■護衛艦はるな舞鶴転籍と日本海
米朝初首脳会談実現へ事前調整が大車輪で進められ、日本海にも久々に安定の季節がとの淡い期待とともに、護衛艦はるな、の話題を一つ。
はるな、2009年に舞鶴で除籍となった海上自衛隊初のヘリコプター搭載護衛艦です。1973年の竣工以来、横須賀佐世保を経て舞鶴に配備されました。護衛艦はるな、が舞鶴に健在だった当時の日本海沿岸は、はるな圧力が充分利いていた、だけとはいわないが、しかし日本海安定の象徴となっていたなあ。これは先日とあるOBの方との交歓の際のお話です。
日本海不審船事件として北朝鮮が工作船を能登半島沖に進出させた事案も、はるな以下3隻の護衛艦が海上警備行動に基づき5インチ砲で警告射撃を実施しつつ追い回した結果、1970年代から日本海沿岸県警と海上保安庁に警戒され続けていた北朝鮮からの国籍不明船、日本人拉致事件や工作員輸送に当たる、その活動が海上警備行動後に、根絶されました。実際変なフネは見なくなった、とは小浜市の民宿兼業の漁師さんのお話し。
北朝鮮核実験や弾道ミサイル実験が本格化したのは、はるな除籍後、後任のヘリコプター搭載護衛艦しらね、には火災事故後の大規模修理という難題もあり、任が重すぎたのではないか、そんなお話です。確かに、と思うのは日本海海上警備行動事案を経て国内に北朝鮮邦人拉致事件への関心が強まり、一部の生存拉致被害者帰国の流れになったようにも。
はるな舞鶴転籍は、20年前の1998年、佐世保基地から舞鶴基地へ転籍となりました。元々海上自衛隊はヘリコプター搭載護衛艦2隻を基幹とした護衛隊を各護衛隊群に置く編成を採っていましたが、はつゆき型護衛艦以降、汎用護衛艦にも対潜ヘリコプターが搭載される事となり、ヘリコプター搭載護衛艦は護衛隊群直轄艦として群司令部が乗艦の旗艦となりました。艦内の雰囲気が良かった、代々の艦長も尊敬できる、仕えたいという人が多かった、という。
くらま、はるな、と共に佐世保に第2護衛隊群第52護衛隊が編成、海上自衛隊では1970年代に当時近海防衛用としていた舞鶴の第3護衛隊群へも第53護衛隊を配置する方向で将来的にヘリコプター搭載護衛艦の増勢が検討されていました。しかし、同時期の石油危機に伴う防衛政策の混乱により、はつゆき型護衛艦20隻の量産計画へ転換したかたちです。
第3護衛隊群直轄艦となった護衛艦はるな、しかし1998年まで母港は佐世保基地のままでした。これは舞鶴があまりに田舎、というわけではなく、はるな艦載機であるSH-60J哨戒ヘリコプターの飛行場が大村航空基地、舞鶴にいちばん近い基地でも千葉県の館山航空基地や徳島県の小松島航空基地、SH-60の航続距離を考えれば佐世保が適していた訳です。しかし、はるな舞鶴転籍は大きな護衛艦で誇らしかった、とは舞鶴市北部の海水浴場でのお話し、みょうこう、の方が大きいようにも思うのですが、遠目には逆に見える、とのこと。
しまかぜ、ミサイル護衛艦はたかぜ型2番艦ですが、第3護衛隊群司令部は群規模の訓練に際し、しまかぜ艦上にて舞鶴出港、日本海上でSH-60経由はるな艦上へ移動、という佐世保はるな母港時代は難しい対応を取っていましたが、新たに舞鶴航空基地建設が決定した事を受けて、はるな舞鶴転籍が行われました。日本海不審船事件はその翌年起きている。
能登半島沖不審船事件とも称される日本海不審船事件は1999年3月23日に発生、創隊以来初の野呂田芳成防衛庁長官は海上警備行動命令海甲行警命第16号発令、創隊以来初のROE交戦規定“部隊の取るべき措置標準”発令、自衛隊史上転換点でした。前年1998年8月31日には初のテポドンミサイル実験が行われ緊張下でしたが、海上警備行動が転換点に。
戦艦長門と陸奥が居れば太平洋は安泰、という戦前の発想ではありませんし、厳密には2006年に核実験とミサイル実験も一回行われているのですが、2009年から頻度を増した核実験と弾道ミサイル実験と今日に続く緊張が続いていまして、はるな除籍後の緊張、という構図が成り立つもので、言い換えれば除籍後9年を経ても親しまれている護衛艦という事で、こうした護衛艦と慣れるよう、現在の護衛艦ひゅうが、にも期待したいですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
米朝初首脳会談実現へ事前調整が大車輪で進められ、日本海にも久々に安定の季節がとの淡い期待とともに、護衛艦はるな、の話題を一つ。
はるな、2009年に舞鶴で除籍となった海上自衛隊初のヘリコプター搭載護衛艦です。1973年の竣工以来、横須賀佐世保を経て舞鶴に配備されました。護衛艦はるな、が舞鶴に健在だった当時の日本海沿岸は、はるな圧力が充分利いていた、だけとはいわないが、しかし日本海安定の象徴となっていたなあ。これは先日とあるOBの方との交歓の際のお話です。
日本海不審船事件として北朝鮮が工作船を能登半島沖に進出させた事案も、はるな以下3隻の護衛艦が海上警備行動に基づき5インチ砲で警告射撃を実施しつつ追い回した結果、1970年代から日本海沿岸県警と海上保安庁に警戒され続けていた北朝鮮からの国籍不明船、日本人拉致事件や工作員輸送に当たる、その活動が海上警備行動後に、根絶されました。実際変なフネは見なくなった、とは小浜市の民宿兼業の漁師さんのお話し。
北朝鮮核実験や弾道ミサイル実験が本格化したのは、はるな除籍後、後任のヘリコプター搭載護衛艦しらね、には火災事故後の大規模修理という難題もあり、任が重すぎたのではないか、そんなお話です。確かに、と思うのは日本海海上警備行動事案を経て国内に北朝鮮邦人拉致事件への関心が強まり、一部の生存拉致被害者帰国の流れになったようにも。
はるな舞鶴転籍は、20年前の1998年、佐世保基地から舞鶴基地へ転籍となりました。元々海上自衛隊はヘリコプター搭載護衛艦2隻を基幹とした護衛隊を各護衛隊群に置く編成を採っていましたが、はつゆき型護衛艦以降、汎用護衛艦にも対潜ヘリコプターが搭載される事となり、ヘリコプター搭載護衛艦は護衛隊群直轄艦として群司令部が乗艦の旗艦となりました。艦内の雰囲気が良かった、代々の艦長も尊敬できる、仕えたいという人が多かった、という。
くらま、はるな、と共に佐世保に第2護衛隊群第52護衛隊が編成、海上自衛隊では1970年代に当時近海防衛用としていた舞鶴の第3護衛隊群へも第53護衛隊を配置する方向で将来的にヘリコプター搭載護衛艦の増勢が検討されていました。しかし、同時期の石油危機に伴う防衛政策の混乱により、はつゆき型護衛艦20隻の量産計画へ転換したかたちです。
第3護衛隊群直轄艦となった護衛艦はるな、しかし1998年まで母港は佐世保基地のままでした。これは舞鶴があまりに田舎、というわけではなく、はるな艦載機であるSH-60J哨戒ヘリコプターの飛行場が大村航空基地、舞鶴にいちばん近い基地でも千葉県の館山航空基地や徳島県の小松島航空基地、SH-60の航続距離を考えれば佐世保が適していた訳です。しかし、はるな舞鶴転籍は大きな護衛艦で誇らしかった、とは舞鶴市北部の海水浴場でのお話し、みょうこう、の方が大きいようにも思うのですが、遠目には逆に見える、とのこと。
しまかぜ、ミサイル護衛艦はたかぜ型2番艦ですが、第3護衛隊群司令部は群規模の訓練に際し、しまかぜ艦上にて舞鶴出港、日本海上でSH-60経由はるな艦上へ移動、という佐世保はるな母港時代は難しい対応を取っていましたが、新たに舞鶴航空基地建設が決定した事を受けて、はるな舞鶴転籍が行われました。日本海不審船事件はその翌年起きている。
能登半島沖不審船事件とも称される日本海不審船事件は1999年3月23日に発生、創隊以来初の野呂田芳成防衛庁長官は海上警備行動命令海甲行警命第16号発令、創隊以来初のROE交戦規定“部隊の取るべき措置標準”発令、自衛隊史上転換点でした。前年1998年8月31日には初のテポドンミサイル実験が行われ緊張下でしたが、海上警備行動が転換点に。
戦艦長門と陸奥が居れば太平洋は安泰、という戦前の発想ではありませんし、厳密には2006年に核実験とミサイル実験も一回行われているのですが、2009年から頻度を増した核実験と弾道ミサイル実験と今日に続く緊張が続いていまして、はるな除籍後の緊張、という構図が成り立つもので、言い換えれば除籍後9年を経ても親しまれている護衛艦という事で、こうした護衛艦と慣れるよう、現在の護衛艦ひゅうが、にも期待したいですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)