下に連綿と構築してきました戦後日本での価値観の基盤が破綻してしまいます、そして自粛という強制措置を有さない緊急事態宣言が昨年発令された際、その危機が具現化しつつあるのではないかという懸念が実のところあり、それは今年の夏も同じでした、が。

幸いにしてこの懸念は杞憂ともなりました。ただ、これが新しいモラトリアムの続きとなったのが現状です。このままでは良いとも思わないのですが、強権主義への行き過ぎと反発という、不可逆的な価値観の総転に繋がらなかったことは僥倖でもあり、だからこそ落ち着いた緊急事態法制への広い議論というものに繋がれば、とも緩く期待する次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
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