北大路機関

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【京都発幕間旅情】首里城,正殿-北殿-南殿火災全焼前の朱色に輝く壮大美麗城郭と復興の祈念

2019-10-31 20:09:36 | 旅行記
■沖縄-首里城全焼!
 今朝起きたらば報道で世界遺産首里城跡の首里城が全焼したという、全焼というと何処がと聞けば中央部全てという。信じられなかった、そして悲しかった、何か心が焦る程に。

 首里城、沖縄県那覇市の壮大な城郭です。そして非常に残念な事ではありますが今朝火災に見舞われ、その中心に当る正殿を始め火の手は北殿と南殿へも延焼し、中心部の建造物全てが11時間に渡る延焼の結果に全焼しました。朱色の城郭、再建を願い特集したい。

 三山時代、京都では室町時代の栄華を極める中の沖縄は中山、山南、山北、この三カ国に分れており山南の佐敷按司尚巴志による武力統一を経て正長年間の1429年に統一国家となっています。そして三山時代には中山城塞として既にこの地に、首里城があったという。

 尚思紹王、琉球王朝として応永年間の1406年に即位した初代国王は佐敷按司尚巴志の実父にあたり尚巴志は統一実現と共に実父の即位を願った構図です。その王墓は航空自衛隊知念分屯地内に奉じられていまして、武力統一運動、その実力は九州南部へも及びました。

 琉球王朝草創期に首府としてこの首里城が既に威容を誇ったという事ですが、享徳年間の1453年、志魯-布里の乱として琉球王朝内の後継争いの渦中に戦場となり焼失、再建される事となります。尚泰久治世下に外城と中城に内城から成る軍事施設として再建されます。

 この首里城は、内城に閣という国王正殿を設けると共に中城は純粋な軍事施設であり、琉球武力統一と九州との軍事対立を背景に今と違う威容でした。しかし城郭造営に際しては尚泰久王の命により南禅寺の僧芥隠承琥が臨済宗寺院の梵鐘を置くなど独自文化が萌芽へ。

 尚氏統治は応仁年間の1469年に尚円王の即位と共に琉球統一運動が九州南部へ影響を及ぼし、大隅国や南九州の雄たる薩摩との対立が醸成され、江戸時代初期に薩摩藩は幕府からの朱印任状を以て琉球侵攻へ乗り出します。沖縄は平和という印象があるのは現代だけ。

 琉球侵攻では薩摩藩3000名が軍船80隻を以て恩納や嘉手納海岸へ上陸を試みるものの大筒による火力により上陸できず、一旦浦添牧港に揚陸し薩摩軍は近接戦闘を強要、薩摩の火縄銃に対し琉球軍の石火矢は射程で対抗出来ず、時の尚寧王は首里城を開城させました。

 万治年間の1660年、首里城は失火により焼失します。この際に再建は実に十一年の期間を要しましたが、再建間もない宝永年間1709年に三度焼失します。この頃には琉球財政が逼迫しており、その再建は薩摩藩が建材を提供、再建されたのが我々の知る首里城の姿です。

 九州侵攻を前に外城と中城に内城という軍事色の強い城塞であった首里城は、しかしこの17世紀の再建に際しては既にその軍事脅威も無く、正殿に北殿と南殿を置く現在我々が知る構造、平時の行政中枢を期して再建されており、琉球瓦多用の平和時の城郭となった。

 奉神門から正殿に北殿と南殿へと至る城郭は遡る尚泰久王治世下に外郭として琉球石灰岩からなる城壁と歓会門や久慶門の門扉が、内側に二重城壁を配する中央部に御庭と囲む主要構造物、そして瑞泉門や漏刻門の九門が配置される構図でした、正殿前の御庭は美しい。

 中山世土、清朝康熙帝玄燁が送った扁額が正殿玉座に掲げられ、北殿と南殿には清朝の使者と薩摩の在番奉行所を置く構造であり、形式的には冷戦時代北欧のノルディックバランス外交に近い対外政策を、薩摩藩の影響下において維持していた構図ではありました、が。

 明治時代に入り廃藩置県にて薩摩藩含め全ての幕藩体制基礎が明治新政府隷下へ転換してゆく中での明治時代1879年、琉球処分として永らくの王国間接統治は琉球王国最後の国王尚泰が華族へ列せられると共に沖縄県が置かれ、首里城も首府としての永い役目を終える。

 首里御嶽、首里城は首府としての役割を追えますが信仰の場としての地位を維持します。建築学者伊東忠太東京帝国大学教授、染織家鎌倉芳太郎人間国宝の尽力で一時決定の取り壊しを免れ、多くの城郭と同じ様にその城郭は沖縄神社として維持される事となりました。

 沖縄戦、近現代史における最大の災厄は戦災でした。首里城は第32軍司令部が近く、連合軍上陸28万を中心とする54万の連合軍に対し第32軍を中心に日本軍12万は大量の火砲と自動火器を駆使して抗戦し九州からの航空機増援3000機と共に空前の激戦となります。

 首里城は戦艦ミシシッピやウェストヴァージニア、ペンシルベニアの艦砲射撃に曝され、ペンシルベニアは航空攻撃にて大破航行不能となり戦列を外れますがミシシッピによる首里城への砲撃は途中二機の特攻機が直撃しつつ継続、首里城は文字通り灰燼に帰しました。

 戦災、原爆に破壊された広島城や空襲に消えた名古屋城と岡山城等多くの城郭は石垣が残りました、しかし14インチ艦砲で執拗に破壊された城郭は日本では首里城くらいでしょう。その破壊は大きく、また戦後沖縄がアメリカ統治下に置かれた事も残念な結果といえる。

 琉球大学。新しい大学のアメリカ統治下での建設、その開学の地が首里城でした。この為に城郭の復興は逆に遺構の破壊へと進みました。転機は1972年の沖縄本土復帰、当時の文部省は首里城復興の意向を示します。先ず1979年より琉球大学移転と、首里城再建工事が本格化しました。

 昭和時代には国宝建築に指定された首里城、そして戦災の災厄、アメリカ統治下から悲願の本土復帰を経て再興へ向かう首里城ですが、その城郭が再建されたのは昭和時代中には叶わず、平成時代を待つ必要がありました。1992年、お城は正殿復興を成し遂げる、漸く。

 令和時代、今朝非常に残念な事ですが首里城はその正殿はじめ中心部の復元建築物が焼失しました。全国の復興天守の鉄筋RC構造ではなく美しい朱色の木造建築は、なんといいますか、残念でした。不幸中の幸いは火災による犠牲者が無く、消防士熱中症だけであった。石垣も破壊されていない。

 城郭復興、時間は掛かる事だと思います。先ず木材の調達から時間を要する、鉄筋RC構造ならば名古屋城の様に五年程度で実現する事でしょうが元通りの復元へは恐らく2030年代まで要するのではないでしょうか。那覇市から広く見える城郭、焼失は本当に心が苦しい。

 城郭、しかし必ず復興できるでしょう。昭和に焼けた京都の金閣寺と同じものかもしれません、城郭というものは軍事中枢を経て行政中枢から文化財として長い時を共に過ごしてきました。人々の心に城郭があり、復興望む人がいる限り、時間は掛かりますが復興できるでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】豊橋吉田城(今橋城),三河と遠州結ぶ豊橋は五〇〇年にわたる東海道の要衝

2019-10-30 20:08:11 | 旅行記
■豊橋創った城郭と城下町
 愛知県豊橋市、東海道という東京と京阪神や名古屋を結ぶ交通の要衝に在ります。そしてこの地には街道への守りへ実に500年以上前から城郭があるのです。

 豊橋吉田城、東海道本線を新快速で東下り、と東京へ楽しんでいますと韋駄天の如き新快速が急減速する境界線が此処、浜松から先は東京まで基本各駅停車のみ。東海道新幹線ですと、のぞみ号通過、ぷらっとこだま利用では通過列車待ちの駅という豊橋駅がある。

 豊橋市、散策してみますと歴史街道を歩む馥郁とした機運に満ちた素晴らしい街でして、豊橋駅に新幹線と東海道本線に飯田線、名鉄線と豊橋鉄道が集い、駅前からは路面電車が広い道路を、隣接する豊川市には豊川稲荷と豊川駐屯地、不思議な活気に満ちた印象です。

 吉田城が造営されたのは永正年間1505年頃と云い、牧野古白により築城されました。牧野古白の系譜は牟呂八幡宮宮司として足利将軍家より讃岐よりこの地へ移った牧野成富の嫡男として、現在はお隣豊川市となった牧野城に生まれた武将です。そして1505年の時代だ。

 応仁の乱にて京都が壊滅状態となった後に騒擾が収まったのは1477年、吉田城築城の1505年はまだ騒擾の小火が残る不穏な時代、三河守護職という官職は非常に不安定な状況にありました。事実1493年に明応の政変として室町将軍職を巡る騒乱があり、影響は全国へ。

 三河守護職一色時家により重用された牧野成富は、しかし主君一色時家が元々相模守護でありながら1438年の永享の乱により落ち延びた後に三河の実力者波多野全慶により討たれ主君を失います。そこで明応の政変が在り、将軍職支持の相違を前に波多野全慶と戦う。

 牧野成富はこの戦いに勝利すると共に駿河守護の今川氏親の下に就き、今川氏親は対立する西三河の松平氏への抑えとして、複数の城郭造営を命じました。その一つが、この豊橋吉田城です。しかし、牧野古白は築城翌年の1506年に松平氏との戦いであっさり討死する。

 豊橋は三河地方と遠州を結ぶ地狭という戦略上の要衝であり、牧野古白を破った戸田宣成が城主となりますが天正年間の1546年には今川氏が反撃に転じます。そして松平氏は今川氏の配下となり、新たに三河地方を押えた今川氏には織田氏と向き合う岡崎城への後詰へ。

 桶狭間の戦い、永禄年間1560年に今川義元が討死すると松平家康即ち後の徳川家康が離反、重臣酒井忠次を置き要衝の防衛に充てています。家康は吉田城と長篠城に野田城と浜松城に二俣城と高天神城として防衛線を築き、次なる脅威、甲斐の武田信玄へ備えた訳ですね。

 池田輝政は天正年間1590年、小田原征伐の勲功を以て関東一円を下賜した徳川家康に代わり、東三河15万2千石城主として吉田城へ入りました。池田輝政は吉田城を前線拠点ではなく本拠地として城下町や吉田大橋の都市開発を行い、現在の豊橋市基盤を造り上げます。

 姫路城築城で知られる池田輝政は慶長年間1598年の豊臣秀吉死去と共に豊橋の地に所縁深い徳川家康と親交を深め、関ヶ原の戦いでの勲功を以て播磨姫路52万石に加増移封されたのは歴史が示す通り。ただ、その移封の時点で、まだ吉田城は築城の途中だったという。

 吉田藩の政庁として江戸時代に完成を見た吉田城は、家康との所縁から親しい大名の居城となり、老中や大坂城代に京都所司代の要職を務めた譜代大名が藩主に充てられ、出世城、と呼ばれるようになりました。岡崎城も同じ出世城、家康と所縁ある城郭の特徴ですね。

 吉田城は別名今橋城、といいまして東海道の橋梁という戦略要衝を護る要地でした。そして明治維新の後は城下町と共に陸軍駐屯地に適しているとされ、歩兵第一八連隊本営が置かれる事となります。現構造物は1954年再建の隅櫓で、豊橋に城郭の気風を伝えています。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ペトリオットミサイル旧式化!?サウジアラビア政府ロシア製S-400防空ミサイル検討報道

2019-10-29 20:17:33 | 先端軍事テクノロジー
■ドローン戦争vsアメリカ兵器
 イラン製の簡易巡航ミサイルというべき無人機群によるサウジアラビア油田攻撃は世界に衝撃を与えましたが、新しい動きが。

 サウジアラビアは現在、ロシア製S-400防空ミサイルとS-500防空ミサイルの取得に向け政府間が交渉中であるとロイター通信が報道しました。S-400はトルコ軍が導入し、結果アメリカ政府はNATO防空システムへ連節する事によりロシア製防空システムへ情報が漏えいする懸念から、トルコ軍が取得予定の第五世代戦闘機F-35A戦闘機引渡を停止しました。

 サウジアラビアは航空自衛隊と幾つかの主要装備に置いて共通点があります、制空戦闘機としてF-15Cを運用しておりF-15Jと共通点が。更に戦域防空ミサイルとして同じペトリオットミサイルを装備しています。相違点は潤沢石油財源か緊縮財政、また双方ともにミサイル脅威に曝されていますが、サウジアラビアは現在実戦に曝されているという部分で。

 S-400ミサイル、サウジアラビアは親米国家の象徴的な国ですが、ロイター通信ではアメリカの中東におけるポテンシャル低下の空隙にロシアが入り込みつつある、という説明を行っています。ただ、S-400については、サウジアラビア軍が運用するペトリオットミサイルよりも幾つかの部分で高性能である、という部分が抜け落ちている様に思えてなりません。

 イラン製簡易巡航ミサイルというべきドローン攻撃、射程が1000km前後となる新しい脅威に対してサウジアラビア軍は防空体制の立て直しを強いられていますが、広大なサウジアラビア国土に在って、ミサイルコリドーという防空覆域の狭間から油田施設や空港施設等を狙う脅威に対し、現在のペトリオットミサイルは充分に対応出来ているのでしょうか。

 ペトリオットミサイルは1984年に運用開始となりました戦域防空ミサイルです。同時期に海軍ではイージスシステムが運用開始となっていまして、実のところ相互補完性や双子といえるのかもしれませんが、イージスシステムが年々改良と運用ミサイルの近代化を進める一方、ペトリオットミサイルは部分的改良に留まっており、一部の面で陳腐化している。

 ペトリオットミサイルPAC-2は条件次第で最大射程160kmを発揮しますが、通常高度を飛行する航空目標に対する実用的な射程は96kmとされていまして、実はこの96kmという射程は現代の戦域防空ミサイルとして決して長射程ではありません。開発当時は充分でしたが、2000年代以降ロシア製地対空ミサイル長射程化に後れを取っているのが現状です。

 ペトリオットミサイルはAN/MPQ-65レーダーを用い、ミサイルの射程以上の遠距離目標を複数同時捕捉と識別追尾が可能です。ただ、AN/MPQ-65レーダーは固定式でありその警戒範囲は120度に限られます。360度を確実に警戒するには三基が必要となりますが、1セットにAN / MPQ-65レーダーは1基のみ、警戒範囲が現段階では充分ではありません。

 迎撃に際してM901発射装置よりミサイルを発射しますが、こちらも発射方式が現在主流となりつつある垂直発射方式ではありません。100km以遠を狙うペトリオットは射撃時の後方爆風等の影響も大きく、垂直発射方式を取らない為に射撃位置等が制限され、特に360度全周に渡って射撃を行うには地形上の制約が大きい。この点も問題点といえるでしょう。

 S-400地対空ミサイルは、ミサイル本体の射程が400kmに達し、高高度警戒用96L6Eレーダーと92N2レーダー索敵レーダーは500km以遠での目標を捕捉する性能を有しており、40N6Eミサイルは本体重量が1.8tもあり、主として対航空機用となっていますが弾道ミサイル迎撃能力も高く秒速4.8kmまでの落下速度を有する弾道ミサイルに対し迎撃可能です。

 9M96EミサイルとしてS-400地対空ミサイルには、重量333kgの小型ミサイルがシリーズ化されていまして、射程は40kmと有効射高は20000mに留まりますが、40N6Eミサイルのような巨大なミサイルを使用するには威力過大な近距離目標に対し対応可能です。ミサイルは垂直発射方式を採用し峡谷や市街地から射撃可能、レーダーは回転式を採用する。

 ペトリオット、射程不足と警戒範囲の狭さ、理想的な解決策はレーダーを高速回転式とした新型に改め360度の警戒監視を可能とさせると共に発射装置を垂直発射装置として新型を開発する、また射程も延ばす“ペトリオットPAC-4”が必要なのですが、現段階ではこうした改良型は開発されていません。即ち広範囲を防空するには現在、限界があるのです。

 サウジアラビアの視点に立てば、今回問題となった油田攻撃にはミサイルの射程不足と警戒範囲不足の狭間を衝かれました。しかしアメリカ製ミサイルを導入する限り、陸上配備型にはペトリオットPAC-2が射程では最大、西側には自衛隊の03式中距離地対空誘導弾が在りますがこちらは全周射撃可能ながら射程不足、他に妥当な機種が無い現状という。

 イージスアショア、唯一の例外が陸上配備型イージスシステムです。イージス艦に搭載される対航空機用のスタンダードSM-6は条件次第で射程は470kmと長く、早期警戒機と連接する事で見通し線外の低空目標も迎撃可能です。ただ、難点は固定式である点、そしてなによりアメリカはサウジアラビアへイージスシステムの供与を認めていない限界がある。

 アメリカの中東における影響力低下がロシア製ミサイルの導入へ動いたのではなく、ペトリオットミサイルの現代戦における能力相対的低下が比較的高性能であるS-400ミサイル導入へ動いた、実際構図はこうです。故にサウジアラビアが求める必要な性能を有する地対空ミサイルが開発されるならば、S-400の導入に動く事は無かったのではないでしょうか。

 スタンダードSM-6の地上発射型、可能であればMk41垂直発射装置を車載化したものと、回転式SPY-1レーダー及び火器管制装置を車載化したもの、即ち最小限度のイージスシステムといえる装備ですが、こうしたペトリオット能力不足を置き換える新型防空システムをアメリカが開発するならば、サウジアラビアは勿論、世界へ影響を与えられるでしょう。

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【G3X撮影速報】第10師団創設57周年守山駐屯地祭,即応近代化師団の祭典(2019-10-27)

2019-10-28 20:04:48 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■令和元年第10師団祭
 師団はかつて混成団に乙師団と戦略機動師団に今は即応近代化師団、将来は地域配備師団となる師団の創設記念行事、その模様を速報にてお伝えしましょう。

 第10師団創設57周年守山駐屯地祭が日曜日の昨日挙行されました。第10師団は司令部を中京地区名古屋の守山に置き、中部方面隊隷下に在って東海北陸地方の愛知県、岐阜県、三重県、石川県、福井県、富山県、以上六県を防衛警備管区とする即応近代化師団です。

 師団は主要部隊に第14普通科連隊、第33普通科連隊、第35普通科連隊、第10特科連隊、第10戦車大隊、第10高射特科大隊、第10偵察隊、第10施設大隊、第10通信大隊、第10後方支援連隊、第10飛行隊、第10特殊武器防護隊、第10音楽隊、を隷下に置く。

 守山駐屯地に司令部を置く師団は、石川県金沢市に金沢駐屯地、三重県津市に久居駐屯地、愛知県豊川市に豊川駐屯地、愛知県春日井市に春日井駐屯地、三重県伊勢市に明野駐屯地、そして第3師団管区である滋賀県高島市の今津駐屯地に、師団隷下部隊が駐屯している。

 第10師団長鈴木直栄陸将の部隊巡閲、師団長は今年四月に師団長へ補職され、防衛研究所副所長を経て現職にあります。防衛研究所副所長、第10師団は中部方面隊における新たな戦闘への対応を想定した実験部隊である、とは昨年伊丹駐屯地での総監訓示にありました。

 鈴木直栄陸将の訓示、副師団長の大橋智陸将補は防衛大学校防衛学教育学群統率-戦史教育室長、幕僚長大場勇1佐は幹部学校主任教官、という陣容で新しい戦いへの模索を重視した頭脳集団という印象。また流石はPowershotG3Xのズーム能力というところでしょうか。

 大橋智陸将補を先頭に観閲行進準備の号令が掛かり式典参加部隊は観閲行進準備の隊形へ走ります。本年の守山駐屯地祭は台風15号災害、台風19号災害、また前日には台風20号太平洋上通過に伴う豪雨災害があり祝辞は短く、そして黙とうが行われ弔意を示しました。

 第14普通科連隊長梨木信吾1佐を先頭に観閲行進の先鋒を。連隊は金沢駐屯地に本部を置き石川富山福井三県を担当、本年は災害派遣が多発したという事もあり連隊は82式指揮通信車と共に人命救助システムを行進参加、普通科部隊の能力多様性を示した構図でしょう。

 第33普通科連隊、石原雄介1佐先頭に徒歩行進、第33普通科連隊は中部方面隊で最初に軽装甲機動車を配備しました、過去には各連隊が、軽装甲機動車中隊、高機動車中隊、重迫撃砲中隊、を連隊ごとに参加させましたが燃料費高騰により徒歩行進中心となりました。

 ヘリコプター部隊の飛来、第10飛行隊のUH-1J多用途ヘリコプター3機と退役迫るOH-6D観測ヘリコプターに航空学校のUH-60JA多用途ヘリコプターと第5対戦車ヘリコプター隊AH-1S対戦車ヘリコプター、愛知県防災ヘリコプターと名古屋市消防局等の機体が参加だ。

 第35普通科連隊は守山駐屯とあり車輌部隊での参加、連隊長曽根勉1佐は元第12旅団司令部第3部長、なお第10師団は1962年の師団改編以前、第14普通科連隊一個のみを中心とした第10混成団でした。当時の普通科連隊は15個中隊を基幹、戦車中隊もあった。

 軽装甲機動車は各普通科連隊へ1個中隊を配備しています。将来的に即応近代化師団から特科部隊と戦車部隊を廃止し地域配備師団へ改編予定、すると軽装甲機動車と高機動車主体の普通科部隊が骨幹戦力となりますが、輸送防護車や全地形車輌等の増備が必要と思う。

 第10偵察隊の観閲行進、隊編成というものは自衛隊では縮小混成団や連隊同格から増強中隊規模まで在り、その背景一つには連隊や大隊の編成は内閣承認が必要である為に改編の書類上の手間が大きい、という背景も。偵察隊はこの中で事実上の増強中隊にあたるもの。

 第10戦闘偵察大隊へ、近く改編される事となります。これは第10戦車大隊を廃止し16式機動戦闘車主体の戦闘中隊とし、偵察隊は隊本部機能を戦車大隊本部要員と併せ大隊本部へ拡大、その上で偵察中隊へ編成を分離するというもの。87式偵察警戒車の後継は未定だ。

 第10特科連隊は連隊長中村雄久1佐が指揮通信車と共に行進を。改編前は12個特科中隊60門のFH-70榴弾砲を装備しましたが縮小改編により30門へ、そして将来的には中部方面特科連隊へ編合され廃止、一個大隊が担当大隊として師団隷下へ平時編入される見込み。

 第10高射特科大隊、81式短距離地対空誘導弾C型と93式近距離地対空誘導弾にP-9低空レーダ装置やP-14対空レーダ装置を装備します。現在防衛装備庁では低空レーダ装置と対空レーダ装置に対砲レーダ装置や沿岸監視レーダ装置を統合するレーダ装置開発が始まる。

 第10施設大隊の観閲行進、07式機動支援橋と共にダンプも参加、しかしかつて装備された75式装甲ドーザや92式地雷原処理車は方面隊装備となり、本来は建設工兵であった方面施設が戦闘工兵を担う事となり、結果的に大規模災害に向かない戦闘工兵が増え今日に至る。

 第10通信隊、野外通信システムと共に観閲行進へ臨む。自衛隊は全部隊にデジタルデータ通信網を整備する事に成功しました。諸外国が予算上踏み切れない転換、自衛隊は東日本大震災災害派遣にて通信統一が切迫過大となり、いわば戦訓を受け配備加速というかたち。

 第10特殊武器防護隊。かつての化学防護隊との最大の違いは核攻撃や生物兵器攻撃への対処能力を有した点で化学防護車と共に生物偵察車が行進へ参加しています。大都市名古屋を警備管区とする師団には放射性物質等によるテロへの脆弱性があり増強改編されました。

 師団司令部付隊。師団の数が我が国は自衛隊の規模に対して多すぎる、という指摘がありますが、都道府県の数に対してや公官庁の部局数に対して同格の数を維持しようとしますと、こうなります。純粋な野戦部隊を総隊直轄とし、方面隊隷下に戦域司令官を置ければ。

 第10後方支援連隊の観閲行進、自衛隊は国土戦を想定する為に後方支援部隊が抑えられています。ただ、国際貢献任務に後方支援が偏重した結果、一般論として自衛隊は後方支援が得意、という誤解がある。また後方支援にも戦闘部隊に随伴する前方任務があるのですが。

 第10後方支援連隊衛生隊の観閲行進。陸上自衛隊では島嶼部防衛への水陸機動団新編や全国の一部師団や旅団で進む即応機動連隊改編等を自衛官全体数の維持とともに実施しています。ただ、その為に何処かが削られている訳であり、特に後方支援職種と呼ばれる部隊の皺寄せが伝わる。

 第10戦車大隊の観閲行進、戦車大隊は滋賀県今津駐屯地へ駐屯しています。しかし将来的に戦車大隊は廃止され一個中隊程度の16式機動戦闘車が配備されることとなります。戦闘中隊へ改編した上で、第10偵察隊と統合し、第10偵察戦闘大隊へ改編される、という。

 74式戦車、第二世代戦車として設計されまして残念ながら現代では完全に旧式です、近代化改修として師団通信システムに対応していますが、特に防御力の面で第二世代戦車は車体各所に弾薬を分散配置し誘爆を防ぐ設計思想で、この方式そのものが発想として古い。

 16式機動戦闘車へ置き換える、という視点ですが、しかし陸上自衛隊は地域配備師団の位置づけを本当に最後まで動かさない部隊とするつもりなのか、で意味合いは違ってきます。地域配備師団でも東日本大震災の根こそぎ動員では動員しました、前例があるのですね。

 結局のところ、一個中隊でも10式戦車を配備し次の根こそぎ動員へ備えるか、大胆に普通科へ輸送防護車や装輪装甲車を大量配備するか、師団を旅団へ縮小してでも即応機動連隊と偵察戦闘大隊を置くべきです。最大の脅威は外国ではなく政治の無自覚、とおもった昨今のお国の防衛政策です。

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【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【06】護衛艦と潜水艦部隊(2009.10.23)

2019-10-27 20:09:56 | 海上自衛隊 催事
■観閲艦くらま,へ敬礼!
 観艦式の観閲部隊と受閲部隊の航行は進み護衛艦部隊から続いて潜水艦部隊が見えて参りました。

 くらま、ゆうべつ。観閲部隊観閲艦-護衛艦くらま(DDH-144第2護衛隊群第2護衛隊)に向け受閲艦艇部隊第3群を構成する小型護衛艦部隊、護衛艦ゆうばり(DE-227護衛艦隊直轄-第15護衛隊)護衛艦ゆうべつ(DE-228護衛艦隊直轄-第15護衛隊)が敬礼を行います。

 そうりゅう、いかづち。受閲艦艇部隊第4群潜水艦そうりゅう(SS-501第1潜水隊群-第5潜水隊)と潜水艦わかしお(SS-587第2潜水隊群-第4潜水隊)及び潜水艦なつしお(SS-584第1潜水隊群-第5潜水隊)が先導艦-護衛艦いなづま(DD-105第4護衛隊群第8護衛隊)横へ。

 そうりゅう、三菱重工業神戸造船所にて2009年3月30日に就役した最新鋭艦です。艦長は加納雅人1佐、真珠湾攻撃参加の海軍航空母艦蒼龍を継ぐ艦名ですが、旧海軍が航空母艦設計を完成させた歴史的艦名を潜水艦名とした事には艦隊司令官OBからの疑問の声も。

 はつゆき、ゆうべつ。はつゆき、は警戒部隊としての参加なのですが、艦長下野善彦2佐以下、吹雪型駆逐艦3番艦初雪の名を継ぎ、頑張ってきたのですが翌2010年6月25日の除籍されており、有終の美を観艦式の警戒部隊ではなく受閲艦艇部隊へ入れて欲しかった。

 はつゆき型護衛艦、DD-122はつゆき、DD-123しらゆき、DD-124みねゆき、DD-125さわゆき、DD-126はまゆき、DD-127いそゆき、DD-128はるゆき、DD-129やまゆき、DD-130まつゆき、DD-131せとゆき、DD-132あさゆき、DD-133しまゆき、12隻が建造された。

 88艦隊として、護衛隊群を護衛艦8隻と対潜ヘリコプター8機から編成する新時代任務に対応するべく設計され、対水上用のハープーン、対空用のシースパロー、対潜用のアスロック、そしてHSS-2やSH-60対潜ヘリコプターを搭載するシステム艦が、はつゆき型だ。

 くらま、そうりゅう。非大気依存推進方式AIP潜水艦として建造された一番艦です。潜水艦はバッテリーで航行し、使い切った後にはスノーケルを海上に出し吸気しつつディーゼル発電機で充電する必要があり、弱点でした。AIP潜水艦はスターリングシステムを積む。

 そうりゅう型は、SS-501そうりゅう、SS-502うんりゅう、SS-503はくりゅう、SS-504けんりゅう、SS-505ずいりゅう、SS-506こくりゅう、SS-507せきりゅう、SS-508せいりゅう、SS-509しょうりゅう、SS-510おうりゅう、と建造され、建造はなお続いている。

 ゆうべつ真横から。そうりゅう型は満載排水量4200tと巨大です。熱対流と熱膨張を利用したスターリング機関を搭載していますが、スターリング機関と鉛蓄電池を全部最新鋭のリチウムイオン電池へ置き換えた方が水中航行能力はむしろ高まるとされ、改修の予定が。

 わかしお、はるしお型潜水艦だ。水中排水量3200t,全長77m,海上自衛隊が潜水艦うずしお型以来設計した涙滴型潜水艦の最終型に当り、徹底した騒音対策によりディーゼル発電中も捕捉が難しく、高エネルギー密度水冷撹拌クラッド式鉛電池により航続距離が延伸した。

 そうりゅう、あぶくま。自衛隊の潜水艦はZYQ-31指揮管制支援装置とTDBS情報処理装置とZQX-11潜水艦戦術状況表示装置及びZYQ-51潜水艦発射管制装置という独自の戦闘システムを構築しており、アメリカ海軍の支援を受けつつ独自の潜水艦運用体系を組んだ。

 あぶくま、観閲部隊の方が当方乗艦の観閲付属部隊よりも1ノット早く航行しており追い抜かれてゆく。あぶくま艦長は笹野英夫2佐、旧海軍お軽巡洋艦阿武隈の艦名を継ぐと共に、護衛艦あぶくま型の一番艦、本型は沿岸警備用DEとして最後に建造されたものです。

 そうりゅう、十年前の観艦式では文字通り最新鋭潜水艦です。ただAIP機関搭載で前型おやしお型よりも艦内容積が圧縮され、艦内居住環境は悪化し、その分備品の木目調採用始め、環境向上を工夫しているとの事。背景に見えるのは警戒支援の海上保安庁巡視船です。

 わかしお。艦長岡林眞人2佐が指揮しています、岡林艦長は本艦艦長を奉職した後、新潜水艦けんりゅう艤装員長を経て初代艦長へ補職されています。潜水艦職域は特殊でもありまして、他の艦艇などの経験は研修程度にとどめ、まさに潜水艦に始り潜水艦の道を進む。

 なつしお。艦長笹尾謙一2佐は、なつしお除籍が翌年3月に迫っており最後の艦長となる。つづいてAIP実験潜水艦あさしお艦長へ補職されていまして、しかし、はるしお型潜水艦は7隻が量産されましたが、平成の内に全て退役へ。続き、おやしお型が量産されている。

 SS-583はるしお、1990年就役2009年除籍。SS-584なつしお、1991年就役2010年除籍。SS-585はやしお、1992年就役2011年除籍。SS-586あらしお、1993年就役2012年除籍。SS-587わかしお、1994年就役2013年除籍。SS-588ふゆしお1995年就役2015年除籍へ。

 SS-589あさしお、1997年就役2017年除籍。はやしお、は2008年練習潜水艦へ改装TSS-3606種別変更、ふゆしお、は2011年練習潜水艦へ改装TSS-3607種別変更、あさしお、は2000年にTSS-3601種別変更と共に船体延長しAIP実験潜水艦へ改装を実施した。

 おやしお型は涙滴船形はるしお型に続き葉巻形状で建造、SS-590おやしお、SS-591みちしお、SS-592うずしお、SS-593まきしお、SS-594いそしお、SS-595なるしお、SS-596くろしお、SS-597たかしお、SS-598やえしお、SS-599せとしお、SS-600もちしお、と。

 受閲艦艇部隊第5群が敬礼を行う。掃海母艦ぶんご(MST-464掃海隊群直轄艦)と掃海艦やえやま(MSO-301掃海隊群第51掃海隊)及び掃海艇あいしま(MSC-688掃海隊群-第1掃海隊)が続く。ぶんご、は掃海母艦うらが型二番艦で一番艦では後日装備となった艦砲を持つ。

 はるしお型潜水艦は涙滴型船型一軸推進方式を採用、1960年代の第一世代うずしお型が騒音に悩みつつ、ゆうしお型で改善し第三世代が本型、NS110調質高張力鋼採用で潜航深度が強化され、新ソナーZQQ-5や曳航式衛星通信受信装置初採用で戦術性能を強化しました。

 ぶんご。艦長田口慶明1佐が指揮する。うらが型掃海母艦で2000年まで第1掃海隊群と第2掃海隊群に分れており2隻が建造されましたが、掃海隊群として集約された為、この観艦式の時点では掃海隊群直轄艦として参加しました、現在は掃海隊群第3掃海隊に所属する。

 うらが型の任務は掃海母艦、日本の海上航路を脅かす機雷を処理し、また敵の上陸前には機雷敷設も任務とする。掃海艇の支援として掃海艇が余り多くの物資や真水を搭載出来ない点を支援すると共に、CH-53掃海ヘリコプター等運用支援、そして機雷敷設までを担う。

 はやせ型掃海母艦、そうや型機雷敷設艦、二類後継を担うのが、うらが型で基準排水量5700tと満載排水量6900t、高い司令部機能を有する為、2013年より輸送艦おおすみ型を中心とした水陸両用戦部隊を掃海隊群隷下に配置した際、指揮統制を両用作戦へ活かす事になる。

 やえやま、掃海艦やえやま型の1番艦で任務は潜水艦を狙う深深度機雷への掃海任務です。機雷戦艦艇である為、船体は木造で全長67mと基準排水量1000t、満載排水量1150tは1993年建造当時から2016年の除籍まで現用木造軍艦としては世界最大の規模を有していました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【G7X撮影速報】中国海軍太原(052D型/昆明級駆逐艦).晴海埠頭親善訪問(2019-10-15)

2019-10-26 20:02:06 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■豊洲埠頭とレインボーブリッジ
 中国海軍052D型駆逐艦太原撮影は晴海埠頭から少しづつ歩み進め様々な角度から撮影する事としました。

 晴海埠頭、東京港の晴海客船ターミナルは我が国表玄関と言うべき立地です。東京湾はレインボーブリッジの開通により、現在は満潮時52mまでの高さの船舶しか入港できなくなり、残念な事に大型客船は東京港へ入れず事実上は横浜港が表玄関となっているのですが。

 東京駅から今回移動しました。この晴海埠頭へは、昔はりんかい線から遠く徒歩で移動していましたが、東京駅からとバスが運行されていると知りました、有名な隅田川の勝ちどき橋を渡り晴海埠頭へ。東京駅は新幹線終点ですので寝過ごす心配が無くて良いですよね。

 豊洲埠頭、実は晴海埠頭客船ターミナルへ立ち入ることが出来れば、仮名細部まで撮影することが出来たのですが、中国艦ということも在ってのことでしょうか、立ち入り禁止となっていました。イギリス艦一般公開や親善訪問の際には此処から撮影できたのだけれど。

 太原、中国駆逐艦の細部をみたい、ということで豊洲埠頭、お隣の埠頭へ移動します。豊洲埠頭、東京駅行きの都バスで三つほど移動しまして、そこから橋梁を徒歩で。幸い、同じ経路で太原を撮影、という方と巡り会いまして、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 東京湾を前にSさんというHNの方、聞けば船乗りという。海の目線からいろいろと興味深いお話を頂きましたが、更にお土産まで頂いてしまいました。佐世保鎮守府開府130周年記念クッキー、ありがたい!佐世保地方隊コラボに艦これ赤城さんが描かれていました。

 佐世保基地、実はヘリコプター搭載護衛艦くらま除籍前は半年に数回行っていた佐世保ですが、くらま除籍後は実は一度も行けていません。いせ母港となっていますので、実は近々佐世保再訪を考えているものの改めて考えると京都から佐世保、寝台特急みどり懐かしい。

 江戸前というところでしょうか、釣り人数人。豊洲埠頭では釣り人も多く、釣っている獲物はなにかは興味のわくところですが、おお、見れば尖った嘴の先が赤い、かのサヨリではありませんか、腹を割くと真っ黒、と。築地を受継ぐ豊洲で釣り、風情あって羨ましい。

 レインボーブリッジへ、Sさんとお別れしまして当方は豊洲市場を通り、ランチの寿司がものすごく高いのに驚きながら、これならば観光地価格の京都の方が余程安い、こういう連中が寿司を高級品に仕立てて大衆食から引き離していると若干憤りつつ新交通システムへ。

 レインボーブリッジをわたるのは、イギリスの45型駆逐艦撮影以来か、いやお友達に木更津駐屯地まで乗せていってもらって以来でしょうか。晴海埠頭を俯瞰風景で納めるにはやはりレインボーブリッジでしょう。遊歩道がありまして、艦艇撮影に最適な立地でしょう。

 中国艦太原は新型のVLSを採用していまして、ロシア式のリボルバー型VLSからアメリカのMk41と似た方式へ転換、これを見たかったのですね。率直な印象ですが、必要な装備を最新型の船体に並べる、システムとしての整合性はこれからという印象、将来愉しみ。

 最新鋭最新鋭、という艦これの阿賀野のような印象ですが、中国艦は現在も未だ将来像を模索中、という印象です。イギリス艦のような革新性もシンガポール艦のような説得力も無く、しかし、最新鋭を確実に運用できるように、という乗員の士気は伝わってきました。

 CANON100-400mmIS2,今回は撮影に消費増税前の衝動買いと洒落込みましたレンズを携行しています。そして望遠に関しては信頼と実績あるG3Xを携行、デジタルズーム2400mmという怪物コンデジです。こちらの写真は世界の艦艇特集でじっくり、お伝えしましょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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令和元年度十月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2019.10.26-10.27)

2019-10-25 20:06:40 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 桜の木々は早々と紅葉経て落葉しいよいよ椛と銀杏に楓が秋を纏う今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか、今週末の行事紹介です。

 第10師団創設記念守山駐屯地祭、愛知県名古屋市守山区に所在する駐屯地で名鉄瀬戸線守山自衛隊駅を降りて直ぐの立地、東京からも中央線一本でJR大曽根駅から瀬戸線に乗り換えられる。第10師団司令部は隷下の第14普通科連隊、第33普通科連隊、第35普通科連隊、第10特科連隊、第10戦車大隊により東海北陸地方全域を防衛警備管区としています。

 守山駐屯地祭は名古屋市内でありながら74式戦車もFH-70榴弾砲も訓練展示にて空包射撃を展開し、また決して広い駐屯地ではありませんが普通科部隊始め観閲行進を様々な角度からその雄姿を見る事が出来ます。祝賀飛行では自衛隊に加え警察消防と官庁航空機の編隊飛行を実施、更に航空自衛隊C-130H輸送機が参加する年度も多く、注目の行事です。

 日本原駐屯地創設記念行事、津山から16km、戦車部隊が駐屯する岡山県勝田郡奈義町滝本の駐屯地です。山陽山陰地区を防衛警備管区とする第13旅団隷下、第13特科隊と第13高射特科中隊及び第13戦車中隊が駐屯しています。かつては第14戦車中隊が駐屯していましたが、第15即応機動連隊創設に伴い機動戦闘車隊として善通寺駐屯地に移駐しています。

 三軒屋駐屯地創設記念行事、岡山県岡山市北区宿に所在する駐屯地でJR津山線沿線の岡山理科大学に程近い駐屯地です。岡山市内という事もありまして日本原よりは交通が物凄く便利で関西補給処三軒屋弾薬支処と第4施設団隷下の第305施設隊が駐屯していまして第13偵察隊等が展示を盛り上げます。津山線終点まで行けば日本原駐屯地が近くなってくる。

 さて撮影の話題を。自衛隊関連行事へ遠出する際、どうしても娯楽となりますと移動が鉄道を利用する事が多いですので、特集記事や速報記事を書いているか、もしくは読書となります。やはり書くといいますか新しい文章を生み出すよりも他の著者の文章を読み取る方が楽ですので、疲れている際には読書が捗る事の方が多い、すると書籍を出先で新たに買い求める事も多い。

 書店、しかし減りましたね。昔から知っている街角の小さな書店が廃業し閉店したまま店内はがらんどうということも多々ありますし、下手をしますと小さな書店の内部が刳り出されてガレージになっていたり、更に進みますと更地になっているという事も少なくありません。インターネット通販全盛ではありますが、それ以上に書籍流通量は減っています。

 書籍、勿論文章を読む機会が維持されているならば決して悪い事ではないのですが、我が国全体の長文を読み取る能力、複雑な理論を読み取り咀嚼して再構築する能力、知識の集約と再配分という能力が、単なる迎合的な知の素通りへと低下してゆくのではないでしょうか。書店が経てインする度に、地域の知への好奇心、その行方が気になってしまいます。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

・第10師団創設57周年記念守山駐屯地祭…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/10d/
・日本原駐屯地創設記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/13b/
・三軒屋駐屯地創設記念行事…https://www.mod.go.jp/gsdf/mae/13b/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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【G7X撮影速報】中国海軍太原(052D型/昆明級駆逐艦),晴海埠頭親善訪問(2019-10-15)

2019-10-24 20:01:29 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■中国軍-自衛隊観艦式祝賀艦
 中国海軍の最新鋭駆逐艦、その晴海埠頭親善訪問の様子をお伝えしましょう。日中新鋭水上戦闘艦の比較が出来まして興味深い。

 令和元年自衛隊観艦式外国艦艇、太原の晴海埠頭入港です。中国海軍の052D型駆逐艦、昆明級駆逐艦の10番艦です。前回中国海軍艦艇が日本を訪問したのは2007年ごろ、呉基地を親善訪問したのが最後でした。日中関係雪解けの象徴といえる晴海埠頭入港ですね。

 052D型駆逐艦は満載排水量7000tで護衛艦あきづき型と同程度、中国海軍では防空駆逐艦に位置付けられています。H/PJ-38-130mm単装砲をクローズアップしてみました、前型である052C型の蘭州級駆逐艦では100mm単装砲を採用していたので大口径化しています。

 中華神盾と愛称される巨大なAESAレーダーが備え付けられた上部構造物、日米イージス艦のSPY-1レーダーよりも非常に大型でロシア製S-300地対空ミサイルのレーダーシステムとソブレメンヌイ級駆逐艦のシチル防空システムをリバースエンジニアリングしたとも。

 太原艦橋、HHQ-9A/海紅旗9Aミサイルを運用、これは陸軍用HQ-9を共通化したものでロシアの9K37/SA-11ブークと同じ。ただ射程は最大射程120kmに最低射程6kmと長く、自衛隊の短射程ミサイルESSMの射程50kmのように近年海上ミサイル射程延伸は著しい。

 昆明級駆逐艦、中国海軍は劣勢著しい海上広域防空を補うべくこの量産を急いでいます。昆明、長沙、合肥、銀川、西寧、廈門、烏魯木齊、貴陽、南京、太原、成都、呼和浩特、五年間で護衛艦むらさめ型を思い出すほどの速度で建造が続いていて、改良型構想も進む。

 さみだれ入港。ホストシップが丁度入港して参りました、後ろに見える美しい橋はレインボーブリッジです。太原と比較し護衛艦さみだれ、満載排水量では一割ほど太原の方が大きいのですが率直な感想としまして船体の印象としては太原、一見して小さいな、という。

晴海客船ターミナルから俯瞰した構図、日中の水上戦闘艦を比較しますと第一の相違点はやはり塗装でしょう、中国艦は白を基調としている、これは南シナ海の想定戦域から考慮した塗色です。もう一つの印象ですが艦橋構造物と操舵関連設備が中国艦はとても小さい。

むらさめ型、護衛艦隊汎用護衛艦は続く、たかなみ型、あきづき型、あさひ型と拡大改良型へ設計を踏襲しているのですが昆明級駆逐艦も前型蘭州級駆逐艦と設計を踏襲、ステルス性については露天甲板のエンクローズド化とブルワークで中国の方が重視しています。

昆明級駆逐艦、そこで気になるのですが洋上補給等長期間の航行を考慮しますと過度なステルス化は必ずしも優位性とならないのですね。ステルス重視のイギリス45型やフランスフォルバン級、イタリアのアンドレア-ドリア級は艦橋前部の01甲板を作業甲板としている。

さみだれ艦上と比較しますと、水上戦闘に資する装備と共に広い太平洋と周辺海域を防衛警備管区とする護衛艦は、航洋性と戦闘能力の均衡に重点を置いている。対して昆明級駆逐艦は戦闘重視、というより若干トップヘビーな印象も受けるのですが、設計思想の違い。

太原、さみだれ。昆明級駆逐艦は上部構造物中部のエンクローズド区画が洋上補給の際には折畳になっているのでしょうか。機関はライセンス生産の陝西-MTU 20V956 TB92ディーゼルエンジンとQC-280ガスタービンエンジンを採用し、巡航性を考慮しています。

晴海埠頭への太原は横須賀入港後の台風避泊で予定より二日間遅れました、台風19号の影響です。入港時には被災者激励の横断幕を掲示しました。オーストラリア、カナダ、シンガポール、イギリス艦も横須賀に揃い、令和元年を奉祝、また被災者を激励しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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新潟中越地震発災十五年-自衛隊災害派遣秘話,全村避難の衝撃と被災地へ急ぐ部隊や現場軋轢

2019-10-23 20:03:31 | 防災・災害派遣
■我に可能な事は全て実施せよ
 本日10月23日は新潟中越地震発災の日、あれから15年が経ったという。そこで本日は当時の自衛隊秘話などを振り返りまして、次の災害へ備える基点としましょう。

 はるな。第3護衛隊群の旗艦として日本海に君臨した護衛艦も災害派遣へ参加しました。ただ、地震発生当時は舞鶴地方隊の応急即応艦が護衛艦あぶくま、その護衛艦は満載排水量2800tとそれ程大きくは無く、即応艦という位置づけも1998年の能登半島沖不審船事件のような武装工作船対処を念頭としていた為にそれ程救援物資は搭載していませんでした。

 あぶくま、総監部はしかし兎に角いち早く被災地へ行け、という命令を出しまして艦内では被災者救援物資を当面搭載している物資だけで出来る事をやろう、と応急用の非常食を準備し湯煎する施設が足りないとかで科員浴室を最大限熱く沸かして湯煎したり、毛布を掻き集めたり、工夫だけを考えて新潟へ入港した次第です。ただ、あぶくま型はちいさい。

 はるな、舞鶴基地にて最大限物資を搭載し新潟へ駆けつけました。舞鶴基地で一番大きな護衛艦は当時イージス艦みょうこう、でしたがヘリコプター搭載護衛艦はるな、航空機格納庫という格好の物資貯蔵施設がありましたので、満載し駆け付けます。ただ埠頭は一杯、そこで仕方なく護衛艦あぶくま隣に係留したそうなのですが、救援物資受付は、あぶくま。

 あぶくま搭載の物資はかなり使い果たしていた為に、はるな入港は待ち望んだ増援だった、という構図ですが、物資は護衛艦あぶくま経由で被災者に手渡される為、一番乗りの手柄的な構図になっていまして、あぶくま乗員、はるな乗員共々苦笑を交えながら精一杯災害派遣任務に当ったというおはなし。災害派遣当時の護衛艦はるな乗員の方から聞きました。

 陸上自衛隊災害派遣、新潟県では山間部の山古志村が山岳崩壊により突如谷間に現れた土砂ダムにより全村避難する事となりまして、白羽の矢が立ったのがヘリコプターです。新潟県は群馬県の第12旅団管区でした。第12師団から旅団へ縮小改編となり、マンパワーが不足する中ではありましたが、改編で空中機動旅団としてヘリコプターが増えています。

 CH-47J輸送ヘリコプター、映画で“マリと子犬の物語”という全村避難の山古志村で置き去りにされたワンコさんの映画がありまして、十年以上前に相馬原駐屯地祭を撮影しました際に、ふとその話題に触れてみたのですが、映画に出ていました、という隊員さんが。映画ではUH-60JA多用途ヘリコプターでしたが実際にはCH-47Jが輸送の主力だった、と。

 土砂ダムは何時決壊するか分らず、なんでも九州の雲仙普賢岳での崩落型火砕流に似た緊張感が在ったという事ですが、映画では詰め込めばワンコくらい載せられそうな描写でしたが、あれは広報と安全性を天秤にかけた為といいまして、実際は実はかなり定員超過で輸送していた、という事です。もう十年経ったので紹介しますと定員倍近く乗せたという。

 子犬であればそのまま乗せていたと思う、親犬でも鞄に積めて居れば乗せていたと思う、というのが実際の現場だったようでして、流石にヘリの前で犬は無理とは言えないですよ、と前置きしつつ、しかしヘリコプターは満員以上でして、急ぎの避難とは言え手回り品がヘリコプターが想定する規模よりも在って、其処に定員超過で詰め込んだ、そんな状況で。

 CH-47は1982年フォークランド紛争でイギリス軍が短距離ですが210名を一機の機内に満員電車状態で詰め込んだ事はあったようですが、イギリス空挺兵のような詰め込みは被災者には何しろヘリコプターに慣れていないだけに危険で、しかし家財を棄てろとか置いて往くとかは出来ず、現場が後で懲戒を覚悟して輸送した。そんな状況だったようですね。

 航空自衛隊は、2004年が航空自衛隊創立50周年の節目でした。別に意味は無いように思われるかもしれませんが、実は入間ヘリコプター空輸隊、災害派遣での主力となるCH-47J輸送ヘリコプターが機体全体を50周年記念塗装、としていたのですね。後に聞いた話では、そんな、50周年おめでとう塗装で、災害派遣に駆け付けて大丈夫なのか、という悩みも。

 入間ヘリコプター空輸隊、しかし今できる事をやろう、という事で記念塗装のまま飛行したということでした。大きなことが大事なのですから小さなことに拘らず災害派遣を行う、そういった指針ですね。平時であれば一過性の特別塗装、CH-47は記念塗装そのままで災害派遣へ展開した事で報道写真に残り、50周年塗装はいまも新聞縮刷版で記録されている。

 うらが。掃海母艦が呉基地付近よりそのまま新潟へ派遣される事となりましたが、やはり掃海母艦も訓練を切り上げて緊急出動した為に、舞鶴基地へ物資を集積し積載した上で新潟へ向かう事となりました。そして舞鶴基地では総監から緊急の命令が、陸上自衛隊が実施している入浴支援、しかし供給量が足りないという。海上自衛隊でも何とかさせろ、と。

 艦艇の入浴設備を開放、と行きたいところですが元々洋上では水が貴重でして、掃海母艦は掃海艇乗員の休息も任務の一つである為に多少、護衛艦よりは余裕はあるにしましても、一個連隊単位で入浴させる事を想定した陸上自衛隊の入浴設備と比べれば微々たるもの、人員数では一個普通科連隊は一個護衛隊群の乗員に匹敵するのですから、母艦にも限界が。

 総監命令は、海上自衛隊に陸上自衛隊の野外入浴設備に相当するものは無いので、現在ある装備を工夫して対応せよ、という。しかし舞鶴地方総監部には、当時の総務部長が機転の利く方だったらしく、要するに湯船だ、と着想したとのことで、用途廃止予定の膨張式救命筏を湯船とする、一寸破天荒に見えますが湯船に救命筏を活用する方法を検討します。

 はるな、既に現地に展開しています護衛艦はるな、は蒸気タービン艦でして調理にも蒸気窯を用いる等の蒸気に余裕があるものでした。方法はこう、救命筏を膨張させ真水を張る、真水は現地でも調達できる。そして救命筏に張った真水に蒸気管を沈めて高温蒸気を噴出させる事で一気に入浴できる適温まで加熱できます。こうして入浴支援を実施しました。

 自治体との軋轢、自衛隊災害派遣の話題となりますと自衛隊が到着してみんな助かっためでたし、と大団円となる印象があるのですが、実際には一つ軋轢が在ったというのは当時の新潟県庁の方から聞きました話題で。実は新潟県は土砂ダムの状況を把握したくとも陸路は山岳崩壊で通れず、防災ヘリコプターに当時充分な暗視装置が搭載されていません。

 FLIR,前方赤外線監視装置という夜間に多少の雨霧なども見通して画像情報を収集できる装備が必要なのですが、単なる高感度カメラや赤外線カメラを搭載した防災ヘリコプターはありますものの、FLIRは救難ヘリコプターや特殊戦ヘリコプター等一部の機体にしか搭載されていませんでした、なにしろ警視庁SATが運用する機体にもFLIRは後日装備です。

 UH-60JA,しかし陸上自衛隊の多用途ヘリコプターはFLIRと気象レーダ装置を搭載していまして、これは島嶼部間を飛行する為に必須の装備であった為なのですが、新潟県がのどから手が出るほど必要としていた情報を、新潟県は自衛隊ヘリのFLIRで得られたことを知らず、自衛隊も災害派遣用の部内情報として活用していたのみで、共有できませんでした。

 第12旅団の視点からはFLIRの画像は防衛秘密ではないとしましても、その解像度等は部外秘であり、これは夜間の作戦能力の多寡を積極的に示す事を第一線の旅団だけで判断できない為ではあるのですが、求められていない為に開示していません。ただ土砂ダムの危険域内での捜索や避難誘導など災害派遣を実施していた為、情報は活用されてはいますが。

 新潟県庁としては、どの程度に土砂ダム決壊が切迫しているかを文字通り身を挺してでも必要としていた為に陸路から得ようとした程でして、後日にFLIR画像が存在し、非常に鮮明である事を知り、何故県庁に教えてくれなかったのか、と軋轢があり、要請が無かった為、また積極的に要請が無くとも開示する情報ではない、と旅団から回答が在ったという。

 教訓、しかしその後こうした教訓は反映されたようで、大規模災害の際には自衛隊は自治体へ積極的にリエゾンオフィサーを派遣し、どういった需要があるのかを探し出すようになりました。その後は統合任務部隊として指揮系統包括化を図り、後の2011年東日本大震災では戦車から早期警戒機まで使えるものは全て動員する、という姿勢を更に高めている。

 今年も数多水害がありましたが台風10号災害では長期浸水となった内陸部への災害派遣へ海上自衛隊の水中処分隊が水中処分艇を派遣しました。実証実験なのかもしれませんが、海上自衛隊は今年、琵琶湖花火大会に置いて史上初の琵琶湖における海上自衛隊体験航海を実施し、特殊警備船の内陸部への展開実証も検証しています。柔軟になったといえます。

 新潟中越地震、その後の東日本大震災では世界でも初めての早期警戒機による多数の救難ヘリコプター航空管制を実施し、太平洋岸全ての空港が使用不能となった中で膨大な数の旅客機と救難の自衛隊や消防警察自治体のヘリコプター航空管制を行うという、離れ業をやってのけました。この点で教訓は活かされ、次の事態に備えている、という構図ですね。

 さて。実は2004年新潟中越地震や2011年東日本大震災の時点と比較しまして、自衛隊は予算不足によりヘリコプターの数が相当減少しています。また、新潟中越地震でも活躍しましたRF-4偵察機、自衛隊唯一の偵察機は後継機が調達されないまま老朽化で廃止され来年には全廃されます。自衛隊に対応できる事と出来ないことというものは今後増えてゆく。

 しかし、確実だと言い切れるのは新潟中越地震のような災害が最後ではなく、実際その後も何度も地震災害が、全く違う被害様相を伴って起きつづけています。そして地震災害を重点的に備えていますと、今年の連続した台風被害の様なものが生じ、これも台風によって洪水か暴風かその被害の様相は変わっています、防災対策に王道と決定打はありません。

 すると、やはり個人でできる防災は何処までか、自宅と周辺の安全性を確認し、減災に取り組むと共に危険地域に居住する場合には将来の転居と現在の退避を含め検討するべきですし、自治体も出来ない事は全て自衛隊任せ、とするのではなく公共事業の強化による避難施設や橋梁道路強靭化、通しての土建業育成等、社会全体で取り組む必要が、ありますね。最後に、新潟中越地震により犠牲となられました皆様の冥福を祈ります、次の災害に備えつつ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】龍安寺方丈庭園,室町末期の特芳禅傑作庭は時を越える美想の共有と思索の旅

2019-10-22 20:07:51 | 写真
■宮城では即位礼正殿の儀
 宮城では即位礼正殿の儀が執り行われ平成から令和に、新時代と記すのは簡単ですが、安易すぎる。新しい時代の行く末を考えるには一つのゆとりと時間が必要だと思う。

 龍安寺方丈庭園。我が国には数多の庭園がありますが、趣き深い庭園で筆頭に挙げる庭園はここ龍安寺の枯山水ではないでしょうか。華美は敢えてありません、壮大も余地があります。しかし庭園というものはそうしたものではない、という事をも教えてもらえる。

 臨済宗妙心寺派の寺院である龍安寺、妙心寺からは石畳が続き実のところ歩み進めれば指呼の距離、そのはじまりは宝徳2年で西暦では1450年へ遡り開基は細川勝元が義天玄承を開山に迎え建立となりました。その龍安寺は寺域が広く広く衣笠山の麓に広がっています。

 方丈庭園は龍安寺の方丈、その庭園であるのですが、聞けば世界の方々は我が国の庭園に単なる美を導き出そうとしまして、成程、山陰には大阪万博の際に得た御縁から開いた壮大庭園があるとのこと、ここを我が国第一の庭園、と人気投票の結果が在ったのだという。

 義天玄承の開山となった龍安寺庭園は、しかし百年二百年いや千年単位で継承され得る精神文化の発露としての現れでして、言い換えればこの日この瞬間に眺め且つ抱いた感想は文字に残す事さえ出来れば千年後の閲覧者と拝観の際に、その想いを共有できるのですね。

 特芳禅傑、室町時代末期にこの石庭は作庭されたと伝わります、寺伝では優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるのですが、具体的に何処の誰が作庭者となりいつ頃に作庭され、庭石の配置にも意図ともに諸説あって解釈は数多ある、といわれている不思議が残る。

 京都の寺院庭園が素晴らしいのは二時間でも三時間でも五時間でも丹念端整に時間の移ろいを過ごした際にも何も言われない点でしょうか。龍安寺方丈庭園というものは物事を考えまして、色々な着想を得るには庭園を眺めるに限る、と導かれました始りの地なのです。

 庭石は、方丈のどの角度から眺めたとしても、全ての庭石がいずれかどの石に一つは隠れてしまい全てを見通す事が出来ないように配置されている、と説明されます。しかし不思議なのは作庭された室町時代末期、禅僧の世界観はどうなっていたのだろう、というもの。

 禅の世界観は、しかし科学がある程度の不便を便利に置換える今日に在っても根底には同じ流れが在り、世界の森羅万象はその一握さえ科学が説明できている部分は限られる一方、石庭はその時々の価値観や認識、森羅万象の解明というより見方を問うているようにも。

 龍安寺の石庭、実はその昔に思考に没入する自由な時間の長かった頃には此処で色々と考えたものでした、もっとも着想は消える前に研究室に戻る必要がありましたので、ノートパソコンが思考と共に密かに稼働していたのですが、後に御寺の方に知られていたと知る。

 石庭は寺の裏に位置づく西山一帯の地石、京都府丹波の深みある色彩の山石、三波川変成帯緑色片岩を巧みに組みわせた庭園です。実はこの京都界隈も花折断層帯があり、凝結溶岩石も地殻変動により得られる立地はあり、京都は実は比較的地震が多い街と知りました。

 庭園というものは動きが無いように思われているところですが、龍安寺方丈庭園を眺められましたらばご承知の通り、庭園とは単に面で描かれる一方的な世界観の哲学誇示などではなく、陽射しの移ろいと共に全く千差の趣き深さが移ろう、一期一会の世界観でもある。

 京都観光という一括りよりも、なにか考え事、漠然とした物事よりもある種思考の迷宮に陥った際の出口を探すよりも乗越えるか潜り出る方策の思索に適した伽藍と庭園です。そして、無論龍安寺に拘らずとも一つ思想を広げ愉しむ、そんな余裕の場を持ちたいですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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