そして歴史へ
航空自衛隊とともに歴史を歩み、日本戦後航空史の生き字引というべき国産練習機T-1、T-2の最後の機体がこの程、第一線を退いた。幸運にしてそのラストフライトの様子に立ち会う事が出来、今回はその様子をお伝えしたい。
岐阜基地 三月二日
航空自衛隊岐阜基地において退役したT-1、T-2の様子を最初に掲載する。この組み合わせの編隊自体、非常に貴重なものといわれている。
北大路機関では既に“航空自衛隊 装備名鑑”として航空自衛隊とともに大空を翔けた翼に関する特集を実施しているが、T-2練習機に続き、T-1練習機の特集を行うとともに、そのラストフライトの様子をお届けする。
既に学生教育の場からは退いた国産練習機最後の機体は、岐阜基地の飛行開発実験団、そして小牧基地の第五術科学校において運用されており、2006年3月は第一世代航空機、そして最初の超音速航空機引退という、いわば、日本戦後航空史の転換点となった歴史的な日となった。
岐阜基地外の滑走路東端には、眺望良好な高台に空所があり、平日でも数人の航空ファンが常時カメラを構えているといい、着陸姿勢に入った航空機を順光で撮影できる。ただ、お手洗いや飲食の為の店舗が非常に遠い事が難点として挙げられる。
また、滑走路北側面は、国道21号線沿いの歩道から離陸途上の機体を撮影でき、午後から逆光となるが、喫茶店やコンビニ、レストランがある為好評である(つまり先日MCH-101を撮影したポイントは悪い見本)。
T-2練習機ラストフライト!
この情報を何処から聞きつけたか、首都圏を含む遠方からも多くのファンがカメラの砲列を成し、自家用車で訪れてはキャンプ道具一式で珈琲ブレイクを始める人も現れ、同じ航空ファン同士の交歓もあったようである。
飛行開発実験団は、航空自衛隊各種装備の実験を行う関係からほぼ全ての機体が配備されており、この日もF-2支援戦闘機が五回ほどタッチアンドゴーを繰り返していた。
1140時、東方から鋭い金属音が聞こえてくる。こういう場合は航空無線を聞く事が出来るエアバンドという機械があり、これを持っている人(トランシーバーサイズ、イヤホンをしてアンテナを立てているので判る)が動けばその方向に動き、その人がカメラを、向けている方向にカメラを向けると判る。
たしか、電波法ではこうして得た情報を第三者に教えてはならないとされていたはずだが、見えてしまうものは仕方ない、と有難く小生もその方向を向くと、望遠レンズ越に機体が見えてくる、待つこと二時間半、遂に来た!
T-2高等練習機、T-1初等練習機が並び、滑走路を東から西にフライパスしていった。
T-1とT-2が編隊を組んで飛行する様子は、このニ機種を同時に保有しているのが岐阜基地だけであり、これまでも航空団や教育航空隊にて同時に運用された例は例外を除き無い為、岐阜基地航空祭が雨天にて多くの飛行展示が中止になったということを踏まえれば、幸運にして航空祭予行を見る事が出来た人を除き、最後にして非常に貴重な様子を見る事が出来たといえよう。
小生がいたところには30名ほどのファンがいたが、デジタルから銀塩までキャノン、ニコン、コニカミノルタの一眼レフが一斉にシャッターを切る音が響き、平面人工蛍石レンズ(非常に高価で、それを見分ける為にレンズに赤い筋がいれてあり、通称“赤ハチマキ”といわれる、宇都宮のキャノンの工場で職人さんが一つ一つ手作りで作っており、中古でも二十万以上する)が林立している光景は壮観ともいえた。
また、ビデオカメラを回すものも多数おり、TV局や新聞社のカメラマンは皆無であったものの、ラストフライトを数千枚のフィルムやCCD素子に焼き付けていた。
そして歴史へ、T-2練習機が岐阜基地に向け着陸していく。
二機編隊はそのまま岐阜基地上空を観閲の為にフライパスした後、単機ごとに滑走路に向かった。
聞くところでは、新田原基地第五航空団にF-1支援戦闘機とともに配備されたT-2は後日(曖昧ながら確か16日)退役しており、厳密にはラストフライトではないようだが、この際、細かいことは抜きにしておこう。
T-2高等練習機は、1967年より三菱重工を中心に開発が始まり、1974年に初飛行、25号機から機関砲と火器管制装置を搭載した後期型が製造され、1984年に96号機(最終機)の調達を行い、そして2006年3月退役する。
ハードポイントは5箇所あり、爆弾搭載量は2700kg。有事の際には補助戦闘機として運用する事を想定し、このラストフライトを行った機体は機種下に機銃孔が開いている事から後期型である事がわかる。
以上三枚は連続写真だが、この写真を見ると後部座席にはフードが被せてあり、搭乗員は一名である事がわかる。
飛行開発実験団では、T-2は天候偵察機として用いられており、FSX計画に際しても日本海上にある実験空域に先んじて展開し、実験を行う環境が整っているかを調査する任務にあった。現在、航空自衛隊ではF-15Jの近代化改修に関するプロジェクトが進行中であり、これに関してもおそらくT-2は貢献していた事であろう。
岐阜基地滑走路へ向かい、防音林の向うに消えていく機体。
着陸後は、ラストフライトの機体の搭乗員、若しくは飛行勤務を終える搭乗員に対し、航空自衛隊の伝統としてバケツで水をぶっ掛ける伝統がある。
どんな由来か、誰が始めたかは浅学にして存じず、事情をご存知の方は御教授いただけると嬉しいが、これは整備員の歓送の意味もあるようで、雑誌報道をみればバケツだけではなく、場合によっては消防車が出動する事もあるという。
T-1が続いて滑走路に向かう。
航空自衛隊最初のジェット機として富士重工が中心となり開発された機体で、低速での操縦特性といった性能は素晴らしく、T-34メンターやT-8テキサンといったプロペラ式の機体から機種転換したばかりの学生にも操縦が容易で好評であったという。
また、多くの搭乗員が初めて経験するジェット機とあって、思い出深い機体であると多くの搭乗員が回顧している。
この位置から見ると、かつての航空自衛隊第一世代主力要撃機F-86を思い出す。F-86も多くの基地において保存機区画に永久保存されており、航空祭にお出かけの際には是非ご覧頂きたい。
なお、本機が富士重工において開発された背景には、新三菱重工(現:三菱重工)がF-86のライセンス生産に忙殺されていたという事情があったが、富士重工で手に余る分野は、、新三菱重工、川崎重工が協力して設計を行ったという事で、本機は第二次世界大戦敗戦によって失った航空技術再興の鏑矢というべき機体であった。
そしていつまでも、蒼穹の彼方に消えた金属音が響いていた。
なお、小生は実はピンボケに終わったMCH-101の再度撮影を青空に誓い、激写を期して長躯岐阜基地に展開した際に偶然撮影したもので、文字通り“タナボタ”であった。
で、くだんのMCH-101であるが、飛ばなかったのはザンネンである。飛ばないモノは小生も撮れない。で、今度の今度こそ撮影を期してカメラを磨き、機会を窺っていたらば・・・、・・・、海上自衛隊に引き渡されて厚木に飛んでいってしまったのであった・・・。観艦式で飛んでくれる事を祈ろう。
小牧基地 三月三日
岐阜基地に続いて翌日、小牧基地においてT-1Bのラストフライトが実施された。
岐阜基地で遠方からの航空ファンと話に花を咲かしていると、小生はT-1の方がスタイルが好きという話になり、『なら、明日、小牧に行かれるのですか?』と。
ここで、三月三日、小牧基地においてラストフライトが実施されるという事を知った。実は、他の方からも一日か三日に小牧でラストフライトが実施されるというお話を聞かせていただいており、しかし一日は烏丸御池にて所用があり、てっきり小牧のT-1Bには縁が無かったと諦めていたところである。
T-1Bラストフライトに関する情報を下さった皆さんありがとうございました、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
情報に際し、即断決断、小生は長躯名鉄牛山駅を目指し展開した。
小牧基地は旧名古屋空港、ボーイング747をはじめ多くの旅行客を世界へ日本各地へ旅立つ窓口として機能し、滑走路南端部分には公園が整備されている。また、滑走路南端付近には公園の自販機、お手洗いに加え喫茶店があり、歩道橋の上からは滑走を見渡す事が出来る。
牛山駅から思いのほか滑走路南端までは遠く、背嚢が背中に食い込む中歩きつつけて四十分、滑走路南端にたどり着いて十五分後、金属音とともにT-1Bが四機、誘導路を滑走路に向かい進入してくる。
このとき、歩道橋上に二名、公園に三名ほどカメラマンが居り、フェンス沿いには定期健診に着陸したF-15Jの撮影を期して五名ほど待機していた。望遠レンズで見ても全部で十五名ほどだったろうか、T-1Bが出てくるまでは実は小生も半信半疑でカメラを構えていたが、突如向うの方から四機を確認でき、心の中で快哉を叫んだ。カメラ本体の書店機能を含め、480㍉相当の望遠レンズで撮影した為近く見えるが、機体までの距離は1500~2000㍍ほどの距離があり、カメラを三脚に乗せ撮影した事で、手ぶれを最小限に抑える事が出来た。
1958年1月19日、富士重工宇都宮工場において初飛行を成し遂げたT-1練習機は、失った航空産業復興に大きな役割を担った。第二次世界大戦敗戦は、質的に日本の技術が劣ったのではなく、単に物量で押し迫る連合国の過飽和攻撃に圧倒された、と信じたいものがあったのは確かだ。
サンフランシスコ講和条約において国家主権を回復した日本は禁止されていた航空産業の復興を願ったのはいうまでも無い、一時は日本から重工業全てを撤去し、農業と軽工業にて細々とする小国への解体をGHQが期したことは確かであるが、朝鮮戦争の勃発が皮肉にも日本に取り僥倖となった訳だ。
1952年になると、立川飛行機、東洋航空、日本大学が次々と軽飛行機を開発したが、やはり悲願は世界に通じる第一線航空機の開発である。しかし、中島飛行機が戦時中に国産ジェットエンジン“キ20”を搭載して開発した橘花からの航空技術の進歩は目覚しく、1954年の航空自衛隊発足とともにライセンス生産を開始すると、F-86やT-33を目の前にし、敗戦から九年間の技術的格差の大きさを痛感したのはある種当然ともいえよう。
ここで、航空技術復興の第一として第一線戦闘機を開発するのではなく、練習機を開発するという方針が定まり長官決済の後、1956年3月31日に提案書が出された。
小牧城を望みいよいよ滑走準備を開始する第五術科学校最後のT-1B。
要求性能の一つにマッハ0.85とあり、果たしてそれだけの高性能機を開発しうるかという議論は当然沸き起こったが、東北大学から富士重工に戻った渋谷巌技師や各社技師達は冷静に技術の分析を行い、可能となりうるとの結果に至ったようだ。
富士重工案はT-33のような機体とは異なり、高速性能に達しうる後退翼が採用されていた点が他の案より抜きん出ており決定に至ったといわれている。
1957年3月31日、富士重工を主契約企業として試作機三機が3億7000万円で契約され、初号機ロールアウトは同年12月19日という早い時期に完成、翌年初飛行となった。日本航空技術再興という目的はともかく、敗戦から空白を経て十二年間でこれだけの機体を完成させたという事実は、ある意味驚きと感動を禁じえない。
機体は一応12.7㍉機銃を搭載可能で、機上操作訓練の他、必要に応じて補助戦闘機としても用いられる機体であった。
しかし、搭載する石川島播磨重工の国産エンジンが遅れており、英国製ブリストルシドレー・オルフェースエンジンを搭載して初飛行を成し遂げた。初号機は高岡1佐が操縦桿を握り滑走距離280㍍で浮き上がり、フェンス沿いに歴史的瞬間を待った一般市民からも歓声が上がったという。
不鮮明で恐縮だが名古屋市内上空を小牧基地に向け飛行する四機編隊。
1964年1月8日、T-1の愛称を『初鷹』と防衛庁は発表し、一次量産20機は36億円で契約され生産が始まった。
難航していたJ-3エンジン開発は、1959年1月10日にC-46輸送機に搭載し実験が開始され、1961年12月27日にT-1Bの製造契約14機が決定した。その後、タービンエンジンのタービンブレードがエンジン発動中に破損し吹き飛ぶという深刻な事故が生じたが、石川島播磨重工の技師による献身的且つ必死な努力により改善し、今日に至った。
T-1練習機はA型、B型併せ、64機が生産。1963年7月12日、宇都宮において完納式が実施された。
T-1練習機のホームスコードロンである第13飛行教育団は、宇都宮から岐阜、そして芦屋に移駐したが既に教育訓練ではT-1は全て引退している。
最後の編隊飛行を見事なダイヤモンド陣形にて小牧基地上空を通過する第五術科学校のT-1B練習機。
操縦特性のよさを挙げると、1965年4月19日のオーストラリアT-1調査団来日が挙げられる。当時、同級の練習機としては特筆すべき性能を有しており、豪州空軍次期ジェット練習機の候補筆頭にT-1練習機が挙げられ、芦屋基地に視察団が来たのである。
豪州空軍調査団のT-1に関する評価は高く、関係者の多くは輸出決定を確信し喜んだものの、政治的理由によりMB236が決定されたという。C-1輸送機も米空軍のC-123後継機案に挙げられたものの、性能上は上位にありながら政治的理由から決定に至らなかったのは残念でならない。
三月三日、1000時、ラストフライトを実施したT-1Bは一機が永久保存の為に小牧基地に着陸し、三機は三月九日に実施の退役セレモニーに向かい飛び去っていった(小生はそれを知らず帰還を信じ、悲しいかな三時間粘っていました)。
基本操縦技能を修得するためには一大傑作機と多くの搭乗員が評価した機体は、いよいよ航空自衛隊を去った訳であり、戦後日本航空史の転換点というか世代交代なのであるけれども、何かもの寂しいものを感じたのは小生だけではないだろう。
ラストフライトを終え、小牧基地に着陸するT-1B。
なお、ラストフライトに参加した四機を除いても十三機が各地において永久保存されている。内五機が静岡県の浜松基地や喫茶店、企業に展示されているという。
対して七機が48年間の運用の間に事故損失によって失われている(他に二機が事故を起こしているが修理の後、第一線に復帰している)。航空管制に関する教育を行った第五術科学校は今後、航空機を用いず教育訓練を行う事となる。こうしてT-1は48年の歴史に幕を閉じた。
T-1Bが着陸した小牧基地も少しの静寂をおいて小牧基地第一輸送航空隊のC-130H輸送機が滑走路脇の誘導路を滑走路に向かい進んでいく、T-1が育て上げた空の荒鷲は、T-1が退役した後も、日々、わが国含め世界の平和と安全の為に大空を翔け続けるであろう。
♪エンジンの音、轟々と初鷹は往く、雲の果て翼に輝く日の丸と、尾翼に描きし金鯱の、翼は我らが国産機 ♪ 大空は待つ、次なる若き荒鷲を!!
HARUNA
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