
「みちのく いとしい仏たち」展が龍谷ミュージアムで始まった(9/16-11/19)。

江戸時代。仏師の手になる金箔輝く端正な仏像が各地の寺で祀られる一方で、東北各地には、寺の本堂にではなくお堂や祠、須弥壇の脇に、民家の神棚に、仏師でなく大工や木地師といった人たちの手で刻まれたカミさま仏さまが祀られ、今に守り伝えられてきたという。そうした「民間仏」134点が紹介された。
欠損部分があったり木像に亀裂が入っているものもあるが、素朴、簡素であるがゆえの美しさも感じさせてくれる。
美しさ、やさしさの奥には、厳しい風土や暮らしの中からの人々の祈りが、時に嘆き、ため息も、どれだけ沁みていることだろう。
何でも聞いて欲しいと思って手を合わすカミ仏には、せめてやさしいお顔で受け止めてほしい。
「てえしたことだねのさ」_たいしたことじゃないさ。
この言葉は、みつめた先の微笑みが返してくれていたのだろう。そして心の支えとして辛く寂しい日々も乗り越える…。




左から①「みちのく一のやさしい像」十一面観音立像 ②山の仕事に出る前には必ず手を合わせ、見えない力で守られている実感を林業従事者は語る。如来像と男神像が合体していて、いかなみちのくと言えどこの一体のみ、と ③地獄の裁判官も、鬼も、微かな笑みを含んで
④賽の河原で「ごめんなさい、ごめんなさい」と手を合わせて泣いて謝る童子。

六観音立像。〈無駄を省けば省くほど本質に迫る〉とは、なにかどこかで読んだ記憶だけれど、簡素でありながら、衣の襞を見てもとても美しい彫で素晴らしい。
足の部分を除いて一木で作られているという。薄い薄い像で、6体並んだこの空間、迫るものがあり圧倒された。うち4体は憂鬱な表情を浮かべているが、それも意味のあることだと解説されていた。もう一度前に立ちたい。
かつて東京藝術大学大学美術館で「びわ湖・長浜のホトケたち」を拝見し、できればお堂でと願い、湖北路にその機会を重ねたことがあった。
今回だって、できたら岩手県の宝積寺に六観音立像をというように暮らしの中にその姿を拝観したいものだが、おそらく叶わぬこと。せめて今一度展覧会場へ足を運んでみようと思う。
事情が許せばぜひ、とお勧めいたします。