■ここが京都の紅葉その景色
厳しい修行で知られる禅宗の、しかし厳しいのは修行だけであり目的と手段をたがえず目指すのは修練という中での心遣いが一つの風景を生みました。
紅葉の季節だからこの東福寺は写真を掲載したいところ、なのですがここは午後一番を逃すと一番美しい通天橋の椛が太陽の陰りに覆われてしまい、しかも夕方前には三門が閉じられてしまう、何度か探訪しましたが遅すぎるか、椛が早過ぎ青椛か、と続きました。
京都市東山区本町、ここは臨済宗東福寺派大本山であり本尊に釈迦如来を奉じる壮大寺院という。この壮大と云うのは誇張でもなんでもなく、JRと京阪の幾つかの駅から本堂仏殿まで、延々と塔頭寺院のなかを巡り至るという立地にありまして、これ歴史街道そのもの。
東福寺、JRの駅でいえば奈良線として京都駅を宇治や奈良に向けて出発した際の最初の駅となります。京都、じつのところ歴史都市と考えられていますが、おもいきって歴史を紐解きますと常に日本史にあって最先端都市でありつづけた千年の首都でもありました。
京都駅から電車で数分のところにここまでの大きな寺院が、こう紹介しますと、いやいや駅前に東寺と東本願寺に西本願寺、こういう応えもありそうですけれども、東福寺はそうした寺院の並びの中でも一つ思い入れのある寺院と思うのです、それはその名前から。
興福寺と東大寺、奈良の古刹であるとともにわがくに仏教を象徴する寺院となっていますが、東福寺というのはその東大寺から"東"の一文字とそして興福寺からもう一文字の"福"とを冠しまして、東福寺という。奈良線で一駅というのも、なにか不思議に縁を感じます。
嘉禎2年こと西暦1236年、開山に聖一国師円爾を招き開基が九条道家となりました寺院はもともと、天台宗と真言宗と禅宗の三宗兼学寺院という、新しい時代の寺院を目指し、時の鎌倉幕府の財政的援助を受け造営されたという、おくゆきぶかい歴史を有しています。
三ノ橋川、東福寺は廃仏毀釈はじめ様々な歴史とともにその寺域はその最盛期よりもずいぶんと小さくなっている、とは聞くのですが敷地の広さでは京都最大という、そして広がった禅寺という経緯から、三ノ橋川という小川を挟むほどに大きくなりまして、そして。
通天橋は雲水たちが修行に専念できるようにということでかけられたという。さて、ここ、コロナ前の紅葉の季節には人が多すぎて感染の心配は無くとも群衆雪崩の危険があり、撮影禁止の札が掛かっていました、いまはまだ無く、要するに観光客はまだ戻っていない。
通天橋という、これこそ京都を代表と知るような情景と思うのですけれども、この風景は禅寺が大きく広がったとともに、禅寺では食事から就寝まで全て作法が定められており、呼吸一つまでふくめて修行という中、僧徒たちが移動に不自由しないよう、架けられた。
椛はじつに二千もの多数が植樹されているという、なんでも禅寺ということで遊興の場として町衆が集うことの無いようにもともとあった桜の木々を伐採して、当時外来種であった楓と椛を植樹したようなのですが、まあ、遊興の場、転じて宗教とふれ合う場へ。
禅寺が日本に入り始めました時代とは異なりまして、当時は桜花こそ謳歌するような遊興の場となったものの、当時を考えますと特に冬は食料移築など、簡単に餓死という単語が身近にあふれていた中世と近世には、とても紅葉を楽しむ余裕がなかったのではないか。
紅葉を楽しむと言うことは、冬の雪景色を美しいと感じる余裕が生まれたことを意味しまして、冬の入り口である秋に冬の蓄えを考えずとも、物流と社会支援と社会基盤に政治基盤が安定していることを意味するのですね。豊かな時代になった証左なのでしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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厳しい修行で知られる禅宗の、しかし厳しいのは修行だけであり目的と手段をたがえず目指すのは修練という中での心遣いが一つの風景を生みました。
紅葉の季節だからこの東福寺は写真を掲載したいところ、なのですがここは午後一番を逃すと一番美しい通天橋の椛が太陽の陰りに覆われてしまい、しかも夕方前には三門が閉じられてしまう、何度か探訪しましたが遅すぎるか、椛が早過ぎ青椛か、と続きました。
京都市東山区本町、ここは臨済宗東福寺派大本山であり本尊に釈迦如来を奉じる壮大寺院という。この壮大と云うのは誇張でもなんでもなく、JRと京阪の幾つかの駅から本堂仏殿まで、延々と塔頭寺院のなかを巡り至るという立地にありまして、これ歴史街道そのもの。
東福寺、JRの駅でいえば奈良線として京都駅を宇治や奈良に向けて出発した際の最初の駅となります。京都、じつのところ歴史都市と考えられていますが、おもいきって歴史を紐解きますと常に日本史にあって最先端都市でありつづけた千年の首都でもありました。
京都駅から電車で数分のところにここまでの大きな寺院が、こう紹介しますと、いやいや駅前に東寺と東本願寺に西本願寺、こういう応えもありそうですけれども、東福寺はそうした寺院の並びの中でも一つ思い入れのある寺院と思うのです、それはその名前から。
興福寺と東大寺、奈良の古刹であるとともにわがくに仏教を象徴する寺院となっていますが、東福寺というのはその東大寺から"東"の一文字とそして興福寺からもう一文字の"福"とを冠しまして、東福寺という。奈良線で一駅というのも、なにか不思議に縁を感じます。
嘉禎2年こと西暦1236年、開山に聖一国師円爾を招き開基が九条道家となりました寺院はもともと、天台宗と真言宗と禅宗の三宗兼学寺院という、新しい時代の寺院を目指し、時の鎌倉幕府の財政的援助を受け造営されたという、おくゆきぶかい歴史を有しています。
三ノ橋川、東福寺は廃仏毀釈はじめ様々な歴史とともにその寺域はその最盛期よりもずいぶんと小さくなっている、とは聞くのですが敷地の広さでは京都最大という、そして広がった禅寺という経緯から、三ノ橋川という小川を挟むほどに大きくなりまして、そして。
通天橋は雲水たちが修行に専念できるようにということでかけられたという。さて、ここ、コロナ前の紅葉の季節には人が多すぎて感染の心配は無くとも群衆雪崩の危険があり、撮影禁止の札が掛かっていました、いまはまだ無く、要するに観光客はまだ戻っていない。
通天橋という、これこそ京都を代表と知るような情景と思うのですけれども、この風景は禅寺が大きく広がったとともに、禅寺では食事から就寝まで全て作法が定められており、呼吸一つまでふくめて修行という中、僧徒たちが移動に不自由しないよう、架けられた。
椛はじつに二千もの多数が植樹されているという、なんでも禅寺ということで遊興の場として町衆が集うことの無いようにもともとあった桜の木々を伐採して、当時外来種であった楓と椛を植樹したようなのですが、まあ、遊興の場、転じて宗教とふれ合う場へ。
禅寺が日本に入り始めました時代とは異なりまして、当時は桜花こそ謳歌するような遊興の場となったものの、当時を考えますと特に冬は食料移築など、簡単に餓死という単語が身近にあふれていた中世と近世には、とても紅葉を楽しむ余裕がなかったのではないか。
紅葉を楽しむと言うことは、冬の雪景色を美しいと感じる余裕が生まれたことを意味しまして、冬の入り口である秋に冬の蓄えを考えずとも、物流と社会支援と社会基盤に政治基盤が安定していることを意味するのですね。豊かな時代になった証左なのでしょう。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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