京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

集まり安らぐ魂

2023年04月07日 | 日々の暮らしの中で
だいぶ上手になったなと聞き耳を立てる我が家のウグイスだが、今日ばかりは鳴き声もひっそりとしたまま。訪れる人もいない雨の1日だった。

一昨日5日のこと。歌人・前登志夫氏の散文集の中から一冊、桜の花びらが舞う『いのちなりけり吉野晩禱』を抜き出した。
装幀が誘ったのだと思うが、遅く夜になってこの日が氏の祥月命日だったことに気づかされた。
2008年4月5日に82歳で亡くなられ、今年は没後15年。
氏の散文が好きで著書をいつも身近に置く者としては、なんのはからい!?の思いがした。没後十五年の企画展があることへも誘われたからなおさらだった。

朝日新聞連載のエッセイ、「短歌現代」掲載の歌論、雑誌や新聞に求められて書かれたエッセイ(2005年5月から2008年2月の間)40篇が収められている。


「ことしも桜が咲き始めた。こんなに清々しく華麗な饗宴が年ごとの春に訪れる火山列島とは何なのか。まさしく神々の住む聖地にほかなるまい。」(「春爛漫 豪華さと空虚」)
「柴の煙に燻し出されたように街へ出ると花見の宴は始まっている。そんなところに春の女神のいないことを、みんな昔から知っているのだろう。春爛漫の装置が豪華であればあるほど、どこか空虚なのにちがいない」

貧しい山里に営まれる人間と自然の織りなす時間。そのなつかしさに「本当のいのちの充実」を感じ、「人間にとってしみじみとした寂寥は、いのちの最も豊かな時間かもしれない」と綴っている。
「美しい村とは人間の心のふるさとが生きて存在する場所」「美しき国とは、貧しい辺境の村里の伝承も語り継がれ、聞き継がれる志のやさしさ、あたたかさであろう」(「山里の村 集まり安らぐ魂」)

現代詩から歌の世界に入り、生涯「木こり」を自称し、「影武者としておのれの出自を語ってきた」。そして、
  つひにわれ吉野を出でてゆかざりきこの首古りて弑(と)るものなけむ  

と詠う。(「この首古りて -山中に死す」)

晩年の静かな山住みの日々、「豊饒なことば」にひたる。
氏の風情の美しさが、そのままことばに映る。品位ある、言葉の固有性のようなものが心に染みてくるのだ。
好きなものへの、言葉の過剰を意識しつつ記しておこう…。企画展に心が動く。
コメント (2)
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