(岐阜市柳津町宮東 2008年10月19日)
昭和31年(1956)羽島郡柳津村と稲葉郡佐波村が合併し、柳津町が誕生した。平成18年(2006)岐阜市に編入され、柳津町が閉町した際に建立された記念碑である。
(岐阜市柳津町本郷 2008年10月19日)
住宅地の中に佇む小さな社殿。昭和23年(1948)とある氏神の老松が伐採され、その松に栖(す)む龍神がこの屋敷に祀れば氏子を守護するという住民の夢告により建てられたものである。
(東京都千代田区神田須田町)
神田川万世橋袂下流の両側に船着場と地下室がある。現在の万世橋の架橋と共に昭和5年(1930)に築造されたこの施設は、高い位置の船着場河岸と、右岸地下室は便所、左岸地下室は倉庫をそれぞれ目的として設置されたという。然しながら明確な用途に至らないまま、右岸地下室は便所が設置されず、左岸地下室は万世橋警察署の物置として使われている。因みに右岸船着場地下室に降りる階段入口は、昭和62年(1987)万世橋公衆便所移設に伴い塞がれ、女子便所側に階段へ出入りするための床下口がある。
(愛知県一宮市小信中島字郷南 2008年10月12日)
平成10年(1998)画家三岸節子(1905-99)の生家跡に旧尾西市の施設として開館した。同氏生家の家業であり、この地方の産業である織物工場の鋸屋根をデザインとした外観の館内は、フランスに移住し晩年は大磯で描かれた同氏の洋画作品を収蔵展示している。
蔵展示室
(相模原市南区相模大野)
小田急線相模大野駅を中心とする相模原市南部の拠点であるこの地。大野の地名は明治22年(1889)高座郡鵜野森村、上鶴間村、上矢部村、淵野辺村が合併し、大野村となった際に名付けられ、昭和16年(1941)相模原町が誕生するまで存在した。昭和13年(1938)陸軍通信学校が設置されるのを機に小田急線の通信学校前駅(1941-相模大野)が開設され、江ノ島線の接続駅ともなり徐々に発展した。平成に入り、駅周辺の区画整理及び再開発が開始されたが、高島屋の誘致失敗、伊勢丹の閉店等、隣接する町田駅に集客を奪われている感がある。
(愛知県一宮市小信中島字郷中 2008年10月12日)
建武元年(1334)真言宗として開創し、文正年間(1466-7)蓮如により浄土真宗に改められている。山門の扁額は応永七年(1400)から没する応永二十五年(1418)の間尾張守護であった斯波義重自筆とされる。
(川崎市中原区木月)
東横線沿線の商店街で、最も生活感と活気のある商店街と言っても過言ではないだろうブレーメン通りは、オズ通りと井田中ノ町商店街の間にある550mの商店街。平成2年(1990)元住吉西口商店街から公募によって改名された。翌年、ドイツブレーメン市のロイドパサージュ商店街と友好提携された。
(三重県桑名市長島町又木 2008年10月3日)
慶長十九年(1614)近隣の西外面遠浅に天照大神を勧請したのが始まりという。その後荒廃し、同地の八幡宮を当地の鎮守として崇敬した。勧請間もないとき大坂の陣に出兵したこの地の住民が、つつがなく帰村できたのは神明宮の加護と後になって悟り、現在地に改めて社殿を造営したものという。
(綱島街道 横浜市神奈川区六角橋)
日本武尊が東征の折、この地の領主大伴久応の庵に泊まり、六角の箸を久応に贈ったことに由来するという。往古から東西の街道筋であったが、発展したのは東京横浜電鉄開業以降であり、間もなく横浜市に編入され、市電六角橋線も開業、商店街が形成された。