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「はーい、ようお参り」。
帰り際、若いご住職からこう言葉をかけられた。奥から、言葉だけが届いた。
婦人会で寄った散会時のことで、十数人の中の一人に過ぎない私(たち)だが、何かとてもぞんざいに扱われた気分が残った。別に、なに様でもないのだからいいようなものだが、一日を共に学びに過ごした座を思えば、顔ぐらい出されても良さそうだと思ってしまった。
日常は会釈、時に少し深々とした形での挨拶が多いが、改まって出向いたり、客人を迎えるときの挨拶には心している。送るときも然りで、義母を真似ることから身につけたものだろうか。
伺った先の座敷で、相手が頭を上げるタイミングなど見計らいつつも、丁寧に頭を下げ挨拶を交わすことは、その日その場での自分を立ち上げるためのちょっとした「間」になる気がする。帰り際には、共にした時間に区切りをつける思いがある。出迎え、見送る。心の一区切り、けじめをつけるのに役に立っているのだろうか。まっ、心していこうっと。心は形になって表れるもの…。
怠らで咲いて上がりしあふひかな 才麿
タチアオイが咲くのを見ると、いつもこの句を思い浮かべる。まっすぐに伸びた茎に、花は下から順番に咲いていく。