二月の扉「見るなの座敷」その2 の続きです。
―「見るな」と言う禁止事項は本当に「見るな」だったのか―
「見てはいけない」と言う禁忌は民話、昔話の常套ですが、私はこの物語のそれに、非常に違和感を感じるのです。
なぜなら同じ見てはいけないというタブーのある「鶴女房」は、見られては困ります。自分の正体がばれてしまいますから。
「見るな」ではなく「開けるな」ですが、「浦島太郎」は開けては困ります。歳を取ってしまうからです。
黄泉の世界のイザナミの部屋を覗いてはいけません。おぞましき死霊の姿が分かってしまうからです。(注:昔話的神話の発想です。)
でも、この物語では二月の座敷にいったい見られて困る何があったのでしょうか。さっぱり分かりません。
この話は別名で「鶯の内裏」と言うお話で、完結しているものもあります。と言うことは、二月、もしくは三月の部屋はそれらの棲家だったとか、または12ヶ月を一堂に集めておく原動力の部屋だったとか、いろいろ考えることが出来るような気もします。
最初に書きましたが、想像力を友にしてこの物語を思ってみると、一気にミステリー色などが強くなっていくのです。
私は、実は「見るな」は「見ろ」の仕掛け言葉だったのではないかと思うのです。
「見るな」と言って、出かけていき、そしてなかなか戻らない。そこに作為を感じませんか。
実は「見るな」「開けるな」ではなくて、自分達では開ける事が出来ない扉があり、それを通りがかりの者に開けさせると言う、異界の者の策略だったと言うお話。その為に、館の女性は迷い込んだ者を、優しく歓待するのです。男は扉を開けてしまいすべてを失ったからと言っても、別にコツコツと自分で築いてきたものを、失ってしまったと言うわけではなく、本来居た場所に戻っただけで、まあいい夢を見たと言っていいでしょう。
お話によっては金銀財宝が絡むものもありますが、やっぱりそれも別に努力したわけではないので、失ってもやっぱりいい夢と言えるかも知れませんね。
扉を開けさせた異界の者は、何者なのか、どうしたのかは分かりませんが、やはり春告げ鳥の化身なのかもしれません。
扉が開いて、春告げ鳥が鳴いて、そして里山から春が来るのです。男はあっけに取られてぼんやりと立ち尽くしていますが、やがて季節が春に変わっていくそんな気配に、ふっと微笑んで山を下りていく、そんなラストシーンなんて想い描いてしまいます。
夢から醒めてうつつの春に身をゆだねていく、そこに夢とうつつの絡み合う幻想的な物語が存在するような気がします。
二月の扉を開けてはならぬ~
いえいえ、
二月の扉は開けねばならぬ。開ければやがて芽吹いていた花々が競い咲きあう春がやって来るのです。