森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「ノマドランド」

2021-05-03 17:48:33 | 映画

いつの頃からか時々、公園の水道で髪を洗う妄想に憑りつかれる時がありました。冷たいなぁと思いながら髪を洗う妄想・・・・・・。そんなに冷たくないけれど、深夜の公園で蚊と戦いながら髪を洗う妄想。それはホームレスになってしまったらどうしようかという、それは私の心の中の恐怖の心象風景なのでしょうか。

☆       ☆      ☆

この作品の中で、ヒロインに

「先生はホームレスになってしまったの?」と、教え子だった子供が聞くと、

「ホームレスではないわ。ハウスレスよ。」と答えるー。

印象的なセリフだと思いました。ハウスを失ってもホームは失わないー。

 

リーマンショックの影響で、ひとつの企業で成り立っていた町が消滅してしまいました。それによってファーンもノマド(遊牧民)となってしまいます。

 

この状況が良いとか悪いとか、この作品がどうのこうのという事をすっ飛ばして、まず思った事は、日本でノマドは無理で、やはりホームレスになってしまうなと、自分に当てはめて思ってしまったのでした。車の運転が出来ないという事もあるけれど、60を過ぎても生活できる分の収入を得るために季節労働者として渡り歩くノマドの人たち。

過酷だなと思う前に、「仕事があるんだな。雇ってもらえるんだな。」と思ってしまったのでした。

何も日本と比較しなくてはならない映画ではありません。なんともしょうもない感想から書き始めてしまいました。だけどなんたって、トップに書いた妄想をする人なので、自分を彼らの中に置いて見てしまう私がいたのでした。

映像が綺麗です。

彼らは何かに縛られることのない自由人にも見えます。

溢れかえる物に、残りの人生を費やすがごとく右往左往する自らの生活を、思わず顧みたくもなります。人に必要な荷物とは何かとか。

またしがらみの苦しみからも解放されているような気さえします。彼らは別れる時に『さよなら』とは言わない。またこの道のどこかで再会するから。

この時、私はやはり自分の生活のある事を思っていました。『さよなら』とは言わずに「じゃあ、またね。」と言って別れていく、そこにあった無意識の自分の気持ちに気付かされたような気がしたのです。

ただこれは、ノマド賛歌ではないはず。

現実はかなり過酷な生活です。キャンピングカーの移動などではなく、ヒロインなどは自分でVANを改造した車上生活者なのですから。真冬に公園の水道で髪を洗うなどの、私的妄想シーンはないものの、やはり寒さに震える夜や車を止める事を拒否されたりなど、そんなには簡単ではないのです。

だけれどもどのような状況からそこに辿り着いても、本当の豊かさを失わない人たちが描かれているような気がしてしまうのは、フランシス・マクドーマンドやデビッド・ストラザーン以外には、本当のノマドの人たちが実名で出演していて、彼らは本当にイキイキとした顔をしているからなのだと思います。

それに物語の構成にもそう感じさせるものがあったのだと思いました。そこはネタバレしているので画像の下に書きます。

この映画は4月14日に行きました。

その時、朝の9時近くの1回のみの上映だったのです。朝早くから行動して見に行ったのです。だけどその後、その作品はアカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞の三冠を果たし、公開映画館も時間も増え、メデタシメデタシの模様。

今なら行く場所も時間も選びやすかったと思うけれど、第4波襲来中の今なので、逆に私自身は見逃してしまったかも知れないと思います。見逃さずに見る事が出来て良かったと思っています。

ひとりで生きる、そこにはその大切さがぐっと伝わってくるものがあるのです。だけどそんな凛としたものがあるから、過去・今・未来の人との触れ合いと絆が強く感じられてきたように思いました。

 

作品情報は→こちらです。

画像の下はほんの少しのネタバレ感想です。

 

  

 

ヒロイン、ファーン(フランシス・マクドーマン)には、2回もこの車上生活から抜け出すチャンスが訪れます。

1回は、息子の家に帰った同じノマド仲間だったディブ(デビッド・ストラザーン)の所に遊びに行った時に、ここに留まってくれと頼まれます。彼の可愛らしい赤ちゃんの孫を抱いた時の、その柔らかい手を感じてファーンは何を思ったのでしょう。

彼の息子の妻が「お父さんは、あなたの事が好きなのよ。」と言われて、ファーンもまんざらではなかったと思います。

夜になって、彼女はスカートなんかを着て、彼に会いに来るのですから。だけどその途中の階段で、彼と息子がピアノを連弾で弾いているのを聞いていて、彼女は翌日立ち去るのでした。

ファーン自身も車の中でフルートを練習しようとしていました。代用教師もしていたし教養の高い人なのです。

ピアノは定着した生活の現れだったのでしょうか。もうその生活には戻れない事をファーンは知ったのでしょうか。

またもう1回は、車の修理代を姉に借りに来るときです。姉はまったく邪魔するでもなく歓迎し、心配していた事も伝わってきます。そこに留まる事も出来たのです。

でも彼女は留まりませんでした。

レンタル倉庫に残してきた荷物を処分し、もう誰も住んでいない街のそして自分の住んでいた家にも立ち寄ってみます。

裏の戸口からずっと続く荒野が見えるのよと言っていましたが、(字幕では「砂漠」になってたけれど、違うと思いました。)、彼女はその裏木戸から外に出てずっと歩いて行きました。

 

そして車は走っていきました。

ずっと未来に向かって走って行くように・・・・。

 

 

 


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