一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

天才・芹沢博文

2011-12-09 00:32:35 | 男性棋士
日付変わってきょう12月9日は、芹沢博文九段の命日である。芹沢九段が亡くなったのは昭和62年(1987年)だから、早くも24年が経ってしまった。
いまの若い人は芹沢九段を知らないし、30代くらいの人でも、「アイアイゲーム」のパネラーという認識しかないかもしれない。
しかし芹沢九段は24歳でA級八段という輝かしい棋歴を持つ天才で、中原誠十六世名人の兄弟子として、修業時代の名人をビシビシ鍛えたことでも知られる。
かつて河口俊彦七段は、中原十六世名人の師匠が誰であっても、中原は名人になっていた、と書いた。しかし私は、兄弟子に芹沢九段がいなければ、中原十六世名人の棋歴も、だいぶ変わっていたのではないかと思う。
芹沢九段の持ち味は優れた将棋理論だ。将棋の本筋を厳しく追求し、棋理に反する手を蔑視する。将棋に一本筋が通っており、負けてもここはこう指さねばならない、という頑固な手が多くあったように思う。現在の棋士でいえば、阿部隆八段がそうかもしれない。
芹沢九段が現役バリバリだったころ、升田幸三実力制第四代名人との対局で、升田元名人が▲8五桂と歩を取って跳ねたことがあった。ゴキゲン中飛車の△2五ポン、と同じ狙いである。
この手に芹沢九段は見向きもせず、△3四銀と、黙って玉頭位取りを構築した。▲8五桂は邪道な一手、と見たのだ。いまの芹沢九段がゴキゲン中飛車を見たら、何と言っただろう。
そうした筋のよい将棋を指す一方で、常識を疑うところもあった。たとえば美濃囲いで△9五歩と突き越す。これは玉の懐を拡げて、大きな一手である。ただ▲9四桂と王手に打たれる筋も生じるので、一概にいい手とも言い切れない、が芹沢九段の見解だった。
芹沢九段は、観戦記もおもしろかった。九段の将棋理論がそのまま文章に具現化されるから、これがおもしろくないわけがなかった。
その白眉は、昭和57年(1982年)に発表された、第40期棋聖戦・二上達也棋聖対森雞二八段の五番勝負第1局だろう。これは棋聖戦40期を記念して30回の長期連載としたもので、その原稿量の多さゆえ芹沢九段の将棋観が随所に現れ、「金子教室」を思わせる、上質な将棋評論となっている。もし当時「将棋ペンクラブ」があったら、文句なく大賞を獲った、名稿である。
芹沢九段は昭和38年(1963年)、4勝6敗という成績ながらA級から降級する。その際、「おれは名人になれない」と悟ったという。誤解を恐れずに書けば、ここからは惰性の棋士人生だったように思われる。それでも、「鬼の住処」といわれるB級1組を長く張ったのは、さすがであった。
晩年はイジケて対局を放棄し、文章における放言の数々で、物議をかもしたりもした。そして浴びるように酒を飲み、51歳という若さで、体を壊して亡くなった。私はこれを、「ゆるやかな自殺」と考えている。芹沢九段は「太陽と死は見つめてはならない」と言ったが、「死」を見つめてしまった。
冒頭の話に戻るが、芹沢九段は晩年の言動がハチャメチャだったため、九段の才能が完全に埋もれてしまったのが残念でならない。これは以前も書いたことがあるかもしれないが、私がそのスジの人間だったら、芹沢九段の実戦集をプロデュースして、出版に動いたところである。その将棋は時代を越えて、万人に受け容れられるものと信じるからだ。
あまりにも天分があったがゆえに、己の限界を見てしまった不世出の大九段に、合掌。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする