◆説明と関心喚起する長期的な努力が必要
集団的自衛権論争について、メディアを中心に様々な論点が提示されていますが、本日はこの点について一つ。
批判的に扱うメディアを中心に、読者や視聴者の声、として世論を伝える体裁を採り、実のところ誤解に依拠する視点からの不安の声を扱い、不安を不安で積み重ね、その視点に依拠した世論調査を行うことで反対論が多いとの数値を構築し、他方で不安の声の背景が必ずしも議論に必要な共有知に依拠せず論争に利用されている印象があります。
日本が集団的自衛権を認める事で戦争に巻き込まれるとの視点がその最たるものですが、集団的自衛権とは本来自衛権を個別的と集団的へと分化したことで生じた概念であり、放置すれば我が国周辺事態が日本本土へ拡大するという前提の議論ということが踏まえられていません。
無理解と無関心の循環が積層化し誤解を生む、という状況に陥っているのであり、そもそも自衛権の概念、我が国周辺状況の実情について、十分な知識に依拠するのではなく、主観的な印象からの反対論が多く紹介されているにすぎません。無論、全ての投書などが紹介されているわけではなく、その選定に恣意的な要素が入る事は致し方ないことなのですけれども。
特に集団的自衛権論争については、個別的自衛権と集団的自衛権を区分しているとの前提での後者のみの批判や反対論に対しては代案が個別的自衛権行使主体たる我が国防衛力の抜本的強化、という選択肢が代案に挙げられるのですが、こうした論点に繋がる事へは、議論よりも無関心が先行しています。
防衛に関する無関心は、戦後のかなり長期間継続した、軍事に関する知識は有害、戦争への備えを考える事が戦争を招く、とした一種の価値観、原子力災害以前の原子力事故対処と似たものが継続されてきたため、致し方ないことではあるのですが、これが現状の無理解と無関心の循環が積層化し誤解を生む実情に繋がってきました。
ただ、無関心が最良の結果をもたらすのか、と言いますと、先ほど防衛と原子力政策を比較し類似点を示しましたが、やはり主権者が判断する上で必要な知識への関与をどう進めるか、この点は考える必要があります、主権者としても為政者としても。
無関心の最大の背景は、自身が当事者たる可能性を否定しているところに起因するのではないでしょうか、防災に関しては自身が当事者となった瞬間に大きな意識転換に至っています、故に、防衛問題についても自身が当事者となる可能性への認識が必要になるのですけれども、実際に当事者になってからでは遅すぎます。
この点について、我が国の教育水準を考えますと例えば自衛権について、これを拒否するだけで戦争を回避できるかと問われれば、義務教育で触れられる日中戦争や太平洋戦争が、攻められた側に戦争回避努力の義務を怠っていたのか、と問われた際に示される回答でかなりの部分、理解されるともおもうのですが。
しかし、この点を強調しすぎますと危機感を煽るとして批判されます、福島第一原発事故以前の原子力防災訓練が同様な理由から反対されていますから、同様の視点から考えられるでしょう。故に短期的に解決できる命題ではなく、余り時間的猶予は無いのですが長期的な関心の喚起を為政者と主権者は努力するべきでしょう。