さよなら5月 <with 道端の花たち>時は奪うのみにあらず キシキシと心が軋む音がするもし父が私の傍に立っていたら、お前はあんなに優しいと思っていたのに、なんで今はそんなに薄情なんだと言うだろうか。父......
上の囲みは昨年の、5月31日に投稿したものです。
そこを開くと、また昨年のと言う風に4年分のツリーになっています。と、言いましてもすべて31日の日のモノではありませんが。
「キシキシと心が軋む音がする」は父の一周忌、「時は奪うのみにあらず」は三回忌の記録。
その翌年、つまり昨年は命日の時には母と姉に託し、少々後ろめたさが残ったと言う事を書いていました。でも我が家では命日の時よりも誕生日に集い合いお墓参りに行く習慣が根付き、今年はすっかりその罪悪感は薄らいでしまいました。
だけどその命日近くに実家に帰った私に、父からのメッセージのような出来事があった事は「秘密の小箱の「ひみつ」」に書きました。
時が過ぎて行っても、父の存在はそうそう薄らいでいくものではなく、むしろ日常の中に紛れて普通に存在しているような感覚になってきました。ただ、悲しい事にその影をいくら探しても見つけられないだけ。
いや、だけど。
本当にその父の影を見てしまったならば、私は
「やめて !!!」と言います、きっと。
だって、やっぱり怖いものね。
・・…本当はどーなのかな?
いやいや、「本当は」は無くていいです。
ところで私、この昨年からの記事を読み返して、
「私って、この季節は同じような事を繰り返してやっているのね。」と、思わず苦笑してしまいました。
つまり野の花コレクションです。
この季節は本当に野の花も充実していてやってしまいますよね。
「花追い人」でいたいもの。
だけど先日、横浜の実家に帰った時に、今は横浜の住人であるラッタさんにもあったんです。そこで何気に
「3月には花桃を見て、4月には藤を見て、5月にはネモフィラ。そして今日は薔薇を見てきたの。」と自慢したのです。
見たがってもいないのに、無理やり写真なんかを見せちゃって。
まあ、お母さんはという人種は、そのような事をやりたがるものではないですか。
するとラッタさん曰く。
「あなたもとうとうそのような者になってしまったのですね。」
私、思わず笑ってしまい
「まあ、そうかもしれないね。」と言いました。
そのような者とは、無理やり写真を見せる者とか言う意味じゃないですからね。^^;
じゃあ、どのような者かと言えば・・・・・言わぬが花と言うところでしょうか。
まあニュアンス的に分かる方もいらっしゃるかと思います。
だけどですね、ラッタさんが言うような「そのような者」と言うのは、かなり贅沢な人種だと、私は最近思います。
前役員の不備があって、遅れてスタートした自治会のお仕事が始まりました。
申し送りも不完全で、その不完全ながらで動きださなければなりません。
なんだか毎日、そのやりたくもないお仕事をチマチマやっています。
もちろんそれが大きな時間を取っていると言うわけではないのですが、かなりいろいろと遣ることがあって、
「あー、やりたくない。あーやだ。」という気持ちでは務まらないみたいです。
そんな雑用と同時に、母や姉妹と行く旅行の準備をしています。
一応、今度行く予定の旅行は、私の誕生日のお祝い。(だいぶずれてしまいましたが。)
だけれど、私が旅館・交通の手配・行った先のタクシーの手配・・・みんなやってる・・・・
「おいおい」とは思うけれど、いつもその係だから仕方がないのですよね。
しかもずれまくってしまったので、母の誕生日と重なって、母には言っていないけれど、実は行った先でお誕生日のプレゼントなどを渡す手はずになっているのです。先日横浜に帰ったのは、そのプレゼントを姉と買いに行くためだったのです。
妹たちは行った先での酒盛りの話で盛り上がり・・・・
うーん、「私の」はどうなってしまったのだろうかと思うのですが、楽しいから、まあいいかって言う所ですよ。
いや、本当に「そのような者」としては、むしろこういう事だけをやっていたいです。
だけどそうもいかないのが現実です。
大好きな5月が終わって、6月が始まりました。この6月が終わって、一年の半分が終わるわけなのですが、なんでだか6月に入ると一年の後半に突入した気分になってしまうのです。
また計画を練り直し、逃げモードのスイッチを切り替えて、少々頑張っていこうかと思います。
「少々」とか「いこうかと」って、そこから怪しいのですが^^
先日行った、家の近くの薔薇園の薔薇です。