キシキシと心が軋む音がするもし父が私の傍に立っていたら、お前はあんなに優しいと思っていたのに、なんで今はそんなに薄情なんだと言うだろうか。父の一周忌。だけれど私はどこにも父を感じることが出来ず、父は...
[ 上の囲みは一年前の、1周忌の記事です。]
私は一年前の1周忌の時のように、やっぱりニコニコ笑いカメラの前ではわざとおどけたポーズを取ったりしていました。
でもそれは昨年のように心の中に父が不在だったからではありません。
この一年で私は父の存在を感じる事が何度もあったからですが、それは心霊的な物語ではありません。
月日と言う時が心の中に父と言う存在を、思い出を縦糸にして確かなものに織り上げていったからだと私は思うのです。
それでもカメラの前では
「砕けたポーズをみんな取ってね。どんなに悲しかったとしても月日が、こんな風に悲しみを変えていくと言う証拠に。」と私は言いました。
おじさんはその言葉を真に受けて、献杯の挨拶の時に、ちょっとその事に触れました。
「一年前はまだ悲しい気持ちでいたと思います。それが三回忌になるとまた私たちは明るくにぎやかに集うことが出来ました。本人もそれを望んでいると思います。そう言うのが好きな人だったので、今日は賑やかに楽しく歓談して行ってください。」
まさに明るくにぎやかに一族が集う、それが父の願い以外のものではありません。
だから私は笑っていたのです。
三回忌はお寺での法要の後、少し離れた墓地に車で移動しました。
今回はそこでみんなでお墓のお掃除をしましょうと言う予定にしていました。
着くなり孫たちが率先して丁寧にお掃除を始め、親である中年組はニコニコと見ているだけになりました。
姉が嬉しそうに
「お父さん良かったね。孫たちが寄ってたかってお掃除してくれて。」と言いました。
すると、その「寄ってたかって」に、皆反応。
「その言葉は、あまり良い時には使わないんじゃないかな。」
「寄ってたかってボコボコにするとかさ。」
じゃあ、と言っても違う言葉が思いつきません。
さらに、甥が
「孫一味でやらせていただきました。」と、これもあまり良い時には使わないだろうと言う言葉をわざと使って、みんなの笑いを取っていました。
今思いつきましたが、シンプルに「孫一同でやってくれて」と言う言葉を使えば良かったような気もします。
でも「孫一味」の方が、なんとなくいい感じ。いい時も悪い時も仲間だよって感じがします。
そう言えば一番下の妹には叱られそうなので、書き足しときますが、お墓のお掃除はこの孫一味と一番下の妹でやってくれたのでした。
その後、一人一人が手を合わせると言う流れになりました。
「時間もあるので、お一人おひとり父と語り合ってください。」と姉が言いました。
すると母が
「いつも語り合っているから、改めて何も言うことがないわ。」と呟きました。
母の中の父はきっと母が亡くなる時に、一緒に死ぬんだと思いました
彼岸の岸辺を渡ってしまった人は、新しい想い出も増えないし会話もありません。でもこちら側にいる者たちは、こうして集い合い無言の人と心の中で語らい新しい想い出を築いていくのだと思います。
人はこうしてなかなか本当の死を迎える事はないのかもしれません。だけれど何が悲しいかといえば、地の底で眠る人が、そんな風にみんなの中で生きていると言う事を知りえる事が出来ないのではないかと思う所なのでした。
墓地でみんなで集合写真を撮りました。もちろんお墓を背景にはしていません。
それでもその時、私は
「お父さんは、手をお母さんの肩に掛けて・・・。」とジョークを言いそうになりましたが、そう言うのを本当に怖いと思う人も居るかもしれないと思ってやめました。本当にそんな写真が写ったら困りますし。
だけどほんのちょっとだけ、どこかで見ていて欲しいと私は思っていたのかもしれません。
ふと見上げた青い空。
天気予報はずっと雨だったのにね・・・・。
〈お食事〉