北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,大神と農耕-わんだふるぷりきゅあ!ニホンオオカミと雑種犬の関係

2025-01-29 20:22:24 | 写真
■ニホンオオカミ
 大神とオオカミと農耕神と日本の歴史について。

 わんだふるぷりきゅあ!から、オオカミに関する誤解を招く表現があるのだなあ、と思いまして伏見稲荷大社の話題とともに論理展開を進めてきましたが、しかしニホンオオカミが絶滅した事は事実です、時折目撃情報が出てきますが、確認されたのは1908年まで。

 ニホンオオカミ、その絶滅は急速だったようですが、その背景には日本国内の明治維新後におけるある変化がある、ジステンパーの大流行です。ニホンオオカミは、明治維新後に猟犬として洋犬が日本に入る様になりますと、文明開化はジステンパーも開花させて。

 ジステンパーは南米から欧州に入ったウィルスです、ウィルス感染症であるジステンパーまで明治維新と共に入って来るようになりまして。パラミクソウイルス科の、つまりありふれた風邪の一種ではあるがリンパ系組織を壊死させ致死率は90%、エボラ並み。

 天然痘を南米に持ち込んで大殺戮を行った欧州の国々はジステンバーにより最良の相棒を大殺戮されるしっぺ返しを食う。人類は学ばず、ラキ火山が1783年に大噴火すると食糧不足の欧州はインドから餓死者が出るほど小麦を徴発、同時にコレラを持ち帰ってしまう。

 コレラは安政のコロリ、といわれて開国した後の日本で猛威を振るいます、文久のコロリでは江戸だけで7万から23万、数字が揺れているのは風疹大流行と重なった為ですが、関東大震災や3月10日東京大空襲よりも多くの人々が亡くなっている歴史があります。

 獣たちよ!闇をまとって吼えなさい!!、とザクロさんは作中で仰っていますが、結局、開国シテクダサイヨー、みんな なかよし!わんだふる〜!、と無理に交流を進めてしまいますとこういうことが起こるという事ですね。ジステンパーはほんとうにとどめとなった。

 北海道では、明治以降開拓が進みますと火山性地形での無理な開拓により農耕馬や農耕牛と、始まった酪農を筆頭に牧畜がおこなわれ、オオカミによる被害がでてしまったため、組織的な駆除が行われました、けれども北海道のオオカミはエゾオオカミとなっている。

 ニホンオオカミについて残念なのは、上野動物園でも一時期飼育されていましたが、数多く生息している動物という扱いであったため、まさか数年後に絶滅するとはだれも思わず研究が十分行われず、また多くの大学の学術資料は東京大空襲などでうしなわれている。

 では、ニホンオオカミは本当に絶滅したのか、という視座ですが、ニホンオオカミとヤマイヌを文化的に同一視していた地域が多く、マタギやアイヌ集落では猟犬を強化する為に意図的にニホンオオカミと交配させたという歴史があり、混血してしまっている実情が。

 純血、というものにこだわるならばニホンオオカミは絶滅しているのかもしれませんが、まったく純血の神武天皇時代から混血していない日本人が存在しないように、ニホンオオカミも、雑種、として混血してしまったことが、逆に遺伝子を紡いでいるともいえます。

 ザクロさん、ただ、注意しなければならないのは、パピヨン犬の犬飼こむぎとの触れあいです。日本人はニホンオオカミを駆逐していなかったとしても、パピヨン犬筆頭に洋犬の持ち込んだジステンパーは、ね。パピヨン犬はスパニエルから15世紀に文化したもの。

 猫屋敷ユキ、もう一つ注意したいのは農耕の守り神として活躍した場をオオカミから奪ったのはエジプト文明の時代に突如人類の前に出現したネコということ。ザクロさんは被曝国を襲った1954年のゴジラのように、戦う相手を間違えているのかも、しれませんね。。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,大神と農耕-わんだふるぷりきゅあ!ギルガメッシュ叙事詩とルガル

2025-01-29 20:01:47 | 写真
■ギルガメッシュ叙事詩
 わんだふるぷりきゅあ!は無事最終回を迎えましたが最後までニホンオオカミの名誉回復とはならなかったのが残念だ。

 オオカミと人類の関係、もともと動物学の研究では、イヌ、わんわん、これは人類が文明を持つ前に、オオカミの群れに人類の誰かが手招きをしまして、ちょっと一緒に暮らしてみようかな?と歩み出てきたオオカミの一匹が、ファーストわんわんなのでしたが。

 職業の分化、そして食糧の蓄積、考えれば簡単なことで、この時代に人類の最大の脅威はネズミによる食害、モグラなどによる灌漑施設の破壊、といったものでしたが、お気づきでしょうか、ネズミとモグラはオオカミの捕食対象であり、という当たり前のことを。

 オオカミは結局のところ、農耕には害を及ぼさないために、共存できる文化が自然形成してゆく。もちろん、人間を襲撃したオオカミは駆除対象となったのでしょうけれども、人を襲えばそれは相手がひとであっても、人が行う事にはそれほど違いはありません。

 ルガル、興味深いのは人類が農耕を続けるとともに社会というものは徐々に広範な生活領域を形成してゆきます、意外かもしれませんが、コミュニティーというものは自然形成されており、それは物々交換を行う市場や神官という職業を生みますが肝心なものがない。

 国家、というものが未だこの時代では都市国家という、コミュニティーの一部が集権的な性格を帯びてくることは確かなのだけれども、人類は未だ統治機構というものを考えるまで、つまり権力基盤を構築できるまではもう少し時間を必要としていたのですね。

 ルーという言葉の延長線上にルガル、という単語が生まれたのはその少しのち、つまり、狩猟と農耕という関係性の先に、略奪、すなわち農耕による収穫物を標的とした狩猟、速い話が略奪ですよ、こうしたものが組織的に行われる時代が人類にも到来したのでして。

 ルガルという文字の表現は、群れの大物、という意味を有していたようです。もともとのはなしですよ?、それはオオカミの群れの大物、そんな枠組みを念頭に、まあいうなればウルフパック戦術の概念を4500年ほど遡らせればある程度意味が通るのでしょうか。

 群狼をまねた群れの大物という概念が文字として記録され始めるのは、人類が戦争を始めた時代と合致します。無論当時は、人命が非常に貴重で、農耕収穫物を襲う狩猟民や略奪者、黒澤明の“七人の侍”的な事例は、いまでいう全面戦争のようなものには達しないが。

 ルガルは戦争の、いや短期的に終わるものですから戦闘の、指導者という意味を有するようになるのです。ただ、前述の国家を生む権力基盤が構築されなかった、人類文明の草創期というものはここから発展しまして、ルガルという指揮官と保護される人たち、と。

 王という意味合いをルガルが持ち始めたのは、まあみなさん、Fateとかでサブカルチャー的にご存じでしょう、古代国家ウルクの時代まで遡りますと既に定着しています。ルートルガル、味方によっては農耕を始めた人類が模した社会というものは、ルーだった。

 ギルガメッシュ王は、意外にも実在の人物なのですが、ギルガメッシュ叙事詩は死者の書を例外とするならば世界初の物語、文学作品となっています。もっとも、ギルガメッシュ叙事詩が発見された後に、世界の考古学者によりウルクの研究が進んでゆくのですが。

 ウルクにおける王の座というものは、残念ながら既に元老院の原型ができていて、権力基盤はそれほどでは無かった、すると、ギルガメッシュ叙事詩というのは、忙しい中間管理職が現実逃避に、俺ツエー的なライトノベルを書いていた的な実情が見えてくるという。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,大神と農耕-わんだふるぷりきゅあ!人類黎明期の農耕神としてのオオカミ

2025-01-22 20:25:04 | 写真
■バルカとルー
 オオカミについてここまで北大路機関で語るとは自分も考えていなかったのですが。

 赤ずきんが、オオカミを悪者にしたのかなあ、とおもえば、狼と香辛料には頑張ってもらいたい、と切に願い愛蔵版を最近そろえたのですが、とかく、欧米の価値基準ではオオカミは悪者にされている、その背景には牧畜などオオカミの食害に悩んだゆえだから。

 ウルフの語源、これは古代アーリア語のVarkaがそのまま英語でWolf,仏語でLoupとなっています。その語源については略奪者、という意味があるのですが、同時に勇ましい名前でもあり、ローマを滅亡の淵に追いやったハンニバルバルカというような名ともなる。

 ハンニバルバルカを一つ名前として出した訳ですが、その上で忘れてはならないのは、人類の言語の歴史は古代アーリア語よりも更に遡ることができるという点でして、そこまで遡りますと、同時にそれは人類文明の黎明期まで遡ることにはなるのですけれども。

 Varka,古代サクソン語Wulf,古代ノルド語ではUlfr,このあたりはウルフでほぼほぼ共通点を見出せるのです。ここに略奪者という語意を含めるのは、狩猟に際して特に冬季などで獲物が少ない時期においては重大な競合相手であり、また人を襲った歴史もありますが。

 文字、ただ、これを人類の黎明期であるシュメール時代まで遡りますと、大分意味が違ってきます。初期絵文字はエジプト文明において神聖文字へと発達してゆきますが、表意文字は解読は簡単ですが普及がむずかしい、紀元前2800年ごろの後期絵文字から変化が。

 初期楔形文字が成立するのが紀元前2500年ごろですが、表意文字から文字そのもののられつが意味を持つようになりますと、人類文明は大きく飛躍します、それは文字によってでは必ずしもなく、文字を必要とした背景により人類文明が広範に広がるのですが。

 農耕、人類が文字を必要とする背景には、狩猟採集の時代には文字はそれほど必要とされませんでした、職業の分化、ここが文字を必要とする背景に繋がるのです。それは保管可能な農作物に価値が生まれたため、なのですが、文字の話をしていると狼からはなれた。

 ルー、シュメール時代という人類の黎明期、ホモサピエンスから人類という、いわば動物学から人類学への分岐点において初期絵文字等の解読から狼はこう発音されていたようです。そして驚くことに、オオカミはこの時点では文字上、悪い意味は持っていなかった。

 農耕、重要なのは人類が文字を発明した時代は農耕という、漸く冬に絶滅するかどうかという不安を払しょくできた過渡期であったためでして、興味深いことに農耕という技術を手に入れますと人類は、金属精錬、そして車輪と立て続けに発明を続けているのだが。

 オオカミはこの時点で、文字上、悪い意味を持っていなかった、という実情の背景には、農耕とオオカミ、という関係があったと推測するのが妥当なところでしょう。それは、オオカミはほかの人類に関係する動物との間で農耕へ悪影響が少なかったということで。

 車輪の発明とともに、運搬にもちいる動物、牽引するための動物が必要となりますので、もちろんこのための馬や牛という存在はオオカミの標的となったことは想像に難くはないのですが、楔形文字の時代にはそうした脅威を想定して尚、オオカミの敵視はない。

 人類文明の曙では、そうした関係性があったのですね。同時に、この時代は牧畜せずとも捕獲できるほど野生動物は豊富で、それを市場で交換する事で食料としての精肉を得られたという時代背景があるのですが、人類とオオカミの関係を見るうえでこの視点は重要だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,大神と農耕-わんだふるぷりきゅあ!ニホンオオカミ扱いへの反論

2025-01-22 20:00:16 | 写真
■大神と農耕
 たまにはこういうわだいがあってもいいでしょう。

 北大路機関は、2003年の創設を経て2005年にWeblog北大路機関として発展し、今年で創設20年を迎えます。その背景には、自衛隊に関する多くの誤解が当時報道でさえも残っていて、先ず実情と事実を知ってもらう事が安全保障への一歩として歩みだしました。

 伏見稲荷大社、さて、今回この伏見区の社殿を紹介します背景には、ちょっとここは指摘しておかなければならないなあ、という義憤ではないけれども、思い立ったことがありまして。朝日放送テレビ、大阪市福島区の西日本を中心とした放送系列の番組について。

 オオカミが悪者という描写がありまして、日本では逆に信仰対象であったのだよなあ、と、事実と異なる可能性を感じました。牧畜を行う場合はオオカミは駆除対象ですか、日本は儒教と仏教の影響があり、牧畜はそれほど普及していない、まあこれはのちほど。

 わんだふるぷりきゅあ!、所謂朝アニメで、日曜日という北大路機関が戦車だ戦闘機だ機動戦闘車だ護衛艦だ哨戒機だ潜水艦だ、と追いかけまわしている最中にはちょっと縁が遠かった作品についての、オオカミに関しての描写です。今回はオオカミが敵だという。

 くらま体験航海、実のところこの作品が子供向けという割には様々な内容を含めているのだなあ、とみてみて驚いたのは、20年近く前、静岡県において予定されていた護衛艦くらま体験航海が豪雨により中止となりまして、仕方なく戻ったホテルでの話なのですが。

 ザクロ、オオカミの亡霊の擬人化という設定だそうで、声優さんが狼と香辛料でオオカミを追い払っていたノーラアレントの役を演じられた方でしたので、ちょっとわらってしまいましたが、なんでも、人類により絶滅させられたニホンオオカミだった、という。

 大神、驚かれるかもしれませんが、日本においてニホンオオカミを組織的に駆除した事例が、探してみると見つからないのですよね、野犬狩りの際に巻き込まれた事例があるのですが、それよりも大神、ということで日本ではニホンオオカミは信仰の対象であった。

 伏見稲荷大社の神使の狐は、オオカミではなく狐、歴史上は神社では、船岡山の、つまり北大路通沿いだ、船岡山の近くの穴に住んでいた狐の老夫婦が、人間とふれあい、いろいろ助けられることがあったものですから、寿命を終えたのちは人に尽くしたいと思って。

 神使の狐という存在は、船岡山に住んでいた狐の老夫婦が人間に恩返しをするために、自分の子供たちと共に宇迦之御魂大神のもとにはせ参じ、その願いが受け入れられた、という歴史があります。それは同時に、狐にも農耕神という側面があった為なのですが。

 宇迦之御魂大神、今では伏見稲荷大社は商売繁盛を願う神域となっていますが、神使の狐が稲穂を咥えていて、蔵を護る鍵を咥えている通り、もともとは農耕の豊作を祈る神殿となっていました。稲荷の語源の説に、稲成り、という説があるほどなのですから。

 送り狼という単語も、日本では、まあ夜女性にイカガワシイ下心で近づく男性諸君の暗躍で悪い意味を持つようになりましたが、もともとは山道で迷ってしまっても、附いてきてくれるオオカミを避けていると銛の外に出られた、そんな孤児があり、悪い意味ではない。

 ニホンオオカミは、日本の棲息圏においては別に敵対していたわけではなかった、ということ、わんだふるぷりきゅあ!ではもう少し触れてほしかったなあ、とおもうのですね。それは農作物に群がるネズミを駆逐し、灌漑路を壊すモグラを捕食した、神なのだから。

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【京都幕間旅情】平野神社-初詣二〇二五,人工知能はさくら吹雪の夢を見るか-再考AIとの関係性

2025-01-15 20:25:08 | 写真
■さくら吹雪の夢を見るか
 平野神社にて昨年と同じ話題を敢えて。

 初詣とともに、まあ、理非曲直とかいろいろな願いが浮かぶのですけれども、本心から考えますと平穏無事、というところと上昇志向みたいなものを願うとおりなのですが、昨年ここ平野神社の話題に接しました当時に扱いましたのは、AI,人工知能との付き合い型ということでした、あれから一年だ。

 人工知能はさくら吹雪の夢を見るか、という視座ですね。人間同士のあり方や社会的相互行為の歴史は社会学がそうとうに蓄積と研究を進めていますが、人間とAIの関係は社会学や心理学の分野ではまだ草創期であり、研究を進めてもそれ以上にAIの技術に冠する発達が急速に進んでいる印象です。

 AI,北大路機関では勝手にアイちゃんと読んでいます、近所のワンコのあいちゃんのようで可愛らしいのですが、機械学習の対象として、北大路機関の写真や文も使われているのだろうなあ、という指摘を受けていますと、AI学習への応用を禁止する旨を、無断転載禁止について追記すべき時代なのか、と。

 人工知能について、AIという丹後は既に1950年代に誕生していますし、AIという単語を使わないまでも例えばSH-60K哨戒ヘリコプターに搭載されていますプロフェッショナル判断機能という対潜戦闘システムは明らかに人工学習を応用したAI人工知能を示しているものですので、日常のものではあります。

 ただ、機械学習に写真などを使われることについては、これは、なにしろAIはデジタルデータとしての0101010101010の羅列として画像を見ているだけなのかもしれませんが、例えば観艦式の写真一つとって簡単に撮影できるものでは無いことをAIが認識しているのかな、という問題です。

 盗作といわれる問題は既に2010年代後半期から指摘されているものです、そしてAIの倫理観といいますか、その教育についても、つまりAIが倫理観と法遵守の精神を畜養することについて、その解答が模範解答的な文章の発出なのか、精神的な到達まで勝ち得た結果なのかについては、まだ研究は及ばない。

 SNSのTwitter、最近はもうXと呼ぶのが主流のようですが、こちらについては人工知能の機械学習に用いるという。ただ、その約款がXの社会的影響性や広汎性と比較した場合にどの程度有効であるかはまだ議論の余地があり、一方で北大路機関についてはWeblogという過疎の始まった分野がその活動の中枢だ。

 Weblogは過疎が始まっているからこそ、その人工学習の対象とする場所としては充分活用されていないために、考えすぎではないかと言われるのかもしれませんが、一方で、かなりの苦労と努力というものをAI機械学習の際に斟酌されているとは考えないのですよね、故に世界中で盗作が問題となっていて。

 広告などでは、一方でWeblogの自動執筆を売り込む内容が示されています、ただ、内容としては個性を反映させるものでは無く、注目される内容というものを自動執筆してアクセス数向上に役立てるという。ただ、この流れに、AIが個性と首尾一貫性をもった文章を執筆できるようになるのか、という危惧も。

 AIの技術が進歩したならばデジタルツインのように個性を獲得してにた文章をえがけるようになるのだろうかと考えますと、AIは人工学習ですので過去の事例をみてまねることは出来るのでしょうけれども、新しいものを埋めるような水準に達するのは果たして何年後なのだろうか、という段階でもある。

 すると、やはりAIにたいしての姿勢は、人工知能はさくら吹雪の夢を見るか、という最初の問題が解決されていません。これはもしかすると、AIが自立型となり、いいかえれば自己実現を満足できるような筐体を保持できるようになるまでは成り立たない概念なのかもしれない、こうも考えてしまうのですが。

 AIに期待するのは、玉石混淆のAIにあって、もう少し使えるAI管制式のデジタルカメラ、三脚上に置くことで過去の自分が撮影して高評価としている写真と違いを見つけ出して自動で操砲して撮影できるようなカメラ、いまの使い道の内AI管制CANONカメラ以上のものが販売されるのを待つ、という感じですね。

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【京都幕間旅情】平野神社-初詣二〇二五,振る舞い酒も異常気象も無い平穏無事な正月過ぎに詣でたこの社殿

2025-01-15 20:00:11 | 写真
■平野神社-初詣二〇二五
 平野神社、初詣となりますとなんとなくですが数多ある神社の中からここ平野神社に参拝しています。

 謹賀新年、というわりには初詣はもの凄く遅くなりまして、年末色々ありました関係で結局そのしわ寄せは年始以降にも及びまして、日本からはまた軍事雑誌が一つ消えました。閑話休題ですが、私事ながら謹賀新年の年賀状も返せていませんので、なんとか寒中見舞いの挨拶の手配をせねば、と。

 初詣は、ちょっと時節を外しましたのでお楽しみの振る舞い酒などは既に神話の世界、というと言い過ぎですがまあ、遅かったねえ、となりました。そして、さすがに異常気象という最中でも平野の桜は満開、なんてことはなく、神社の境内をゆっくりと西大路通から参拝へと向かうのです。

 花見の季節には落ち着くのかもしれませんが、もう少し多忙と言いますか予定が詰まっている時期は続いてゆきそうでして、しかし、初詣くらいは心落ち着け静かに詣でることとしました。静かにというのは、まあここ、桜の季節と正月三日いがいは、こうした静かな世界が広がっている故なのですが。

 北野天満宮、平野神社の直ぐ地殻には天神信仰の聖地が広がり、すこし西大路通を歩み伸ばしますと直ぐにわら天神、ここから目の前に金閣寺道があり、少し急峻な、というには大げさか、坂道を車道にそって上るとそこは直ぐに鹿苑寺、金閣寺が多くの観光客を集める中、左大文字山には大文字がみえて。

 平野神社は皇室守護、皇太子守護の神殿として平城京の時代から信仰を湛えてきまして、平安遷都ともに当地へ遷座された歴史がありますが、同時に神紋に桜を掲げていますことから、梅花の花見主流の時代に在っても観桜という文化の源流にあるという一説があり、実際平野の桜は初の風物詩となっています。

 平安時代には平野祭は皇太子自らの奉幣がおこなわれていたといいます。もっとも、毎年四月の平野祭は当時の風俗を継承した歴史行列が執り行われるものの、このところの異常気象では祭事のころあいに、いちばん大事な桜花の花々がすべて葉桜となっているという残念な気風ではあるのですが。

 観桜とともに清和源氏の家紋にも桜を冠していることから、武家の信仰を集めた神社ともなっていますが、まあ、そうした歴史は別としまして平野神社には個人的ないろいろな出会いの源流がありましたので、神社としての歴史はもちろん、信仰云々関係なく参拝することの多い神社となっています。

 平野造という、この神社の本殿はまつる四柱の神々とともに不思議な形状となっていまして、実のところそろそろこの屋根も経年劣化が進んできたように見えまして、補修も近いのかなあ、と思うところです。他方、拝殿は十年近く前に台風被害により倒壊し、復興したという歴史があるのですけれども。

 四柱を奉じる社殿ですが、いまでこそ文化財としての価値とともに全面修復の際にもその当初の姿をそのまま継承できるように正確に補修され、新造時の棟をそのまま維持しているのですが、興味深いことに、江戸時代までは補修の都度にこの本殿は時々に合わせいろいろと形を変えていたらしい。

 本殿、もちろん皇室守護という歴史とともに、しかし延喜式には名を列せられた式内社ではあるのだけれども、二十二社はじめ多くの社殿が京都には並ぶ中においてすべての補修を行うことは出来ず、時代とともに平野神社は相当荒廃していた時代もあるという、その中で補修の際、本殿は姿を変えた、と。

 信仰が第一であって、そのための寄る辺はそこまで拘らない、勿論今の時代にテキトーに任せると鉄筋コンクリート建設で一階部分は商店と三階以上はマンション、とかありえるのですが、今の時代は別としましても、当時の信仰への寛容さというものが見えるようにも思えて、興味深いのですね。

 平野神社、その参拝とともに本殿のありかたというか様々な形があったのだという歴史に触れてみますと、今とは違う時代における神社のあり方について、冗長性といいますか寛容さというものを、信仰の本筋とは別の、信仰を支えた人々の生き方や価値観として感じるように思えるのです。

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【京都幕間旅情】菅大臣神社,洛陽天満宮二十五社菅原道真公邸宅跡は中心部京町屋に浮かぶ

2025-01-08 20:16:17 | 写真
■千百年前の菅原道真公邸宅跡
 菅原道真公邸宅跡地は北野天満宮のような洛端ではなく中心部のいい所に住んでいたというお話しです。

 菅大臣神社、洛陽天満宮二十五社と菅公聖蹟二十五拝の巡礼地に数えられる神社です。この社殿の由来は、かの菅原道真公邸宅跡地という。社殿は下京区仏光寺通新町西入ルという、いわばもっとも観光客で混雑しそうな京都観光と京都繁華街の中心部に位置します。

 四条通から東本願寺の方角へ散策して往きますと至るという立地で、洛中中心の閑静な京長屋の住宅地にふと気づく数多ある鳥居の一つが菅大臣神社という。京都の歴史と共に境内の様相は紆余曲折を経ているのですが、しかし歴史は創建未詳ながら千年に昇るという。

 北野天満宮、今出川通り沿いの壮大な神域が菅原道真公所縁社殿と云えば思い出されるものですが、あちらが嵐電沿線であるのに対しこちらは阪急沿線、四条通が近いという。そして詳細は内緒ですが、凄く喜ばれる当方手土産定番その一はこの近くで手に入れている。

 菅原道真公邸宅跡というのは、境内に産湯の井戸が現在も残されており、社伝によれば承和年間の845年8月1日に菅原道真公がこの地に生誕した事は確かという。ただ上京区にも菅原是善邸跡産湯の井戸がありまして、此処を巡るのが菅公聖蹟二十五拝だったりする。

 怨霊というか後ろめたい方々が不幸に遭った際に思い当たった事から天満宮として祀られました菅原道真公ですが、若いという者は勇敢で幼いとは恐れ知らずというもの、実はこの神域、何も知らない頃には単なる近道と通過したり、自転車のまま直に踏破したり、と。

 菅公聖蹟二十五拝として方々に分かれているのは正一位太政大臣となった菅原道真が左遷先で亡くなったのが延喜年間の903年、菅大臣神社は慰霊の意味もあって910年頃までに邸宅跡地へ創建されたと伝わるものの、それから1100年と少し、京都は色々ありました。

 入口石鳥居は幾つかあり、その神域は十字の如く不思議な立地という、いわば長屋と町屋に浮かぶ神社という印象です。故に鳥居を潜り、奥へ歩みを進めると共に、ここは参拝が許されている場所なのかとふと考える錯覚に陥るほどの、不思議な神域が奥へ続いている。

 正一位太政大臣道真公邸宅は、それは広く跡地全てを神域とするには難しく、鎌倉時代には既に菅大臣神社は南北に分かれていたといい、此処を天神御所と称し北社は紅梅殿社とした。やはり応仁の乱で焼かれ、江戸時代初期に曼殊院宮良恕法親王により再建される。

 東風吹かば-匂ひをこせよ-梅の花-主なしとて-春な忘れそ。これは道真公が大宰府左遷に際し、京都を離れる事を惜しみ、梅香に名残りを感じた有名な和歌ですが、北社の紅梅殿社とはこの愛称の由来の和歌であり、また、北野天満宮の梅園もこの和歌に因むともいう。

 三間社流造の拝殿、正面桁行の柱間が三間あり柱が四柱となっているこの構造は平安朝末期に神明造から導き出された流造の系譜に在る事が分ります。伝わるところでは天保年間の1835年造営下鴨神社社殿を式年遷宮の際に譲り受け移築されたといい、江戸後期のもの。

 幣殿が拝殿と共に広がる八棟造は明治時代の物。ここは阪急烏丸駅と地下鉄烏丸線四条駅から徒歩五分です。この二つは同じ駅というのはさておき、京都名所旧跡と云いますと千客万来百花繚乱全員混乱な印象がありますが北野天満宮とは打って変わって静かな境内だ。

 八棟造の社殿と共に、静かな京の名所を紹介したのですが、しかし二十年程前は夕方には子供の活況、灯篭に昇る悪さも含めあったもの、観光客増大と共に神社では子供たちが走り回る風景も思い返すのみ、躾の行き届きもあるのかもしれませんが何か神域と生活の場が離れてしまったようで寂しいですね。

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【京都幕間旅情】八坂神社紅葉,師走の紅葉巡りと間近となった鑽火式そして新年の白朮祭

2024-12-25 20:22:53 | 写真
■白朮祭
 寒さ本番というと事ですがそのとおりで年末年始が近づいてきました。

 白朮祭、これはやはり難読文字、となるのでしょうね、おけらさいという、八坂神社の神事で年始に行われます、いや正確には大みそかから行われ、白朮火授与所というところで火縄に火をつけてもらいまして、この火を持ち帰り竈にくべるという。

 鑽火式という、これは明々後日にもう行われる火鑽臼での点火とともに白朮祭に準備が整うというものですから、もう今年もいよいよ、考えてしまうもの。今年は年の瀬まで有難いことに多忙ではあるのですけれどもね。

 八坂神社の白朮火、これは正月だけのものではなく神社全体で見ていますと実は1年間本殿内でろうそくに灯されまして燈し続けられるという神事でもある。するとやはり年始の行事というものは大切にされている、ということの証左でもありまして。

 年始の神事はこの火をくべた竈でその年最初の煮炊きをすると無病息災のご利益があるという。年始の煮炊きは御雑煮とか、また神棚のろうそくに火をともして、その火を使ってもいい、と言われてもいるのですが、市バスには火はもちこめなかったはず。

 をけら参り、とも呼ばれるもので、前に撮影に行きましたところ、結構な人口密度に化繊の上着を着て行ったり革の上着を着て行ってしまったので、ちょっと裸火は怖いなあ、と思いつつ、これも正月の行事なのだと感慨深く見守ったもの。

 紅葉の季節が遅かった、しかしもう雪の季節となっている、不思議なものです。年末年始、というものも間近ですし、本日はもうクリスマス、クリスマスのイルミネーションと紅葉撮影が重なるのも、これは昔は無かったという印象で思い出す。

 十二月になっても青椛、気温だけは冬になっていますが、実感するのは紅葉が遅れても暦はそのままですので火の沈むのが本当に早く感じるということ。椛を撮影できる時間も減ってしまう、という事になるのですね。

 異常気象の常態化、といいますか、既に京都には古都の庭園の苔が、この数年で真夏の高温に一機に曝され、一部寺院では人工霧装置をつかって夜間に苔を保護しているようですが、あんまり水をまきすぎると今度は伽藍のほうに黴が及ばないか心配だ。

 季節感といいますか、紅葉と年末年始のあいだにはちょっと時間がある、という感覚で一年の計画を立ててきましたので、こういう風に紅葉が遅くなってしまうと、師走の多忙感が極まりまして、この辺りは年賀状のさくせいなんかにも悪影響を及ぼして。

 ただ、夏の酷暑を思い出すと、一応紅葉の季節が来たとともに、木々も枯死せず、いちぶはもうこれだめらしいなあ、という枯死した様子をみてしまうのですが、それでも、遅れてはいるけれども紅葉を観れて、年末年始を準備に入ることができる、と。

 雪の気配もしますので、今年も一応、いや今年というよりもこの冬、というべきでしょうね、雪景色などを見ることも叶いそうですし、いちおう季節は廻っているのだと思う、それでも異常気象というものなのだけれども。

 八坂神社の紅葉を見るとともに、来年の紅葉というか徽章はどうなるのだろうと考えつつ、今年もいよいよ、白朮祭というものの季節を感じることができるようになってきたわけですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】八坂神社紅葉,祇園界隈と東山界隈を巡る基点の神社を彩る紅葉の木々

2024-12-25 20:00:44 | 写真
■紅葉を巡り
 メリークリスマスです。

 八坂神社、紅葉を巡りました。全国的にこの神社を有名にしているのは、恐らくNHKなどで夏の風物詩のように全国ニュースの終わりのほうで紹介してくれる祇園祭、ではないかとおもうのですが、あの祇園祭がここ八坂神社のお祭りでもあるのです。

 楼門をくぐりますと、石段が曲がりくねって続いていまして、この辺りは東山と言われる通りの高低差を感じるのですが、その先に本殿があり拝殿なども、巨大な本殿が狭い場所に広がっている。参拝の列は拝殿まで伸びるが、隣から賽銭を投じても、いい。

 祇園社、祇園感神院、明治以前はこう呼ばれていまして、この名前ですと八坂まつりではなく祇園祭、と呼ばれます所以を親しみもてるのではないかとおもいます、ここは東山区祇園町北側という四条通の東端に鎮座していまして、祇園の繁華街からも楼門が。

 深夜にも煌々と照らされる楼門は、ちょっとほろ酔いの際にも遠景に目立つものでして、そして深夜にも参拝できる神社という事ですから、酔客でもなにかご利益を、と参拝する姿を、私はかなり前から興味深く見ていたのですけれども。

 併せて祇園界隈には、ちょっと敷居が高いとおもわれるかもしれませんが、それは一部の一角だけでして、少しも勇気でかなり美味しいものを手軽に頂けるという事もありますので、この界隈も散策の経路から、少し歩けば高台寺に清水寺に知恩院、かずおおい。

 紅葉の季節、東山界隈は混雑するところではあるのですが、祇園祭の神幸祭や年末年始と比べれば混雑など微々たるものでして、ちょっとした時間に早めの初詣、というわけではないのだけれども、参拝にかこつけて周りを散策するのは、たのしいもの。

 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神、この三柱をまつる神社となっていまして、ただそのはじまりはつまり、祇園祭のはじまりは貞観11年こと西暦869年、神泉苑で行われた御霊会を原点としていまして。それが今日まで大切に継承されているということ。

 貞観時代というのは富士貞観噴火や貞観地震など、歴史上の大災害が凝集している時代です。平安時代、毎年のように疫病が洛中に黒い影を落とすようになっていました時代ですので、これを祓う神事として祇園祭が始まった歴史があるのですが。

 四条通から参拝に向かう際には、目の前の交差点の奥に石階段がありまして、此処の楼門は南楼門というこの神社一番の楼門よりは大きさは小さいのですけれども、目の前の道路とともに、自動車と神社、なにか古都らしい風情を醸し出すようで私は好きです。

 興福寺とつづいて延暦寺の影響を受けるなど、実は神社としてよりも寺院として認識されていたようで、のちに延久2年こと西暦1070年、朝廷から鴨川の西岸地域を境内として認められ、不入権、というものを承認されるなど異質な地位にありまして。

 神仏習合という歴史的背景はあったのですが、天台宗の延暦寺の末寺という位置づけになり、長くを時代と共に歩みました。ただ、神社としては足利義満の時代に祇園社を比叡山延暦寺から分離させるなどの措置を取ったことで漸く神社として認識されるように。

 紅葉の名所か、といわれますと、東山散策のさいの基点に、という印象があるのですけれども、同時に祇園や先斗町からいちばんちかい大きな神社という立地を見ていますと、ちょっとご飯を食べて、若しくは阪急や京阪で移動した際にちょっと寄れる神社だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東寺-紅葉,後白河法皇の皇女である宣陽門院の帰依と嵯峨天皇の空海への下賜

2024-12-22 20:00:12 | 写真
■京都散策
 当時の話題をそろそろ紅葉の季節よりも年末の季節を迎えます故に本日も紹介しましょう。

 東寺は嵯峨天皇から空海に下賜されたことで密教寺院となった。真言宗の根本道場という位置づけであり、この位置づけが明治維新まで連綿と受け継がれたことで、現代においても多くの国宝を、そして重要文化財などをたたえている、という。

 教王護国寺、東寺とともにこの寺院の正式名称の一つは、仏教を布教する事により国家を、という、それは科学が未発達であり人心さえ不安定な時代において、国家の一体性を保つための一つの方法論として、布教というものを位置付けていた寺院です。

 真言宗、布教の過程というものを私は専門研究者ではない故によくわからないのですが、御大師様、という信仰は平安朝の頃ではなく鎌倉時代から大きく広まったということでして、このころから拝観者も増えてゆき、皇族から庶民まで、という規模で。

 後白河法皇の皇女である宣陽門院の帰依、というものが東寺を大きく高めたとされていますが、平安朝の初期に密教が日本に伝来し、嵯峨天皇の時代にこの東寺が下賜されたと歴史にはあるわけですから、東寺がこう、大きく飛躍するのに時間があったという。

 歴史、知ったようでこれも専門研究をしている訳では無いものですからわかりにくいのは、密教がどのように広まっていったのかを時系列的に地域というものをわからないのですが、これが広まるとともに拝観者が増えたのだろうか、と考えたりするのです。

 伊勢神宮のような、一つの参拝への長躯という巡礼がおこなわれていたのかということもちょっとわからないものですから、日本という社会における東寺と真言宗の位置づけがどう広まったのかも、これは一つ興味あるところです。

 京都を中心に物事を見ていますと、十二月十四日は?と人に問われましたならば、戦艦榛名の進水式記念日、と答えて、いやそこは忠臣蔵、と反論され、わらわれてしまうこともあるのですが、この寺院の信仰の広まりも京都中心にどうしても考えてしまって。

 歴史を感慨深く散策するという事は、独りよがりになってしまう、それは自分の解釈の幅が大きいためなのですが、その歴史をもう少し深く調べてみたいなあ、とは思うところ、もっともこれを突き詰めるにはもう少し、時間に余裕のある年代をまつほかない。

 龍谷大学にでも聴講生で行ってみたい、とかくと百寺巡礼の著者のようになってしまいますが、まあ、そこまでわたしは作家ではないものですから、こうした興味を満たすのは、もう少し書籍と研究をあさってゆくしかないのだろうなあ、とも。

 東寺一長者という東寺の筆頭は真言宗の中心という位置づけであるとともに、法務という、法律ではなく宗教的な法務という意味なのですけれども、この地位が律令制における仏教界の首座として位置づけられていた訳です、これも明治維新まで続いたという。

 紅葉の季節の当時を巡りますと、こうした乗艦のようなものが湧き出してきますとともに、やはりここも思ったほど混雑していないのだな、という率直な感想が湧き出てくるものでしてちょっと不思議に思います。実際、今年紅葉で混雑を感じていない。

 紅葉の季節、思えば十二月に入っても紅葉が続いている訳ですので、常識的な観光ツアーではもう紅葉の拝観というものの計画を立てていない時期になっているのか、と考えつつ、やはり京都は観光よりも散策する街として考えるべきだ、と実感しました。

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