前回予告通り、
小松基地航空祭の詳報をお送りしたい。
航空祭は、F-15Jの機動飛行から開始された。
F-15Jは、1981年より航空自衛隊に導入が開始された要撃機で、導入当時は為替レートで単価150億といわれたが、ライセンス生産やプラザ合意などにより単価が低下し、冷戦時代に開発された最も高性能な航空機を多数そろえるに至った訳だ。
特に、空戦性能を重視し、出力に余裕のあるエンジンの双発機たるF-15Jはその様子を存分に披露した。
続いて、小松救難隊による救難展示が行われた。
機体は、V-107に代えて導入が進むUH-60JAで、長大な航続距離と、高いエンジン出力が特色である。
昨年までは、白・黄・黒の塗り分けによる被発見性を高めた救難機塗装であったが、今年度は実戦性高い迷彩塗装であった。青と黒を基調とした迷彩色は、特に日本海の海面色に近く、特に朝鮮半島有事が現実のものとなった際に、我が空空部隊のみならず同盟国たる米軍機墜落という事案が生じた際に、脅威度高き海域での捜索活動を考慮してのものといえよう。
救難活動を髣髴とさせるBGMの下、救難展示はU-125救難機との見事な連携により無事要救助者を回収し終了となった。
さて、小松基地は要撃飛行隊基地であると同時に、民間飛行場たる小松空港という一面を有するため、日本航空や全日空機、また中国東方航空やシンガポール航空などの外国からの機体も利用している。
従って、航空祭に華を添えるべく日本航空は、ポケモンジェットやムシキング塗装機などを特別ダイヤで定期便飛行させてくれ、日本航空フライトアテンダントの方がその都度、型式や出発地などを放送してくれ、航空祭の観客は、思わぬ来客を歓迎する眼差しで迎えていた。
さて、民間機の着陸が一段落した後、基地防空隊のVADS高射機関砲の空砲射撃が行われ、各250発、計750発の空砲が発射された。
VADSは基地防空最後の装備とされ、有効射程は1800㍍、16門程度が基地防空隊に配備されている。この他、スティンガーや91式携帯SAM、そして陸海空で装備されている81式地対空短距離誘導弾などが基地防空の任についており、特にVADSはゲリラコマンド部隊による襲撃の際にも最大で毎秒50発という猛烈な火力を以てこれを文字通り粉砕する訳である。
VADSの仮想敵機を務めたのは、長躯岐阜基地より飛来した開発飛行実験団のF-2Bである。
航空法により海岸線から50km以内は、米軍機を除き音速飛行が禁止されているが、それでも900km/hの速度であれば10分程度で岐阜より小松に飛来する事が可能である。
同機はわが国航空産業が総力を結集して開発された機体で、特に翼に用いられている複合素材技術は世界から高く評価され、ボーイング社の新型旅客機の主翼生産は日本が執り行う事となった。
CCV実験機での実験成果を見せるべく、第一回は750km/h、第二回は失速スレスレの低速飛行を展示し、拘束飛行背はシャッターチャンスを逃したカメラマンを喜ばせた。
ちなみに、昨年、新聞各紙でF-2の早期調達中止が報道されたが、130機という調達目標が下方修正されるだけであり、実質的には18年度予算概算要求では要求数が一機増加しており、98~101機程度の調達は為される事はご存知だろうか。
さて、F-2Bの着陸後、要撃飛行隊としての本領発揮すべく、続々とF-15Jが滑走路脇に集結してくる。
その数実に12機。
小松基地航空祭は、他の千歳・百里・新田原と同じく、二個飛行隊のF-15J部隊を有する航空団ならではの、編隊飛行が売りである。
即ち、一糸乱れぬ編隊飛行に臨むべく、展示機も続々と搭乗員乗り込み、大空へと向かう。
F-15Jの八機編隊飛行。
この他、ダイヤモンド隊形やロッテ隊形など各種編隊飛行を観客に披露した。
昨年の航空自衛隊創隊50周年記念では、“50”の文字を大空に描いたが、今年度の航空祭は、12機編隊ではく8機編隊であり、やや控えめという観は否めなかった。
見事な四機編隊飛行を展示するF-15J。
なお、華やかな飛行といった航空祭を楽しむ多くの観衆は忘れがちであるが、こうした機動飛行の最中でも、第六航空団、そして全国七箇所の要撃飛行隊基地では万一の国籍不明機接近に備え、非公開区画にある滑走路脇のアラートハンガーでは二機のF-15Jが待機態勢にある。
やはりここは要撃飛行隊の基地であるということを一瞬よぎる瞬間である。
編隊飛行の後、機動飛行を披露する編隊。
次々と旋回していく戦闘機、『空軍大戦略』『トラトラトラ』など戦争映画では馴染みのシーンであるが、中々日常生活では目にする事が難しい光景である。
F-15Jは近接してのドックファイトの性能を重視した戦闘機であり、旋回性能に突出したものを有する。
F-15Jは急旋回では7~9G、つまり自重の7~9倍の重力が掛かり、まさに気力体力充実した者でなければ戦闘機搭乗員にはなれないと言われる所以である。
さてさて、編隊飛行・機動飛行が終了し、ブルーインパルス飛行まで若干の余裕がある。
飛行展示開始までのあいだ、基地内を見回してみよう。
基地内では模擬店多数が出店し、まさに航空祭とは催事であることを再認識させられる。売店模擬店の数は富士総合火力演習の約七倍といったところだろうか、家族連れも多く、お祭り感覚で楽しむことも可能だ。
格納庫ではF-15Jの機内が公開されている。黒山の人だかりの代名詞的情景であるが、並べばF-15Jのコックピットを除く事ができるという。こうした展示にも多数の機体が用いられており、思いのほか早く見学が出来るという。
地上展示機は端から順に列挙すると、三沢のE-2C、岐阜のF-2B、岩国のF/A-18E、F/A-18F(米海兵隊)、滑走路脇には岐阜のF-4EJ改、入間のU-4、岐阜のT-2、築城のF-1特別塗装機、小牧のT-1、百里のRF-4、そして第六航空団のF-15多数が並び、海上自衛隊のP-3CやSH-60J、航空自衛隊のC-1輸送機、CH-47、V-107、UH-60J、T-3が並んでいた。
また、同基地所属のT-4練習機と並び、松島基地より飛来したブルーインパルスのT-4練習機も揃い踏みしていたことも、此処に特筆しておきたい。
また、陸上自衛隊からもAH-1SやOH-6D、UH-1Jなどの参加機があり、陸海空、そして在日米軍機までもが参加した、まさに自衛隊総出演という様子であった。
OH-1が参加していないのが残念であったが、岐阜基地航空祭などでは、帰り際にOH-1が機動飛行を披露させ、観客を喜ばせる事で有名だ。
尚、航空祭当日、九州佐世保に程近い陸上自衛隊相浦駐屯地祭において、訓練展示中のAH-1Sがローター接触により墜落するという事故があった、搭乗員の機転でエンジン停止が瞬時に行われ、火災発生を未然に防止でき、かつ観客には全く被害がなかったことは幸いであるが、旧軍において訓練と実戦に違いはないと言われたとおり、激しい訓練の一端を見せていた。
閑話休題。
地上展示には移動警戒隊の装備品も展示されていた。
移動警戒隊とは、有事の際に定点レーダーサイトが航空攻撃などによる目潰しで使用不能となった場合などに用いる、文字通り移動展開可能なレーダー施設であり、移動式とはいえ、高性能な三次元レーダーを装備し、バッジシステムと連携する事で要撃戦闘を有利にせしめたる能力を有している。
また、前述の基地防空隊の各種装備も展示されていた。88式鉄帽や戦闘防弾チョッキを着込み携帯SAMを実際に触る事や、VADSに実際に乗り込み操作する展示もあり、多くの観客が体験し、防弾チョッキの重さに驚いていた。
ブルーインパルスの列機。
7機あるが一機は予備である。
わが国ではアクロバット飛行に関しては海軍航空隊時代以来の伝統があり、航空幕僚長まで登りつめた源田実氏が海軍時代に編隊宙返りなどの展示をした事が起源とされる。
なお、太平洋戦史における最大の激戦といわれたラバウル航空戦では、撃墜王の名高い坂井三郎氏も敵前編隊宙返りを行ったことを、『大空のサムライ』において述べている。
ブルーインパルスの離陸。
一番機を先頭に四機がまず離陸する。
そして、五番機六番機がそれに続く。
編隊は離陸すると、四機編隊を組み、第一にスモークを切り出し、観客上空をフライパスする。続いて離陸した二機と観客後方で合流する訳だ。
ブルーインパルスの自由な機動性を表した典型的な写真。
F-15Jなど、戦闘機パイロットやT-4練習機などの教官から選抜され、松島基地の第四航空団に展開するブルーインパルスは、航空自衛隊の顔とも言うべき存在で、先の長野オリンピックやワールドカップ、浜名湖花博、そしてこのほど閉幕した愛地球博の開会式など、国家的行事の際にも飛行展示を行っている。
また、こうしたアクロバット飛行の写真は瞬間を撮影するので、動きを表現するには非常な練度と経験を要する瞬間である。
白煙を引きつつ編隊飛行するブルーインパルス。
この後、展示飛行に移行する。
東京オリンピックに花を添えたブルーインパルスであるが、これまでもT-2時代の浜松基地での墜落事故や編隊飛行訓練中の衝突事故など、幾多の試練とも言うべき事件事故を経て、今日に至る。
編隊宙返りや背面での相互通過、また大空へ空中傘下、大空に描かれる星やハートマーク、様々な飛行展示が見せ付けられた。
また、ほぼ2㍍間隔で飛行する様子は簡単な訓練では為せざるものである。
しかし、演技種目も技量を極めたということもできるが、一方で種目がどの基地に行っても基本的には同じであり、何度も観ると慣れてしまうというか、マンネリ化と言うべき状態であり、可能であれば新しい演舞種目の模索や、ご当地名物的な演舞の設定などを期待したい。
T-4練習機は、F-86、T-2に続き導入された機体で、約220機が航空自衛隊において運用されている。
川崎重工と富士重工が協力し、石川島播磨重工のエンジンを搭載した純国産機である。初飛行は1985年で、1300kgまでの火器搭載量もあるとされる。これは開発当初に軽攻撃機としての性能が要求された名残で、IRSTのような装備品を搭載すれば、ホークのような軽攻撃機として運用する事も可能であろう。
なお、ブルーインパルスが用いるT-4練習機は、塗装以外に強度などの面で所要の改修を行っているとされる。
ブルーインパルスの飛行展示終了と同時に飛行展示は全て終了となる。
ここで、最後に地上展示機を撮影して帰ると言うのが、航空祭の定石とされる。
写真はT-2練習機とF-1支援戦闘機である。
同機は、三菱重工によってわが国初の超音速機として開発され、エンジンは英国製アドゥーアエンジン双発で、1967年にT-2が初飛行、96機が生産されている。25号機以降は火器管制装置や20㍉機関砲を搭載し、有事の際には補助戦闘機として用いる事ができる。
T-2の後部座席を廃し(後方視界は悪化した)、爆撃コンピュータを搭載したのがF-1で、1977年に初飛行している。1980年からは空対艦ミサイルASM-1を搭載し、有力な対艦攻撃機として運用されたが、今年度を以て前期第一線から退き、用途廃止となる。
写真はC-1輸送機とP-3Cであるが、現在、川崎重工を中心にこれらの後継機が開発中である。
C-1は31機、P-3Cは101機が調達され、現在、海空自衛隊の主柱の一つを担っているが、これらを大幅に能力向上させた北が開発中である。
既に昨年、モックアップが川崎重工岐阜工場において公開され、開発は順調に進展していると聞く。いわば、これらの機体の後継機がわが国航空史の新たな一頁を開く事となるのだろう。
2004年度小松基地航空祭の観客は12万8000名であったということで、今年もそれとほぼ同数の観客来場であったという。ちなみに脚立は使用禁止という厳しいお達しがあり、私は脚立を用いず、東富士演習場で調達したイス付リュックに椅子突っ込んで行ったのだが、多くが脚立使用であり、転倒によるトラブルも私が見た限り三件ほどあったし、第一線というべき前の方で、ビニールシートを敷いて就寝中の方がいた、わが国の知的水準は下降気味ということは報道されるが、他者のことを考えぬ暴虐無人な振る舞いは、倫理水準の低下を端的に示すものであり、厳に誡めるべきと考える。
少なくとも欧米の航空祭のような有料席でこうした事をやるのは自由ではあるが、航空自衛隊の第六航空団HPに定められたレギュレーションがあるならば、それに従うのが筋であり、寝たいのであれば家で、または格納庫付近の閑散区でねればいいのではないか、私はそう感じた訳である。
これが小松基地航空祭のレポートである。
尚、駐車場から出るのに一時間掛かり、小松駅行きのバス乗り場も1キロ近い行列が出来ていて、航空祭景気ともいうべき状態であったが、これはタクシー送迎でもしなければ避けられぬ問題であり、許容するべきであろう。尚、小松インターの方は長い渋滞も無く順調に流れていた。高速道路のサービスエリアは150キロ先まで航空祭グッズ持った人が多く、混雑していた。ここも俄か景気という状態である。やはり小牧・岐阜基地航空祭では京都や小松、掛川のサービスエリアも混むのだろうか。ご存知の方ご一報いただきたい。
まあ、人出は多いけれども航空愛好家であればそれなりに充実した一日を楽しめる事は確約できるので、諸兄、一度足をお運びになっては如何であろうか。
なお、完全に蛇足ながら、当日は中秋の名月、自宅バルコニーから撮影。
以上が小松基地航空祭撮影の顛末である。
お帰りはこちら。
HARUNA
小松基地航空祭の詳報をお送りしたい。
航空祭は、F-15Jの機動飛行から開始された。
F-15Jは、1981年より航空自衛隊に導入が開始された要撃機で、導入当時は為替レートで単価150億といわれたが、ライセンス生産やプラザ合意などにより単価が低下し、冷戦時代に開発された最も高性能な航空機を多数そろえるに至った訳だ。
特に、空戦性能を重視し、出力に余裕のあるエンジンの双発機たるF-15Jはその様子を存分に披露した。
続いて、小松救難隊による救難展示が行われた。
機体は、V-107に代えて導入が進むUH-60JAで、長大な航続距離と、高いエンジン出力が特色である。
昨年までは、白・黄・黒の塗り分けによる被発見性を高めた救難機塗装であったが、今年度は実戦性高い迷彩塗装であった。青と黒を基調とした迷彩色は、特に日本海の海面色に近く、特に朝鮮半島有事が現実のものとなった際に、我が空空部隊のみならず同盟国たる米軍機墜落という事案が生じた際に、脅威度高き海域での捜索活動を考慮してのものといえよう。
救難活動を髣髴とさせるBGMの下、救難展示はU-125救難機との見事な連携により無事要救助者を回収し終了となった。
さて、小松基地は要撃飛行隊基地であると同時に、民間飛行場たる小松空港という一面を有するため、日本航空や全日空機、また中国東方航空やシンガポール航空などの外国からの機体も利用している。
従って、航空祭に華を添えるべく日本航空は、ポケモンジェットやムシキング塗装機などを特別ダイヤで定期便飛行させてくれ、日本航空フライトアテンダントの方がその都度、型式や出発地などを放送してくれ、航空祭の観客は、思わぬ来客を歓迎する眼差しで迎えていた。
さて、民間機の着陸が一段落した後、基地防空隊のVADS高射機関砲の空砲射撃が行われ、各250発、計750発の空砲が発射された。
VADSは基地防空最後の装備とされ、有効射程は1800㍍、16門程度が基地防空隊に配備されている。この他、スティンガーや91式携帯SAM、そして陸海空で装備されている81式地対空短距離誘導弾などが基地防空の任についており、特にVADSはゲリラコマンド部隊による襲撃の際にも最大で毎秒50発という猛烈な火力を以てこれを文字通り粉砕する訳である。
VADSの仮想敵機を務めたのは、長躯岐阜基地より飛来した開発飛行実験団のF-2Bである。
航空法により海岸線から50km以内は、米軍機を除き音速飛行が禁止されているが、それでも900km/hの速度であれば10分程度で岐阜より小松に飛来する事が可能である。
同機はわが国航空産業が総力を結集して開発された機体で、特に翼に用いられている複合素材技術は世界から高く評価され、ボーイング社の新型旅客機の主翼生産は日本が執り行う事となった。
CCV実験機での実験成果を見せるべく、第一回は750km/h、第二回は失速スレスレの低速飛行を展示し、拘束飛行背はシャッターチャンスを逃したカメラマンを喜ばせた。
ちなみに、昨年、新聞各紙でF-2の早期調達中止が報道されたが、130機という調達目標が下方修正されるだけであり、実質的には18年度予算概算要求では要求数が一機増加しており、98~101機程度の調達は為される事はご存知だろうか。
さて、F-2Bの着陸後、要撃飛行隊としての本領発揮すべく、続々とF-15Jが滑走路脇に集結してくる。
その数実に12機。
小松基地航空祭は、他の千歳・百里・新田原と同じく、二個飛行隊のF-15J部隊を有する航空団ならではの、編隊飛行が売りである。
即ち、一糸乱れぬ編隊飛行に臨むべく、展示機も続々と搭乗員乗り込み、大空へと向かう。
F-15Jの八機編隊飛行。
この他、ダイヤモンド隊形やロッテ隊形など各種編隊飛行を観客に披露した。
昨年の航空自衛隊創隊50周年記念では、“50”の文字を大空に描いたが、今年度の航空祭は、12機編隊ではく8機編隊であり、やや控えめという観は否めなかった。
見事な四機編隊飛行を展示するF-15J。
なお、華やかな飛行といった航空祭を楽しむ多くの観衆は忘れがちであるが、こうした機動飛行の最中でも、第六航空団、そして全国七箇所の要撃飛行隊基地では万一の国籍不明機接近に備え、非公開区画にある滑走路脇のアラートハンガーでは二機のF-15Jが待機態勢にある。
やはりここは要撃飛行隊の基地であるということを一瞬よぎる瞬間である。
編隊飛行の後、機動飛行を披露する編隊。
次々と旋回していく戦闘機、『空軍大戦略』『トラトラトラ』など戦争映画では馴染みのシーンであるが、中々日常生活では目にする事が難しい光景である。
F-15Jは近接してのドックファイトの性能を重視した戦闘機であり、旋回性能に突出したものを有する。
F-15Jは急旋回では7~9G、つまり自重の7~9倍の重力が掛かり、まさに気力体力充実した者でなければ戦闘機搭乗員にはなれないと言われる所以である。
さてさて、編隊飛行・機動飛行が終了し、ブルーインパルス飛行まで若干の余裕がある。
飛行展示開始までのあいだ、基地内を見回してみよう。
基地内では模擬店多数が出店し、まさに航空祭とは催事であることを再認識させられる。売店模擬店の数は富士総合火力演習の約七倍といったところだろうか、家族連れも多く、お祭り感覚で楽しむことも可能だ。
格納庫ではF-15Jの機内が公開されている。黒山の人だかりの代名詞的情景であるが、並べばF-15Jのコックピットを除く事ができるという。こうした展示にも多数の機体が用いられており、思いのほか早く見学が出来るという。
地上展示機は端から順に列挙すると、三沢のE-2C、岐阜のF-2B、岩国のF/A-18E、F/A-18F(米海兵隊)、滑走路脇には岐阜のF-4EJ改、入間のU-4、岐阜のT-2、築城のF-1特別塗装機、小牧のT-1、百里のRF-4、そして第六航空団のF-15多数が並び、海上自衛隊のP-3CやSH-60J、航空自衛隊のC-1輸送機、CH-47、V-107、UH-60J、T-3が並んでいた。
また、同基地所属のT-4練習機と並び、松島基地より飛来したブルーインパルスのT-4練習機も揃い踏みしていたことも、此処に特筆しておきたい。
また、陸上自衛隊からもAH-1SやOH-6D、UH-1Jなどの参加機があり、陸海空、そして在日米軍機までもが参加した、まさに自衛隊総出演という様子であった。
OH-1が参加していないのが残念であったが、岐阜基地航空祭などでは、帰り際にOH-1が機動飛行を披露させ、観客を喜ばせる事で有名だ。
尚、航空祭当日、九州佐世保に程近い陸上自衛隊相浦駐屯地祭において、訓練展示中のAH-1Sがローター接触により墜落するという事故があった、搭乗員の機転でエンジン停止が瞬時に行われ、火災発生を未然に防止でき、かつ観客には全く被害がなかったことは幸いであるが、旧軍において訓練と実戦に違いはないと言われたとおり、激しい訓練の一端を見せていた。
閑話休題。
地上展示には移動警戒隊の装備品も展示されていた。
移動警戒隊とは、有事の際に定点レーダーサイトが航空攻撃などによる目潰しで使用不能となった場合などに用いる、文字通り移動展開可能なレーダー施設であり、移動式とはいえ、高性能な三次元レーダーを装備し、バッジシステムと連携する事で要撃戦闘を有利にせしめたる能力を有している。
また、前述の基地防空隊の各種装備も展示されていた。88式鉄帽や戦闘防弾チョッキを着込み携帯SAMを実際に触る事や、VADSに実際に乗り込み操作する展示もあり、多くの観客が体験し、防弾チョッキの重さに驚いていた。
ブルーインパルスの列機。
7機あるが一機は予備である。
わが国ではアクロバット飛行に関しては海軍航空隊時代以来の伝統があり、航空幕僚長まで登りつめた源田実氏が海軍時代に編隊宙返りなどの展示をした事が起源とされる。
なお、太平洋戦史における最大の激戦といわれたラバウル航空戦では、撃墜王の名高い坂井三郎氏も敵前編隊宙返りを行ったことを、『大空のサムライ』において述べている。
ブルーインパルスの離陸。
一番機を先頭に四機がまず離陸する。
そして、五番機六番機がそれに続く。
編隊は離陸すると、四機編隊を組み、第一にスモークを切り出し、観客上空をフライパスする。続いて離陸した二機と観客後方で合流する訳だ。
ブルーインパルスの自由な機動性を表した典型的な写真。
F-15Jなど、戦闘機パイロットやT-4練習機などの教官から選抜され、松島基地の第四航空団に展開するブルーインパルスは、航空自衛隊の顔とも言うべき存在で、先の長野オリンピックやワールドカップ、浜名湖花博、そしてこのほど閉幕した愛地球博の開会式など、国家的行事の際にも飛行展示を行っている。
また、こうしたアクロバット飛行の写真は瞬間を撮影するので、動きを表現するには非常な練度と経験を要する瞬間である。
白煙を引きつつ編隊飛行するブルーインパルス。
この後、展示飛行に移行する。
東京オリンピックに花を添えたブルーインパルスであるが、これまでもT-2時代の浜松基地での墜落事故や編隊飛行訓練中の衝突事故など、幾多の試練とも言うべき事件事故を経て、今日に至る。
編隊宙返りや背面での相互通過、また大空へ空中傘下、大空に描かれる星やハートマーク、様々な飛行展示が見せ付けられた。
また、ほぼ2㍍間隔で飛行する様子は簡単な訓練では為せざるものである。
しかし、演技種目も技量を極めたということもできるが、一方で種目がどの基地に行っても基本的には同じであり、何度も観ると慣れてしまうというか、マンネリ化と言うべき状態であり、可能であれば新しい演舞種目の模索や、ご当地名物的な演舞の設定などを期待したい。
T-4練習機は、F-86、T-2に続き導入された機体で、約220機が航空自衛隊において運用されている。
川崎重工と富士重工が協力し、石川島播磨重工のエンジンを搭載した純国産機である。初飛行は1985年で、1300kgまでの火器搭載量もあるとされる。これは開発当初に軽攻撃機としての性能が要求された名残で、IRSTのような装備品を搭載すれば、ホークのような軽攻撃機として運用する事も可能であろう。
なお、ブルーインパルスが用いるT-4練習機は、塗装以外に強度などの面で所要の改修を行っているとされる。
ブルーインパルスの飛行展示終了と同時に飛行展示は全て終了となる。
ここで、最後に地上展示機を撮影して帰ると言うのが、航空祭の定石とされる。
写真はT-2練習機とF-1支援戦闘機である。
同機は、三菱重工によってわが国初の超音速機として開発され、エンジンは英国製アドゥーアエンジン双発で、1967年にT-2が初飛行、96機が生産されている。25号機以降は火器管制装置や20㍉機関砲を搭載し、有事の際には補助戦闘機として用いる事ができる。
T-2の後部座席を廃し(後方視界は悪化した)、爆撃コンピュータを搭載したのがF-1で、1977年に初飛行している。1980年からは空対艦ミサイルASM-1を搭載し、有力な対艦攻撃機として運用されたが、今年度を以て前期第一線から退き、用途廃止となる。
写真はC-1輸送機とP-3Cであるが、現在、川崎重工を中心にこれらの後継機が開発中である。
C-1は31機、P-3Cは101機が調達され、現在、海空自衛隊の主柱の一つを担っているが、これらを大幅に能力向上させた北が開発中である。
既に昨年、モックアップが川崎重工岐阜工場において公開され、開発は順調に進展していると聞く。いわば、これらの機体の後継機がわが国航空史の新たな一頁を開く事となるのだろう。
2004年度小松基地航空祭の観客は12万8000名であったということで、今年もそれとほぼ同数の観客来場であったという。ちなみに脚立は使用禁止という厳しいお達しがあり、私は脚立を用いず、東富士演習場で調達したイス付リュックに椅子突っ込んで行ったのだが、多くが脚立使用であり、転倒によるトラブルも私が見た限り三件ほどあったし、第一線というべき前の方で、ビニールシートを敷いて就寝中の方がいた、わが国の知的水準は下降気味ということは報道されるが、他者のことを考えぬ暴虐無人な振る舞いは、倫理水準の低下を端的に示すものであり、厳に誡めるべきと考える。
少なくとも欧米の航空祭のような有料席でこうした事をやるのは自由ではあるが、航空自衛隊の第六航空団HPに定められたレギュレーションがあるならば、それに従うのが筋であり、寝たいのであれば家で、または格納庫付近の閑散区でねればいいのではないか、私はそう感じた訳である。
これが小松基地航空祭のレポートである。
尚、駐車場から出るのに一時間掛かり、小松駅行きのバス乗り場も1キロ近い行列が出来ていて、航空祭景気ともいうべき状態であったが、これはタクシー送迎でもしなければ避けられぬ問題であり、許容するべきであろう。尚、小松インターの方は長い渋滞も無く順調に流れていた。高速道路のサービスエリアは150キロ先まで航空祭グッズ持った人が多く、混雑していた。ここも俄か景気という状態である。やはり小牧・岐阜基地航空祭では京都や小松、掛川のサービスエリアも混むのだろうか。ご存知の方ご一報いただきたい。
まあ、人出は多いけれども航空愛好家であればそれなりに充実した一日を楽しめる事は確約できるので、諸兄、一度足をお運びになっては如何であろうか。
なお、完全に蛇足ながら、当日は中秋の名月、自宅バルコニーから撮影。
以上が小松基地航空祭撮影の顛末である。
お帰りはこちら。
HARUNA