森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

『鱈々(だらだら)』の感想 その2

2016-10-24 08:51:21 | 観劇・コンサート日記

『鱈々(だらだら)』の感想 その1 の続きです。

写真日記を挟むとか言いながら、待っていたものが来たから予定を変更して続けて書かせていただきました。

 

悲劇喜劇2016年11月号
早川書房
早川書房

 

私が、 『鱈々(だらだら)』の感想を書かずに待っていたのは、シナリオを手に入れてからと思っていたからだったのです。

「『鱈々』は93年に韓国にて初初演。現代社会を比喩している傑作と評されて韓国では再演が繰り返されている。」

演劇関係の雑誌を読みなれていれば、迷わず上の本にたどり着いたと思いますが、そのような習慣もめったになく、いつも感想を書いてからコメントなどでそのシナリオがどこに載っているのか教えて貰うことが多かったり、後は出かけて行った先の劇場で買い求めたりしていたのです。

(もちろんシナリオの載っているものをいつも買い求めているわけではありませんがー。)

劇場ではのんびりと誰もいなくなってから、お土産コーナーに行ったのがいけなかったのか分からずに(もしくは見逃したのかも)、本屋に行けば見つかるかもと思いましたが見つからず、家に帰ってから、「 『鱈々(だらだら)』のシナリオが載っている雑誌」で検索を掛けてもうまくいかず、「悲劇喜劇11月号」にたどり着くまで少々苦労しました。

こんな話はどうでも良い事なのですが、なんたってワタクシ、世界から顧みられることの無い押しも押されぬおばさん世代になってしまったので、苦労話は聞きたくないと言われてもしたくなると言うものです。

 

ーああ、 世界から顧みられることの無い世界の恐怖・・・・。

例えばそれは、愚直に仕事をやり遂げていても誰にも褒められることのない毎日。

だけど失敗しても、誰にも影響を与えず、もしくは与えていたとしても気づかれもしなくて叱られることさえないそんな生活。

そこにあるのは、果てしない孤独だと思うのです。

だけれど大概は、自分の欲望と闘いながら毎日の目の前の問題に右往左往して、自分の中の本質の恐怖と向き合う事が出来ないのかもしれません。それはこの舞台のキームのように。

 

ここから先は、ネタバレで書く予定ですが、ネタバレはちょっとなと思う方の為にネタバレであっても、まあいいかと言うことを先に書きます。

ジャーンのキームの為にアイロンをかけているシーン、まじに可愛かったですよね ♡

私、ちょっと正座をして造花を作っていた「下谷万年町物語」(「下谷万年町物語」☆感想です)を思い出してしまいました。

 

ミーハー的な事は、こんな程度しか書けないかな 💦

 

以下、ネタバレしています。

 

このお芝居の最初の方のジャーンのセリフから、もう心に喰い込みました。

「それに、この倉庫を抜け出したからって何がある?
あの空の太陽と月、それに星が輝いている宇宙は巨大な倉庫なんだよ。
…中略…
もし俺たちがここで幸せに生きられないとしたら他の倉庫に行ったって幸せなんかになれっこない。
つまりここ、この倉庫の中で一生懸命働いて、真面目にくらすことが大切なんだよ。
…。」

宇宙は巨大な倉庫ー。

しみじみとしみじみと、本当だなあと思いました。

ゆっくりと諭すように話すジャーンの言葉は染み入ります。

それでも人は、「確かにそうだ。」と思っても、ここではないどこかに夢を求めてしまうのかもしれません。

 

ダーリンとその父親に良いように利用され続けるだろうと分かっていても(まったく分かっていないかもしれない。)、それでも外の世界に飛び出して言ってしまうキーム。

「いい札が回って来たから。」と言うキーム。良い札が回って来た時ほど危ないって、まったく学ばないキームだと思いました。

そのキームに

「行かないでくれよ。ここに一緒にいてくれよ。」と言うジャーンに本当に切ない気持ちになりました。

 

ええとそれからと、シナリオのページをめくると、まずい事にあちらこちらのシーンが好きで、そしてどのページを開いても、また涙で瞼が重くなるのです。

このお芝居は、きっと観ている人の今の状況によって、いろいろと解釈が変わるのかもしれません。

 

明かりの差し込まない倉庫の生活の中でもジャーンは本を読み、物事を冷静に見つめようとする人だと思いました。それ故に間違えても何も変わらなかったと言う悪夢を見たのだと思いました。無意識がそれを知っていたのかもしれません。

悪夢は現実となってしまいますが、それだってその話をキームにしなければ起きなかった事だと思いました。話は淀みなく流れるように進みました。

好きと言えば真夜中に箱の持ち主に手紙を書くシーンも好きですし、鍋の中からキームが鱈の頭をすくうところで

「なんですくいあげたりするんだよ。」と言う所も好きでした。

 

でも一番心に響いたのはやっぱりラストのセリフでした。

「気の遠くなるほど長い間・・・、俺は暗くて小さな倉庫の中で…日々、幸せに暮らしてきた。
…中略…
自分に与えられた仕事をまごころを込めて精一杯やっていると言う喜び…それだけが俺の人生の支えだった…でも、もしこの世界が滅茶苦茶で間違いだらけだとしたら、この倉庫の中での俺のまごころに、いったい何の意味があるんだ…
…中略…

いや、そうじゃない、
…以下略」

この後ジャーンは置いてけぼりにされがらんどうになった頭で判断してはダメだと思い直します。

そしていつものように箱を間違えないように丁寧にゆっくりと積んでいくのです。

 

小心者なので丸写しは、ちょっとドキドキするのですみません。

 

「いや、そうじゃない、」

私はこの否定の言葉にノックアウトでした。

 

まるでジャーンは私たちのようではありませんか。

ちっぽけな世界で愛する人がいて目の前にある仕事を一生懸命にやって、日々の暮らしに幸せを感じて生きていくー。

だけど矛盾とエゴで満ちた世界に時には疑問に思う。それでも自分の気持ちを立て直して、自分の生活を丁寧に生きようとするー。

 

本当はジャーンのみではなく、キームもダーリンもその父親も、皆私たちの中の何かと被るような気がするのです。

 

「ほら、伝票に書いてある通りに箱を運べ ! 正確に積むんだ ! 間違えるな ! ミスは許されないぞ !・・・・・・」

そしてまごころを込めてひとつひとつ箱を積んでいくジャーン。

 

ジャーンの姿と重なってしまった「私たち」。

私は思いました。

私たちは何と愚直なんだろう。

私たちは何と深い孤独を友にしているんだろう。

だけど私たちは、・・・・・・・

 

なんと愛おしいんだろう。

 

最後のセリフは、もっと長いのかと思っていました。でもそんなに長くもないセリフだったのです。でもそのラストのシーンで魂が打ち震えたのは私のみではなかったと思います。

藤原竜也はやっぱり凄いな。

 

コメント (2)
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