10月の13日に天王洲銀河劇場にて『鱈々(だらだら)』を観てまいりました。だけれど、ちっともその感想を書かなかったのは、ちょっと理由があったのですが、きっと書きはじめたら、またダラダラと長々と書くのではないかと思い、書きはじめる事にしました。
記事の構想無く、思いつくまま書いていこうと思います。長くなったら続きはまた明日と思っています。
ちょっととんでもない所から入りますが、ノーベル賞の連絡がボブ・ディランに未だ直接には伝わっていなくて、彼のHPには「ノーベル賞受賞者」の文字も削除されてしまったのだそうですね。授賞式に彼は現れるのでしょうか。一波乱ありそうです。反戦を歌うボブ・ディランの歌の歌詞、つまり彼の詩はノーベル賞にふさわしいと私は思うのですが、本人はどう思っているのでしょうか。
実家にて夜、姉からその彼のノーベル賞受賞の話を聞いた時に、思わず私が涙をこぼしたのには実は秘密があるのです。
姉が私の泊まっている部屋にやってくる少し前、私はその日に観た『鱈々(だらだら)』の事を何気なく思い出し、一人ハラハラと泣き、涙をぬぐっていた直後だったのです。ひとたび心が動き出すと、感動しやすくもなると言うものなのですよね。
近頃ドラマの影響で「地味に凄い」と言う今時の言葉を知りましたが、そんなにパッと目を引くようなものではないのに、後からジワジワとそのすごさが迫ってくると言うような意味であったならば、まさにこのお芝居は「地味に凄い」と言っていいのではないでしょうか。
前に「藤原竜也の真骨頂は舞台」と言うポスターを見ていたのですが、「まさに」と私は思いました。
私はドラマ好き、映画好きそしてお芝居も大好きです。
でもドラマと映画は舞台とは決してイコールではないものではないでしょうか。
イコールではないとは、また不思議な事を言ってしまったかもしれません。
確かにシナリオがあって演出が居て、舞台美術があって、衣装があって照明がある。そして中心には演じる役者さんが居る。器が違うだけで中に入るものは同じようなものに感じるかも知れません。
だけどイコールではない。
これこれこのようにと言う説明は無用かつ無理だと思いますが、それはこの『鱈々(だらだら)』を観ると、ああ、この人の言っている事は分かるような気がするなと思って頂けるかと思います。
冒頭の部分で二人の青年、ジャーン(藤原竜也)とキーム(山本裕典)が倉庫に入ってくるシーンは物凄くゆっくり。
そのシーンで、彼らの毎日の時間がゆったりと緩やかに変化なく流れている印象を観ている私に与えるのです。そのような技が通用するのは舞台だからこそと言えるでしょう。
先に観ていたツイッターの竜也ファンクラスタの皆さんが、
「ずっとこの舞台の事を考えてしまった。」「涙が止まらなかった。」と言うような事をツイートしていて、私も輪郭の見えない期待をしていました。正直な事を言ってしまうと、途中までこのお芝居で果たして涙なんか出るのかなと正直思ってしまったのです。
だけどそのラスト、私は知らず知らずのうちに涙がこぼれました。
ラストの展開にと言うわけではありません。
藤原竜也の独白に。
言葉がこんなにも胸に迫ってくるなんてー。
「藤原竜也の真骨頂は舞台」
ほんとうですね。
この記事は続きます。(いつも長くなってしまうから (^_^;)
でも途中でまた写真日記が入るかもしれません。
続きを書きました。→『鱈々(だらだら)』の感想 その2