本日7/15の朝日新聞の書評のページで、立命館小学校副校長陰山英男氏が、三木清の人生論ノートを自分が影響を受けた本として取り上げ、特に「幸福論」の部分は、自分の価値観の柱になっていると述べていたのに、関心を持ち、早速、本屋で購入した。
昭和初期の哲学者三木清は、『人生論ノート』において、幸福について、次のように述べている。
「愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。」
「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」
幸福というものが、心の中に宿ると、それが力になり、行動できるし、機嫌よく、丁寧に、親切に、寛大になれるという。
日本の少子高齢化の問題も、日本人の心に“幸福”が宿れば、自然と解決するであろう。
では、幸福が心の中に宿るとは、どうすること??
陰山氏曰く「最近、子ども達の学習意欲が乏しいと嘆く人は多い。だが、それは別に不思議なことではない。学習しろといわれても、それが自分を幸福に導くことではないことを、大人を見て知っているからだ。父親は残業、子どもは塾、母親はその調整にヒステリックに走り回る。家族団らんが絶えて久しい。この状況で意欲が出るとすれば、その方が怖い。」
一ついえることは、大人自身がまず、幸福を心に宿し、その幸福の力をもってして、家族団らんをもつことが、子どもに夢や希望を抱かせ、意欲をもってことがらに当たれるように導くのではないだろうか。
大人たちが、心のコップを幸福で満たすことがまず大事。
その心のコップは、すぐには、いっぱいにならない。日常の些細なこと、ひとつひとつに、幸福の種はあると思う。小さな便りや、小さな笑顔、子どもの成長、それらひとつひとつが、幸福の種。
昭和初期の哲学者三木清は、『人生論ノート』において、幸福について、次のように述べている。
「愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。」
「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」
幸福というものが、心の中に宿ると、それが力になり、行動できるし、機嫌よく、丁寧に、親切に、寛大になれるという。
日本の少子高齢化の問題も、日本人の心に“幸福”が宿れば、自然と解決するであろう。
では、幸福が心の中に宿るとは、どうすること??
陰山氏曰く「最近、子ども達の学習意欲が乏しいと嘆く人は多い。だが、それは別に不思議なことではない。学習しろといわれても、それが自分を幸福に導くことではないことを、大人を見て知っているからだ。父親は残業、子どもは塾、母親はその調整にヒステリックに走り回る。家族団らんが絶えて久しい。この状況で意欲が出るとすれば、その方が怖い。」
一ついえることは、大人自身がまず、幸福を心に宿し、その幸福の力をもってして、家族団らんをもつことが、子どもに夢や希望を抱かせ、意欲をもってことがらに当たれるように導くのではないだろうか。
大人たちが、心のコップを幸福で満たすことがまず大事。
その心のコップは、すぐには、いっぱいにならない。日常の些細なこと、ひとつひとつに、幸福の種はあると思う。小さな便りや、小さな笑顔、子どもの成長、それらひとつひとつが、幸福の種。