北大路機関

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【京都幕間旅情】廬山寺,光る君へ-紫式部邸跡は千年を超える街並みと平安京散策著者角田文衞先生の発見

2024-11-13 20:24:35 | 写真
■光る君へ
 光る君へ、このNHK大河ドラマ放映とともに注目を集める様になりまして新しい京都観光の定番となりつつあるこの堂宇は。

 廬山寺、元々は天台宗寺院であり船岡山の南山麓に鎮座していまして、この一帯にあったころの寺院は與願金剛院という名となっていまして、開山となられました慈恵大師良源さんは、元三大師。第18代天台座主でもあり、比叡山延暦寺中興の祖、と。

 慈恵大師良源、どういう時代を生きたかと問われればこの方を取り立てたのは摂政関白として延喜の治という良政とともに朱雀天皇から村上天皇の時代まで天皇に仕えた藤原忠平が若き良源さんを見出した、かの菅原道真公の晩年の少し後に生まれています。

 二十六ヶ条起請、として比叡山の僧兵の乱暴狼藉を戒める戒律を敷くとともに、これが結果的に僧兵の指揮系統を統一したために強訴が増えたともいわれ、興福寺の祇園感神院こと八坂神社を天台宗に改宗させ京都での勢力拡大を図るなど、いろいろやった。

 元三大師、この名は没後に町衆に親しまれた名で、正月の三日に没したためにこう呼ばれるようになりましたが、角大師とも親しまれ、これは疫病神が京都において猛威を振るったころ、良源さん自身が夜叉の扮装で疫病神を祓ったという歴史に由来します。

 良源さん、疫病は京都の定番のような災害であり、この払いと共に角大師の護符は今も京都各所に報じられていて、角大師の歴史からみますと、日本で最初にコスプレで人気者になった、ということなのかもしれません。源氏物語とコスプレの寺院、というね。

 仙洞御所を下賜され移築、現在のお寺は宝永の大火、天明の大火、と京都市内を焼いた大火災により幾度も焼損していまして、現在本堂となっていますのは御所の仙洞御所を光格天皇より下賜され移築したという歴史があり、境内には皇族天皇陵墓群も。

 紫式部邸跡、現在ではこう親しまれている寺院ですが、しかし幾度も火災や再開発に見舞われた立地、当地がそうした歴史を持つという事は秀吉の京都改造の際にも知られておらず、調査により判明したのはなんと昭和時代、歴史学者角田文衞先生が発見した。

 角田文衞先生、実は手塚治虫の親戚にあたる方、という係累もありまして、いや手塚作品には何か歴史的なものの中に独特の世界観を織り交ぜたもの、火の鳥などまさにそうか、感じさせるのですが、やはり影響というものはあったのかなあ、と思ったりも。

 平安京散策、角田先生は平安京散策という著書を30年ほど前に発表されていまして、これは源氏物語と平家物語といった王朝文学の世界の、所縁ある街路の今を示している、京都散歩の際のなにか少し違ったお手元におすすめの一冊を示していたりします。

 桔梗、不思議な話ですが今年は桔梗が十月末まで美しく咲き誇っていまして、源氏庭を明るく彩っていました、桔梗というのは夏の花ですので、もうすぐ十一月という、暦の上では秋どころか冬が見えている最中にはなんとも不思議な印象でながめるものです。

 源氏庭の桔梗を異常気象に気候変動、と切り捨てるのは情緒というものを理解しますと少し勢いはなく、そう、太陽の傾きだけは既に季節は冬が近いこと示すさなか、不思議な情景、空の色と夏の花々という風情を醸しているのが、わたしはすきだなあ。

 光る君へ。NHK大河ドラマの関係で、寺院自身もこう強調しているところなのですが、ほんの二年前には、これはCOVID-19の影響もあるが、独り占めという単語当て嵌まる静かな庭園拝観を愉しめましたが、いまはこう、不思議な活気が満ちているのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】廬山寺,慈恵大師良源の寺院は源氏物語著者紫式部邸宅跡地に天台宗の教えを紡ぐ

2024-11-13 20:00:11 | 写真
■源氏物語
 文学の時間だ。

 源氏物語、今回拝観しました廬山寺は源氏物語のゆかりある寺院として知られます。先日、寂光院と平家物語の話題とともに歴史を回想した際、平家物語と来たからには次は源氏物語だろう、と考えたわけではないのですが、大原の寂光院と違い、ここは街なか。

 廬山寺、慈恵大師良源により天慶元年こと西暦938年に開かれた天台宗の寺院です。その歴史は千年以上に上り幾つかの歴史を経て天台圓淨宗天台宗系単立寺院となっていまして、現在は御所東の一角、寺町通の涼やかな風吹く一画に鎮座しています。

 阿弥陀三尊をご本尊として奉じる寺院、このご本尊は重要文化財に列せられていまして、左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩、ともども拝観者を温かく迎えてくれます。そしてご本尊の前には源氏庭、かの源氏物語の世界を印象付ける趣向となっている。

 紫式部邸宅跡、当地は慈恵大師良源が開山となりました寺院ですが、同時にこの一帯は世界最古の恋愛小説と言われる源氏物語、これを著した紫式部邸宅跡であることが、昭和に入り分かっています。当時の遺構はありませんが、場所がここなのは確か、と。

 京都散歩、と言えば有名な定番は名所旧跡が数多並ぶ東山や北山に嵐山とやまやまやま、という風光明媚な一角があり、これ、考えれば洛中はどうしても再開発、秀吉の京都大改造もそうだし、数多あった大火により再開発を強いられた一画が多いのも確か。

 上京区寺町通広小路上ル北之辺町、今回拝観しました寺院は廬山寺といい、いや昨今は誰でも知るような有名どころになり、此処にも観光客の波、という時代を迎え、これもオーバーツーリズムではないのだけれども時代の変化を迎えている一画という。

 寺町通、そうこの寺院の前の通りは寺町通という、秀吉の京都大改造により造営された寺社仏閣が集中している、本来の京都中心部を目指した通りであるとともに、しかし大寺は当地に遷座するには手狭過ぎ、難しい寺院の集中を生んでいる不思議な一角だ。

 船岡山の南麓にありました廬山寺、天台宗寺院であった寺院なのですが、京都大改造の際に区画整備の対象となり、秀吉が寄進という名の準備した一画に遷ったのが現在の廬山寺の位置でして、そして中心部を目指すも、どうしても御所周辺は手狭過ぎた。

 オーバーツーリズムの先例からこの廬山寺は長く遠い場所に在りまして、その背景には、秀吉により遷座した先は御所の隣、いやもともと寺町通は寺社仏閣を御所防衛の緩衝地帯とするために造営した一画であるためなのですが、それだけに土地が制限されて。

 伽藍の大きさこそが寺の風格、これも寄進や信徒の規模を示すのであながち間違ってはいないのですが、観光地となるのはこういう大伽藍と歴史を誇る寺院であり、どうしても寺町通、となりますと、南のアーケード街のほうが有名になっているのもたしか。

 新京極通とともにアーケード街の寺町は、そう、修学旅行の定番ともなっている場所、アーケードで区切られているために迷子の心配もなく、町衆、というかやくざな人たちも含めて、修学旅行生をまもってゆこうという不思議な風情を醸している。

 修学旅行の定番も御池通が北限という感じで、廬山寺はそこから遥か来た、御所東にあります。歴史は京都大改造とともに始まるこの寺町通ですが、一方で新しい歴史かといわれれば安土桃山時代、京都に在っては新興でも日本にとっては古い歴史なのです。

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【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-変革と変容,クリエイターとアニメーター・AIとアニメーション,日本アニメーションの将来を考える

2024-10-30 20:24:56 | 写真
■古刹で考える未来
 未来への展望と云えば大阪関西万博なのかもしれませんがわたしはこういう古刹でこそ考えがまとまったりします。

 寂光院でここまでアニメーションについて考えるとは思わなかったのですが、素晴らしい毛氈と目の前に本堂、放火され再建されたというも尾ですが来年で本堂再建から20年という風月を経て質感が情緒を醸すように至った堂宇を前に、思想が広がる。

 POMERA,愛用していた100が遂に不具合を起こすようになり、買い置きのPOMER200を使い始めましたが、若干重く大きくはなったもののバッテリー駆動、数日に一回充電しますとほぼほぼ丸一日、執筆に活用してそん色ないという性能は気に入った。

 執筆という視座からは、ふと思ったときにどこか座るところがあれば長文を作成できてしまうのは嬉しいところ。まあ、長時間居座られては寺院の方にも迷惑かもしれないので、混雑してきますと当方も空気を読むことは吝かではないのだけれど、も。

 AIとアニメーション、これからはAI生成画とアニメーションの問題が、調和できるのか著作権の問題で対立するのか、という分水嶺が、そう遠くない将来、場合によっては次の政権交代くらいまでに深刻な問題として取り上げられるのではないか、と。

 画像生成、そう画像生成、結局現在の生成AIは既存の写真や絵画や作品などから人口学習して出力しているものなので、現時点で既に倒錯問題が生じている、恐らく古い作品で、AI学習利用を禁止する、と明示されていない作品や著作物が狙われる段階だ。

 JR西日本の車内広告に広告募集としてAI生成の写真や風景や、これは同じか、あとは水墨画などをそのまま張り付けていますが、あれはどこからか訴訟の対象とならないか、過払い金訴訟のように大手弁護士事務所の訴訟対象となるのは近いように思います。

 著作権、すると、今後考え得るのはキャラクターデザインをアニメーターが体系化して、いわばデジタルツインのように肖像権を持つキャラクターを一人ひとりアニメーター個人の人物、もしくは小説などの原作者が持ち、世界を形成するようなるのでは。

 街路や背景などは、これは京都アニメーションの現地取材方式ではないのだけれども、個々人が撮影した写真などをもとに人口学習させた、個々人にカスタマイズされたAI人口学習アルゴリズムを構築して、著作権上の問題を回避する時代となるのではないか。

 クリエイターとアニメーターの融合というような時代がそう遠くない時代に到来するのではないか、と思うのです。無論、大手アニメーター、というよりも中小を含めて、これでは存続できなくなるとして反対論が業界を揺るがすために一筋縄ではいかないが。

 声優さんの声を人口学習することについては、恐らく肖像権の延長線上に、近く法整備が必要になる、実際に声の人口学習を禁止する運動は始まっています故に。ただ、一作当たりの本人への出演料というかたちで妥協する可能性はあるのでは、とみている。

 業界団体をしっかりと構築する必要があるとは思うのですが、結局、一人で自己完結のアニメーション長編がAI生成により可能となるのは現実的に近いのではと思う。それは前述の通り、個人の投稿作品という形で、最初はグレーな扱いを受けるかもしれない。

 変革と変容、この背景には予算不足、いや予算は社会全体で一定程度あったとしても、その配分は多様化しているという実情からクリエイターに潤沢に回せない時代が来ています。その収斂と変容がどうなるのか、そんなことを古刹で、考えてしまいました。
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【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-日本アニメの将来,平家物語のアニメーションは素晴らしかったのですが

2024-10-30 20:05:33 | 写真
■朱毛氈の上にて
 この寂光院探訪の際には未だ暑い日々であったのだけれども流石に大原までやってきますと若干ではあるがおんどは涼しく。

 寂光院、平家物語、アニメーション、と。最後少し飛躍したぞ、と思われるかもしれませんが実際、あのアニメーションの平家物語は記憶によく残るような名作であったと思いますし、寺務員さんの解説でもふと触れられ、所謂聖地巡礼というすがすがしさ。

 平家物語のアニメーションは素晴らしかったのですが、同時にこう言ったアニメーションは今後どのようになるのだろう、という、いわば担い手、アニメーターと技術の進歩について思うのです。朱毛氈の上にゆったり腰かけながらふと考えてしまった。

 特撮、日本のお家芸というべき映画技法はかなりのぶぶんCGにとってかわられたように思う、実際問題特撮の新作はテレビでは逸翁は造られているのだけれども低予算が響いていて、これは1974年オイルショックの景気後退の時機と比べてもかなり厳しい。

 映画という視点では特撮は、ほぼほぼ、昔であれば特撮が用いられた部分でもCGが用いられ、いや原点回帰として特撮は実物を用意できなかった際の代用であったのだからCGはそれこそ特撮の正統進化では無いのか、と言われるかもしれませんけれども。

 特撮は費用が掛かる、とはいわれるところ。ただ、CGも安価なのか、と問われますと、例えばシン・ゴジラなどは実質ゴジラが動く様子は17分間であったといい、質感を求めれば求めるほどCGも費用が掛かってしまう事もまた現実のようでして。

 CGも費用が掛かる、けれども将来的にAI描写によりCGの費用の掛かる部分はかなり解消されてゆくのかもしれないが、現実問題として大画面で再生するには、やはり資金力がものをいう、と、資金力で特撮草創期の日米映画資金力の話に戻ってしまう。

 蒼き鋼のアルペジオ、CGを大胆に使ったアニメーションとしてはあの作品がテレビでは草創期になるのか、無論前にもいくつかはあるのですが一応の成功を見たのはテレビアニメーションではあの作品、映画となりますと、アップルシード、なのかなあ。

 アップルシードから蒼き鋼のアルペジオ、思い起こせばこれもCGといいますかポリゴンの制作費用が提言した事で劇場映画でなくともTVアニメーションの予算でCGが使えるようになったのか、と。背景の写真からの転用は、雲の向こう約束の場所、か。

 予算になるのか、こう結論付けるのは早計かもしれないのですけれども、雲の向こう約束の場所、は写真を画像に起こす技法でキャラクター描写にアニメーターさんが、あの場合は監督さんほとんど一人でやったとも当時聞きましたが、予算を抑えた構図で。

 風立ちぬ。対極にあるのが背景をすべて手書きで頑張った、ほぼほぼ美術作品のような背景で形成されているスタジオジブリの作品なのですが、美術品は量産が利かない、一作制作するのに時間も費用もかかり、一本転ぶと大変なことになってしまうという。

 AI生成の作画によるアニメーションが主流になるのも、また時間の問題なのかなあ、と予算面で日本のアニメーションが潤沢ではない実情を背景にこう、思ってしまうのですね。勿論、大手であれば、いや中小零細もストなどで声を上げるのは必至でしょうが。

 インディーズ作品でAI生成画によるアニメーションがまず怪物のような作品が出てくるのだろう、例えばあの月姫、のような作品がいきなり静止画ノベルゲームではなくアニメーション作品で出てしまうような、そんなところから変容が始まる、気がするのだ。

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【京都幕間旅情】寂光院,平家物語-最近ではアニメーションが有名に,少女びわと建礼門院徳子

2024-10-23 20:24:01 | 写真
■建礼門院徳子
 声明の里といわれた大原は今もう一つの視点で。

 平家物語、最近ではアニメーションが有名に、と紹介したいところなのですが、あのアニメーションは2022年という、考えれば時間が経つのが早くなったように思えるのは歳を取ってしまったからなのでしょうか、この寂光院、作中の末尾に描かれています。

 寂光院でも庵主さん、ではなく寺務員の方、ちょうどこの寂光院の本堂を開設する際にアニメーション作品の方に触れられていまして、そうですよね寂光院といいますと最近ここ寂光院がわだいになったのはあの作品、と勝手に納得してしまったのですけれど。

 寺務員さんの方は学生時代に漫研だったというお話を、堂宇とお山の解説全般が終わりました後で雑談しました際に、平家物語のわだいにあわせまして交歓しましたもので、実際、淡々とではあるが感情移入できる視座をもとの平家物語の大筋に沿って。

 けいおん!の山田尚子監督作品、けいおん!の監督、というだけで色彩豊かな世界観を共有できるのかな、と思うところです。監督は京都アニメーションに入社ののちにさまざまな作品に参加し、また監督として全体の制作を統括しています、どれも完成度が高い。

 中二病でも恋がしたい!、境界の彼方、氷菓、と監督が絵コンテで参加されました作品なんかはDVDかBDを揃えていますし、けいおん!についても。あとヴァイオレットエヴァーガーデン、一部BDをかったものの店頭品薄、というよりBDを扱う店が減った。

 古川日出男の新訳、平家物語を原作とした作品は琵琶法師の少女びわを主人公に、実父を平家の武士に殺害され抗議に向かった先で平重盛に拾われるところで、重盛の子、平維盛と平資盛と平清経とともに生活し、平家の興亡を目の当たりにするという展開だ。

 徳子、平徳子とびわの出会い、そして高倉天皇への入内、後白河法皇と平氏の確執の高まりとともに鹿ケ谷の陰謀を発端として高まる全面対立、歴史にある通りの混とんと動乱の機運が戦禍へとつながる様相が、治承三年の政変により一気に沸点に達します。

 びわ、平徳子、実質この二人を中心に物事は、大河ドラマという通り一人の力では抗う事は出来ず見るほかない大河のような流れに翻弄されているのですが、入内した平徳子は高倉天皇の皇子、のちの安徳天皇を身ごもるところで降りれぬ歴史舞台へ立つ。

 福原遷都を強行した後に、後白河法皇の平家追討院宣の発布、源頼朝の挙兵と富士川の戦い、南都焼き討ち、次第に形成は不利の様相を呈するとともにつかの間の勝利が戦術的勝利の代償に戦略的敗北を被る悪循環となり、一ノ谷など決定的敗北を重ね。

 壇ノ浦の戦いはその最終話に描かれていまして、歴史上には実在していない少女びわの視点を通し、一つの歴史が終わり一つの歴史の転換点、というものをかなりわかりやすく描いています。それはその時代を生きる人々の感情を今風に解釈したうえででも。

 安徳天皇は、壇之浦において平家と運命を共にしました、それは敗北を重ねた平家が最後に源氏への決戦を試みた壇之浦の戦いにおいて皇太后徳子とともに入水するのですが、徳子だけは引き上げられ、罪を問われることなくしかし出家、寂光院へ入る。

 三種の神器さえ帰って来るならば、別に平家を撃ち滅ぼそうとまでは思っていなかった。後白河法皇は劇中の末尾に、建礼門院徳子をここ寂光院に訪ねるとともに雲の狭間から射した陽の光が堂宇をふっと照らし、本尊を照らす様子を悲しく見上げて物語は終わる。

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【京都幕間旅情】寂光院,静けさの大原と平家物語大原御幸は諸行無常という六道語りを今に伝える

2024-10-23 20:00:54 | 写真
■平家物語ゆかりの地
 大原というと京都市内でもはるか北の先という印象が有りますが実際に散策してみますと此処を隠遁の地とした人々のきもちがよくわかる。

 寂光院、京都の奥座敷と言われる大原は左京区大原草生町という、特に奥まった、しかし静けさと共にある立地の尼寺です、山号は清香山、平家物語ゆかりの寺としても知られ、それは平清盛の娘である建礼門院徳子が晩年を過ごした寺院という歴史ゆえ。

 天台宗寺院である寂光院、この一帯の大原は三千院、梶井門跡として長らく洛中近くに位置していました寺院が当地に明治以降遷りまして歌にも謡われたほどなのですけれども、もともと当地は貴人の隠遁の地、という風情をたもっていまして。

 真如覚比丘尼という名に改めた建礼門院徳子は第3代住持として平家滅亡後の、しかし追討命令を発布した後白河法皇にとっても、結局は鎌倉幕府開府による武家社会が始まり、それは七百年にわたり朝廷と皇室は権威だけの世界に留まるところとなる。

 清香山の山号とともに、しかし実のところここ寂光院の寺院はその始まりの歴史がはっきりとわかっておらず、寺伝によればとう山の開基は聖徳太子、その創建は推古天皇2年こと西暦594年、最初の住持は聖徳太子の乳母玉照姫恵善尼とされています。

 声明、融通念仏、音韻により読経を広める大原声明発祥の地とされ、梵唄という大陸伝来の仏教声楽から日本の音楽、とはいいつつも仏教音楽という一つの体系ではあるのですが、その発祥の地でもあることから、日本における独自音楽が確立した地ともいう。

 聖徳太子が開いた、という寺伝は残るものの7世紀から12世紀まで、寂光院がどのような歴史をたどったかについては歴史として確認できるものが無く、建礼門院に仕えて後に出家した阿波内侍を、恵善尼に続く二代の住持として寺伝でも記しています。

 7世紀から12世紀までの空白、といいますと今の感覚では長大な時代の流れのようにも見えるのですが、ただこれも中世以前の時間感覚であり、それは堂宇に至る細いほそい参道を曲がり切った先に漸く庵の気配を感じまる石段を見上げた時間の感覚の違い。

 声明の里、といわれる大原は、いま、そう令和の時代に在っても声明を唱えれば山河にうっすらと透き通るような独特の空気感と共に、なにより今を以て洛中の喧騒は最寄り駅が10㎞以上先という風情立地の通り静けさを保ち、それは山内にあってもおなじ。

 本堂は、残念ながら放火によりご本尊ともども残念なことに2000年全焼してしまった。慶長年間に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が奉行となり造営した堂宇であり、しかし放火犯は今を以て逮捕されておらず、2005年に堂宇のみを再建しいまにいたります。

 旧本尊の木造地蔵菩薩立像は六万体地蔵菩薩とも称されていまして、本堂放火に際して焼損してしまいましたが全焼だけは免れ、美術院国宝修理所により三年間の期間を経て修繕、というよりも新しく彫像される事となりまして、いまにいたります。

 大原御幸、この寂光院を平家物語所縁の寺院としましたが、これは後白河法皇の文治2年こと西暦1186年、大原行幸の史実をもとにしました六道語りという一種の悟りを徳子が語る平家物語の段とともに、諸行無常というものを語る描写の舞台とのものです。

 寂光院はその大団円とは程遠いものの、一つの時代が終わる中で生き延びたことの命を問う、史実の人々のあったかもしれない一情景を描いているのですが。これがいまはアニメーションにより描かれ、印象的な作品があったのですね。

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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,稲荷がどのように変容を辿ったのか愛染寺と浄安寺と西光寺と

2024-10-16 20:22:36 | 写真
■豊臣秀吉の楼門寄進
 稲荷社を象徴する壮大な楼門はかの豊臣秀吉が寄進したもの。

 伏見稲荷大社がどのように変容を辿ったのか、大きな起点は、やはり豊臣秀吉なのかなあ。天下餅という、織田がつき-羽柴がこねし天下餅-座りしままに食ふは徳川、なんて信長と秀吉と家康の三者三葉を謳った歌がありますが、京都では秀吉の人気が。

 豊臣秀吉はこの近くに伏見城を造営した際、大病に冒された母の大政所の平癒を祈願したのが稲荷社でして、神威成って病気平癒が実現、この際に秀吉は楼門を造営して寄進するとともに稲荷社その際大規模な寄進をしています。秀吉はこういう事が多い。

 京都大改造を行いました秀吉は御土居を筆頭に多くの公共物や寺社仏閣の再建を主導、この際に京都は応仁の乱からの復興を漸く終えた、という表現が当て嵌まりまして、そう、楼門もようやく、今に至る優美なすがたとともに当地に再建されたということ。

 楼門は天正17年こと西暦1589年に豊臣秀吉により再建された重要文化財です。ただ、本殿の、これも重要文化財なのですが再建されたのは明応3年こと西暦1494年に再建されたもので、土一揆からそれほど時を経ていない中にあの五間社流造を再建している。

 内拝殿、曲線が妙に美しい、参拝の際にはここで賽銭を投じて柏手を叩くのですけれども、ここは明応年間の再建よりはもう少し後の造営となりまして、外拝殿が天保11年こと西暦1840年に再建されているというので、この際に神域の様相が大きくかわって。

 仙洞御所を後水尾上皇が下賜されたというのは御茶屋、とこう神域の社殿の歴史を少し紐解きますと、応仁の乱では更地になったものの、そのあとの本殿復興は、直ぐにと今の感覚では言えないものの応仁の乱のあった15世紀中には実現しているのだ、と。

 愛染寺、浄安寺、中世の稲荷社の歴史を紐解きましたものの、もう一つ今とは根本から風景が変容しているものとしまして、神域に寺院が複数並んでいたという。これらは廃仏毀釈の際にすべて失われていましたが、稲荷山は神仏習合の聖地でもあった構図で。

 赤い鳥居、応仁の乱の時代にはすでにあったと前述しましたが、千本鳥居と同一なのかは議論の余地があるようでして、この背景には神仏習合と関係が出てきます、こういいますのも江戸時代の大御所さま、浄土宗に帰依に帰依していました。

 浄安寺も浄土宗寺院なのですが、浄土宗は民衆信仰を集めており承認も例外ではない、そして満願成就、結願の礼として赤い鳥居を奉納することが為されたといいますので寺院とともに鳥居、これぞ神仏習合、千本と言わず膨大な数を揃えるようなったとも。

 廃仏毀釈、伏見稲荷大社はこの際に社領を四分の一まで削られてしまいましたが、この際に愛染寺や浄安寺と、続いて造営された西光寺といった寺院もご本尊共々破却されてしまったといい、これにより大きく姿を変容した事もわすれてはなりません。

 鳥羽伏見の戦い、もう一つは幕末動乱の際に錦の御旗が示され一気に日本は内戦へと戊辰戦争へ進んでゆくのですが、この鳥羽伏見の戦いでの戦火の直撃は幸い免れることは出来たものの、社領全体で見れば大きな被害に見舞われ、風景は一変してしまう。

 伏見稲荷大社参拝、歴史と共に巡ればおぼろげにもかつての姿が見えてくるのではないかと、いつもよりも空を見上げつつ神域を巡ったのですが、長い歴史とともに変化の幅もやはりものすごく、稲荷社の歴史の奥深さを改めて感じることと、なったのですね。

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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,古地図で巡る旅を阻む土一揆と応仁の乱に廃仏毀釈と京都大改造

2024-10-16 20:00:47 | 写真
■古地図で巡る散策
 稲荷山まで登ってみようかと思ったのですが余りに人が多過ぎるところでちょっと断念です。

 伏見稲荷大社、その昔は稲荷社と呼ばれていたというのはこれまでも幾度か触れたところではありますが、東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とします稲荷信仰の御本社となっています。伏見の地名というのは明治以降この稲荷社に冠せられたという。

 稲荷社が本来の名前であったのだ、というところは驚くところではあるのだけれども、そもそもここは神社ではあったのだが、空海とそして真言密教とのつながりを持つこととなり、それは東寺の鎮守社となったという、寺社仏閣の一体化された歴史も持ち。

 東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とするゆえに元々はこの山頂にあった社殿が室町時代中期に山麓に遷座したという歴史もありますと、まずまず不思議といいますか関心度、好奇心というべきか、生まれてきますのは昔の稲荷社がどんな風景であったか。

 神仏習合がすすんだのは平安時代の空海の時代からというけれども、山城国風土記、年中行事秘抄、といった歴史書には祭神の多様化が記されていまして、宇迦之御魂大神を祀っていた社殿はいつの間にか稲荷大神として四神の総称を祀る様になっている。

 千本鳥居は神域を代表する風景ではあるのだけれど、さてこれ、少なくとも農業信仰として崇敬を集めていた時代にはその千本鳥居は無く、しかし室町時代には一応、応仁の乱より前から商売繁盛の信仰とともに当地に広がっていた風景なのだという。

 一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰、ご神体の稲荷山は三つの峰にわかれている、そしてそれはもともとの祭神が3柱であったともいえるのですが、稲荷社として勢力とを増すとともに社殿の維持費にも高騰する部分が相応にあり、すると社領を広げてゆく。

 藤尾社こと藤森神社境内までその社領は伸びていたのですが、その神域の広さとともに社殿が絢爛豪華となることは、応仁の乱の時代には一種の重要施設として機能した事を意味する。応仁の乱は陣地とした寺社が一つ一つ焼失することで戦火が広がった。

 応仁の乱より前から千本鳥居があった、というのは応仁の乱にて東軍細川勝元の足軽大将骨皮道賢が稲荷山日本人を構えた際に西軍山名宗全の度重なる攻撃により千本鳥居を含めて全て山頂まで焼失したという記録が残っているためでした。

 山名宗全にせめられたならば仕方ないといいたいところですが、記録は残っていても肝心の建物は残らなかったのでは意味がないのですが、少なくともこの戦火により風景は更地へ一変してしまった構図、応仁2年こと西暦1468年のはなしとなります。

 土一揆、もう一つ追い打ちをかけたのが文明18年こと西暦1486年の土一揆騒動でして、この際には東寺の伽藍も焼かれてしまい、それはこの時代の寺社は復興の名目に寺社領の農民に重税を課したためという事情はあるのだけれども、改めて更地となった。

 古地図で巡る旅、という楽しみ方が観光地にはあるようですが、応仁の乱の後の古地図はどうなっているのだろうか、洛中絵巻などはある程度民衆に余裕がある時代に製図されるものなのだから応仁の乱直後の古地図というのは、そもそも存在したのかなあ。

 いまの伏見稲荷大社が過去の稲荷社の姿ではない、という事は簡単に理解できます、何しろ応仁の乱で山頂まで更地になったのだから。けれどもその復興過程などではどのように変容の歩みを綴ったのかということは、神域を巡るとともにふと思うのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,稲荷は稲成り-宇迦之御魂大神は五穀豊穣を司る神

2024-10-09 20:23:16 | 写真
■五穀豊穣へ祈る
 五穀豊穣というよりはお米の方ばかり向いている印象がある私とその周りなのですがここ稲荷社は五穀豊穣の祈りの場所だ。

 伏見稲荷大社、伏見区深草薮之内町の稲荷山をご神体としました全国稲荷社の総本山となっています社殿です。その創建は8世紀初頭の和銅年間、西暦では708年から715年頃に造営されたといいまして、当時伏見の地名はまだなく、稲荷社と呼ばれた。

 奈良線の稲荷駅から直ぐ。稲荷駅というのは伏見稲荷という名前ではなく元からの稲荷社としての名前をそのまま大事に継承している、とも解釈できるのですが、同時に駅前にいきなりどんと大きな鳥居と、その向こうに耐震補強中の鳥居が迎えてくれるのです。

 御香宮、伏見稲荷大社とは言いますが実のところ伏見の中心部というのは京阪電車でもう少し行きました御香宮のあたりがその中心部となります。いや実際、JR奈良線で伏見稲荷大社といえば京都駅を出て東福寺駅の次が稲荷なので近いなと思うところですが。

 紀伊郡稲荷村となっていましたのが福稲村となり深草村とそしてのちに深草町、1931年に京都市伏見区となりました歴史が。御香宮が中心部なのか、と言われるかもしれませんが、あの辺りは大坂城に並ぶ規模の伏見城があった、といえば中心部たる所以だ、と。

 大坂城に並ぶ伏見城、といわずとも御香宮といえば名水、名水といえば酒造、伏見といえば酒です。だいぶん頓智のような言い方になってしまいますが、それは歴史上、もともと稲荷社とだけ呼ばれていた社殿を明治以降無理に名前を変えたためとも言えまして。

 稲荷は稲成り、という語源があるとも数多言われる社殿の歴史には一説として考えられていまして、その社殿はむかし祭神が稲荷山の山頂に降臨したという縁から長らく山頂に構えられていましたが、室町時代中期に山麓へと遷座しまして、いまにいたります。

 宇迦之御魂大神、祭神はまた数多ならぶところでありまして、宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社、と神々が並びます。この独特の信仰は更に明治維新の廃仏毀釈までは神域に神社と寺院が並び、信仰の多様性を示していた。

 東寺の鎮守社、こんな関係を示しますとどう思われるでしょうか、と一筆思い浮かべつつ、いや京都駅から東寺へ向かう途中に伏見稲荷大社の御旅所があることから、これ京都散歩の際には常識なのかもしれませんが、この時代からかかわりがありました。

 空海と稲荷神が田辺でであったという鎌倉時代末期に記された東寺の寺伝稲荷大明神流記眞雅記云ゝには記載があり、田辺というのは京田辺でははく熊野の田辺をしめすのですけれども、教王護国寺である東寺でも当時、稲荷社の影響は大きかったということ。

 五穀豊穣を司る神、として信仰が広まりました稲荷社は全国に三万柱が奉じられているとともに、その創建の頃の大衆は農耕振興こそが第一であり最大の願いではあったのですが、農耕の安定化と共に殖産や商売繁盛が願われるようになり、その移ろいを経て。

 清少納言が枕草子に当時の参詣の様子を記すとともに蜻蛉日記や今昔物語集といった古典文学にもその様子が描かれるところから、もっとも当時山頂の社殿詣では大変だったでしょうが、社会や文化とのつながりの深さを感じさせるところではあるのですね。

 拝殿と本殿前には、もう国籍豊かな方々の祈りといいますか、祈りというよりは本殿での作法と共に詣でることが目的ではないのかな、という方も見受けられるのですが、それにつけても境内はもう賑やかであり、今も社会や文化とのつながりを感じられるのだ。

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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,思い出す一ヶ月前は令和のコメ騒動と政治視座は現状とのかい離

2024-10-09 20:00:10 | 写真
■令和の米騒動始末
 この記事は九月十一日に掲載する予定でしたが二条城と大阪城の話題を先に掲載した関係で遅れてしまいまして、まあ当時の緊張を思い出し残しておくという意味で。

 お米が、ピンチだ。正直な話をしましょう、基地を撮影に行った際に寺社仏閣を巡ることが多いわたしは、この際諦めてお米を売っていそうなスーパーを行脚しているのですけれども、米所だと思った近県でもスーパーの米売り場はカラか別のものが売っている。

 餅米が販売されていたなあ、というのは8月のお話で、しかし餅米の品薄になると麦が置かれていた、貧乏人は麦を食え、といったのは池田総理だったか、所得倍増計画を行った首相、令和の所得倍増計画が進む中、やはり麦なのか、というのは実感でした。

 麦飯も検索すると七割麦飯という、ふつう麦飯は三割程度ですから逆転してしまうような代物が出ていまして、七割麦飯って箸で摘まめるのだろうかという、もう現実感がなくなってそんなことを考えてしまいます。いや、兆候は七月にはあったのだ。

 基地撮影の際に立ち寄る道の駅、テレビアニメの影響で"米作りは土作り"という産地のお米を、遠出したことだしと道の駅で購入していましたが、七月の時点で、実はもう在庫がないので新米の頃まで入荷しないのですよ、といわれた。そこから一ヶ月半で。

 実は道の駅、件の毎回遠出の際に買っていた道の駅には新米が入っていました、地元のお米、ほぼほぼ八月下旬と九月上旬で5kgが3000円ちょっと、確かに高いのは高いのだけれども、減ってくると購入してしまう。常に一袋だけ新品の買い置きをしているから。

 新米が入っているのか、と安心してしか市況見本に出回りのスーパーをみてみよう、と、有名な"榛名乳業"のジュースを扱っているスーパーに寄ってみますが、やはり米の棚はカラ、ほかの棚と比べカラなのだ、これがほんとの、空の境界、なんてね。

 五穀豊穣、という言葉がありますが、五穀とはお米と麦に粟と豆に黍、粟であって栗ではないのだけれども最近の子は粟といってもピンと来ないのか粟と栗の漢字を読み違えたりする。豆が消えてここに稗がはいったりするのが五穀というものですが市場では。

 黍、きびだんごとして有名だけれども主食用に市場にはほとんど出回っていないし、粟についても同様、まあ、麦は小麦粉が十分出回っているのでお茶碗にいれる主食以外というならば、パンでも麺でも潤沢に供給されているが、ご飯が食べたい、となると。

 大阪では乾パンさえ品薄だ、とは、大阪では何体かやっつけたらしい、という宇宙戦争のような話ではなく、麦も枯渇した状況の先を知らせてくれまして、パック飯もかなり厳しいことに。横須賀では一合づつ分売していたのを思い出すのですけれど。

 戦争中でもないのに何でお米がないの、と子供に素朴な疑問を突きつけられ返答に窮した若い親さんがいるそうで、地球との環境戦争さ、とか、ロシアウクライナ戦争の影響、というわけでもなく、ただただ、昨年の猛暑での不作が響いている構図なのですが。

 大本営発表のように、市場には十分のコメ在庫はある、という農水省の発表を、現場を見ろという小売業者、在庫を放出しない府が悪いという農水省、今回のお米が最後ですと放出すれば本当のパニックという小売業者、足りているんだを繰り返す農水省、と。

 東京大空襲を、損害は極めて軽微なり、と発表したお役所がそのまま看板を掛け替えて、昔の海軍省のあった場所にある中央合同庁舎に入っているようなものですから、こういう言葉を繰り返すのかもしれないけれども、もう少し現実を見てほしい、とおもう。

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