北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

エアフェスタ浜松2006 航空自衛隊発祥の地へ

2006-11-30 16:16:17 | 航空自衛隊 装備名鑑

■浜松基地航空祭

 浜松基地は1954年7月1日の「発足記念式典」が行われたことから航空自衛隊発祥の地として知られる。

Photo_185  2006年11月29日、航空自衛隊浜松基地において、恒例のエアフェスタ浜松2006が開催された。航空自衛隊発足記念行事とともに最初の航空団が置かれた浜松基地は、入間基地に次いで航空自衛隊第二の規模を誇る航空基地であり、航空教育集団司令部が置かれる他、第一航空団、警戒航空隊、第一術科学校、第二術科学校、高射教導隊、教材整備隊、浜松救難隊が置かれ、2600名の隊員が勤務。加えて毎年最盛期で800名の隊員が、基地内の学校において訓練を実施する。

Photo_196  本年は、航空自衛隊最初の航空団である第一航空団が1956年10月(航空団自体は55年12月に発足、56年は改称された年に当たる)に編成されてより50周年を迎えたこともあり、その特別塗装機が展示されることもあり、この他なにかしらの特別飛行展示が行われることに期待をこめて、展開した。なお、同日には明野駐屯地祭が開催されており、いつもお世話になっているC.ジョニー氏一行はそちらにむかっていた。残念ながら特別な飛行展示は行われなかったが今回はその様子を写真にてお伝えしたい。

F2  私事ながら、浜松基地は小生からは少し遠いという印象があり、当日の天気予報は雨、それもかなり激しいという予報であった。従って相応の防滴装備と防水性がやや優れたコンパクトデジカメ主体の装備にて馳せ参じた。しかしながら、天候は快晴。一足先に関東から展開したShin氏にやや遅れ合流したものの、浜松基地は浜松駅よりやや遠く・・・、まあ、つまりその何だ、僕が遅れたんだ。F-2の飛行展示はバス車内から撮る羽目に、AWACSの飛行展示も既に終了という状況での展開となった。

Img_1685   浜松市内は渋滞しており、シャトルバスによる輸送は困難を極めた。航空自衛隊という国の機関の広報行事なわけだし大規模な交通規制を引ければよいのだが、基地に到着した頃には既に救難飛行展示が開始されていた。写真はMU-2救難機で、1967年より運用が開始された。三菱重工が開発したビジネス機MU-2Sを航空自衛隊用に転用したもので、飛行中に物資投下などを可能としたスライドドアや下方視認性を高めたバブルキャノピーなどを装備している。

Img_1682

 MU-2は30機が導入され航空救難任務の最前線にあったが、しかし1992年より導入が開始されたU-125救難機との代替が進み、航空祭が行われた時点では3機にまで減少しており、間もなくその任務を終えることとなる。MU-2が導入されるまでは、墜落事故に際しては僚機による誘導やT-6単発練習機などが捜索に充てられていたが、このMU-2により捜索能力は大きく向上した。また、LR-1連絡偵察機として陸上自衛隊でも運用される本機は海外での販売も成功した戦後数少ない日本製傑作機である。

Img_1696  連携するV-107救難ヘリコプター。39機が導入され運用されたが、順次夜間飛行能力と荒天時の安全性を高めたUH-60JAに交代が進み、浜松救難隊と新潟救難隊に配備されるのみとなった。特に、MU-2とV-107による飛行展示はいよいよ見納めというべき時期にあり、小生も観艦式本番のチケットという誘いを辞退した(まあ、土曜日の豊川駐屯地祭という理由もあるが)くらいに撮影したかったものなのである。

Photo_186  救難展示が一段落したので地上展示機を見て回ることとする。松島基地より飛来したブルーインパルス。しかし、実はこの部隊ももとは浜松基地にて発足したことは余り知られていない。1960年8月に第一航空団第二飛行隊内にF-86戦闘機を用いて発足した戦技研究班は、東京オリンピックなどの晴れの場において活動を重ね、航空自衛隊の広報に計り知れない効果をもたらした。ブルーインパルスの向こうには小牧基地より飛来したC-130Hの巨大な尾翼が見える。

Photo_187  航空教育集団司令部が置かれる浜松基地に関して、特に航空自衛隊の教育や職種について此処で改めて説明したい。

 陸上自衛隊の普通科や特科、施設科と同じく航空自衛隊にも幹部で24、曹士で29の職種があり、幹部自衛官で、指揮幕僚・飛行・航空管制・要撃管理・高射・プログラム・情報・気象・通信・電気・武装・整備・施設・輸送・補給・生産調達・会計・監理・総務・人事・教育・警備・研究開発・衛生・音楽の職種に分かれている。

Photo_188

 曹士では、情報・気象・警戒管制・高射通信・高射整備・無線レーダー整備・武装整備・地上訓練機整備・有線器材整備・航空機装備品整備・航空機整備・武器弾薬・車輌整備・工作・施設・消防・輸送・補給・給養・会計・計算機・印刷・総務・人事・教育訓練・警備・衛生・救難・音楽に分かれている。

 これら専門職種の隊員を養成するのが航空教育集団の任務である。

Photo_189  航空教育集団の隷下には第一航空団(浜松基地)、第四航空団(松島基地)、第十一飛行教育団(静浜基地)、第十二飛行教育団(防府北基地)、第十三飛行教育団(芦屋基地)、航空教育隊(防府南基地・熊谷基地)、幹部候補生学校(奈良基地)、教材整備隊(浜松基地)、第一術科学校(浜松基地)、第二術科学校(浜松基地)、第三術科学校(芦屋基地)、第四術科学校(熊谷基地)、第五術科学校(小牧基地)がある。これとは別に航空総隊隷下の教導高射群が浜松基地に展開していることも特筆しておきたい。

Fa18  防衛大学校出身若しくは一般大学出身の一般幹部候補生枠合格者は奈良の幹部候補生学校において前者は22週間(既習者扱いということだろう)、後者は43週間の教育を受け、部隊着任後も幹部術科過程や幹部普通過程などを受け、3佐になると指揮幕僚過程(CS)を受験し、将来の上級指揮官への道へ進む、この中から幹部上級過程(AGS)へと進む。AGSの研究は小生も前に聴講させてもらったが、かなり具体的な命題に取り組んでおり、さすがはエリートと感銘を受けたものである。

Photo_190  一般隊員は、防府南基地の第一教育群か熊谷基地の第二教育群において12週間の新隊員過程を受けた後、1から5の術科学校に適性に応じ入学し専門的な教育を受ける。この浜松にある第一術科学校では航空機整備、装備品整備、写真・工作、飛行訓練機整備、武器・弾薬・武装、航空機用無線整備、動力器材整備を教育し、第二術科学校では高射ミサイル整備、無線レーダー整備、高射発射・管制を教育している。これを初級特技員過程といい、部隊着任後には空曹試験合格後の初任空曹過程、上級特技員過程や術科特修過程などがある。

Photo_191 浜松基地といえば実際に飛行機を飛ばす第一航空団の第32飛行隊や第31飛行隊を連想するが、以上のような教育訓練の目的で多数の航空機を保有しており、そのバリエーションは評価試験を行う飛行開発実験団に匹敵する。

 また、近傍にプロペラ式の初等練習機を運用する静浜基地があり、今年度中に全機退役が見込まれているT-3練習機と、新型のT-7練習機などが飛来し、装備品展示に銀翼を連ねていた。

Img_1711  写真は、浜松基地を象徴する写真で、手前にはT-4中等練習機、そして奥には警戒航空隊のE-767早期警戒管制機、更に向こうには第二術科学校が用いる整備用のレーダードームと思しきものが写っている。E-767は、1998年より四機が導入された早期警戒管制機で、これにより要撃戦闘の一層の効率化が可能となった。冷戦終結後は不要と云われた本機は、近年の周辺諸国軍拡に対する抑止力として機能している。

Img_1929  地上では、静浜基地より飛来(?)したT-3ジュニア・T-7ジュニアの飛行展示(?)が行われていた。何でもT-3練習機の今年度内の全機用途廃止に合わせ、T-3ジュニアも全て退役するそうで、今年度のエアフェスタ浜松はT-7ジュニアとの共演であるとともに、T-3ジュニアのラストフライト(?)でもあったわけである。この機体だけは平日に滑走路脇でみることはまず出来ないだけに貴重な機会を一目見ようと黒山の人だかりとなった。

Photo_195  格納庫内ではエンジンのカットモデルを用いた装備品展示が行われ部品はいくつあるの?とか、整備は難しいですか?という市民からの質問に丁寧に隊員が答えていた。中には戦時中に航空機整備をしていたとか、OBの方もみえたようで、T-33のエンジンとの比較を隊員と談話する姿もあった。写真はT-4のエンジンだが、この他巨大なE-767用エンジンもこちらはカットモデルではなく実物だが展示され、更にサイドワインダーやスパロー、AAM-3といったミサイルや救難装備品も並べられていた。

Img_1741  さて、地上展示機をざっと見回した後の頃合でT-4練習機が次々と離陸を始め、大空へ舞ってゆく。

 T-4は、それまでの複雑な練習過程を一気に効率化した航空機で、T-7初等練習機、T-4中等練習機と、実戦部隊への機種転換という三段階に集約したことで、T-33、T-1、T-2などが混在していたいままでは練習機ごとの機種転換までが必要だったのと比べ非常に分かりやすい体制になっている。

Img_1723  T-4練習機はT-33練習機の老朽化を契機に開発されたもので、設計は戦時中であったF-80(P-80)の複座練習型であるT-33から一気に近代的な後退翼のジェット練習機に近代化したわけである。

 1981年5月に防衛庁より要求水準が提出され、富士重工、川崎重工、三菱重工が応じ、この中から川崎重工案が採用、1985年7月29日に初号機が初飛行を果たし、航空自衛隊の主力練習機となった。

Img_1704  特筆するべきは、国産ジェットエンジンと国産機体の組み合わせというT-1練習機以来の試み(T-2のエンジンは英ロールスロイス社製アドゥーア)で、石川島播磨重工の開発したターボファンエンジンを二基搭載している。

 容易な操縦性と、当時は超音速のT-2練習機に素早く移行するための高速性能としてマッハ0.9が要求され、空対空戦闘の訓練から曲技飛行に対応するだけの汎用性の高い航空機である。

Img_1765  T-4についてこの他のデータを述べると航続距離は1300km、エンジンの正式名称はF-3-IHI-30といい、推力は一基あたり1670kg、機体は炭素系複合素材を用いており、この開発で培われた技術はF-2支援戦闘機の一体複合材主翼に活かされている。

 地上配置となったパイロットの操縦技量維持にも用いられる本機は戦闘機部隊にも配備されている。

Img_1758  こうした多用途性の高い本機は2003年3月6日の芦屋基地配備分を以て生産終了となったが、約220機が配備されている。

 なお、余談だが銃器評論家である床井雅美氏の著書「最新軍用機図鑑」では、兵装搭載量1400kgと書かれているが、例えば江畑謙介氏の著書でも本機の火力支援型も当初検討されたといい、簡易式FCSとIRSTを搭載すれば自衛用の短距離AAMを搭載しロケットポットやガンポッド、500ポンド爆弾などを運用することも出来るかもしれない。

Awacs  滑走路に向かい、早期警戒管制機E-767の上空を飛ぶT-4の四機編隊。E-767は1998年3月25日に早期警戒管制機実用試験隊として浜松基地に二機が配備され、更に二機の導入を待って第601飛行隊第二飛行班を編成している。現代航空戦闘では、脅威目標を策定し脅威度の高い目標に自動・半自動にて指示を与え要撃戦闘を行うAWACSの重要性は高く、E-737やE-2Cといった早期警戒機よりも優れた機能を有する本機により航空自衛隊の能力は大きく向上した。

Photo_192  飛行展示を終了し、続々と着陸した後にエプロン前方に整列するT-4。こうしてみるとかなりの数である。

 機体の傍から任務を終えたパイロットが一列に歩き、整備車輌や整備員が飛行を終えた機体の整備に掛かっている。実は、こうした整備車輌などを多く保有する航空自衛隊は、人員で陸上自衛隊の三分の一ほどながら、陸上自衛隊よりも多くの車輌を保有している。

Photo_193  気がつくと滑走路反対側にも多くのT-4練習機が置かれている。

 第一航空団だけで50機ほどのT-4練習機を保有しているが、この写真にある機体は、第一術科学校の整備教材なのか、それとも第一航空団の機体か、はたまたメーカーに定期整備に送られる機体なのかは不明であるが、これもかなりの数である。ズームしている為少なく見えるが、実際にはもう少し左右に散らばっている。

Photo_194  整備が終了し、車両が撤収。一列に並んだT-4練習機がクリアにみえる。練習機とはいえ、これだけ並ぶと中々壮観である。もともと浜松基地は浜松南基地と浜松北基地が1989年3月に統合されたこともあり、駐車場エリアとして用いられる北エリアと、エプロンと公開地区のある南エリアがあるが、逆光のエプロンを避け、北側エリアで順光状況で撮影する人も多い。しかし、北側や、隣接する浜松広報館エアパークからこの列機は見えないので位置選択は慎重に行う必要がある。

Img_1843  民間アクロバットチーム、エアロックが飛行展示を開始する。複葉機ならではの華麗なフライトである。

 浜松基地は1933年に完成した旧陸軍飛行場がその始まりであるから、形式は異なれ昔は複葉機が翼を並べていたのだろう。その後重爆撃機の飛行場となり敗戦を迎える、米軍の不時着飛行場を経て航空自衛隊発足の場となったわけである。

Img_1899_1  飛行展示を終了し、機体を降りたタックネーム、サニーこと横山氏。民間にアクロバット!?と思われる方もいるかもしれないが、元航空自衛隊F-15Jパイロットであった岩崎貴弘2佐が退職後アメリカにて曲技飛行の専門学校を修了、その後エアロックを立ち上げたもので、横山氏の方を向いている安全係の航空自衛官の前をこちらに歩いてくる様子が印象的な一枚である。他方、複葉機ピッツに比べ、その向こうのE-2C早期警戒機の大きさも印象深い一枚だ。

Awacst4  航空祭の締めというべきか、最後の飛行展示であるブルーインパルス曲技飛行へむけ、航空機が誘導路を前進してゆく。

 地上展示機の列の後ろを前進してゆく様子が見える。小生は滑走路の端より撮影していた為、写真のような望遠を用いた圧縮効果を活かした撮影が出来る。こうした写真は前述の北側からでも可能かもしれないが、滑走路の端の周回道路は大回りになるため、ここに拠点を固めた次第だ。

Photo_197  T-4列機の前をすすむブルーインパルスのT-4。

 ブルーインパルスは、F-86、T-2、そして現在のT-4へと世代を代えていったが、この内F-86は浜松基地に置かれており、戦技研究を目的として1960年8月に編成されて以来、1981年2月の解散まで、545回の展示飛行を実施している。かつては、練習機にT-33、ブルーインパルスがF-86を運用していたが今日では双方がT-4となっている。

Photo_198  ブルーインパルスについては、小松基地航空祭や岐阜基地航空祭に際しての北大路機関掲載記事に多くを書いているため、これ以上各琴は少ないがF-86当時のことについて少し触れておきたい。

 当時は四機編隊とソロ飛行の一機、合計五機により編成されており、飛行種目は16種目であった。公式飛行展示は浜松基地において基地隊員の見守る中1960年3月4日に初飛行を展示した。

Photo_200  この後、航空幕僚長命令により空中機動技術研究班として4月16日に正式に発足するが、これに先立つ3月19日には防衛大学校卒業式、4月12日には航空幕僚長視察として飛行を実施している。

 選定されたF-86は、曲技飛行に不要だが実戦機には必要な機銃精度が低いことと、空中分解の危険性を内包するオーバーG(過剰加重)の掛かっていない航空機が選ばれたという。

Photo_201  5月12日の五回目の飛行では、ジョンソン航空基地(現航空自衛隊入間基地)においてスモークを用いた飛行展示が初披露された。

 余談ながら、当初は飛行隊名は“天竜”という静岡県天竜川からの名前を用いたが、語呂が悪いという通信時の不調から、当時のコールサイン“インパルスブルー”が採用され、ブルーインパルスとなった。この年だけで13回の飛行展示を実施し、その名は急速に知名度を上げ、今日に至るわけである。

Photo_202  以上がエアフェスタ浜松、浜松基地航空祭の概要である。浜松駅からのシャトルバスはそれなりの本数が運行されているもののそれ以上に観客が来る為、早めの行動をお勧めしたい。今年度は一定の駐車場が確保されていたが、市内の交通渋滞を考えるとこちらも早めの行動が必要であろう。雨天を想定した為装備不充分な写真で恐縮だが、皆さんも来年度、是非展開を検討されてみてはいかがであろうか。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北野天満宮 和魂漢才のこころと共に

2006-11-27 19:52:38 | 写真

■菅原道真を祀る北野天満宮

 米軍再編に関するプレゼンテーションを終え、この後特段用事がない事もあり、天候は晴れ、小生は一足早く共同研究室を出ると久方ぶりに北野天満宮へと足を進めた。

Photo_176  和魂漢才の精神で学問に邁進し、平安時代に大きな足跡を残した菅原道真を祀る北野天満宮は、学問の神様と信仰をあつめ、特に大学受験生の参拝者が絶えないという。何となれ、講義室に北野天満宮の写真を貼って授業したいという知人の要請もあり(何でも某大手K塾では年末に徹夜講義をやる名物講師もいる)、一つ、銀杏も程よい彩を添え、また、初詣案内の掲載を北大路機関に載せる事もできると、撮影を快諾したこともあり、小生は北野へ向かった。

Photo_177  北野天満宮は、今出川通りの端にあり、昨日掲載した銀閣寺前の今出川通りを二時間ほど西へ進めば到達する。バスでは北野天満宮前、若しくは205系統バスでは北野白梅町にて降車し、十分ほど歩くと到着する。写真は大鳥居で、この境内には少数ではあるが駐車場がある。無料であるが、台数が限られているので初詣の際には駐車場は期待しない方が良いかもしれない。今出川通りからはこの大鳥居が目印になる他、北野天満宮と大書されており、迷うことは無い。

Photo_178  参道を進む。丁度25日縁日の前日であることから、出店の準備が進められている。祭神の菅原道真は京都より九州大宰府に左遷され、無実の罪を晴らすことなく903年2月25日に死去したことから、毎月25日が縁日となっており、境内はもとより東門、北門の通りでも様々な出店が出され、お馴染のフランクフルトやタコ焼き、ヤキソバにチョコバナナから、果ては骨董品(?)やリサイクル品、謎の品々まで並ぶ興味引き立てる内容である。

Photo_179  東門を望む。この他、絵馬所や宝物殿などが広大な面積の境内に並び、高い木々に囲まれた静かな境内は百万都市京都が歴史都市であることを印象付ける環境である。此処に祀られる菅原道真は五歳で和歌を、十一歳で漢詩を詠み、十四歳では天才と賞賛された。当時は十代半ばにて婚姻の契りを結んだというので、学究に勤しむ時の猶予は短かった訳だが、それでも学びを怠らなかった彼は、平安・鎌倉・室町から今に至るまで信仰を集める所以となった。

Photo_180  荘厳な檜皮葺造りの三光門をくぐり、いよいよ本殿に向かう。そこには天満宮と大書されている。

 北野天満宮は梅の名所としても知られ、2月25日の梅花祭には42本の白梅、33本の紅梅の小枝を差した玄米の紙立が供えられる。また、豊臣秀吉が此処で行った大茶湯の伝統が生きており、今なお献茶祭が行われるという。近年では伝統芸能発祥の地として知られ、落語発祥の地といわれている。

Photo_181  本殿、1603年に建立されたもので、国宝指定を受けている。ここには祈祷所もあり、受験生が合格祈願を受けているが料金は掲示を見ると一律ではなく、これは私立と国立で分けるのか、本命と滑り止めで祈祷料金を考えるか、一浪二浪で決めるのかは定かではない。もしかしてこんなところでも格差社会か、阪大の楽観的な労働経済学者のジニ係数解説トリックを看破するほどには統計を読んでいる小生は、ふとそんなことを考えてしまった。

Photo_182  賽銭を投じて柏手を二回、そして鈴を鳴らす。記憶を辿れば恐らく正式な神道の参拝様式ではないが、まあ、そんなことはお気になさらず。鈴を鳴らすとその姿が鏡に映るようになっており、ここに真摯に手を合わせる真剣な表情の受験生の心は如何に。小生の大学受験などかなり前の思い出だが、当時の勉学は、後の専攻である国際行政学の基礎を培った。そのことを思うと模試に一喜一憂した時代を懐かしく想う。

Photo_183  本殿より地主社をみる。

 紅い社に黄色く彩りを添えた銀杏が美しい。門をくぐった正面に本殿を配置するのが普通だが、ここ北野天満宮では地主社を正面とするためにやや左よりの配置となっているのがここの一つの特色となっている。というのも、北野天満宮建立に先立つ836年に、地主社が既に建立されており、この正面を本殿を避ける為にこの配置となったときく。

Photo_184  地主社を抜けると北門に達する。北野天満宮が梅の名所ならば、北門から西にみえる平野神社は桜の名所である。平野神社の桜は既に落葉しているが、立ち寄ってみるのも一興であろう。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山慈照寺 “銀閣寺” 紅葉散策記

2006-11-26 23:39:04 | 写真

■京都は紅葉の季節

 秋ですねえ、とそろそろ冬の足音が聞こえつつあることを無視し、想う季節である。というのも、やはり椛が紅く彩づかねば秋を感じることが出来ないのは小生だけであろうか。

Photo_166  閑話休題、百万遍の方にある大学に所用があり、ついでに古書店街と、近傍にある銀閣寺をひとつ観ていこうかとPCバックにカメラと書籍を詰め込む若干の余裕を持たせ、鴨川を渡った。小生研究科のある共同研究室からは色づいた衣笠山を望むことが出来、自室からは紅い比叡山を望見できる。空を仰げば蒼穹の青空はどこまでも続いている、蒼と紅のシンメトリー、それは紅葉を写真に収めるには絶好の日和であることを示していた。

Photo_167  銀閣寺、正しくは東山慈照寺というが、室町幕府第八代将軍足利義政により1482年に建立された臨済宗相国寺派の禅寺にあたり、隠栖生活を送るべく、祖父足利義満の金閣寺に倣い、東山に造営したのがその始まりとされ、またこの後に培われた東山文化の発祥地となった。昭和初期に焼失した金閣寺が再建後重要文化財指定を受けたのに対し、銀閣寺は国宝指定を受け、多くの拝観者とともに今日の京都に佇んでいる。

Photo_168  今出川通りをひたすら大文字の送り火に向けて足を進めれば、鴨川を越え、東大路通りを越え、そして白川通りに達する。そこには銀閣寺にいたる哲学の道が続き、そこをたどれば目指す銀閣寺に至る。小生は203系統バスを銀閣寺前にて降車、そのまま徒歩にて向かった。哲学の道を歩いても混んでいるし専門は軍備管理論、義より利と割り切り、車道側の歩道を歩いて向かった。哲学の道と銀閣寺道の分岐点を登り、そして総門へ入場券を買った。

Photo_169  天下一の庭園といわれる銀閣寺の庭園は、四季折々を表わす木々や池水が巧みに並び、銀沙灘といわれる白砂が波型と富士を模った山形を為している。その向こう、観音殿は銀閣ともいわれ、国宝。書院風の一層と潮音閣の二層よりなる。二層には唐様仏殿様式を象り、その頂点に鳳凰は観音菩薩を祀る観音殿を護り続けている。やや逆光で恐縮だが、これは1400時頃の撮影で、午前中ならば順光にての撮影が可能であろう。

Photo_170  東求堂、足利義政の持仏堂として用いられた建物で入母屋造りの一層建造物。檜皮葺き書院造としては日本最古のもので、観音殿と同じく国宝指定を受けている。裏に草庵茶室の源流となった四畳半間取りの茶室があり、堂は二間の仏間より成っている。左隣には本堂が見え、池大雅や与謝蕪村、富岡鉄斎の多くの襖絵が並ぶ。池に写る東求堂と椛のコントラストが美しいが、やはり早朝一番に入場していればさらに青空との対比をお送りできたと思ったのだが写真はみての通り。

Photo_171  青々とした竹林を抜け、展望所へと山道の階段を上る。

 展望所とはいっても見晴らしの良い開けたところで、十分ほどで着くのだが、との途中でお茶の井がある。これは金閣寺にもあるものだが、残念ながらお手入れ中のオジさんがおり、撮影は断念。背後には月待山と大文字送り火の山がそびえる。紅葉の時期にあっても、竹林はかわらず、逆に新鮮な印象を与える。

Photo_172  展望所からの眺望、錦鏡池、銀閣、銀沙灘、宝処関、本堂、東求堂がみえ、向こうには吉田山が望見できる。その向こうには京都大学と更に京都市街が広がる。

 本堂の向こうにはもう一つの池と、前述の茶室が並ぶ特別公開区画である。更にその区画には弄清亭や書院が並ぶ。鮮やかな紅い木々が季節を示す、この時期ならではの写真となっている。

Photo_173  眼下に銀閣寺全景と京都市の彩づき、展望所にて季節を堪能すると、紅葉の木々の木立を、その狭間からの木漏れ日とともに下山の途につく。

 紅いといっても様々な色を楽しむことが出来、常緑樹や黄色く彩りを添える銀杏が趣きを増す。帰路、洗月泉という場所があり、これが見えればいよいよ冒頭に挙げた錦鏡池と銀閣という光景に出会うこととなる。

Photo_174  観音殿を見上げる。もの静かな趣きながらその頂点に鳳凰がやや霞んでいるがみることができる。

 銀閣寺が紅葉の時期と並び、その形容を変えるのは、この他に雪の日が挙げられる。それは白という景色が全てを覆う特別な日である。しかし、京都市は積雪がすぐに溶けてしまうことが経験上多く、積雪とともにカメラを準備していても10㌢の積雪が溶けてしまうこともしばしばだ。

Photo_175  そして参道というか、銀閣寺道から百万遍へ再び。今度は古書店を目指し。しかし、探した高坂正尭先生の本は、というよりも品揃え薄い!店も減ってる!神保町はもとより、名古屋の鶴舞古書店街にも劣る!ううむ、ここの傍には東西を二分する学閥体系の拠点があるのだが、此処の連中はどこで資料を探すのだろうか。名古屋か東京だろうか。

 さてさて、本記事を以て北大路機関ブログは掲載写真1000を超えました。これからもよろしくお願い致します。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都大徳寺 市街地の臨済宗総本山

2006-11-24 01:06:25 | 写真

■京都市民憩いの場

 京都市北区、北大路通りに面した大徳寺は、臨済宗大徳寺派総本山であり様々な寺院が集う史跡で、自由に開かれている御門は市民に隔てなく開放され、憩いの場として知られている。今回は、カメラレンズの動作確認ということで展開した際の写真を掲載したい。

Photo_157  朱色が鮮やかなこの建物は、三門といわれるもので、重要文化財指定を受けている。

 大徳寺の起源は1315年まで遡ることができる。大踏国師宗峰妙超禅師が開いた大徳寺は応仁の乱の戦乱で一時期荒廃したが、一休和尚により復興した。この後大徳寺は再び歴史の転換期を目撃することとなった。安土桃山時代に豊臣秀吉が本能寺の変にてこの世を去った織田信長のお葬式を行った歴史的場所である。

Photo_158  場所は変わって、総門。総門の前には広大な駐車場が確保されており、有料ながら大型バスから自家用車までの駐車が可能である。なお、この駐車場は一年ほど前に整備されたもので、それまでは木立が残る未舗装の砂利地が駐車場であった。これが美しく整備されたのはいいことなのかもしれないが、他方で舗装され近代的な料金支払い機を設置したのは、逆に風情を失ってしまったようにも思う。先日の名古屋城のエレベータではないが、もう少し景観にも考慮してほしいと思うのは小生だけか。

Photo_159  総門より入ると、すぐ右手に勅使門が見えてくる。

 荘厳な造りだが、余り感慨深く見ていると、この総門は自動車も通るので、交通事故、なんていうことにもなりうる。一般車乗り入れ禁止であるが、関係者や工事車輌はどんどん入ってくる、要注意である。この勅使門の先には冒頭に挙げた山門、そしてその先に仏殿と法堂があり、全て重要文化財、更に国宝の方丈が南北に並んでいる。

Photo_160  大徳寺仏殿。この先に方丈が続く。

 大河ドラマ、“功名が辻”にて有名な豊臣秀吉の住居、儒楽第の一部がこの大徳寺の方丈などに利用されているという。なお、三門は二階部分が千利休により増築されたのだが、この金毛閣といわれる三門に千利休が自分の像を飾ったことから秀吉の怒りを買い、利休は自決の道へと進むわけである。写真の仏殿も昔は朱色であったのだろうか、そんなことを考えつつ歩いてみるのも一興だろう。

Photo_161  山門から仏殿へ、そして方丈へと進む観光客。すぐ裏手には平野神社があり、その周りは閑静な住宅街である。歴史を感じさせる一角には、御茶屋や、大徳寺名物の手毬寿司などを楽しむことが出来るが、対して北大路通りに面していることからバスの便もいい。大徳寺前バス停には101系統急行バスも停車するので、京都駅からも幾分早く行くことができる。また、地下鉄北大路駅からもバスが出ており、205系統などが本数も多く便利である。

Photo_162  聖光院に向かう道、この先に土産物を扱う売店のようなものがあり、更に先には寺院内部を有料にて公開している。様々な美術品や屏風絵があり、こちらに立ち寄るのも一興である。

 この先には、かつての大河ドラマ金沢百万石を扱った“利家とまつ”で有名な、まつ の墓石がある。なお、この景観を損なう電線であるが、大徳寺では現在電線を地下へ埋設する工事が進められている。

Photo_163  総見院へと向かう道、大徳寺の中であるが、この先には竹林の先に、前述の平野神社へ向かう参道へ続く。またその参道は北に向かえば神社であるが、南へ向かえば船岡山へ向かう。この船岡山は、夏季に北大路機関で特集した五山送り火を一望できる場所であり、蛇足ながら大河ドラマ“義経”において、静御前と義経の出会いの場所が撮影された場所である。このあたり、実は大河ドラマファンにはお勧めの観光名所といえるかもしれない。

Photo_164  南御門より外に出る。

 気軽な散策、というか修理に出したデジカメ用レンズに代えてのフィルム式時代の広角レンズの試用として撮影に赴いたので、更に奥の特集はまた機会を改めて実施したい。写真は緑が茂る御門だが、ここまで枝が伸びたのは美麗とはいいがたく、業者による剪定作業が行われていた。望遠レンズを用いれば、圧縮効果で石畳の道を遠くまで見通すことが出来る。

Photo_165  北大路大徳寺通り交差点より大徳寺を望む。年始に行われる全国高校駅伝では、ここ北大路通りを大徳寺に沿って走る。なお、駅伝やマラソンの時期には、支援の陸上自衛隊車輌を市内で見ることが出来るが、福知山の第七普通科連隊の車両など(確かに同じ府内だが)かなり遠方からの部隊の車輌もみることができる。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張三河のお稲荷さん 豊川稲荷参拝

2006-11-23 16:46:37 | 写真

■祭りのあとに

 豊川駐屯地祭の終了後、名鉄豊川線の終点、豊川稲荷駅の駅名にもなった尾張三河のお稲荷さんを拝するべく、足を進めた。

Photo_147  いよいよ師走が近づき、初詣は何処に行こうかと思い巡らされている方も多いのではないだろうか。さてさて、今回特集する豊川稲荷は伊勢神宮、熱田神宮とならび、東海三県初詣の参拝客が多く集うところであり、名古屋鉄道は二月下旬までの間特別ダイヤを組んで旅客需要の変動に対応する。名鉄豊川線は毎時二本の本線急行が乗り入れるほか、特急電車も直通運行されており、主力特急である1000形パノラマスーパーも乗り入れる路線である。

Photo_148  豊川市は、本ブログで既報のような陸上自衛隊の一大拠点であると同時に、何よりも“お稲荷さん”として親しまれている土地柄であることは、駅を出れば一目で分かる。JRと名鉄が面した駅前広場は愉快で様々なポーズのお狐さまが来客を迎えてくれる。中には葉っぱを頭に載せ、なにかしらの変身をするだろう狐もおり、ここから大きな通りにそって歩いていけば、ものの十分ほどで目指す豊川稲荷に到達することが出来る。

Photo_149

 表通りは車道であり、ここを歩いてゆくのが最も分かりやすいのだが、やはり参道を歩いた方が参拝するという雰囲気が溢れているように思う。豊川市豊川町一番地という、文字通り町の中心地にあるお稲荷さんは、商売繁盛をつかさどる日本三大稲荷の一つといわれ、その起源は1441年ごろにまで遡る事が出来る。ここには今川義元や織田信長、豊臣秀吉といった戦国の武将を始め、江戸時代には大岡越前守忠相も参拝している。

Photo_150  豊川稲荷、正しくは曹洞宗の豊川閣妙厳寺鎮守豊川託枳尼真天が正式名称で、ここでは初詣の他、春季大祭、秋季大祭と、みたま祭りが有名である。

 特に、みたま祭りは1945年8月7日の豊川海軍工廠爆撃の犠牲者を弔うもので、動員女子学徒を中心として受難した2500名の冥福を祈り盆踊りが駅前と境内に盛大に執り行われる。

Photo_151  鳥居より本殿を望む。

 三大稲荷とはいうものの、伏見稲荷を頂点としてその他には豊川稲荷の他、近いところでは岐阜県平田町の千代保稲荷、奈良県新庄町の瓢箪山稲荷、宮城県の竹駒稲荷、茨城県は笠間稲荷、岡山県最上稲荷、そして佐賀県の祐徳稲荷と数多くあり、この点、“伏見稲荷と並ぶ三大稲荷の一つに数えられ”とパンフや表示の多くの記載にあらわれているといえ、逆にそれだけの信仰を集めているともいえよう。

Photo_152  豊川稲荷の本殿へ。

 さてさて、先日掲載した伏見稲荷では、三大稲荷とは、伏見稲荷を頂点として、あとの二つは地域により異なる旨が記載されており、ここの記述が的を射ているのではないかと思う。また別の資料を散見すると、寺院であることから伏見稲荷とは異なり、別格本山とされることもあるため、いわばバチカンとカンタベリーの関係のようなものだろうか。

Photo_153  本殿祭壇には江戸時代に伏見宮家より贈られた毘沙門天、有栖川宮家より贈られた聖観世音菩薩が安置されており、明治時代に有栖川宮家より豊川閣の大額が下賜され、掲揚されている。本殿そのものは1930年に造営され、今日に至る。豊川稲荷そのものも江戸時代に火災により焼失しているが再び興され今日に至っている。本殿の隣には見事な庭園がある。赤坂に東京別院、札幌市中央区に札幌別院、また福岡県春日市に九州別院があるので、豊川以外の方も初詣を検討されては如何だろうか。

Photo_155  勾配を曲がる1800形特急。名鉄では、有料指定席を有する特別車1000形2輌に、本線特急(豊橋・名鉄名古屋・名鉄岐阜)と常滑線(中部国際空港・常滑・神宮前・名鉄名古屋)では特急料金不要の一般車1200形4輌を加えた編成で特急を運行しており、加えて混雑時には二両編成の1800形を増結して運行している。豊川線への本線からのアクセスは豊橋駅の手前、国府駅にて乗り換えることが出来、初詣の際に参考となれば幸いである。

Photo_156  豊川線であるが、全駅急行停車駅で、諏訪町駅には特急が停車する。しかし、特急停車駅の割には片側島型ホームというのを見られて驚かれるかもしれない。実は意外に知られていないが、1990年代まで、ここは鉄道線ではなく、路面電車と法律上同じ扱いの軌道線で、しかも戦後もしばらくは、文字通り“路面電車”的な路線風景であったという。路面電車である軌道線、かつて名鉄市内線では急行が走ってはいたが、ここ豊川線では軌道線時代も特急が走っていたというのは一つ、驚きではなかろうか。

Photo_154  少し、鉄道へ話が逸れてしまったが、お正月の初詣として豊川稲荷は、豊川稲荷駅というものがあるほどだから、やはり名鉄特急で行くのが一番だろう。350円の特別車券(旧指定席券)を買うと、展望席からの眺望とともにものの一時間で名古屋から到達することが出来る。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

琵琶湖岸の砲声 今津駐屯地祭06 速報

2006-11-19 18:22:51 | 北大路機関 広報

■湖西線で今津へ!

 陸上自衛隊今津駐屯地祭が、本日、滋賀県高島市に所在する陸上自衛隊今津駐屯地において実施された。

Photo_144  北大路機関にとり、本年最後の駐屯地祭となるもので、それだけに現地展開にも格段の力が入る・・・、と思いきや、週前半は天気が持つという週間予報が金曜日あたりから怪しくなり、土曜日には午前中まで持つという天気予報がいよいよ一日中雨という報道に移った。マズイ、非常にマズイ。土曜日も1600時ころからは小雨がぱらつき始め、いよいよ本降りの様相を呈してきた。完全装備で展開して豪雨でデジカメ全滅というのも避けたいものである。

Photo_145  ううむ、東千歳では師団始まって以来の豪雨、最近の情報では雹まで降ったという完敗であった。あの時も目標は戦車!、しかし、台風が接近していた小松基地航空祭、雨が確実視されていた浜松基地航空祭、そして午前中が雨天といわれた千僧駐屯地第三師団創設記念行事はともに晴れた。これは分からんゾ!と思いきや朝の京都市は曇り、駅に着くころには小雨である。暗雲立ち込める駐屯地祭、近江今津駅到着の時にも雨天、バスで会ったスーツのおっちゃんにも「写真残念だねぇ」といわれた。

Photo_146  同行のShin氏はツーリング用の完全防水一式、現地で合流したC.ジョニー氏一行も完全装備で、ジョニー氏は岐阜基地の教訓からフィルム式としていたが小生にはもはや使うべきフィルム式が無い。果たせるかな・・・、式典開始前二十分、雨が止んだ!ううむ、小生が行くとそれなりに晴れるのかな?運がいい!、ということで、まあ、晴れましたということを速報としまして本日はこの程度に致します。湖西線は新快速や普通列車の本数が少なくて往復で疲労困憊。

Img_1899  詳報は今しばらくお待ちを。浜松基地航空祭を特集しなければならないし、北大路機関であるから京都観光の紅葉の色づき具合も掲載しなければね。それに、大須観音、大徳寺、豊川稲荷も特集したいし、本日はこの程度で失礼致します。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張三河の天守閣 名古屋城撮影紀行

2006-11-18 12:07:09 | 写真

■名古屋城展開

名古屋城を小生が見学するのは十何年ぶりだろうか、名古屋に足を運ぶ機会の多い小生にとっても、中々行く機会のない場所である。今回は、Webサイト“とんぺいの機械博物館”でお世話になっている とんぺい殿が名古屋に来られるとのことで、これを機会と小生も名古屋へ展開した。

Photo_128  名古屋城は徳川家康による徳川幕府成立後、最大の脅威であった豊臣家とその拠点である大坂城への抑止力として造営された城郭で、清洲からの都市移動とともに実施されたものである。

 1610年より始まったこの一大事業は清洲城下をそのまま引っ越すことから“清洲越”といわれ、並行して建築が進められた天守閣は1612年に竣工した。

Photo_129  名古屋城は愛知県庁舎、名古屋市役所に隣接したところにあり、どちらも荘厳な建築様式により城郭と調和を保っている。

 写真を見ると、靖国神社前の九段会館にいるような印象を受けるが、この瓦屋根の建物は九段会館ではなく愛知県庁舎、後方のアンテナは市ヶ谷の防衛庁ではなくNTTのアンテナである。また右端の遠景には栄の久屋大通にあるテレビ塔だ。

Photo_130  愛知県庁本庁舎は1938年に建築されたもので、洋風建築に城郭を思わせる瓦屋根が載せられており、こうした建築様式を“帝冠様式”といわれる。外壁は花崗岩タイルに包まれ、上層は白壁となっている。

 登録文化財、都市景観重要建築物であり、左右に櫓状の塔が二つあり、城郭との調和が図られていることが今日のガラス張の脆弱な建物や高いだけの高層建築物とは一線を画している。

Photo_131  名古屋市役所は、1933年に建築されたもので、愛知県庁本庁舎と同じく帝冠様式となっている。しかし、時計塔としての中央部の頂点は、あたかも京都市役所を彷彿とさせるもので、最上層には瓦屋根の端々に鯱が載せられている。

 名古屋城天守閣のような純金張の鯱ではないが、天守閣との調和を目指した事が分かる。建物は最上部までは53㍍あり、天守閣よりもやや高い。

Photo_132 写真は公開されている櫓より撮影したもので天守閣がくっきりと撮影できる。

 安土桃山時代から江戸初期にかけての最高傑作の一つとしての名古屋城は、絵画や美術品とともに日本工芸史の頂点として挙げられるとともに、徳川家康が二条城、江戸城に引き続き最後に造営した城郭であり、また落雷により二条城、そして明治遷都とともに江戸城の天守閣が破壊されたことで、最後に往時の姿を後世に留めているものである。

Photo_133  1612年に天守閣が竣工したのち、尾張藩政庁舎として使われた後、1867年の大政奉還の後、建物は陸軍省所管となり、名古屋鎮台が名古屋城に置かれた。

 鎮台とは、今日でいうところの師団にあたるもので、名古屋城は師団司令部駐屯地としての重責を担った後、1893年には本丸、そして西丸が宮内省に移管され、名古屋離宮として用いられた。

Photo_134  1930年には宮内省から名古屋市に下賜となり、天守閣や本丸御殿などが国宝に指定された。

 しかし1945年5月、米陸軍の本土空襲により天守閣や本丸御殿が爆撃され焼失したことで、江戸時代、明治時代、大正から昭和と続いた天守閣は高空の悪魔により落城の憂き目となり、頂の鯱とともに完全に姿を消した。なお、県庁や市役所、櫓などは無事であった為、名駅あたりが目標であったのだろうか。

Photo_135  写真は戦前に撮影された天守閣と本丸御殿の写真で、撮影可(フラッシュは撮影不可、二階は撮影不可と明示)展示スペースに展示されていた。本丸御殿は1615年に完成し、1634年には徳川家光が上洛に宿泊する目的で最も荘厳な上洛殿が建築されたものの、天守閣と共に第二次世界大戦の本土空襲により焼失した。天守閣は1959年に再建されたが、本丸御殿は今世紀の再建を目指し、名古屋市では再建計画を推進中である。

Photo_136  写真は東南隅櫓、これとともに西北隅櫓、西南隅櫓、表二之門、二之丸大手二之門、旧二之丸東二之門は焼失を免れ、重要文化財指定を受けている。

 先ほどの櫓より撮影したというのは、写真の東南隅櫓で、右手には天守閣が望見できる。幸いにして焼失を免れたこともあり、当時のまま残された木造の重層な櫓は銃眼なども設けられ、小城の天守閣に匹敵する趣だ。

Photo_137  名古屋城に増築されたエレベーター。これには小生のみならず一緒に撮影をしていた とんぺい殿も興ざめというか激怒であった。バリアフリーというのは分かるが、何とか他にすることは出来なかったのかなあ、と。しかし、小天守閣の外側階段にエスカレータとか付けられても困るしなあ、と。こういう設計はモラルの問題であろう。名古屋市役所、愛知県庁本庁舎が名古屋城との調和を図ったことを考えれば、現代人のモラルはやはり低下しているのだろうか。

Photo_138  名古屋城は、鯱模型などが展示された地階、本丸御殿復元をテーマとした一階、特別展(別料金)が開催されている二階、当時(江戸時代も時代と共にかなり異なるのだが・・・)の城下町の暮らしが再現された三階、名古屋城の歴史などを紹介する四階と造営の歴史を示した五階、エレベータ機械室(別料金でも入場不可)、そして七階展望室からは48㍍からの眺めを楽しむことが出来る。写真は本丸御殿に展示されていた屏風絵で、対空疎開していたことで焼失を免れた。

Photo_142  対物狙撃銃か!?と思わせるような大型の火縄銃。黒色火薬により球状の鉛弾を発射する火縄銃は、銃身を長くした方が火薬の燃焼効率が良いとはいえ、特に一番下に展示されているのは2㍍を越す大型の火縄銃であった。銃剣を付ける訳でもなし、大きすぎるのではないか。このほか鎧甲冑や石曳体験コーナー、鯱跨り体験コーナー、大名籠体験乗車(?)コーナーなど、興味深い展示が並んでおり、当時の路地を再現したコーナーも何故か天守閣内に再現されていた。それより内装を再現してほしかった。

Photo_139  写真は当時を示した模型。昔は外堀に水が張られていたようだが、明治維新以降、名鉄瀬戸線が線路を掘の内に走らせていた。栄町駅が出来て以来、流石に電車は走っていないが、C.ジョニー氏から氏のお父上のお話として今のような高層建築物が出来る前は名古屋城はかなり遠くからも見渡すことが出来たという話を、以前東枇杷島駅にて名鉄電車を撮っていたときに教えていただいたことを思い出した(東枇杷島駅は高架になっていて名古屋城が見える)。

Photo_140  名古屋城展望室から名古屋駅周辺の高層ビル群を望む。夕暮れ時ということもあり逆光になってしまったが、午前中ならば順光で近代都市を撮影することが出来よう。撮影ポジションさえあれば、望遠との圧縮効果で高層ビル群と名古屋城という写真も撮影可能であろう。33kmはなれた岐阜城や岐阜駅周辺のビルも見えたので、天気がいい時には航空祭のブルーインパルスも超望遠があれば見えるやも、閑話休題。しかし、小牧基地と県営名古屋空港までは案外近いので見てみるのも一興かと思う。

Photo_141  写真は1610年の名古屋城造営において、加藤清正が徳川家康に願い出て天守閣の石垣工事の竣工を行った。巨石を曳く際には自ら石の上に乗り気勢を上げたという(引っ張る方にしてみれば、うるさいし重くなるしで迷惑な話ではと思う)美談は「清正の石曳き」と後世に伝えられている。しかし、乗ったと伝えられる巨石は清正の施工した部分とは異なり自分とは関係のない巨石に乗っかったのでなければ逸話と思われるというような話がパンフレットにあった。

Photo_143  写真は地下鉄市役所前駅。地下鉄の駅までも凝った造りであるのが興味深い。この後、大須などを散策した。栄や名駅からも程近いこともあり、名古屋へ観光に行った際には訪れてみては如何であろうか。

 とんぺい殿、現地では大変お世話になりました。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸上自衛隊豊川駐屯地創設56周年記念行事

2006-11-17 02:49:43 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■ 豊川駐屯地祭

 愛知県の南東、静岡県との県境に近く、太平洋から浜名湖、三河平野を望む豊川市は、自動車輸出港である豊橋に隣接し、市内には豊川稲荷神社がある。

Photo_102  豊川駐屯地は、第十師団隷下にあって、その火力戦闘の主柱を担う第十特科連隊、空からの脅威に備える第十高射特科大隊に加え、新しく2002年に新編された第49普通科連隊、そして方面隊直轄の第四施設団隷下にある第六施設群が駐屯している。駐屯地は、戦前の建築物も散見できる広大な面積を有しており、部隊の性格上多くの車輌が駐屯地各所に車列を整えている。写真は観閲行進に備える車輌部隊である。

Photo_103  写真は上写真の車輌群を別の角度より撮影したもので、第49普通科連隊が装備する高機動車や79式対舟艇対戦車誘導弾を装備した車両などが写っている。

 同連隊は、即応予備自衛官により充足させる部隊で、部隊構成として定員の二割程度を現役自衛官、そしてその他を通常の予備自衛官よりも訓練期間の長い即応予備自衛官により構成している。

Photo_104  式典開始へ、部隊が会場へ入場する。

 特科連隊は普通科連隊よりも定員が多く、特に前述の第49普通科連隊新設に伴い、特科大隊の増強が行われたことで、駐屯地の隊員数は第十師団管区内でも最大規模となった。行進する隊員は9㍉拳銃を携帯しており、また、腕章から本年度より中部方面隊と陸上幕僚監部において試験的に制度採用された司令部直轄陸曹がいることが見て取れる。

Photo_105  部隊巡閲を行う第十特科連隊長。 

 豊川駐屯地司令を兼ねている。司令の乗車した73式小型トラックに応え、黄色い中隊旗が高々と掲げられているが、この色は特科の職種を示すもので、特科連隊には、五個特科大隊と情報中隊、そして本部管理中隊より編成されている。なお、後方の白いバンは一般車で、式典が行われた訓練場は、公道に三方を面している。

Photo_106  連隊長の向こうに、連隊旗が林立している。なお、陸上自衛隊の連隊旗は、旧陸軍の軍旗が連隊番号をその旗に書いていたのに対し、現在では旗竿に金属の銘板を填め込み、連隊番号を記載している。蛇足ながら、旧陸軍の連隊旗は歩兵連隊にのみ下賜され、連隊番号は天皇直筆とされていた為、旗は連隊そのものであった。ちなみに、現在の連隊旗は防衛出動に際しては、昔のように最前線に持って行くのか、指揮所に置くのか、駐屯地業務隊に預けるのか、ご存知の方がいたらご教授いただければ幸いである。

Photo_107

 観閲行進へ!、号令の下で隊員が駆け足で車輌へ向かう。

 第十師団隷下の部隊はこうした場合に駆け足を行うが第三師団では行進して会場を去る。この他、第六師団、第七師団も駆け足であったが、もっとも素早く移動していたのは第七師団で、駆け足というよりも疾走という印象であった。各員乗車、エンジン音とともに車体が動き始めた。

Ccv  豊川駐屯地祭では、観閲行進は徒歩更新を行わず、全て車輌行進により展開される。その先頭は、指揮官が乗車した82式指揮通信車である。同車は約250輌が生産され、特科大隊司令部や普通科連隊本部管理中隊に配備されている。写真では装備されていないが、自衛用に7.62㍉機銃、12.7㍉機銃を各一門づつ搭載する。なお、国際平和維持活動などに用いられる車輌には、厳しい環境に対応するべくエアコン設備が増設されたものがある。

Photo_108  第49普通科連隊の車輌群。73式大型トラックの後方に、多数の高機動車が写っている。予備自衛官というと、第二線部隊との印象を受けるが、従来の予備自衛官が有事の際にのみ編成される駐屯地警備隊や弾薬整備中隊に配属されていたのに対して、即応予備自衛官は普通科、機甲科という戦闘職種に所属し、現役部隊と同じ任務に当てられるとされている。この為、その装備も現役部隊と見劣りしないものが装備されている。

Lav  同じく第49普通科連隊第四中隊の軽装甲機動車。従来では一両の装甲車に地上戦闘における最小戦闘単位とされた一個小銃班が乗車していたのに対して、小銃班を構成する組毎に装甲車を配備させ、木目細かい戦闘を可能としたものである。こうした新鋭装備が配備されている他方で、例えば第六師団のように師団隷下の即応予備自衛官部隊が方面隊直轄に配置換えとなる改編も始まっており、第49連隊の今後の配置に興味が持たれる。

Mat  第49普通科連隊対戦車中隊の79式対舟艇対戦車誘導弾。旧型の73式小型トラックにより運搬されている。この旧型は減少しつつあるとされるが、他師団を含めかなり多数が現役にある。有線誘導式のこのミサイルは、弾頭によっては上陸用舟艇も撃破可能であるが、車上からの発射は不可能で、地上に設置する必要がある。なお、後継には先進的な光ファイバー誘導方式を用いる96式多目的誘導弾が開発され配備が進められているが、高コストにより配備部隊は極端に限られている。

Photo_109  第十特科連隊のFH-70榴弾砲、74式特大トラックにより牽引されている。陸上自衛隊の主力榴弾砲であるFH-70は、1970年代の野砲としての設計要求が盛り込まれたという意味を持つ。ビッカース、ラインメタル、OTOメララ社による国際共同開発の155㍉榴弾砲で、1969年に完成している。陸上自衛隊へは日本製鋼においてライセンス生産されたものが1983年より配備開始され、約490門が北部方面隊以外の師団特科連隊に配備されている。

Photo_110  通常榴弾は43.5kg、炸薬量は11.3kgで、炸裂すると長径45㍍短径33㍍の範囲に有効弾片を散布し、最大初速は827㍍/S、通常榴弾での射程は24km、ロケット補助推進弾を用いた場合は30km、特殊な強装薬を用いた場合は31kmに達し、バースト射撃ならば最初の13秒間に3発、持続射撃で毎分6発の射撃能力を有しており、これは以前に使用されていたM-1/155㍉榴弾砲が持続射撃で毎時40発、最大で10分間に16発という数字からその性能の高さを見ることが出来る。

Fh70  砲の操作要員は9名で、装填用トレイ・チューブ型装填器による半自動装填装置が装備されているのが最大の特色で、この装置が無ければ従来のようにロッドにより砲弾を砲尾から砲身内部に押し込まなければならなく、事実前述のM-1榴弾砲はこの操作を行う為に要員が12名が必要であった。ただ、半自動装填には一定以上の砲身後退が起きる射程に限られる。また、1800ccの補助動力装置を有し、牽引車がない場合でも砲のみにより16km/hの移動が可能である。牽引車は格好の標的となるため、この機能は重要だ。

Photo_111

 欠点としては三点、第一に砲身が6.022㍍と長く、また補助動力装置搭載により重量過大となったため空輸には大型ヘリコプターが必要な点であるが、これは低伸弾道を描く事で対砲レーダーに映りにくいという利点があり、一概に欠点とは言えない。

 第二に射程不足、これは1969年に完成したという点から致し方ないが、砲身が155㍉×39の39口径であるのに対し今日では52口径が普及しつつあり、ここから来る射程不足である。

Photo_112  最後に、補助動力装置の出力の関係から、最大速度が16km/hであるが、これが現代の対砲兵戦闘において対砲レーダーによる反撃から、弾片制圧地域を脱するに充分であるかという問題である。これに対して、陸上自衛隊は機動力を増すべく装甲トラックの荷台に榴弾砲を搭載したフランス製簡易自走榴弾砲“カエサル”に大きな関心を寄せていると伝えられ、将来的には重装輪回収車の荷台部分に砲を搭載した簡易自走榴弾砲が配備されることもあるかもしれない。

Jmmqm2b  特科連隊情報中隊の気象観測装置JMMQ-M2-B。600㌘ラジオゾンデの電波観測用で、無視界状態でも15kmまでの追尾が可能、弾道に影響を与える風向、風速、湿度、気温、空気密度を観測し、また化学攻撃や核攻撃を受けた際にはその汚染範囲予測にも用いられる。気象観測は重要で、この差異を無視すれば15km程度においての射撃では50㍍以上の誤差となって火砲の精度を低下させる。この他、気象観測には目測の30㌘バルーンが用いられ、数時間おきに観測を実施する。

Jtps16  対砲レーダーJTPS-16。同じく特科連隊情報中隊に所属する。砲弾をレーダーにより捕捉し、弾道を計算することで敵砲兵部隊の布陣位置を把握する。強力な電波を発する為、使用には逆探知されぬよう注意が必要だが、地中に音響マイクを敷設し、発砲音を感知した瞬間に作動させ、目標を索敵する。精度は一世代前のJMPQ-P7では10km先の目標を50㍍の誤差で発見できたという為、これよりも向上している筈だ。なお、配置には一時間弱を要するが、新型はこの部分も改善されていよう。

Sam  第十高射特科大隊の93式近距離地対空誘導弾、通称近SAM。携帯式SAMを発射する車輌で、赤外線暗視装置により夜間や悪天候下においても対応能力を有し、加えて射撃管制装置が可搬式となっていることから遠隔運用も可能となっており、生存性や操作性を高めている。従来の35㍉高射機関砲の後継として配備され、東北と北部の一部を除きほぼ代替が完了している。高い即応性を有することから対ヘリコプターに大きな威力を発揮する。

Photo_113  81式地対空短距離誘導弾、通称短SAM。レーダー車1輌と発射機2輌により1セットを構成し、師団全体に4セットが配備されている。赤外線誘導弾が8km、電波誘導弾で16kmの射程を有する。オプティカルサイトにより独立したミサイル誘導も可能であり、1982年のフォークランド紛争では英軍がこの方式でレイピアSAMを運用しアルゼンチン空軍機18機を撃墜するという大きな戦果を挙げている。なお現在、代替の将来短SAMの開発が進められている。

P14  高射特科大隊本部管理中隊に配備されている対空レーダーP-14、主に中高空目標の索敵を行う。71式対空レーダーより始まったレーダーの最新型で、師団防空システムDivision Air Data processing Systemの根幹を担う装備である。この他、低空目標用に対空レーダーP-9が配備されている。師団が行う防空は自隊防空という局所的用途に用いられ、方面隊高射特科群、航空自衛隊バッジシステムがこれを補完する。

Photo_114  第六施設群の車輌部隊、左に92式地雷原処理車、右に75式装甲ドーザーが見える。最前線の障害除去を行う施設科部隊は、普通科部隊に準じる最前線戦闘職種であるが、特に90年代に入り地雷処理においては装備品の陳腐化が叫ばれたことで配備された92式、爆導索と呼ばれる地雷処理装置を発射し、一瞬にして地雷を爆破処理する。その後、障害物を75式が、装甲により安全圏内から任務を遂行する。この他、左の73式大型トラックは83式地雷敷設装置を牽引している。

Photo_115  観閲行進に引き続き、訓練展示が実施された。

 写真は仮設敵の機械化部隊より歩兵が降車しているところ。訓練展示は駐屯地の一角に敵部隊が布陣、これに対し特科部隊の支援下で普通科部隊が目標を奪取するという筋書きで行われた。仮設敵は装甲車2輌をもってわが方へ攻撃を試みた。また、写真のように敵は我が前進を抑えるべく、地雷の敷設を試みている。

Photo_116  敵情を探るべく、第49普通科連隊情報小隊のオートバイ斥候班が前進、障害物を飛び越えた。

 実は偵察オートバイは師団偵察隊の他、普通科連隊本部管理中隊隷下の情報小隊にも配備されており、レンジャー資格を有する要員などを駆使して連隊に先んじて目標を把握する。こうした部隊は戦車大隊にも配備されており、陸上自衛隊が如何に偵察を重視しているかが端的に現れている。

Photo_117  完全な偽装を施した高機動車。写真からは辛うじてタイヤから、これが車輌であることが分かる。普通科隊員を輸送し、また分かりづらいが場合によっては戦闘に加わるべくMNIMI分隊機銃が搭載されている。装備品の偽装は陸上自衛隊のもっとも得意とするところである。1998年のNATO軍ユーゴ空爆では1400回以上の出撃にも関わらず完璧な偽装により撃破された戦車は一個中隊規模に留まっており、偽装の重要性を端的に示す事例といえよう。

Photo_118  降車し、前進する普通科隊員。

 徽章から即応予備自衛官であることが分かる。しかし、89式小銃を携帯し、ドーランを顔に塗りたくった精悍な姿は、とても予備、とは思えない迫力だ。なお、何が入っているか分からないが大型の背嚢を背負い、そのまま仮設敵陣地後方へと展開していった。少数の普通科部隊であっても、後方においての攪乱任務は、補給路遮断など大きな効果を上げることが可能だ。

Sam_1  航空脅威が想定される為、展開した高射特科部隊。手前に仮設敵が小銃を構え伏せている。

 この後、各種ミサイルが射撃準備までの様子を展示すると共に、師団防空システムとの情報連動を行うべくアンテナの設置などを実施、状況終了までの間対空警戒に当たっていた。その後方をFH-70榴弾砲が前進しているのが写真から見て取れる。

Fh70_1  FH-70榴弾砲の空包発射! 巻き起こる轟音に観客が耳を塞いでいる。

 空包ながら、大きな砲焔が上がっている。これは発射に用いる高熱のガスが空気に触れ瞬間的に燃焼したもので、逆に実弾射撃では一定以上の射程を得る装薬を用いなければ写らないものである。命令下達から20秒以内に射撃することが求められ、誤差50㍍以内に着弾するという。

Photo_119  弾着 今ッ!

 弾着を模した擬爆筒が炸裂する。写真は花火ではなく、擬爆筒が爆発した瞬間である。実は下手な火砲射撃よりもこの方が音が響く。この後着色煙が上がるもので、弾けた瞬間を撮影に成功したのはこれが初めてであった。結構危険なものだが、地上戦闘を印象付けるには良い装備品である。なお、守山駐屯地祭では訓練展示でこれが何故か大量に不発となっていた。

Fh70_2  FH-70は更に砲撃を続ける。

 ちなみに、特科部隊の戦闘は必然的に長距離間の戦闘となり、その成否は情報データリンクの集約に掛かっている。この特科部隊、即ち砲兵部隊が有する情報共有のプロセスを陸上戦闘全般に応用したものが、誤解を恐れずに言えば軍事情報革命といわれる、RMAの実態である。RMAというと価値観が根底から覆るようなハイテクを連想される方が多いが、特科の世界では既に想定された範囲内なのである。

Photo_127  訓練展示では3門のFH-70榴弾砲が射撃を展示した。通常であれば弾幕による全滅を防ぐべく、各砲は100㍍以上距離を置いて布陣するのだが、当然ながら会場の面積という制約から比較的近い位置に配置されている。通常であれば大隊指揮所や中隊指揮所が射撃を管制するべく方位盤を設置し、肉眼で見えない砲までには通信線が配置されるのだが、訓練展示はそこまでは展示しない。特科火砲の射撃により、敵の行動は沈黙した。

Photo_120  施設科部隊が70式地雷原爆破装置により地雷を処理する。これは150㍍の人員通過通路を啓開する爆導索を投射するもので、着地後16秒後に炸裂する。この後、梱包爆薬により対戦車地雷を除去するという。写真では人員により装備されているが、車輌により運用することも可能ということで、第七師団などでは73式装甲車により運用している。地雷処理の瞬間が死傷者が出る可能性が最も高い一つの状況であり、例えば軽装甲機動車などに搭載して運用することも検討してしかるべきであろう。

Photo_121  障害を除去するべく、地雷処理が終了した通路を前進する75式装甲ドーザー。19.5㌧の装甲ドーザーで、操縦席とエンジン室に装甲を施している。エンジングリルなどが剥き出しという構造に批判も多いが、少なくともこの種の車輌に装甲を施したというのは米英など例が少なく、この点は高く評価されてしかるべきである。なお、機動時は排土板とは反対側へ走行し、写真の状況は、バックしていることを意味する。左端には施設科隊員が小銃を構えつつ後退している。

Photo_122  障害を排除した後、74式戦車と軽装甲機動車がこちらに向かって前進する。このコンビネーションは、駐屯地祭訓練展示の定番となりつつある。

 なお、不整地においての機動性に制約がある軽装甲機動車であるが、地形の防御力に依存していた消極的戦闘から、装甲車を用いた積極的戦闘という部隊運用形態の柔軟性を高めた点からは評価されてしかるべきである。

Photo_123  戦車発砲!物凄い音が辺りを包む!、それもそのはず、戦車と目が合った、というべきか、こちらに向かって発砲している。これはけっこう怖い。

 そんな状況で撮影したものであるが、車体の一部が写るだけのややオマヌケな写真になってしまったのはご愛嬌。空包ながら衝撃波が砂塵を巻き上げているのが見て取れる。この後、前進、停止、射撃、を繰り返し、小生周辺にいた子供たちは逃げ出していった。

Photo_124  更に戦車前進!仮設敵は既に逃げ出した後である。エッ!?まさか此処で撃つの?結構近いよ!空包でも近いって!と思ったところで状況終了、となった。ううむ、小生ももう少しで手前の側溝に身を伏せるところであった。“戦車など時代遅れ!”という者が財務省OBの国会議員やその他に多いと聞くが、それは戦車を見たことのない者のタワごとである。嘘だと思うなら空包をまん前50㍍でブッ放してもらうと良く分かる。よく見ろ日本人!これが戦車だぁ!

Photo_125  訓練展示が終了し、駐屯地内の保存装備などを見て回る。前述のM-1榴弾砲やL-90高射機関砲、74式自走榴弾砲に74式戦車、61式戦車、60式自走無反動砲、60式装甲車、ヘリコプターなどが展示されており、時折、来場者も足をとめて装備品に見入っていた。保存状態は良く、子供たちの記念撮影にも用いられていた。一方でその傍らには初動車輌として十数両の車輌が並び、聞くと災害時の緊急車輌とのことで、ここが東海地震想定震源域に最も近い駐屯地であることが思い出された。

Photo_126  祝賀会場入り口より見えた駐車場に置かれたFH-70,観閲行進では五個大隊の各中隊から50近いFH-70が行進していた。奥には更に多くの榴弾砲が並んでいるという。

 以上が豊川駐屯地祭の顛末である。この後、豊川稲荷に参拝し、小生は帰路についた。皆さんもこの駐屯地祭、興味をもたれたらば一度見学を検討されては如何であろうか。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自衛隊観艦式2006 海上自衛隊訓練展示

2006-11-13 15:57:43 | 海上自衛隊 催事

■蒼海に白波と水柱の訓練展示

 観閲飛行のエンジン音がこだまする中、艦隊は一斉に回頭を開始した。

Photo_78  訓練展示に向け、写真はすれ違う「くらま」と「ちょうかい」。イージス艦というだけで画一的なイメージを持たれる方も多いようだが、第一号の“タイコンデロガ”が就役したのが“くらま”就役とほぼ同時期、当然ながら幾たびの改修を受けている。この“ちょうかい”は、四隻ある海上自衛隊イージス艦において唯一ベースライン7のイージスシステムを搭載した護衛艦である。ミサイル護衛艦とヘリコプター護衛艦、更に就役の十一年という開き、設計思想の相違がよくわかる一枚である。

Photo_79  白い航跡を描きつつ回頭する“まつゆき”“さみだれ”、二隻は先行する観閲部隊付属部隊の艦艇であるが、その向こう遥か水平線上を既に反転した受閲部隊の艦艇が“たちかぜ”を先頭に確認できる限りで七隻が単縦列で進んでいる。

 訓練展示では、この受閲部隊が、航空機部隊と共に展示部隊としてこれより反航しつつ様々なを開始する。

Photo_101  当たり前のように一斉回頭しているが、高い操艦練度を要する艦隊行動は、一定の歴史が無ければ培うことが出来ない。

 こうして、訓練展示が開始される。訓練展示は空包が弾けロケットが飛び、潜水艦が神出鬼没、ヘリに哨戒機、飛行艇が飛び交い、ミサイル艇やLCACが走り回る迫力の展示で、特に実弾も用いられる、海上自衛隊最大の公開実弾射撃展示でもある。

Photo_80  護衛艦“しまかぜ”による5インチ砲の空包発射、この他5インチ砲を搭載するミサイル護衛艦により空包が発射されていた。54口径127㍉砲で、射程は23000㍍と、ターターミサイルよりも長く、対水上・対空目標に対して威力を発揮する。発射速度は毎分35発で、有人砲搭方式の自動砲である。イージス艦までのミサイル護衛艦はこの砲を搭載しており、また“フォレスタル”級航空母艦なども短SAM装備以前はこの砲を装備していた。しかし有人砲搭なので連続射撃後は内部が煙で大変なことになるという。

Photo_81  ボフォース対潜ロケットの発射。三隻の護衛艦より一斉に、ロケット点火の激しい音と焔が収まるが早いか、弾体が発射筒を飛び出す。発射速度が遅く、撮影が容易である為好まれているが、一時期は多くの護衛艦に搭載されたこの装備も退役が進み、“ゆうぐも”“いしかり”“ゆうばり”“ゆうべつ”に搭載されているのみとなっている。化学燃焼した黄色い煙は、一呼吸でも頭痛を引き起こす為、見学者は船体後部のハープーン発射筒付近に集められている。

Photo_82  着弾!立ち上がる水柱!、ボフォース対潜ロケットは射程2200㍍、潜望鏡深度に潜む潜水艦に対して運用される前投式対潜装備で、前身のヘッジボック対潜擲弾が射程不足となり、Mk108対潜ロケットが連射性に欠けていた事から導入された装備で、当初Mk108を搭載していた“あきづき”型などにも装備されていたが、短魚雷をロケットにて投射するアスロックの普及により姿を消し、次回観艦式では全廃となっているだろう。しかし、国籍不明潜水艦を撃沈しない程度に掃討するには、理想的な装備といえる。

Photo_83  3隻の護衛艦から一斉に発艦するSH-60K哨戒ヘリコプター、SH-60Jに代わる最新型の哨戒ヘリコプター。護衛艦隊に配備が開始されたばかりの最新鋭機で、対潜装備が最新のものに改められた他、最も端的なものとして、従来の武装が短魚雷二本であったのに対して、K型は加えてヘルファイア対戦車ミサイル二発の運用が可能で、護衛艦に沿岸部分から突如飛び出して襲い掛かるミサイル艇に、大きな威力を発揮する。

Photo_84  この他、防弾鋼板による重要部分の防御性付与、機体内部の天井高改善による居住性の向上が挙げられる。また、ローターの取り外しが容易になっており、整備性の向上が挙げられる。ただし、重量が9.8㌧から10.9㌧に増加したため、速力は149ノットから139ノットに低下している。

 写真を見るとヘリ甲板の見学者はヘリが引き起こすダウンウォッシュを避ける為、右舷左舷の舷側に移されている。

Photo_85  ヘリ発艦後、潜水艦の急潜航・急浮上展示へと移行した。いわゆるドルフィン運動というもので、四隻のうち三隻が二回の潜行・浮上を展示する。ちなみに、「沈み始めた!」という人が“あぶくま”甲板にも何人かいたが、沈むのではなく潜るので、念のため。涙摘型の潜水艦は、水中の高速航行に適しているが、これは初代涙摘型潜水艦である“うずしお”型がアメリカ最後のディーゼルエレクトリック式潜水艦“バーベル”級を参考とした為である。

Photo_86  突如水中から姿を現し、浮上する“やえしお”。本艦は葉巻型の船体を採用した潜水艦で、必ずしも常に高速航行を行わないディーゼルエレクトリック方式の潜水艦では本型のような形状が理想的といわれる。また、寄港に際して、涙摘型の場合は埠頭への交通にも乾舷がない為、寄港地が非常に限定されるという問題があり、各国の潜水艦は原子力のものを除き、葉巻型潜水艦が主流となっている。無音タイルや側方ソーナーを搭載する本型は、その伏在海域に侵入する水上戦闘艦や原子力潜水艦が避けたい強敵となる。

Photo_87  海上自衛隊の潜水艦について、その騒音が指摘されるものがあるが、端的なものがキロ級877型のパンフレットに書かれた静粛度一覧表である。これは米海軍の潜水艦に関するパンフレットにも引用されていた。しかし、資料には“UZUSHIO”とあり、1971年に就役した潜水艦と、1982年に就役した“キロ”級を比較するのは、WindowsXPと95の性能を同列に論じるくらいにナンセンスである。しかし“うずしお”型では確かにモーター部分に独特の軋み音が生じたと関係者が誌上で述べており、これが改善された“ゆうしお”型以降の潜水艦は、ある程度高度な静粛化が為されていると考えるのが自然と考えるのだか、どうだろうか。

Photo_88  補給艦“ときわ”と護衛艦“はるさめ”による洋上補給の展示。1987年から1990年までに3隻就役した“とわだ”型は、護衛艦隊の外洋作戦能力担保の主柱たる地位を担っており、本艦一隻で一個護衛隊群への支援能力を有する。先代の補給艦“さがみ”を拡大改良したもので、特に蒸気タービン艦からガスタービン艦への移行期を迎えた需要を反映している。50㍍程度の間隔で並行することを求められる補給艦は、特に操艦技術に秀でた艦長に任される艦である。

Photo_89  艦橋の前に補給リグが林立しているが、前から一番・二番・五番・六番リグが燃料や飲料水などの液体貨物用、三番・四番リグが糧秣や弾薬などのドライカーゴ移送用で、第一にスパンワイアというものを投擲し護衛艦と補給艦を結び、フックに吊られた給油プロープをメッセンジャーロープにより護衛艦が手繰り寄せ、護衛艦のペリカンフック部分に固定、受油用のプローブレシーバーから補給を受ける。またドライカーゴはテンションドハイラインという二本のワイヤーを用いて、例えばミサイルキャニスターといった重量物も補給が可能である。

Photo_90  放射性降下物等から洗浄する甲板放水を行いつつ、赤外線フレアーを発射する護衛艦“やまゆき”。幻想的な光景だが、使用しているのは海水である為、使用後は念入りに真水によるモップ拭を行わなければ船体が錆で腐食してしまう。なお、この甲板放水は赤外線誘導ミサイルのシーカーを船体に散水することである程度欺瞞することが出来るだろう。この他、金属片を樹脂でコーティングしたチャフ弾も装備されているが、散布界が自衛隊法96条に基づく防衛秘密規定にあり、なにより見栄えがしないことから射撃展示は為されない。

Photo_91  “やまゆき”の横を疾風の如く過ぎ去ったのはミサイル艇による高速航行の展示である。ステルス性を考慮された外見が特色であるが、現在現役にある6隻は全て2002から2004年に三菱重工下関造船所にて建造されており、量産効果についても重視された、外面的・内面的に新機軸を有した艦艇であるといえる。1999年の能登半島沖不審船事案において不審船の追尾への護衛艦の速力不足が指摘され、設計に変更が加えられている。

Photo_92  一気に反転、全速で通過。技術研究本部において建造された実験艇“めぐろ”SES船型方式であったため、新型ミサイル艇も当初、SES船型(双胴型と表現)が検討されたが、結果的に従来型のFAC船型が採用されている。最近のミサイル艇の新動向としては、速力を犠牲としつつ広域哨戒能力の付与や、小型コルベットとしての性能付与が重視されつつあるが、海上自衛隊では前述の理由により高速性能が重視され、整備されている。

Photo_99  高速性能を足りない個艦防御力として任務に当たるミサイル艇は、文字通り高速航行あってこその艦艇である。大型の護衛艦を背景に、速力を活かしつつ航行するミサイル艇のポテンシャルを何よりもあらわしている。この写真からは、例えば木材などの浮遊物が与える衝撃が想像でき、もしかしたらばSES船が有する脆弱性というのはこうしたところにあるのではないか。

Photo_93  離発着水の展示を行うべく飛来したUS-1A救難飛行艇。オレンジが鮮やかな機体塗装が本機の任務を何よりも示している。US-1A以外にはロシアのベリエフBA-200ジェット飛行艇が存在するが、カスピ海での運用試験などでは荒海における着水離水能力はUS-1Aの半分程度であり、特に日本航空技術が世界に誇れる事例や技術の一つである。個人的には、本機にAC-130のような制圧火器、火器管制装置を搭載し、東南アジアにおいて問題化している海賊対処に用いてはどうかと考える。

Photo_100  ミサイル艇に引き続き、LCACも高速航行の展示を実施していたのだが、それと並行して飛行艇の展示が行われ、遠方に展示部隊の“むらさめ”の姿が見える。LCACのエンジン音とUS-1Aのエンジン音が重なって聞こえ、更に後方からP-3Cが近付く。文字通り、何を撮ろうか迷う瞬間であるが、どれも中々見ることが出来ない貴重な瞬間であり、いっそ複数のカメラを三脚に載せてCIWSのように撮影でもしようかと思うほどの光景である。

Photo_94  飛行艇がその巨体より水煙を巻き上げながら海上を疾駆し離水する様子は中々の迫力である。巨体の後半分が海面と水煙に隠れてしまっているが、機内について意外と動揺はないという。ちなみに、このUS-1Aは原型である対潜飛行艇PS-1では不可能だった陸上滑走路への発着能力が付与されており、救難任務でもすぐに陸上で救急車により要救助者を病院に搬送できるという利点がある。観艦式では三機のUS-1Aが同時に展示飛行を実施していた。

Photo_95  赤外線フレアーを放出するP-3C。基本的には航空自衛隊の輸送機に搭載されているものと同じ装備だ。対潜水艦任務に用いられるP-3Cであるが、近年では潜水艦の潜望鏡部分に装着する携帯ミサイル筒などが開発されており、また、対工作船用の用途としてもこの種の装備の必要性が高まったといえる。なお、この他チャフも装備されており、不意に敵水上戦闘艦からのミサイル攻撃を受けたとしても、回避手段を有している。熱を発する囮というだけあり、機体下部にフレアーが反射しているのが写真からも良く分かる。

Photo_96  高度な電子機器を搭載していることは言うまでもないが、対潜戦闘では十時間を越える場合も多く、P-3Cは、そうした長時間の任務に対応するべく調理室や食堂なども装備されており、その能力を買われ近年では南西諸島島嶼部における洋上哨戒にも用いられている。こうした場合にも、チャフ・フレアーといった機体自衛装置は必要性を増しているのだろう。こうした険しい国際情勢とは対照的に、白煙を曳くフレアーはお祭りの花火のような印象を与える。

Photo_97  訓練展示の最後は、P-3C哨戒機による対潜爆弾投下で締めくくられた。P-3C主翼の前よりハッチが開き投下された67式150kg対潜爆弾は米海軍のMk54対潜爆弾をもとに開発されたもので、哨戒機P-2VからP-2Jを経てP-3Cにより運用されている。対比物が無いのが恐縮だが、護衛艦のマストよりも高々と水柱が天に向かい聳え、一瞬の刻を置いて小生らが乗る護衛艦を伝い足元に爆発の衝撃が響いてきた程である。

Photo_98  訓練展示が終了すると、その余韻も冷め止まぬまま、各艦艇の前甲板より見学者が移動させられた。艦は突風を押し開きつつ速力を一気に23ノットに上げ、帰港するべく横須賀、横浜そして木更津へ進路を定め、白波を蹴立てつつ邁進を始めた。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今津駐屯地祭へお出掛けを検討中の方へ

2006-11-10 14:12:29 | 北大路機関 広報

■11月19日は湖西線で滋賀県へ!

陸上自衛隊今津駐屯地へ展開を検討中の方へ、北大路機関からのお知らせ!、詳しくは第三師団HP内のhttp://www.3d.mae.jgsdf.go.jp/imaduevent001.htmlに記載されており、第三戦車大隊に配備された96式装輪装甲車(今までも、イラク派遣部隊訓練用に暫定配備されたことはあったが、恒久配備ではなかった、小生も勘違い)が目玉ということ。

Photo_72

 今津駐屯地創立54周年記念行事はいよいよ19日である。二個戦車大隊が駐屯する本州最大級の戦車駐屯地は琵琶湖の西岸、滋賀県北部の高島市にある。二個戦車大隊が駐屯するだけに、駐屯地祭会場は文字通り戦車で溢れており、会場に向かう歩道から集結した部隊を真横のアングルで撮影できる為、写真のような戦車多数のものが撮影可能である(望遠レンズの圧縮効果で撮影)。今津駐屯地は第三師団管区内にあり、管区内に中演習場を有しない第十師団の戦車部隊も饗庭野演習場を利用するべく、ここに駐屯している。

■交通アクセス

 駐屯地祭において、交通アクセスは重要である。ここはやや山に入ったところにあり、駐車場も完備されているが、若干道が細く、運転には注意を要する。

Photo_73  鉄道を利用する場合はJR西日本の湖西線を利用する。湖西線へは、京都の手前、東海道線山科駅から入るが、乗り換えは京都駅にて行うと利便性が良い。大阪・京都・神戸はJRにて新快速を京都乗り換え、米原・姫路もこの方式で可能であろう。奈良からは近鉄を京都乗換え、ただ、名古屋や岡山からは自家用車か新幹線が必要となる。豊橋・浜松からは始発でも間に合わない為、京都市内か大津市内での一泊が必要となる。

■駐屯地祭行事

 今津駐屯地は戦車部隊が中心の駐屯地である。創立53周年記念行事の様子を以下に特集する。

Photo_74  戦車部隊の駐屯地祭においてもっとも迫力がある展示はなんと言っても観閲行進であろう。38㌧の鉄の巨体が轟音を立てて眼前を疾走する様子は、中々他で見ることは出来ない。また、会場周辺が一般見学者用に開放されている為、写真のような直線に戦車が並んだ様子も見ることが出来るが、茂みと立ち木が視界を邪魔する為、ある程度早い時間に撮影位置に行くことが必要であるが、昨年の混み具合としては、伊丹・守山・千僧ほどではなく、豊川・信太山・大津くらいであり、立錐の余地もない、というほどではない。

Photo_75  この他、部隊整列から指揮官巡閲を終えて、観閲行進に移るまでに、会場に整列した戦車がいっせいにエンジンを掛け、移動する様子も迫力があり、ディーゼルエンジンの鼓動と匂がこちらまでただよってくる。写真は観閲行進に向け、戦車が固まっているところで、第三戦者大隊の車輌である。赤い獅子を描いたのが第三戦車大隊、鯱を描いたのが第十戦車大隊の74式戦車である。まさに74式戦車ファンには堪えられない情景だ。

Photo_76  突如、建物の狭間から姿を現す74式戦車!、写真は訓練展示の様子で、ポスターなどをみると式典内容には訓練展示・戦車試乗などが行われるとあり、戦車が中心となった訓練展示は壮観である、が、訓練展示は仮設敵4名に対して戦車6両が攻撃を仕掛け、AH-1Sに榴弾砲まで参加していた。ううむ、最初の偵察部隊の威力偵察で全滅しそうな仮設敵である。突撃の途中、戦車の油気圧サスペンションの様子や超信地旋回などの展示もこのときに行われる。

Photo_77  写真は同じく訓練展示の様子、今年三月に廃止された第三特科連隊第五大隊のFH-70榴弾砲が砲焔を上げている。四門一斉射撃の様子が昨年は展示されたが、今年度は姫路から展示にFH-70が来るのだろうか、興味が持たれる。

 以上が、昨年の今津駐屯地祭の様子である。興味をもたれた方は是非展開を検討されては如何だろうか。

HARUNA

(本ブログの本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする