「ふたりとも漫画のように美しい少年を演じられる稀有な俳優」
と、金子修介監督が絶賛する藤原竜也と松山ケンイチが、夜神月とLを演じる「デスノート」をどうしても映画館で見たかった。
珍しく原作も読まずに、ストーリーもキャラも知らずに見た。だから原作の持つイメージを意識する必要はないわけで、そうやって見ると、藤原竜也は夜神月そのものに見えてしまう。
いつも思ってしまうことなのだが、天才と言われるほどの人物の頭脳戦のストーリーを描くのは、その設定に匹敵する脳を持っていなければ書けないのではないのだろか。だが、この作品を見ていて気がついた。もし本当に天才レベルの天才頭脳戦を見せられたら、かなりの詳しい解説を付けてくれないと、見ている凡庸な人間には理解できないに違いない。
だから、必要なのは「天才である」と言う設定と雰囲気だけなのではと思う。そうして見ると、凡庸な私にはかなり面白くて食い入るように見ている自分に気がつくほどだった。
「キラはまれに見る自己顕示欲の強い、正義感面した、恥ずべき幼稚な犯罪者」
と言うのはLの言葉だが、まれに見る自己顕示欲の強さというのは、月の行動 を見れば納得のプロファイルだと思われた。犯罪者をこっそり処刑していくのではなく、がんがん処刑して、それを犯罪の抑止力に使うというのは幼稚でしかも天才っぽい発想だ。
「月がデスノートに書く文字も僕の直筆です。字には自信がなくて、ちょっと恥ずかしいんですけど(笑)」
パンフレットの中で藤原竜也がこう言っている。なんとなく、私は彼があんな字を書く人なのではと思っていたので、直筆を見れて嬉しいが、自信がもてる字とは確かに言い難いかもしれない。ただ、私は藤原竜也のファンなので、ここはひとつ彼の字を庇ってさしあげましょう。
もちろん全てに当てはまるわけではないが、私の周りの頭がいいなと思われる少年の多くは字が美しくない人が多い。
テレビのCMでもおなじみの学習塾では、子どものなかには小学校3年で方程式なんかも解ける(計算だけだけど)のも稀にいる。そうなるためにはかなりの枚数をこなさなければならず、勢い字も躍る。その塾がというわけではなく、まあ似たような事は天才を作っていく過程ではままありそうだ。
だから、彼の自信のないという字は、かえって天才の字としてリアリティがある。
まあ、これは
―好きならば 毒まで食らう ファン心理―というところでしょうか。
そして、松山ケンイチ。登場と同時に彼の言動や行動から目が放せなくなってしまった。完全に漫画キャラなのに、今の世の中、本当にLのような青年がいそうに感じてしまうのが不思議だ。
この映画で、私は松山ケンイチのファンに成ってしまったのだが、もう一人「リュ―ク」にも心惹かれてしまった。後編まで見てみないとわからないことだが(または、原作)、このリュークには、何か画策や裏があるのだろうか。もしないならば、
「捜査官は犯罪者じゃないぞ。」「詩織を愛していたんじゃないのか。」などという死神は、よっぽど月よりも人間らしい。
後編が楽しみだ。
映画の帰りは、イチゴショートケーキを食べて、それからコンビニよって、ポテトチップのコンソメ味を買いました。なぜって、映画見てたら食べたくなりますよ。