森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

長崎の鐘

2017-08-10 10:38:07 | 梢は歌う(日記)

 ふと思うに、広島の事は書くけれど、長崎の事はあまり書かない。

でもそれは、たまたま広島の原爆記念日が先にあるからではないのかと考えた。なぜなら、そこが故郷だったり縁ある人が住んでいなければ、原爆への憎しみは落ちた場所には関係なく同じと思うからだ。

現に、原爆投下候補地には、私の故郷である横浜も入っていたのだから。

人の心の中に棲みついた悪魔の化身であるかのような、あの爆弾は広島・長崎に落ちたと考えるのみでなく、日本に落とされたと思うべきである。

 

だけれども、長崎と言う所に思い出がないわけではない。

それは高校の修学旅行で訪れた地でもあった。

原爆資料館を訪れた私は、悲惨な展示物を一つ一つ丁寧に見ていたら、不意に涙があふれ出てきた。

凄く恐ろしかった。そして悲しかった。

すると、すぐそばにいた友達が

「なんで泣いているの?」と聞いてきたのだった。

「だって、これを見ていたら泣きたくならない?」と私が聞き返すと

「感受性が強いのね。」と言われた。

そう言われて辺りを見回すと、友たちは剣には見ていたとしても、ある意味修学旅行の楽しいひと時として、皆笑いあっているように感じたのだった。

こんな所でべそをかく人なんかいないんだなと、私は恥ずかしくなって急いで涙を拭いたのだった。

 

平和公園の記念像も見た。

ああ、これがかの有名な…と私は思った。

だけどその時も、ちゃんと戦争と平和に対しては、まじめに何かを思ったと思う。

これこれこのような事を思ったと書けないのは、それがはるか昔の出来事になってしまったからだ。

 

どんなに記憶力が良くても、記憶はどんどん風化する。

ゆえに、時々は思い起して、記憶はインプットし直すべきなのだ。

だけど思う。

この戦争を憎む気持ちは、ずっと昔から変わりがないものであっても、やはり私の中で徐々にちゃんと形を成すものに成長し育っていったものだと思うのだ。

年齢を重ねると言う事はそういう事でもある。

日本人としての使命とか何かとか思ってみたりもするだろう。

体験を通して核廃絶を訴える事が出来るのは、日本人のみである。

 

年齢を重ねて、その人の中で形を成して成長させるものは人それぞれに違うのかもしれない。「平和」の感覚に対しても。

「あなたはどこの国の総理ですか。」と被爆者の方に言われた男は、どうなんだろうか。→そのニュース記事はこちら

 

またも長崎の思い出に戻るが、被爆地の悲惨さを感じた街と言うよりは、坂の街であり雨の街であり、異国情緒の漂うおしゃれな街でもあった。それは修学旅行と言う浮かれた旅の途中で訪れた事もあったけれど、今そこにある街並みを見たのだと思う。

ただそれでも、心に刻まれたのはバスガイドさんが「長崎の鐘」を歌ってくれたことだ。そしてその夜、夕食後に行われたクラス別出し物対抗(なんて名付けていいのか分からない。)の折、我がクラスはまじめに制服に着替えて、この歌を皆で合唱したのだった。

夕食後にそんなことをするのも、うちの学校は変わっているように思ったが、そこでこの歌をまじめに歌ったうちのクラスも凄いなと思う。

他のクラスは二人羽織とか…・え~とえ~と、覚えていないや。

 

その歌唱指導を、バスに乗っている間、ずっとガイドさんがしてくれた。

「ハイ!!!」と言う掛け声も熱が入り、観光を終えて、他のバスの人たちがウツラウツラしているとき、私たちは

「こよなく晴れた青空を~・・・」と練習していたと言うわけだ。

 

何回も歌っているうちに、その歌の悲しさがやっぱりすごく伝わって来たのだった。

(今思うと、いい学校だったな。)

 

長崎の鐘(最新版)  下垣真希 Maki Shimogaki

「あなたはどこの国の総理ですか」。長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長を務める川野浩一さん(77)は被爆者団体からの要望書を安倍首相に手渡した際に迫った。「ヒバクシャの願いがようやく実り、核兵器禁止条約ができた。私たちは心から喜んでいます。私たちをあなたは見捨てるのですか」

 面談は式典後に首相らが被爆者団体から援護策などの要望を聞く場として設けられている。通常は冒頭で静かに要望書を手渡すが、川野さんは「子や孫に悲惨な体験をさせてはならないというナガサキの72年間の訴えが裏切られたという思いがあった」と異例の行動に出た理由を話す。川野さんは安倍首相に「今こそ日本が世界の先頭に立つべきだ」とも訴えたが、明確な返答はなかった。

「あなたはどこの国の総理ですか」。長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長を務める川野浩一さん(77)は被爆者団体からの要望書を安倍首相に手渡した際に迫った。「ヒバクシャの願いがようやく実り、核兵器禁止条約ができた。私たちは心から喜んでいます。私たちをあなたは見捨てるのですか」

 面談は式典後に首相らが被爆者団体から援護策などの要望を聞く場として設けられている。通常は冒頭で静かに要望書を手渡すが、川野さんは「子や孫に悲惨な体験をさせてはならないというナガサキの72年間の訴えが裏切られたという思いがあった」と異例の行動に出た理由を話す。川野さんは安倍首相に「今こそ日本が世界の先頭に立つべきだ」とも訴えたが、明確な返答はなかった。

「あなたはどこの国の総理ですか」。長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長を務める川野浩一さん(77)は被爆者団体からの要望書を安倍首相に手渡した際に迫った。「ヒバクシャの願いがようやく実り、核兵器禁止条約ができた。私たちは心から喜んでいます。私たちをあなたは見捨てるのですか」

 面談は式典後に首相らが被爆者団体から援護策などの要望を聞く場として設けられている。通常は冒頭で静かに要望書を手渡すが、川野さんは「子や孫に悲惨な体験をさせてはならないというナガサキの72年間の訴えが裏切られたという思いがあった」と異例の行動に出た理由を話す。川野さんは安倍首相に「今こそ日本が世界の先頭に立つべきだ」とも訴えたが、明確な返答はなかった。


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ちょっとだけ思う事。

2017-08-09 10:39:11 | 梢は歌う(日記)

今日、書こうと思った事があるのですが、その前に

どうしても少しだけ言いたい事があります。

お願いのようなものです。

 

 

あまりコメントを書きこまないけれど、時間の許す限りではありますが、

読者登録しているブログ、またはしていただいているブログの皆様の所は、

定期的に訪問して、読まさせていただいています。

もちろん毎日ではありません。

 

ブログをずっと続けて行くと言う事は、よほどはまった趣味に感じないと、そうそう長々と続く事ではないかもしれません。

私もかなり長い方のお仲間になってきましたが、同じような方、更に長い方はたくさんいます。

だけど人気ブロガーでありながら、

生活の重要度の順位によってやめられていく方も多いと思います。

仕事とか家族の生活の変化とか、またはご病気、またはネット攻撃に疲れ果てたりとかも理由に上がるかもしれません。

 

ブログの継続の自由は、まったくその人の自由ではあるのですが、

止められるとき、

「止める」と書いて、ブログ削除するまでの期間が

皆さん短すぎると思うのです。

 

30年続いているリアルな友達だって、今では1か月に一度ぐらい。

仲良く今一番遊んでいるお友達だって、2週間に一度ぐらいしか会えませんよ。

ずっと、私のブログに来ていただいている方も、徐々に感覚は空いて行き、

それでも思い出したように来てくださるので嬉しく思ったりもしているのです。

 

「お知らせ」して、1週間でも短い。

数時間なんてあり得ませんよ。

寂しすぎますよ。

ラストメッセージ、何が書いてあったんだろう。

何があったのだろう。

どんな気持ちでいたのだろう。

大丈夫だろうか。

 

世の中には、言葉を頻繁にかわさなくても

じっと見守っている人たちもいると思うのです。

 

その人たちの名は「お蔭さま」です。

「お」も付けられ

「さま」も付けられる

「お蔭さま」

 

ブログには、挨拶よりも深い、その人の心の吐露が書き込まれていると思うのです。

まずは、それを読み合うだけじゃダメですか。

 

そして、読む事によってその人の心の傍に寄り添っていたと言うのに、

バーンと消えちゃう。

 

「遠くを見よ」

って、誰かが言っていたけれど、

置いてけぼりにされる人の気持ちを、窓の外の遠くに見える、風に揺れる木々の梢のように感じてもらいたいと思います。

 

ブログ継続は、その方の自由。

でもね、止められるときは、そのラストメッセージが、ちゃんと今まで読んでいた人に届くように

30日は放置して欲しいと

私は思います。

 

 

―どうしちゃったのかな。

何があったのかな。

大丈夫かな。

ねっ、元気?―

 

 

コメント (4)
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二度寝・寝坊&悪夢

2017-08-08 17:16:18 | 梢は歌う(日記)

昨夜、もう眠くて眠くて仕方がなく、私には珍しい事に昨日の内に眠りにつきました。と言っても11時58分。それでもその日のうちに眠りにつくことが出来たのです。

だけど日ごろから睡眠時間が短いなので、4時半には目が覚めてしまいました。それを5時まで待って起きました。

花の水やりをして、猫たちもベランダに出しました。

空気はべたついて、朝の爽やかさは既にありませんでしたが、水やりをやったんだと言う一つの達成感を感じ(レベルが低い)、良い気になってパソコンを開きピグの畑の収穫をしました。まだ早くマンションなので家事はやりません。早起きしてもまったく大人的有意義な時間を持たない私。このまったり時間を深夜に持つか早朝に持つかと言う違いだけです。

だけど猫さんたちが、ご飯はまだかとそわそわしているので、ちょっと早いなと思いつつ、「猫に我慢」は気の毒なので、彼女達にご飯を提供し、起きてくる家人の為にアイスコーヒーの準備をしました。するとルート君が6時前に起きてきました。彼は最近早めに出勤するみたいです。

彼と天気の話をし、「雨よりも風に気を付けてね。」と言いながら珈琲を手渡すと、急に体がだるくなりました。

それでしばし横になる事にしました。

 

しばらくすると、夫が起きるのが分かりました。

「猫さんたちには、ご飯はあげたよ。」とむにゃむにゃ言いながら言いました。

 

またしばらくすると

「じゃあ、ママ、行ってくるねー。」

「はーい。気を付けてねー。」と声だけ元気で見送ると…見送ったと思います。

すやすやと寝ていたのです。しばらくすると、足が心地の良い毛皮に触れました。

気持ちいいな。

私の体に体を寄り添って眠るのは、あんずさんです。もも吉はベタベタするけれど、体が触れ合うのは 基本は嫌いです。

 

男たちが世界と言う戦場に赴いた後、女たち、つまり私と猫二匹は静まり返った部屋の中で気持ちよく寝ていたと言うわけです。

 

別に良いのじゃ。

今日はオフ。

と言ってもやらねばならない事が心の机の上にドッと積まれているのです。

目が覚めたら、それらと向き合わなければならないわけだし、しばし夢の世界に逃げ込みましょう。

 

そしたら本当に夢を見ました。夢を見るほど、しっかり寝たのですね。

人の夢の話など、興味もないと思うのですが、夢は私にとっては意外と大事なテーマで、しばしば登場してきます。

タイトルにもある通り、それは私にとっては悪夢でした。

 

いつも風景は素敵。昔の西洋に生まれたら、魔女と思われてしまうかもと言うくらい綺麗な世界です。

バスで姉妹たちと母とでどこかの島にツアーパックで旅行に来ていました。

自由時間。

散策して集合場所に向かうのです。本当はこのメンバーは誰でも良かったのだと思います。役割さえやる人物がいれば・・・・。

 

姪がこの辺に美味しい野菜を売っている民家があるので買うと言いました。

この家かと入って行くと、あの建物はなんて言うのでしたっけ。

それを見て、ここは酪農もやっているのだと分かりました。

 

姪がその家に入って行ったまま帰らずにいると、誰かが集合時間に、もう間に合わないと言いました。

バスには置いて行かれることが決まってしまいました。 ここからは自分で行かねばなりません(どこに?)

そこで知っている人なのか知らない人なのか曖昧な男の人が出てきました。

この人は車を持っているんだから、私たちを載せてくれればいいのにと私は、ちらっと思っていましたが、そんなことは男の人は言ってはくれずに

「あのロープウェイに乗って行けば、次の所に行けるよ。」と教えてくれたのです。

そしてその男の人は消えてしまいました。今思うと、自治会の人だったかもしれません。

 

私たちがなぜかバス停でロープウェイを待っていると、その案内が入りました。

「最終のロープウェイが発車します。」

ふと、なんでこんなところで私たちは待っていたのかと思いましたが、言ったところで仕方がありません。

「出るって。早く行こうね。」などと母たちを急き立てて行くと、ロープウェイ乗り場は丁寧に三重の扉になっていて、そこを開けて行くと、なんと目の前でそれは出てしまったのです。

「最終なのよ。最終。どうするの !?」と泣きそうな声で私が叫ぶと、係の人が

「仕方がないから、後一回出すよ。」と言ってくれたのです。さすが、私の夢。なんていうかアバウト。

「良かったね、みんな。」と振り向くと誰も居ません。

みんなは三重の扉の向こう側。

また私はふぅふぅとその扉を開けているところで、夢から目覚めたのです。

 

気が付くと、朝ドラは終わっているし、ラジオ体操も終わっているし、とにかくみんな終わってると言う感じです。

なんかすごく嫌な感じ。

こういう時は検証です。

 

うーむうーむうーむ。

と、考えてみると、この夢の中の私は自分の意志と言うものをまったく持っていなかったのです。人についているだけ。そして迂闊な行動すら気が付くこともできなかったのでした。

でも今日は、何でも後手後手に回りそうな気がするなと、私は思いました。

 

この記事は、朝、途中まで書き始め、夢の話の途中で出かけて、残りを夕方の今書いています。

予定変更などもして、楽しい時間を持ちました。だけどやる予定だったことを後回しにしました。やりたくない面倒な事から逃げたのかもしれません。

ある意味、朝感じた予感は当たっていたのかもしれません。

だから今から、家事から始めなくてはなりませんが一生懸命にやろうと思います。

 

だけどあとちょっとだけ、予定変更の楽しい時間のお話をさせてください。それは二つあったのですが、一つは旅のお友達の星子さんを突然お誘いしてランチを頂いたことです。

その時、この夢の話をしました。すると彼女が

「今度の旅行のロープウェイは最終に乗ることになっているのよ。」と言いました。

「えっ!?」

最終ロープウェイと言う言葉に反応して、彼女は頭の中でぐるっと計画を思いめぐらしたみたいで、そして言いました。

「大丈夫だと思うよ。余裕も取ってあるし、迷う所もないし。」

 

だけどこの夢は、やはり私にとってはある意味、警告だと思いました。頭の中は、何度も書いてしまいましたが「逃げたくなるやらねばならぬ面倒な事」でいっぱいです。そして旅行の事は星子さんに丸投げです。だけど自分の行動のヌシは自分自身で無いと、アクシデント一つにも対応できないと思うのです。

何も考えずにただ人の後に付いて行く事だけはやめよう。そう思えたのでした。

 

もしもこの夢を警告と取ることが出来るのならば、あながち二度寝&寝坊も無駄ではなかったと言う事になるのではないでしょうか( ̄ー ̄)ニヤリ

 

 


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美空ひばりさんが歌う反戦歌

2017-08-07 17:43:54 | 梢は歌う(日記)

今日は、いつまでたっても上達しない(練習時間にムラがありすぎて)ピアノのお稽古の日。

行くと前の時間の歌の生徒さんが、まだいらっしゃいました。と言っても、分かっていてそれを狙って行ったのですが^^

その歌の生徒さんが、美空ひばりさんの歌う「一本の鉛筆」を知っているかと言いました。

まったく知らなかったので、正直に「まったく知らない。」と答えました。

それで彼女がその歌ってくれたのですが、驚くことに反戦歌でした。

シンプルな歌詞でありながら、それに深い感銘を受けました。

 

それで家に帰って調べてみました。作詞は松山善三で広島平和音楽祭の為に書き降ろされたものでした。

本当にいつまでたっても知らない事、知らなかった事がたくさんあるものですね。

もっと詳しく知りたい方は→こちら

歌詞を確認なさりたい方は→こちら

 

昨日の夜日付が変わる前に更新した「ささやかな不思議

今日の真夜中に更新した「「二人のキャンバス」を見ました。

と続けて更新しています。

是非そちらの方もよろしくお願いいたします。

 

 

一本の鉛筆(美空ひばり)

 

 

コメント (2)
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「二人のキャンバス」,そして「核兵器禁止条約」に思う。

2017-08-07 02:41:57 | テレビ・ラジオ

おととい、たまたま『土曜スタジオ』を見た後、テレビをつけっぱなしにしていましたら、このヒロシマ8.6ドラマ「二人のキャンバス」と言うドラマが始まりました。

『被爆体験を想像すらできなかった少女と、自分の体験を伝えることの難しさを感じていた老人。
「原爆の絵」を通じて、変わっていく姿を瑞々しく描き出す物語です。』とHPにありました。

小芝風花さん、近藤正臣さん、中村ゆりかさんなどの出演ドラマでした。

短いドラマながら丁寧に作られていて、長い間その体験を語ってくることの出来なかった被爆者の方の気持ち、また広島に生きていても、ちゃんと知る機会がなかったがゆえに知りえなかった少女が真実と向き合う気持ちなどが伝わってきました。

世代を超えた触れ合いと理解と言う話のみではなく、少女の友人との関わりを絡ませたことで、よく言えば短い物語に奥深さが出たと思いますが、反面分かりづらいものが生まれてしまったようにも感じました。友人の複雑な気持ちなど簡単には理解できるものではありません。

それでも少女は受け止めて、最後にゆがんだ瓶の中に緑のオブジェを作って、縁した被爆者の老人と友人に贈るところが良かったと思いました。

伝える事の難しさ、受け止める事の覚悟。

そこにはそんな意味もあったのでしょうか。

ドラマとしての感想は、そのようなものですが、私が一番思ったことは、日本人だけが伝えていく事が出来るこの体験を風化させていってはいけないと言う事と、次の世代にちゃんと伝えていかなくてはならないと言う事だと思ったのでした。

 

私はある時まで、あまりにも人類史レベルで起きた衝撃的な出来事は、日本人の遺伝子レベルで組み込まれたのだと信じていました。

だから戦争を知らない私たちでさえ、日本人であると言うだけで、

「核はダメだ、ダメだ。ダメに決まりだ。」と言えるのだと思っていたのです。

 

ところがそうではないみたいです。

かつて日本は戦争に負けた敗戦国だった。だけど日本人はそんな敗戦国のみじめさを抱え込まず誇り高く生きてきた民族だったと思います。それを誰が今頃になって、ほとんどが先の戦争の体験のない者の時代になって敗戦国としてある国の属国に日本人を成り下がらせてしまったのかと、私は思います。

ダメなものはダメなんだ。

『核兵器禁止条約』の日本の対応にはがっかりどころじゃない、怒りのようなものを感じています。

 

それからまた、次の世代にはちゃんと伝えよう、丁寧に伝えようと思わなければならない事はたくさんあると思います。

 

この体験したことを若い世代に絵にかいてもらうと言う取り組みは、本当に行われているそうですね。

 

最後に流れた絵は恐ろしいものがたくさんありました。

だけど最後に選ばれて映し出された絵は「再会」と言うものっで、再び家族か知り合いかは分かりませんが、抱き合っている姿に感動しました。

 

丁寧に伝えると言う趣旨で、昨日は下の記事をリンクしようとしていたのです。

「「ある惑星の悲劇」☆私の漫画史」

ひとつ前にその記事の縁と言う事で「ささやかな不思議」と言う記事を書きました。

2015年8月6日は、「「父と暮せば」」と言う映画の感想を書きました。

また2014年に訪れた「広島原爆ドームと平和記念公園」の記事もよろしかったら、ぜひ読んでくださいね。


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ささやかな不思議

2017-08-06 23:16:20 | NO.50の記事
 
「ある惑星の悲劇」☆私の漫画史

人との出会いは「縁」と言うもので結びついた摩訶不思議なものであると感じる時がある。それは本との出会いにも同じことが言えるのではないだろうか。そしてそれは漫画においても同じである......
 

 上の囲みは、昨年の8月6日に投稿したものなんです。今日は広島に原爆が落とされてから72年目の8月6日。

昨年はその日にその漫画の事を紹介したのですね。

この漫画はちょっと探さないと(図書館とか)、なかなか読めないかもしれません。

 

このささやかな不思議と言うのは、ちょっと本当にささやかなものなんです。

と言うのは、上の囲みの昨年の記事は、gooメールで夕方送られてくるんです。

でも今日はやはりこの漫画の事を再び取り上げたいような気がして、朝から自分のブログ内検索をしようとしました。あまり整理されていないので、自分の記事でもブログ内検索は便利なんです。この時、昨年の今日、この記事を書いていたことなんか忘れていたのです。だけどふと、日付を考えて、もしかしたら昨日誰かが読んでいてくれたかもしれないと、アクセス解析の「ページごとの閲覧数」を見てみました。そこにあれば、自分の記事にたどり着くのも簡単だからなんですが。

ー もしかしたら「50番目の記事」がこれだったりしてね・・・。

なんて、ちょっとうっすら笑いながら見てみたら、どんぴしゃり、まさにそうだったのです。

だいたい3pvの数字があるのですが、その数字は本当はもっと上から並んでいるのです。それでも私が意識してみるのは「50番目の記事」。

 

なんだかやはり「50番目の記事」は私にとってはちょっと不思議な縁が隠れているような気がしてしまうのです。

 

「ある惑星の悲劇」☆私の漫画史

は、広島の悲劇をありのまま伝えた素晴らしい作品だと思います。今読んだら、作風的に同じように思えるかは分かりませんが、私にヒロシマの悲劇を最初に教えてくれた漫画であったことは間違いのない事です。

 

 

 

 


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「メモ魔になる」←ある意味、決意

2017-08-05 16:23:39 | NO.50の記事

『記録する夏』

アクセス解析によれば、上にリンクした記事は昨日の「NO49の記事」なんです。50番目はここの所ずっと読まれ続けた「ポーの一族」の感想だったので、ちょっとこちらをチョイスしました。

その記事は、2011年の7月23日に投稿したもので、又も今の私に向けたお手紙のようなものだと感じました。

見えないあなた様は、いったいどのような方なのでしょうか。感謝しかありません。

 

アナログの日記にもそれなりの良さがあると、それを読んでまた確認しました。

家族の本当に些細な事、または愚痴、近所の人への不満、そんなものを吐き出す場所であったりもしますよね。

時には吐き出しすぎて、うんざりし閉じてしまったというくだりにもニヤリとしてしまいます。

思うには、ブログ・ツイッター・そしてアナログの日記など、皆それぞれの特徴があって、皆それぞれに使いようによって良いものですね。

 

公開しているブログは、日記のようではあるけれど、やはり書かない事も多いと思います。でもブログを書いているならば、日記にはその日のイベントの詳しい状況も気持ちのポイントなども省いて良いと思います。だけど、あえてブログには書かないと言うか、書けないような起床時間、体重(?)、それはダイエットブログなどには必要かと思いますが、あと健康を意識したブログだったら血圧なども書き込むかもしれません。でもそうでなかったらやはり書きませんよね。電話の記録や会った友人が誰だったのか、そして仕事のメモなど。またその仕事が上手くいったのかなど。

 

私はブログは11年も続いている趣味ですが、日記はひと夏限定だったり三か月まとめてつけたりと、「三日坊主」のお仲間です。

この先は分からない事ですが、毎日の暮らしの記憶力は悪くない方で、それに日記などを付けていない時も手帳などにトピックスなどを書きこんでいたり、カレンダーに人との約束を書きこんだりで困ったことなども、あまりありませんでした。

 

ところがつい先日、バイトのシフトと勤務記録の数が合わない事がありました。シフト通りに出かけて行っているので、単にそそっかしい私がノートに勤務時間を書きこまなかったのだと思います。だけど「確認してください。」と言われました。家に帰ってあらゆる記録のあるものを確認しても、まったく分かりません。その日に限って何も書き込んでいないのです。

ブログにも「炎天下に歩いたので、夜はやたらグーグーと寝ていました。」と書いてあったり、近頃ツイッター民復活なのですが、たまたまその日が忙しくて、ほとんど無言。仕事の件はブログ記事の文脈に関係がないので省いたのだと思います。

それにスマホはいつも忘れたことがないのですが、最近一日だけ忘れた日があったのです。もちろんその日がいつだったかは必要もない事なので覚えていません。でも歩数計の記録を見てみると、仕事時間は歩いていない事になっていました。この日がそうだったんじゃないかと思いました。だけど・・・・・、ここまでくると気持ちがぐらつきました。

もうその日はバイトに行ってなかったんじゃないかとも思えてきました。

頼りの記憶はと言うと、その日の事はよく覚えているんですよ。でも、このお話、先月の10日の事を聞かれたんです。朝から晩まで覚えているなんてことは出来ませんよね。

よく覚えているのは、教育懇談会に行って、その時に見た風景と感想。帰りにガストに行ってかき氷を食べた事。それから花たちの写真を撮って、何気ない風景でもこんなに楽しめる私は幸せな人だななんて思った事。マンションに帰っていく風景・・・・・

 

ああ。思い出しました。家に帰ってから、私は珍しくお昼寝をしました。眠いまま急いで夕食を作りバスに乗って仕事場に。眠いと言って集中力のなくなっている子に、「お気持ちは分かりますが、今日みたいな日は皆同じ、頑張りましょう。」と言ったのでした。

だけどこの記憶は、今、こうしてゆっくりと書いているから蘇って来たのです。でもいらない記憶ですよね。逆に言えば消去するべき記憶なのです。

 

この件は良い風に解決しました。

 

しかしもともとは、私がうっかりしてしまったからいけないのです。

その日の仕事の感想などを誰かに話していたかなどして、何かを違和感があるなと思いながら帰ってしまったんじゃないかと思います。どうせそんなろくでもないところです。

もちろん、これからはその点を一番に注意しなくてはならない事だと思います。

 

だけどこの先だって、

「その日はどうしていたのか ?」と問われることがあるかもしれません。

アリバイとか・・・・いやいや、それはない方が良いですが^^

 

少々危なくなった記憶力頼みは無理と言うものです。

この先の未来の事も考えて、メモ魔になって行こうと、そんなわけで決意している私です。

ただし、日記帳か手帳かちゃんと書くべきものは決めておかなければなりませんよね。

 

でなければ、きっと、「あのメモはどこに行った事件」が起きる事、間違いなしですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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そこに意味があるのか、推理するしかない。

2017-08-04 01:52:24 | NO.50の記事

久しぶりの「NO.50の記事」。

7月最後の日に読まれた、私のブログの50番目の記事です。3pvとなっているけれどたぶん一人の方が読まれたのだと思います。いったいどんな経路でいらっしゃったのかと思うと、不思議な気持ちになりますが、時々その稀なる訪問者様は偶然と必然が重なり合って、私の為に来てくださっているのかと思えてしまう事があるのです。

 

『真っ白な回廊』

 

上の記事は、2014年10月5日に投稿したものです。

夢の話ですが、すごく不思議な夢でした。

この夢自体には続きはありませんが、この話には続きがあって、いつかそのお話をしたいと思っていました。

 

私はこの夢を見た時に、凄く不思議な気持ちにもなりましたが、ちょっと嫌な気持ちにもなったのです。

それは・・・・

(良かったら、そのリンクしてある「真っ白な回廊」も是非お読みくださいませ。)

その夢は絵にしても映像にしてもいいくらい、本当に美しかったのです。私が絵を描く人、もしくは映像を作る人だったら、決して無駄にはしたくない経験です。

だけどその回廊を渡り切ったら、私はどうなっていたのかと思うと、すごく怖い気持ちにもなったのでした。その道案内をしたのは、なんと父だったのですから、私が嫌な気持ちになったのも理解していただけるのではないでしょうか。

 

ところでちょうどその頃、私の妹の一人は乳がんを患っていました。小さな癌もばらまかれたように存在しているとのことで、最初に抗がん剤でたたき、それから手術の日にちが決まる手はずになっていました。ところが免疫力が弱った彼女は或る日、菌に侵され40度の熱が何日も続き入院してしまったのです。大人が40度の熱を数日出していれば、もちろんまともな意識もなく、数日は昏睡のようになっていました。もっと別の言い方をすると生死の境を彷徨っていたのです。

 

だけど彼女は生還し、無事に手術を受ける事が出来たのです。

 

いつだったか皆で集まった時に、妹はその時の事を語りました。

その体験談の中の一つが、また夢の話です。

そしてその夢は、また不思議な夢でした。

 

意識もなく眠っている妹・・・・・。

だけど夢の中で目覚めます。

真っ白なやけに明るい病室。

白いカーテンが彼女のベッドを囲んで引かれていました。だけどそのカーテンの向こうには誰がいるのか、寝ているはずの妹にははっきりと見えたのでした。

そこには品の良いお婆さんが、病室の真ん中に机を出して、カシャカシャとタイプライターを打ち続けていたのでした。

 

「なるほど。」と私は言いました。

「そのお婆さんは、三途の川の奪衣婆よ、きっと。」

 

奪衣婆と言うのは死者が三途の川にやって来た時に、生前持っていた衣服財産肩書などを奪い取る者の事を言うのです。要するに死んだ後にはそのようなものはすべて無用なものだからです。

私は彼女の話を聞いて、まるでその老婆が妹の人生をタイプライターで書記しているのではないかと言うイメージに感じたのです。

 

「きっと書いてみたら、あまり面白くなかったのよ。だからこのようなものじゃ、まだまだ早いって帰されたんじゃないかしら。」

「そうか、そうなんだ。もっと面白くしてから来いって事かしら。だから私、その後、起き上がることが出来なかったのかも。」と妹は言いました。

 

あのね、と妹は話を続けました。

白いカーテンが風でふわりと揺れると、黙々と打ち続けていた老婆の手が止まりました。すると廊下が急にガヤガヤと賑やかになったと言うのです。

 

ハッと、私は息を飲み、そして言ってしまいました。

「ねえねえ、その時シンバルの音のようなものとか聞こえてさ、みんなが笑いあっていて凄くにぎやかでお祭りのようなんでしょ。」

 

妹はちょっと嫌な顔をしました。

これから夢の話も佳境に入ると言うのに、さながらその先を知っているわと言う私の口ぶりに彼女の心に小さなさざ波が立ったに違いありません。

でも妹は

「なんで知っているの?」と聞き返してきました。

「行きたかったのに、行けなかったんだよね。」と私。

「うん。お祭り好きな私なものだから、もう行きたかったよ~。だってとっても楽しそうだったんだもの。でも起き上がれなかったの。起き上がって廊下に出ていったら、私、戻って来れなかったかもしれないよね。」

 

思わず私、「それ何日に見た夢なの !?」と聞いてしまいました。

 

それは同じ日に・・・・

って、そこまで話はうまく出来ていませんでした。

10日ほどずれて居たのです。

 

だけど私は真っ白でやけに明るい病室、白い揺れるカーテン、賑やかなお祭りのような声と音楽に私が見た夢と、何か共通しているものがあるような気がして仕方がなかったのでした。そしてそれはタダの不思議な夢から、妹の話を聞いて、何か意味のあるものに変わったように思います。

 

姉妹仲良くと言うのが、父の最後までの願いでした。

もしかしたら、父は今、目の前にある危機を伝えたかったのだろうかと思いました。

 

それとも本当は、何の意味などないのかもしれません。

 

だけど人間とは、何もないかもしれないところを見つめ、そこに意味や意義を見出そうとする生き物なのです。

 

『真っ白な回廊』の中で、私は夢の中で目覚め、まだ夢の中にいる事も気が付かず子供たちを起こしに行きます。子供たちと言ってもラッタ君は独立して既に家にはいないのです。そしてルート君はとっくに仕事に出かけていて、私は暗い部屋の中でポツンと大きな虚無の気持ちを抱えて立っているところで、本当に目が覚めたのでした。

 

先日、実家にてラッタ君に会いました。

私はいつもこの子と会って別れた後、寂しさの川に落ちかかるのです。いつまでたっても子離れが出来ていないのですね。

だけど同じ7月31日の朝ドラ「ひよっこ」の中に

「「生きて会えたと言う事。元気だったと言う事。そしてまた会えると言う事。」と言うセリフが出てきます。

 

朝、「NO50の記事」として、この記事を自分で読み返してみて、そしてさらに「ひよっこ」の言葉に救われる・・・・。

何かに守られているような感覚、またはオカゲサマと言う感覚があるじゃないですか。それは何も右に行こうとして何かが偶然にあって左に行って、ああ良かったと言う事ばかりじゃないと思うのです。

世の中にあふれている言葉の中に、必ず自分に向けてのサインが隠されていると、私は思うのです。

そしてそのサインに気が付くことが出来るのは、自分の中の感性と考える力なのかも知れません。

 


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思い出を語っても良いですか。

2017-08-02 01:33:12 | 同じ時代の船に乗る

7月28日、ツイッターでケメこと佐藤公彦さんが6月24日に亡くなっていた事を知りました。

ショックでした・・・・・。

吉田拓郎氏の音楽が好きになった頃、世間でも空前のフォークブームが起きました。いろいろな方が出てきましたが、皆それぞれに個性豊かでひきつけられる音楽ばかりだったと思います。もちろん異色な方もたくさんいましたが。

私は拓郎氏以外にも古井戸とかも好きで、そしてこのケメさんも凄く好きだった一人なのです。

 

もちろん好きだったのは彼の歌と声でした。

だけどその頃は彼の事を、「美しい人」だとか「中性的な魅力」みたいな表現をする雑誌もあったように思うのですが、私も彼の着ているものの自由さには憧れのようなものを感じていました。だって彼は可愛いブラウスなんかをよく着ていたのですよね。もちろんいつもではなかったと思いますが、何かの写真では、赤い花柄のブラウスを着ていたと思うのです。

フォークブームは(ブームなどと書くと、ちょっと叱られてしまうかもしれませんが)、男性であっても髪を長く伸ばし、似合えばブラウスを着る、そんな自由を教えてくれたようにも思うのです。

 

私は結婚をし子供を持って数年、ずっと好きだった人や事などから離れていた時代がありました。あまり器用ではないのです。その数年は映画館でどんな映画が上映され、吉田拓郎氏がどんな新曲を歌っていたかも知りません。代わりに脳内には映画は「ドラえもん」音楽は童謡にすり替わって行ったのです。

だから好きでファンだった人がその後何をしているのかとかどうなって行ったのか、ある時まで知る由もなかったのです。

2005年に自分専用のパソコンを買った時に、数か月は検索ばっかりして遊んでいました。その時に好きだった人の動向を知る手段も少しずつ分かってきました。だけどその頃音楽活動を休止していた彼のことが分かったかどうかは覚えていません。

ある時テレビで彼が結婚していたことや、音楽活動から遠ざかっていることを知ったのでした。

なんだか不思議な映像でした。

何をどのように感じたのかは言わない事ですが、もう彼は普通の人として生きていくのだと思いました。

その時に歌手のケメとの、私の決別があったのだと思います。

 

それでもやっぱり好きだった方の訃報はショックでした。

その日はずっと彼の音楽の動画を探したり、ネットで彼の事を追ってしまいました。そこには私の知らなかった彼の歴史がありました。

2009年から2014年まで元気に音楽活動を再開していた時代もあったのです。

ずっと彼を応援し続けて、ずっと彼の音楽を追ってくることのできた方たちは幸せだったと思います。

 

そんな時代も知らなかった私ですが、それでも想い出を語らせてほしいと思うのです。

横浜と言う所は東京に準じるような都会なのかも知れません。その頃はまるで当たり前のように感じていたけれど、いろいろな事で恵まれていました。

頻繁にタダかもしくはタダ同然のようなお金で、その頃たくさん出てきたフォーク歌手の人たちの音楽に触れる機会があったのです。

誘ってくれる友達がいたので、私も良く出かけていました。

 

ある時、休憩にその会場をふらりと出てくると、その垣根の所にスタッフの方たちと一緒にケメが焼きそばを食べていました。そしてやはり常連のような女の子と普通に会話して頷いたりしていたのです。あまりにも普通の光景で、私的にも凄く普通に感じました。そして挨拶でもしようかとちょっと待っていたように思います。その距離1メートルの所で。

思い出のシーンはいつも断片的です。

挨拶したのかしなかったのか、または友達がしたのかは覚えてはいません。

 

それから数年がたち、教育実習で母校に戻っていた時、たまたま全国の学校を廻ると言うラジオの番組の収録がありました。その時の進行役がケメだったのです。

なんだかとってもラッキーに感じた楽しい想い出です。

 

だけどこの時も、本当はちょっと違う事も思ってしまいました・・・・・・・。

地味だけれどいい番組だと思いました。

でも透明な声と素敵な曲で、もっと大きな舞台で羽ばたき続けて欲しいと思ったのは、その時の本音です。

 

『あおい君と佐藤君』

いつも楽しみに聴いていました。

二人の掛け合いは最高でしたね。

ある時、その会話の中で彼がぽろぽろと泣いたのです。

そしてやっぱり記憶は断片だけを拾って覚えているものだから、いつも何かが足りないような書き方をしていて申し訳なく思います。

ラジオなので見えるわけもないのに、彼の透き通った涙が見えるように感じました。

「ああ、僕この話ね、泣けちゃうな・・・・」と、ケメは言いました。

まるでガラスのような心を持った人なんだなと、胸がキューンとなりました。

繊細ゆえにきっと彼には彼の闘い続けた人生がありましたね、きっと。

 

 

 

 

時は確かに残酷。

かわいらしかった彼だけが好きだった人には辛い変化かもしれません。

でも、私はこの動画(↓)をアップしてくださった方々に、本当に感謝したいと思います。

65歳と言う人生は短いと、私は思います。

でも楽しそうに語り歌う彼の姿に、私はホッとし思わず微笑んでしまったのでした。

 

 

 

さよなら、そしてありがとう。

そして今は安らかにお眠りください。

 

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