北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】鹿苑寺,金閣寺-吹雪くのは鞍馬から比叡か高雄と愛宕から衣笠へか

2025-03-05 20:25:39 | 写真
■雪景色を求めて
 冬らしい情景と云えば雪景色と雪化粧というものでしょう。

 雪景色とともにこのまま涼しい日々が続くのかと思えば、どうせ真夏には逃げ出したいほどの暑さになるのだろうと思うのです。しかし不思議なことにこの冬といいますか、三月になりましても寒さが続くのはこの数年にないところですので。

 熱くても異常気象で寒くとも異常気象、確かにそうなのですけれども、この数年間ですと梅の開花が二月初旬というか一月には梅花開花という頃合いでして二月下旬にはもう散ってしまった頃合いでした、実際には今年にはまだ梅はさきはじめ。

 四月に桜の花々が満開となります季節が戻って来るのか、考えれば昨年までは四月にはもう葉桜で、桜花を季節の祭事としました古来の伝統は、先念には四月にいまさらなにをやっているのかと、これこそ気候変動というものか、と考えさせられた。

 季節がもとどおりといいますか、冬には雪が降るものだ、という季節が戻ってきたようなのだけれども、そこが難しいのは京都の塩梅というところでして、京都は雪が降ろうとも一時間一時間半二時間であっというまに溶け去ってしまうというもの。

 吹雪と金閣寺、ちょっといい情景を撮影したいところですが、京都らしい情景というものを探しますと吹雪く様子、そして京都の地形というものが関係してきます、鹿苑寺は高台に在るのですが、北大路通の先、東山のほうに吹雪く様子が靄のようにみえたり。

 白雪が靄のように遠くに見える様子は、そのあたりだけ吹雪いているのだけれども、この撮影している側には太陽に光をもらって続々と雪化粧がほどけてゆく様子というものもみえたりしますから、雪景色を撮影するというのは中々簡単ではありません。

 旭日とともに撮影へいけばこういうこともないのかもしれませんが、雪景色というか薄っすらとした雪化粧が、緑に戻ってゆく情景などをみていますと、それはもう刻一刻というところでしょうか、西山などその様子が変わってゆくのを顕著に見えるもので。

 西山は嵐山のあたりは吹雪いているなあとみえて、桂のあたりには雪化粧が見えていても、天王山のあたりにはもう雪化粧が無く、その先には雪の気配ないという、横幅にして7kmほどの間に季節が全て山容にしめされているという様子が見えたりします。

 衣笠山に吹雪の気配が見えてきましても、鹿苑寺のあたりまで雪が下りてくるまでに時間がかかりまして、風向きなのでしょうが、そのまま雪けしきを撮影できずにそのまま景色の見通しがよくなってきますと、次の雪雲をまとう、ということになる。

 比叡山あたりに鞍馬山から雪が幕をはるように吹雪いている様子をみていますと、ここから比叡山までは12kmほどか、ちょっと雪の風向きが悪いなあ、となります。ただ、こればかりは待つほかありません、待っていて吹雪く保証はないけれども。

 舎利殿に吹雪が舞い込む瞬間はそういうところで、太陽は雲に隠れていると純粋に寒さばかりを感じるのだけれども、そんな最中に風通しの良いところでふるえながら待っていて、初めて見られたりするのですね。暖かい珈琲がほしくなりますが、がまん。

 真夏はあつくなるのだろう、けれども二月が寒い、という本来の季節、三月もまだ寒いという季節の暦通りの風景が広がっています。春待ち、こういう言葉はあるのだけれども、今少し、冬を愉しみたい、梅花と寒さを分かち合いたいものですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】鹿苑寺,金閣寺にみる北山文化と東山文化の対比と諦めないが妥協する文化

2025-03-05 20:00:45 | 写真
■800年の風景
 ゆきげしきをさがして。

 鹿苑寺と慈照寺は外せない、京都観光においてこういわれる事は多いのだけれども、混雑しているだけなので外せばいいのではないかな、と思ったりするのだ。それは御久遠寺などは観光寺で、静けさを重んじる禅寺からは一番遠い場所に在るのだから。

 金閣寺、鹿苑寺の金閣こと舎利殿はこのように多くの観光客の注目を来場を集めるのだけれども、しかし、京都を代表する風景であることもまた確かなのだなあ、と思うのです。すると、雪が降るという予報を聞きますと、ちょっといってみようかな、なんて。

 臨済宗相国寺派の寺院、このお寺は烏丸今出川の相国寺さんの塔頭ということもありまして、まあたしかに舎利殿こと金閣は目立つのですが、落ち着いてこの寺院の伽藍を思い出してそのあとで相国寺を見上げますと、鹿苑寺には大きな伽藍はありません。

 北区金閣寺町には、そういう意味で不思議な寺院がひろがっているのです。面白いことに当地は藤原家の西園寺家が治めていた所領だったのですが、西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたかどで処刑されると当地は没収される事となりまして。

 西園寺という寺院が西園寺家の寺として維持されていたのですが、西園寺家の没らくとともに手入れされない状況となってゆき、此処を足利将軍家が所領として別荘を造営したことで北山山荘が造営、栄華きわめた北山文化が花開くのですね。

 北山文化、しかし興味深いのは遥か時を隔てて西園寺公望が西園寺家当主であった百余年前のはなしではあるのですが、私塾立命館を開学、当時の学舎は広小路という御所近くにあったのですけれども、その立命館が大学となりキャンパスを広げたのもこのあたり。

 西園寺、そのお寺を藤原公経が開いたのが元仁元年こと西暦1225年のことでして、ことしは2025年ということですから、なるほど鹿苑寺のもととなった寺院は今年その開山からちょうど800年なのか、ということに驚かされたりするのですけれども。

 800年の風景、北山文化の残り香というところでしょうか、京都というものは日本のいろいろなものを凝縮しているような、また、いいところも悪いところもその始まりを見出すことができるという意味で感慨深いところ、それは歩み進めるほどに思う。

 東山文化、室町時代の日本文化は面白いことに華やかな北山文化の後、応仁の乱最中に慈照寺が室町第八代将軍足利義政により開かれる事で、詫び寂を基調とした東山文化が花開きます。詫び寂、郷愁を感じるとともに同かんを感じるのは今の時代ゆえか。

 詫び寂の原点は、室町幕府の衰退を背景に落ち込んだ権力基盤の空白が応仁の乱を引き起こしたものの、将軍権力には戦乱をちんせい化するだけの実権が残されておらず、結果的に戦乱は京都の文化財ほぼすべてを焼き尽くし、諸国へも甚大な影響を及ぼした。

 応仁の乱を背景に停滞した中でも、詫び寂、以外に選択肢が亡くなったのちにも新しい文化を造営するという気概と、諦めないが妥協する、こういう日本の平成中期から現代にいたる価値観の背景に、北山文化と東山文化の対比が成り立つのかな、とおもったり。

 諦めないが妥協する、文化を継承していればまた花咲くときが来るゆえに我慢というものを強いることになったのも、これは日本の悪弊であるとも思うのですけれども、そのはじまりはやはり京都に見出せるのかなあ、そんなことを考えるのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】宝泉院,雪景色とともに御抹茶と和菓子が供せられ湯気さえその静けさに透きとおる

2025-02-26 20:25:00 | 写真
■宝泉院
雪景色の庭園拝観のたのしみ。

宝泉院、雪景色を求めて探訪しました。そして大原は静かなものです。静けさ、考えてみると大原には民宿も色々ありますので、いっそ逗留してみたいとも思ったりするのですが、なかなか。しかし、この不思議な風情は愉しいのかもしれません。

吹雪、そう、この少し前までは吹雪いていましたが、京都の雪景色というのは足早なのですね。それは朝確かに積もっていたが諸事を済ませてさて散策へと気分高めますと、いやいや昂ぶった気分はしかし、情熱以上に気温という熱にほだされてどんどん解け。

比叡山などをみますとその解け往く様子は目の当たりになりまして、東山あたりから西山を見ますと、そう、高雄は雪景色ですが嵐山は雪化粧、そして吉峰のあたりはもう雪は無く、天王山あたりは緑あふれるという雪解けの過程を一望できるほど。

福井の小浜や岐阜の高山、茨城の大洗に静岡の須走、逗留してみますといいなあ、という場所はあるのですが、観光過多とともに物価高騰の流れは次第に地方都市にも浸透してきていますので、こういうものを免れるには精神的な時の移ろいを愉しむしか。

観音崎、横須賀なんかで逗留して時間を過ごしていますと、物価高騰の関係のない、組み立て式安楽椅子に身を任せて文庫本などを片手に行き来する艦船を借景として過ごしますと、こういう休日の過ごし方も好いなあ、と思ったりするのですね。

高山なんかは完全に観光地になっていますので、そうかCOVID-19のときにこういう場所でもう少し過ごすべきだったのかという愚痴を言いますと、台湾海峡有事を待つんだな、と急にお店で現実、リアリズムを突き付けられて驚いたりしましたが。

盤桓園の庭園拝観では、御抹茶と和菓子が供せられまして、これは拝観料のなかに含まれているのですが、型通りではありますが先ず、その器というものを、しかしこの季節ですと変わりゆく湯気さえもなにか芸術的な余韻を残すのですが眺めまして。

御抹茶を、ずずいと頂くとともにやはりというか、抹茶の奥深い苦味に和菓子の一片がよくよく考えられた調和というものを奏でてくれまして、ふうと吐く息も白息となりまして虚空の借景の中に溶け込んで行くという。こういう時間の過ごし方が愉しい。

五葉の松、実に樹齢700年といいますので室町時代から当院を見られて逆に見続けている銘木に、雪の季節では雪化粧するものです。拝観者が少ないという事は、読書も含めて自由な時間を過ごしても憚られない風情、いや空気というべきか、満ちている。

盤桓園、もう少し早く来ていればふぶく様子を動く情景のように眺めることができるのだろうか。いや吹雪の最中にはここまで歩いてくるというのはどういう景色の中を歩くのだろうか、と色々考えたりもするのですけれども。

実光院とともに大原寺勝林院の塔頭の一つとなっています当院、この一角は三千院は有名なのだけれども、落ち着いて考えれば梶井門跡が当地に遷ってきたのは割と最近ですので、大原といえばこの一帯、声明の里というのは本来なのですよね。

大原は平安朝末期から隠れ里のような風情を保っていた、宝泉院はそういった情景に在りまして、盆地のような地形ではあるのですけれども、静けさという余韻がたまるような盆地には、雪の日こそ静けさが増して湛えているようにも、思えるのです。

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【京都幕間旅情】宝泉院,雪深い大原は声明の里に盤桓園の冬風景と静寂を求めて

2025-02-26 20:00:07 | 写真
■大原探訪
 京都はまた三連休に雪景色となりました。

 宝泉院、雪が降りましたならば、どこかの庭園でゆっくりと時間を過ごしたい、こう考えていましたけれども、京都の雪は足早です。すると、ゆっくり過ごすためには、北に向かう他ない、昔は北大路通が京都の北辺だったそうですけれども。

 左京区大原勝林院町、大原のバス停からあるくこと15分ほどでしょうか、ここには宝泉院という庵があります。連休に訪れた大寒波、今期最強、という寒波の次に来ました寒波にマスコミなどは今季最長、と急遽名を改めたものですが京都では。

 大原にやってきたのは、京都に在って古都らしさを湛えている一画であるとともに、北辺は鞍馬や比叡はじめ多くの峰々に遮られる事で寒さを籠めていまして、住むには寒いだろうなあと思うのですけれど、その寒さは雪景色をやはり湛えています。

 慈覚大師円仁が当地に承和2年こと835年、声明の聖地としまして開きました勝林院を開いたといいますが、宝泉院はその塔頭寺院としまして嘉禎年間に造営されたという。なお、嘉禎年間は西暦では1235年から1238年までの期間を示していますが。

 宗快法印、宝泉院を開きましたのは鎌倉時代に声明目録を著すなど声明というものを体系づけることとなりました宗快法印という僧侶によるもので、了性坊、という名の庵として造営されたところを安土桃山時代に幸淵という僧侶が改めた、という。

 声明、しょうみょうとよみます、せいめいではない。これは唐朝にあって仏典の読経に独特の旋律をつけて唱えるもので、いわば音楽という。音律という言葉がありますが、宝泉院には律川という小川がながれていまして、ここに日本における音の基点が。

 石盤という宝泉院声音の起源というべき石が、これは明治時代のものということだそうですが、サヌカイト鉱石による音源の石盤が置かれている事でもしられまして、しかし、庭園というものを眺めて楽しむには音よりも静けさというもののほうが好ましい。

 額縁の庭園、こう呼ばれている書院は、時間をゆったり過ごすのに気持ちが一新します。ここ、目の前に桜も植えられていますし、春の開花の季節は勿論、紅葉の季節にも借景を含めて素晴らしいものが在るのですが、興味深いのはこの大原のおくぶかさ。

 宝泉院、有名な三千院よりも奥深いところにありますので、雪は降るこの季節にはどうしても行き来が難しくなるところなのだけれども、その過疎さが、オーバーツーリズムの悪弊から大原の地を護っているように見える、鞍馬や貴船よりも護られていて。

 盤桓園、鶴亀庭園、宝楽園という庭園が並ぶ様子がおもはゆい。盤桓園は、ばんかんえん、と読むのですが。なにしろ拝観者が少ないものですから、すうっと抜ける冷気は、毛氈と畳が仄かな温かさに凛とした冷気だけを湛えて、なにより静けさを満喫したい。

 音の寺院というべき宝泉院は、しかし先ず音律の前に白紙の無音というものを考えて当地に造営されたというべきなのだどうか。魅入って庭園に思想と瞑想の愉しみという過ごし方もいいのですが、わたしの場合はその先にいろいろな理論や物語を組みつつ。

 盤桓園は、立ち去りがたい、という意味を有しているとも。そしてなにより雪景色だ。雪というものは何気ない風景でも印象を一新させ、しかし一瞬で溶けて去ってしまいますので、なにかこう、桜花の満開のような、そんな風情をもっているようおもうのだ。

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【京都幕間旅情】貴船神社雪景色,火之迦具土神と高龗神-はるなとくらま,神話が繋ぐヘリコプター搭載護衛艦の艦名由来

2025-02-19 20:23:54 | 写真
■くらまとはるな
 北部は降りましても洛中となりますとなかなか積もらないのが京都の雪という。

 くらまとはるな。海上自衛隊では二隻の護衛艦、ヘリコプター搭載護衛艦の最初の護衛艦はるな、第一世代ヘリコプター搭載護衛艦最後の一隻護衛艦くらま、という関係ですが、こうして国うみに神事では近しい関係であった、自衛隊は考えて命名したのでしょう。

 火之迦具土神と高龗神、はるなとくらま。こうした2隻の関係がある艦名の艦内神社と云う物事なのですが、同時に興味深いなあというのは、国つくりの神事というところでして、もちろん古事記や日本書紀の時代にはしり得なかった物事が含まれていて。

 日本書記や古事記、国つくりの神事について、海から島が生まれた、いや、一応神々が生んだという体裁か、こう明記しているのですが、これ、日本の火山性地形ということをかなり正確に示しているのですよね。

 はじめに神は天と地とを創造された、旧約聖書なんかでは急に創世記で海を無視して天地を創造してしまいます、地は形なくむなしく闇が淵のおもてにて神の霊が水のおもてを覆い隠していた。このように、旧約聖書は海の存在を軽んじているようでして。

 創世記の天地創生は、まあ、結局中東地域に多数あった説話をまとめて内部化して唯一神思想を強めるという、旧約聖書と古事記の、政治的な意味合いとも共通性を感じさせるのですが、するとその関係として、海との近さというものが背景に出てくる。

 黄泉比良坂、興味深いのはさらに続きまして、泉津平阪という架空の土地にこの世とあの世の境界線という、キリスト教思想などではこうした境界線は冥府の入り口というような地下への狭い隧道のように描かれるのですが、黄泉比良坂は広大という。

 泉津平坂というのは、死んでしまった伊邪那美命と、彼女を黄泉の国まで迎えに行った伊邪那岐神との間でひと悶着ありまして、ひと悶着というのはもうこちら側の躰は腐敗しているのに今更帰れないという、日本最初のお洒落談義が戦争になってしまい。

 史上最大の夫婦喧嘩という表現のほうが相応しいのかもしれませんが黄泉軍という神話の神々や鬼たち1500名を派遣して激突するという、この規模だと饗庭野演習場だと厳しいかもしれない、兵員ではなく神様と鬼1500柱となると。

 伊邪那美命は、こののち色々ありまして、黄泉の国を伊邪那美命が担い、この世を伊邪那岐神が担う事となります。ただ、伊邪那岐神さんも黄泉の国行ったのでいろいろ穢れを感じるようになりまして、日向の国でお風呂に入ることとしたのですね。

 日向の国でこうして穢れお落としをしましたらば、左眼から天照大御神、右眼から月読命、鼻から建速須佐之男命が生まれたという。まあ、言うなれば天照大御神といいますと伊勢神宮の祭神です、そしてまあ、護衛艦ひゅうが、護衛艦いせ、が思い浮かぶ。

 ひゅうが、いせ、第二世代ヘリコプター搭載護衛艦の艦名の由来と、ここで繋がってしまう訳でして、第一世代ヘリコプター搭載護衛艦と第二世代ヘリコプター搭載護衛艦が、このように所縁を持ってくるわけなのですね。

 貴船神社参拝、ここからわが国海上防衛を担う話題となってしまいましたが、艦名を考える人たちはしっかり考えているのだなあ、と驚くという話題と、滑ってけがせず済んだことに感謝しつつ、貴船神社から叡山電車へ、帰路に就きました。

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【京都幕間旅情】貴船神社雪景色,伊邪那美命と伊邪那岐神の天地開闢に至る国造りの神事

2025-02-19 20:00:41 | 写真
■高龗神祀る
 今日も貴船は吹雪いているようですが。

 水神である高龗神を祀る社殿は京都市左京区鞍馬貴船町、奥まったところにあります。きょとの奥に在る神社、という印象でみていたのですが、この高龗神という神社のお札が、護衛艦くらま、その艦内神社に分祀されていましたのはご記憶の方が多いでしょう。

 高龗神は淤加美神とも呼ばれるのですが、実はこの神様の関係を、これまで、護衛艦くらま、そして護衛艦くらま、そのヘリコプター搭載護衛艦の艦名の流れといったい視してこなかったのですが、その謂れを知る様になりますと、ちょっと驚いてしまい。

 火之迦具土神、迦具土神や火之炫毘古神ともよばれます神様は榛名神社の祭神となっています。いうまでもないのかもしれませんが、榛名神社から分祀されて護衛艦はるな艦内神社がありまして、はるなは、海上自衛隊最初のヘリコプター搭載護衛艦となっています。

 伊邪那美命、興味深いのは火之迦具土神と高龗神はこの伊邪那美命との姉妹的な存在になっているということでして、いや厳密には神様の男女ということまでは踏み込まないのですが、海上自衛隊は艦名を制定する際にいちおう流れを考えているのだ、と。

 伊邪那岐神が火之迦具土神を斬り殺した際、飛び散った血から生まれたのが高龗神とされています。いきなり殺されるのが神話の怖いところなのですけれども、これは伊邪那岐神と伊邪那美命とが交わって執り行われたのが日本誕生、国生みの神事といい。

 古事記に言う伊邪那美命と伊邪那岐神の天地開闢に至る国造りの神事とは、先ず海に最初の足場として、淤能碁呂島に天降りまして、天の御柱あめのみはしらと八尋殿をしっかと見定めお建てになった、という感じで始まります。

 此処から始まる国造りの神事は、淡道之穂之狭別島こと淡路島。伊予之二名島。愛比売、えひめこと、伊予国。飯依比古、いいよりひこ、讃岐国。大宜都比売、おおげつひめ、阿波国。建依別、たけよりわけ、土佐国、と島々を生んで行きまして。

 国つくりは海に土地をかき混ぜることで隆起させてゆき、隠伎之三子島、おきのみつごのしま、 隠岐島。こう海をかき混ぜてこの大地を有為出したという。その国造りの神事は二人の神々が続いて、筑紫島、つくしのしま、九州。造成してゆく。

 九州から始まり白日別、しらひわけ、筑紫国。豊日別、とよひわけ、 豊国。建日向日豊久士比泥別、たけひむかいとよくじひねわけ、肥国。建日別、たけひわけ、熊曽国。伊伎島、いきのしま、壱岐島。津島、つしま、対馬。佐度島、さどのしま、佐渡島を生む。

 大倭豊秋津島、おおやまととよあきつしま、本州を生む。日本を大八島国、おおやしまのくに、こう示すのはこの順番に海にいでた経緯ゆえといい、神は続けて6島を産む。吉備児島、きびのこじま、児島半島。、小豆島、あずきじま、小豆島、と。

 大島、おおしま、周防大島。女島、ひめじま、 姫島。知訶島、ちかのしま、 五島列島。両児島、ふたごのしま、男女群島。斯くしてこの豊潤な国土が形成されたと神話にはあるのですけれども、その後に。

 伊邪那美命は火之迦具土神を出産するのですけれども、この神様は日の神様ですので伊邪那美命は出産の際に大やけどを負ってしまう事となりまして、この火傷が原因で死んでしまいます、この為、伊邪那岐神が火之迦具土神を斬り殺すのですね。

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【京都幕間旅情】貴船神社雪景色,貴船神社は水の神様をまつる護衛艦くらま艦内神社のご神体

2025-02-12 20:25:11 | 写真
■京都の雪
 雪景色の撮影は大変だけれどものちのち見返してみると嬉しい出来上がりの情景となります。

 貴船神社は水の神様をまつる、護衛艦くらま艦内神社のご神体であったりしまして、そして護衛艦はるな艦内神社のご神体、榛名神社の神様が、実は兄弟であったりする、神様に性別は無いというならば、これは姉妹と言えるのかもしれない。はるな、くらま、調べてみると驚くのですが。

 第52護衛隊を構成した護衛艦が、艦内神社のご神体が姉妹だったということを知りますと、海上自衛隊は無作為に艦名を決めているわけでは無いのだ、ということに、今更ながらですが、背筋に何かが透き通るような錯覚があります。護衛艦の艦名に文句をつけている元自のライターに云いたい。

 京都の雪、驚くほどに早く解けてしまい冬らしい情景を撮影するには、いそがなければならないのですが、少なくとも一年間に雪景色は二回程度は降雪によりしろく雪化粧してくれますので、そういうときに撮影散策するというのは、ある意味、風物詩を楽しむ仕草と云えるのでしょうかねえ。

 貴船神社、閉口したのは階段の雪ががっちがちに氷結していまして、ぬれることの内容にゴアテックスブーツをみにちけて臨んだのですがつるつる滑りまして、これが何というかけっこう危ない十五回ほど、手すりに救われた感じです。そう出なければあの階段で足下を掬われた。

 雪の日は階段の風景が美しいのですが、観光ガイドにあるような無人の階段と雪景色を撮影したいならば、努めて嵐電の始発に乗車しなければなりません、案外長いようで短い階段なのだけれど。そしてこの日に氷結していたのは根雪とかそういう意味では無かったりするのですけれど。

 絶景といいますか、貴船の階段はある程度世界にも知名度を持っているようで、この日は日曜日でしたお出日本と世界のお客様が朝一番からこの階段を撮影するために上っていまして、おそらく一万名以上の参拝者が踏み固めて、アイスバーンを構成している、そういった事情があるのですね。

 社殿が見えてきましたならば参拝します。そして、COVID-19あとの現代と云うところでしょうか、世界中の方が参拝しているのですけれども、なかでも水みくじが人気となっていまして、一方、貴船石の石庭、重森さんの作庭の小さな石庭が雪に埋もれてこの季節らしい存在感を示す。

 日曜日ですから混雑しているのであろうなあ、と思ったのだけれども、思ったほどでは無いのか。いや、午前中に初動で雪景色を撮影したい方は、降りしきる中に金閣寺ころ鹿苑寺や清水寺や慈照寺なんかを巡って、今頃はもう帰宅して暖かいところに居るのかもしれない。

 寒さとともに、雪というのは撮影を困難にさせるもので、こう不利終えてしまったときにはなんとかなるのですが、舞っている風雪はレンズに張り付いて撮影の妨害障害になってしまう、ゆきを避けるために大きめの傘を差していても白雪は舞い込んで切るものですから。

 カメラ用品にシャワーキャップのようなレンズを守る防滴装備があるのだけれど、結局レンズの華道部に入れば漏水ですし、あとは暖かい部屋に入りますと湿度しだいで一気に結露してしまうわけですから、このあたりもどのように撮影機材を動かすか、暖めなければならない状況もでてきます。

 雪の日に撮影へ行きますと苦労はあるのあるの明けれども、しかし、京都では毎日降るわけではありませんので、雪景色というのは非日常感を醸します。気候変動と言われるのですがもう一つ、今年も雪景色が京都で見られたのだなあ、という安堵感も加わるのが重要かもしれない。

 貴船神社参拝、積雪になれていない京都では普通タイヤで交通渋滞が巻き起こることもあります、ただ、この貴船は叡電で行くことが出来まして、もちろん凄い豪雪ならば運休するのでしょうけれども、こういう景色くらいでしたら、電車でちょっと、撮影に行くことが出来る非日常が、愉しいのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】貴船神社雪景色,雪というのは凄いものでなんでもないような日常の風景でも特別な情景のように引立ててくれる

2025-02-12 20:01:46 | 写真
■貴船神社雪景色
 今季最強寒波という事ですが驚くほどその日の午後には京都市内は雪解けを迎えてしまいました。

 雪というのは凄いもので、なんでもないような日常の風景でも特別な情景のように引立ててくれます。けれども京都の雪景色、Webで探せばいくらでも見つけられるのだけれども、実際のところ簡単ではありません。当たり前だけれども、良い写真だけみなさんSNSに投稿するのですから。

 貴船神社、京都の積雪というのは驚くほど早く解けてしまいます、ですがこの洛北のさらに北という貴船や鞍馬は、案外と一定以上の積雪があった日でも夕方まで積雪が残って雪景色をみせてくれるのですけれども、金閣寺や銀閣寺で雪景色を見ようと思うならば、急がねばならないのです。

 金閣寺と雪景色という情景は、春夏秋冬金閣寺の冬を印象づけるところですので、まず皆さんが撮影したいと意気込むところです、けれども、NHKなんかが、すごい積雪です、と朝のニュースで報じて、仕事を切り上げてカメラを準備しましたうえで、午後一番を狙っていくとどうなるか、と。

 衣笠山の雪冠も含めてだいたいのばあい、もう午後には雪景色というのは残っていません、さくりと朝一番に靴が埋もれるほどの積雪があったとしましても、いろいろ日常の庶務に取り組んだ上で余裕が生まれる正午頃には、現実とは非情である、ということになっているのですよね。

 鞍馬、貴船はこうしたなかで、不思議に思われるかもしれないけれども、あと三駅ほどでほんとうに雪景色が来るのだろうかと叡電のなかで不思議に車窓を眺めていても驚くように、急に雪景色がやってくるのですね。その、急な季節の変化というものが、京都の風情といえるのかもしれません。

 叡電で貴船神社というのは、きぶね、とこう記しまして貴船駅まで出町柳駅からのぼってゆきます、登るというのは叡電は登山鉄道、よくよく歩いてみると案外登っているのだなあと実感する路線を進んでゆきまして、貴船駅、次の駅はもう終点の鞍馬駅となっていて、雪景色と親しい。

 寒さは感じるのだけれども、山間にあります貴船の地形は突風が吹く地形ではないので、いがいと寒さは感じません、ただ、あまりのんびりしていますと雪が霙に変わったりしますと、カメラバッグは勿論上着に染みこんできますのであまりゆったりはできないのだけれどもね。

 情景とともに長居したい、貴船神社で雪の日が特別なのは貴船神社は積雪があったその日の夜だけ特別にライトアップしてくれるのです。ただ、のこっていると寒いだろうなあ、こう考えてしまいますと出町柳あたりで暖かいものを一献やりたくなるというもので叡電に向かってしまうのだ。

 きふね、貴船神社、きぶね、貴船駅、濁点が入るのかどうかと云うのはこの駅と神社の名のちがいでもあるのですけれども、駅から神社までは、バスで7分ほど、バス停がいくつかあります。そして細い道ですのであまり多くの自動車が行き来できるような道路状況ではないのですね。

 路線バスで行くことも出来るのですが、雪の日は混雑します、この点幸いと云うべきでしょうか、空車のタクシーが駅前に回送にするかどうかという頃合いであるのが見えましたので、ちょっとタクシーで楽をすることとしました。運賃は千円、混雑のバスと所要時間を考えると好い機会費用だ。

 川床はじめ、真夏の暑いさかりにはこの貴船は避暑地です、暑いのだけれども出町柳まで戻ると熱いという状況になっていますから、川床でゆったり時間を過ごしまして、そう、川床で時間制限が無いことをいいことに、せせらぎを見ながら仕事する、そんなこともコロナの時代には繰り広げた。

 雪が降れば東京の方は電車のことを考えるという、それは中央線がいつまで運行されるのかということなのですが、京都の場合は、これ一部のかたとお断りした上で、雪が降れば京都では電車を考えます、雪景色を求めて鞍馬に行く電車は混雑しているのだろうか、ということです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】下御霊神社-節分,朽ち往く本線屋根部分と千年超える歴史に届かぬ補修

2025-02-05 20:25:03 | 写真
■きびしい実情
 節分という華やかな話題と共に結構本殿屋根部分とかが朽ちている様子の話題を語るのはさびしいのですが。

 下御霊神社、この社殿を見上げますと、京都というもののもう一つの姿が見えてくるのですが。それは政教分離の時代に在って、神社の存続というものを、つまり厳しい意味で考えるというものでして。政教分離、公金は使えないが文化財という。

 本殿は寛政3年こと西暦1791年に仮皇居の内侍所仮殿を移築したものということは前回触れていますが、この建物は御所の建物ということで京都市指定有形文化財に指定されています、が、屋根の部分が崩れかけているのですね。応急修理は行った。

 幣殿、廻廊、拝所も京都市指定有形文化財に指定されているのですが、やはり予算というべきでしょうか、寺町通という氏子衆が分散してしまう場所に位置していますので、どうしても氏子衆だけでは維持できない建物が多く、神社の建物は危機に曝されて。

 京都市指定有形文化財といいますと、京都市が少し支援してくれるのかというとそこまで簡単な話はありません、結局クラウドファンディングによる神輿庫修繕事業が行われたという歴史があります。公金は政教分離の関係から出せないという現実だ。

 神輿庫修繕事業については無事に完了しているのですが、江戸時代、18世紀の本殿についてはかなり傷んでいまして、これ、銅板を屋根にのせることで雨漏りだけは回避しているのですが、参拝の際にお賽銭を少し多めにしてしまうほどに、屋根に痛み。

 本殿の痛みについては、特に丸太町通り側からみますと顕著となっていまして、耐震補強とかいうまでもなく、恐らく南海トラフ地震が全割れの状態で発生した場合は京都市が震度六ということですから、ちょっと倒壊してしまうだろうなあと寂しく思う。

 寺社仏閣は数多あります京都でして、歴史が千年以上という神社も数えきれないほどあるのですけれど、だからといって公金を出せる訳が無く、その維持とともに、日本の経済成長には限界が見えてきましたので、次の災害があった場合には、と考えてしまい。

 政教分離は重要だと思います、公金を出せば新興宗教が狙ってきますのでね。それでもこう、朽ちてゆく実情というものを見てしまいますと、寂寥感を感じてしまいます。特に今後は木材高騰など、寺社仏閣の修理維持には負担が大きくなりますゆえ。

 歴史を挙げますと、そう、積雪寒冷地域などはその地域が律令制度とともに維持されているところも多いでしょうから、京都だけ特別という事は出来ないのですが、ここ京都であっても自社の維持には、という全国の過疎地域神社の問題の一端がみえてしまい。

 氏子衆、結局神社は地域が支えるほかないのですが、何ができるかといいますと、地域を盛り上げて活気づけてゆくほかないのだと。要するにこの寺町通で散策し、買いものしてランチしてディナーしてお酒のんでと、盛り上げるほかないのですよね。

 寺町も北の方に来ますと、なんといいますか観光地価格というような厳しさから少し逃れることができまして、御所の方へちかよっているのに観光地価格から離れているのは不思議にも思えるのですけれども、しかし愉しく過ごすことができならばそれはそれで。

 下御霊神社、この社殿がどのようになるのかの道筋が、なにか限界が見えているような錯覚を感じる我が国に在りまして、無理に行政用語としての成功や慣性で彩ろうとする五輪や万博準備を傍目に、飾らぬ現実を突き付けているように思えるのです。

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【京都幕間旅情】下御霊神社-節分,貞観5年こと西暦863年に御霊信仰とともに造営

2025-02-05 20:00:30 | 写真
■節分
節分ですよ節分だ。

節分という事で、下御霊神社へ参拝してまいりました。今年は節分が日曜日と重なりましたので、ちょっと混雑が凄いぞという話もあり、避けて三日に参拝しましたのですが。ここも御霊信仰とつながる歴史ある神社となっています。

桓武天皇の御世におきまして全国各地で疫病が流行したという、それは御霊の祟りであるとして、清和天皇の時代、貞観5年こと西暦863年、祇園祭の原型となります平安京の神泉苑で御霊会が催されています。神泉苑、二条城の隣に在るところ。

この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとされています。この下御霊神社はのちのち京都御所の産土神として崇敬されることになりまして、今日に至ります。一日を経た節分神事の印象はまさに祭りの後という感じではあるのですけれども。

中京区寺町通丸太町下る下御霊前町、下御霊神社はこの寺町通に位置しているのですが、もともとは愛宕郡出雲郷の出雲路にある下出雲寺御霊堂に祀られていたといいます。この時代、北には上出雲寺御霊堂と呼ばれていた上御霊神社があり、今の通り。

応仁の乱勃発の地が上御霊神社ですのでやはりというかまあそうなるね的な結果となり、後に新町出水に移され、その後、天正18年こと西暦1590年、豊臣秀吉の都市整備にともない寺町通が整備されることとなりまして現在地に遷座したという。

西園寺実氏の別荘常盤井殿があった場所です。もっとも火災にはこののちも見舞われていまして、いまの社殿は天明8年こと西暦1788年、あの天明の大火で旧社殿が焼失したことをうけ、仮皇居の内侍所仮殿を寛政3年こと西暦1791年に移建し今に至ります

吉備聖霊として吉備真備、崇道天皇として桓武天皇の皇太子であり政争に散った早良親王、伊予親王というやはり桓武天皇の皇子、藤原大夫人という伊予親王の母である藤原吉子、藤大夫こと藤原広嗣、橘大夫こと橘逸勢、文大夫こと文屋宮田麻呂といった方々と。

火雷天神こと菅原道真が祀られています。下御霊神社の祭神は歴史上、政争に巻き込まれて亡くなった方々を祀る社殿とされていまして、いわば、政争の中に巻き込まれる事となり、憤死した偉人たちの慰霊碑、となっているわけですね。

御霊信仰と節分の追儺神事の重なりがあるものですから、まあ京都の神社では数多追儺式を行っているのですけれども、ここ下御霊神社においても執り行われている節分神事というものです。昔は日にちをずらして追儺式を行った神社も多かったようですが。

5月1日が神幸祭となっている神社でして、それが令和天皇即位式と重なることから、令和時代の祭典という、こうした位置づけを持つようにもあっているようですが。ここは文字通り寺町通のあります社殿ですが、いわゆるアーケード街の寺町通りではない。

寺町通といえば新京極通と並行しているゆえに観光客と修学旅行生、という印象があるのですけれども、不思議とこう、大きな寺社があります寺町通も、アーケードの無い場所にあってはそれほど観光客が集まることもなく、不思議な静寂があるのですが。

京都観光に日本の歴史を学ぶのであればこう、寺町通を御所の方へ歩んでみるもの好いのではないかな、と思うところですが。やはり京都というものを感じ入るほどに過ごすには、もうちょっとゆっくりしていってほしいよなあ、と思うところですね。

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