(熊本県阿蘇市黒川)
かつて、中岳噴火口(神霊池)へ向かう者は心身を清めてから登山する慣わしがあったという。阿蘇山上神社裏手より噴火口に至る道は、昔は唯一の火口への道であったとされ、必ずこの橋を渡らなければならなかったという。
昔、左京某と云う武士がこの橋を渡ろうとしたところ、子蛇が橋の袂におり、左京某の行く手を阻んだ。左京某は不届きな奴とばかりに刀を抜いて斬り捨てようとしたが、忽ち雲が涌き風が起こり、一匹の龍となって天に昇っていった。さすがの左京某もこのことに恐れをなし、それが原因で早死にしたという。以来この橋を左京ケ橋と呼ばれるようになったという。また、心悪しき人が渡ろうとすると目の前の岩が大蛇に見え、渡ることができないという。
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(愛知県新城市大海 県指定無形民俗文化財)
鍋づる万灯から豊川牛淵橋を渡り大海に向かう。途中、暗闇であったが、第二東名による開発が始まっていた。乗本中山砦が削られ、豊川に新しい橋脚が立ち、新昌寺と鳥居強右衛門墓所の間に築堤が現れていた。そんな著しい変化の中、大海の集落に入った。
放下は、鉦と太鼓で「門がかり」、「出」、「ねり」、「そそり」という歌に合わせて演奏し踊る。この際、団扇を背負った太鼓持ちが、三つ巴になるように配置し踊るのである。
放下は平安時代末期、中央の政治が乱れ、寺院で養われていた僧侶たちが地方に流浪した。その際、各自が所属していた寺院の信仰と行事の作法を基にして、流浪をしながら芸能を披露したのが放下僧と呼ばれる者である。その後、一遍などの遊行僧によって念仏踊りが次第に浸透し、各地の集落に溶け込んでいった。然し、南北朝時代の争乱で放下は一時廃れ、室町時代に再興したとされている。江戸時代入ると、放下に限って辻放下と呼ばれる流しの芸能者が行なっていたが、その後は村民が行なうようになったという。この大海周辺地域でも遊行僧が隣郷鳳来寺を訪れ、伝えていったものとされる。
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(愛知県新城市市川 万灯山 市指定無形民俗文化財)
平成二十年の「鍋づる万灯」は、対岸の有海原からの眺望であったが、今回はどのような地区で行われているのかも知りたいと思い、市川集落に出向いた。夕刻の雷雨が止むのを待ち、自転車で往復40kmの道程を進んだ。旧新城市域の内、唯一訪れていないのがこの市川集落であった。辺りの光景は、三遠南信の国境いの天空集落を思わす如き景が広がっていた。
「鍋づる万灯」は、平安末期から鎌倉初期頃に、山伏によって伝えられた送り火の風習であるという。集落の各戸が三本ずつの松明を持って万灯山に登り、鍋づる状に並んで松明を地面に突き刺し、午後七時になると一斉に火を点けるものである。近年は、集落の人口減少によって松明の数が減り、他方からの応援で「鍋づる」の形を維持しているという。
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(広島県尾道市久保)
尾道本通りの東、八坂神社の境内には伝説を秘めた簪形の石灯篭がある。昔、富豪の息子に見初められた娘がいた。娘は貧しく、かんざしも持っていなかった。息子の父親は「かんざしない者嫁にはできぬ」といい破談になった。悲しんだ娘は、明神さんの井戸に身を投げ命を落とした。その後、町の人々は娘のために、井戸の傍に簪形の石灯篭を建てて弔ったという。
昭和二十年八月七日、豊川空襲により、主に海軍工廠において多くの犠牲者を出した。そのみたまを慰めるために始まったのが、みたままつりである。私も四年間程関わったため、豊川音頭の音色を聴くと当時のことを思い出す。
我が家から数百メートルの場所で行われている盆踊り。
私が還俗してからも、暫く盆の手伝いをしていた寺院の敷地で毎年行われている。
私は幼い頃から「踊り」というものを、遠い記憶のどこかで見た光景のように懐かしく感じるのである。