■名鉄7000形パノラマカー総力特集
Weblog北大路機関も本日をもって創立三周年を迎えることが出来ました。50万アクセス突破記念記事と併せて、本日は名鉄7000形パノラマカー特集を掲載。
2008年6月29日のダイヤ改正をもって、その勢力を大きく減らした名鉄7000形は、1962年にブルーリボン賞を受賞していらい名鉄の象徴として活躍した。運転席を二階に上げたことで180°の完全な展望を提供しつつ、指定席料金(現μチケット)などが導入される前の開発であったことから乗車券だけで、その眺望を楽しむことが出来た車両として、永く語り継がれるであろう車両である。
名鉄7000形「パノラマカー」は、日本最初の前面展望車を備えた電車として9次に渡り整備計画が進められた。1961年のデビュー以来1975年まで116両が生産された。その後、新特急「パノラマDX」の整備などにより台車や電気機器の流用などが行われたものの、108両の一大勢力を誇っていた。
名鉄といえば、スカーレットという車体カラーが挙げられるが、この新塗装への道を切り開いたのがこの7000形である。その後、高性能化を計った7500形「パノラマカー」が登場、惜しくも高性能が仇と成り、他の形式電車との連結が出来ないという運用の限界から既に全車引退したが、定速度制御装置など高性能機器を備え、低重心化を希求した形状となっており、乗り込むときにホームとの段差の有無が7500形と7000形を区別させていた。
パノラマカーが登場した背景には、幾つかの点が挙げられる。まず、1950年代に入ると名古屋本線と併走する東海道本線の電化がある。電化とともに、新鋭の80系電車が投入され、特急151系の導入も始まった。これに対して、名鉄は5000形電車を導入、更に通勤用車両として初の全冷房車である5500形の導入が行われた。
5500形新型電車の導入により活気付く名古屋都市圏であるが、転機が訪れた。伊勢湾台風である。テレビ塔、名古屋城再建というような第二次大戦の戦災から復興し、繊維産業、自動車産業、石油化学工業などにより高度経済成長への準備段階に入ったこの都市圏を1959年9月に伊勢湾台風が襲った。その被害は阪神大震災まで自然災害としては戦後最大の災厄であり、近鉄とともに沿線や路線に大きな被害を受けた名鉄としても復興のシンボルを必要としていた。
ダブルデッカー車として鮮烈なデビューを飾った近鉄の初代ビスタカー、豪華な内装の東武鉄道DRC1700形、更に東京オリンピックが近付く中開業を目指す新幹線特急電車。これに対抗するにはどういった電車が挙げられるか。5500形は片側二扉のクロスシート車であるが、この運転台を二階に上げ、前面展望を提供しようという構想が考えられていた。
名鉄がシンボルとしての新特急電車を必要とした背景には、東海道本線という競合先に加えて、自動車産業の底力、つまりモータリゼーションという背景もあった。名古屋を中心として、犬山や南知多などの観光地を結ぶ名鉄にあって、マイカーに対抗できる快適な車内環境とともに、マイカーの助手席に座っているような楽しい車窓の風景を提供したい、そういう構想があった。
名鉄車両部の目に留まったのは、1953年にイタリア国鉄にデビューしたETR300系SETTEBELLOである。ローマとミラノを結ぶイタリアの新型特急は、最高速度180km/hという快速を誇りつつも運転席を二階に上げ、最前部まで客席を設置するという前面展望車構造を採用していた。
展望車を採用するという点が決定し、実際、初期の計画概念図などをみるとETR300形の影響を大きく受けた形状が採用されているのだが、同時に冷房機器の搭載という問題が生じた。運転台を二階に上げる以上、冷房機器を車体上面に設置するという方法には無理がある。そうした関係上、第一に考えられたのが、車体前部に冷房機器を搭載するボンネット方式の採用である。
今日では考えられないことといえるが、車体形状やデザインには、鉄道友の会の会員ら名鉄ファンによる助言や参加があったという。ボンネット形状の採用には、設計上合理的な面もあったのだが、同時に前面展望を妨げるという点もあり、車体前部にかけて冷房装置を搭載する現在の方式に落ち着いた。こうして1960年、基本的なデザインが決定し報道陣に公開された。
さて、ここで思うのだがパノラマカーは何故6000形ではなく、7000形なのか。6000形は傑作通勤車として後に誕生しているが、5000形、5500形となっていることから順番を考えれば6000形、ということになっても良かったはずだ。ここで一つ考えるのは、イタリアのSETTEBELLOが、七人の美人、という意味がある。この“七”という数字が関係しているのでは、と考えるのだが、真相をご存知の方がいたらお教えいただければ幸いだ。
名鉄パノラマカーは、今日までその活躍を続ける長寿車両となったが、背景には技術的な面も挙げられる。当時、日本の電車は、逆転機、界磁制御、制動装置を別々の機械にて車体に組み込んでいたのだが、これら装置をMCMコントローラという一つの機器に統合したものを搭載していた。これがGE社が開発に成功したもので、5500形以来、名鉄の基本形となっていた。こういった機器面での先進性が今日までの長寿に繋がっているといえるかもしれない。
他方で、見送られた技術もある。制動時のエネルギーを電気エネルギーに変換して発電し、架線に戻す回生ブレーキの採用は見送られた。当時としてはこの技術は画期的であるとともに、まだまだ途上の技術であり、この採用は7500形の導入を待たねばならなかった。制動装置がMCMに盛り込まれている為、複雑化を避けるという面もあったのだろうが、他方でパノラマカーは多くの電力を必要とする、という印象を与える結果になったのかもしれない。
さて、当時、鉄道車両では流線型を重視した、いわゆる湘南形のデザインが一つの潮流であった。名鉄では5000形が挙げられるようにこの潮流に乗っていたのだが、名鉄では展望席や窓の形状を考え、極力直線的な部分を直線デザインと併せて採用した。車体側面は丸みを帯びており、これは近年の3500形まで続く名鉄の基本デザインとなった。
こうして、デザインが完成し、機器面などでの設計調整が行われて後、実物大車体モックアップを製造し、実際の車体製造に展開した。試験走行に加え鉄道友の会の会員を交えて試乗なども実施したが、空気バネなど乗り心地は上々であり、1961年4月22日にマスコミ関係者への公開、そしていよいよ6月1日より営業運転が行われた。
パノラマカーが名鉄にデビューした日、まだ名鉄は貨物輸送を行っており、5500形が最新鋭、HL車の3700形も新型車両。いもむし、として愛された3400形が1937年以来頑張っており、戦後初の新製車3800形が大活躍していた時代である。支線ではHL車や釣り掛けモーター車が活躍し、車体は木造、という時代の話である。
名鉄では、1930年の神宮前~豊橋(吉田駅)の特急「あさひ」を筆頭に名称特急を運行してきた。これが定期ダイヤ化されたのが1961年夏に運行が始まった海水浴特急「内海」で、当時は冷房車という点が売りの5500形が用いられていたが、この5500形を座席指定席仕様として運行、1961年から臨時列車扱いではあったが座席指定席特急の運用が名鉄に誕生した。
7000形パノラマカーを用いた座席指定席特急は1967年に新岐阜(現名鉄岐阜)~河和口駅間に運航された「内海」「小野浦」号が7月22日から8月13日までの期間運行され、同じ期間の土日、栄生~河和駅間に特急「篠島」号が運行されていた。こうしてパノラマカーは特急運行であっても全車料金不要にて利用できる一方で、座席指定席を有する観光特急としての地位を固めていった。
1968年には「鬼岩」「蘇水湖」号が常滑~八百津間に、「フラワー」号が新岐阜~豊橋間で運行。1969年には新岐阜~河和駅間に「しおさい」号、豊橋~新鵜沼間に「日本ライン」号、というように毎年、臨時特急扱いという座席指定特急が運行されていた。5500形とともに座席指定特急が運行されていたのだが、特別料金が必要なこの特急は、車両アコモでも、それに見合う内装を有していた。
パノラマカーの最大の特色は何と言っても展望席である。遅れること数年で小田急電鉄にも非常に良く似た前面展望車を有する3100形が登場、その後も多くの展望車を有する特急が誕生したが、特急料金が不要である前面展望車というのは、おそらく名鉄7000形だけなのではないか、と考える。
特急料金などを必要としないパノラマカーであるが、シートピッチ900㍉(860㍉)の転換式クロスシートを採用しており、これは当時の国鉄急行に匹敵、もしくはその上を行く座席内容を有していた。現在、クロスシート仕様の急行車としては5700/5300形が運行されているが、3500形の導入以後VVVFインバータ制御車両が導入されてのち、クロスシート方式の車両は新造されておらず、車両アコモでは昔の方が上であったともいえる。
5500形では窓が可動式であったが、7000形ではその部分は改められた。加えて、窓枠に連続窓を採用し視界を広くした。窓が完全閉鎖方式を前提としたことで連続窓が採用され、この方式はのちの通勤車などにも影響を与えた。さらに閉鎖を前提とした設計なので、窓枠下の部分に若干の余裕が出来、ここの部分に飲み物などを置くことができた。
パノラマカーの増強は14年間、九次に渡って行われた。6輌固定編成の3編成がデビューして以来乗客には概ね好評に迎えられ、1962年5月には二次車として6輌4編成が増強された。1967年には三次車として4輌5編成が加えられ、これによって支線運用にもパノラマカーが活躍できるようになった。三次車は四両編成であるが、加えて空気バネに改良が加えられている。
四次車は先頭車だけが4輌導入され、一次車の中間車を取り込み、四両編成を構成した(これによって一次車は四両編成になったものが出る)。空調機器などは一次車と四次車でことなるので、四次車を前後に組み込む編成は、車両ごとに空調機器の形状が異なっている点がポイントだ。
1969年に五次車として4輌2編成が導入。六次車は先頭車のみ6輌が導入され、6輌編成の中間車を流用する形で編成を組んだ。七次車は4輌3編成が導入。これにより新造の4輌編成車両は生産を終了した。1974年には八次車として台車や空気バネなどを近代化した6輌2編成を導入、1975年には輸送能力を増強するべく、中間車12両が増強された。これは7100形に区分される。
パノラマカーからはミュージックホーンが搭載されるようになった。これは330hz、440hz、555hzからなる電子音音楽ホーンであり、この独特の警笛は、こののちに登場したパノラマDX8800形、パノラマSuper1000形、μスカイ2000形など、名鉄特急に標準装備されるようになった。
7000形パノラマカーは、鉄道友の会会員の助言を大きく活かして開発された車両ということで、1962年に人気投票にて選ばれる鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞している。実は、1962年のブルーリボン賞受賞までの間、現在の逆富士型の行先表示板は取り付けられておらず、“Phenix”と記されたプレートが取り付けられていた。設計当時、車体に例えば京阪のテレビカーのようにパノラマカーと大書する構想があったが、取りやめられた経緯がある。
Phenixという表記は、なんなのだろうか。デビュー当時からパノラマカーという愛称があった7000形にあって、そのプレートの銘記に関する疑問はあるものの、現在の行先表示板にくわべれば小さな表記とともに、ブルーリボン賞受賞までの期間、銘板が取り付けられ、運行されていた。
逆富士型の行先表示板は、ともとも、ブルーリボン賞受賞の際に取り付けられた、逆富士型の受賞記念ヘッドマークが、そのはじまりといえる。ただ、行先表示が先頭車に無いというのも問題であるので、もともと構想自体はあったのであろうか。ともあれ、こうして今日のパノラマカーのカタチが完成に至ったわけである。