京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

どこの誰が摘み取った?

2023年09月20日 | 日々の暮らしの中で
見上げなければ目に入らない棗の木。上を向いて歩こう。
         なつめの実青空のまま忘れられ  友岡子郷


『詩経』に出てくるという棗は、早くから日本にもわたってきていたらしい。

鶏のトサカを想わせる花、鶏頭も奈良時代にはすでに渡来していたようだ。
万葉集の巻第七に収められた歌、

   秋さらば移しもせむと我が蒔きし韓藍(からあゐ)の花を誰(た)れか摘みけむ

に、花泥棒みたいなことを単純に詠んでいるのかと想像しクスリとした。
「さらば」は「去ったら」ではなく、「…になったら」の意。「韓藍」は「鶏頭」の花の別名。

〈秋になったら移し染めにでもしようと私が蒔いておいたけいとうの花なのに、その花をいったい、どこの誰が摘み取ってしまったのだろう〉(伊藤博訳)
こうして素直に訳は整うわけだ。が、実はこの歌は譬喩(比喩)歌だった。
だよなあ。誰かが花を摘んでしまった、では終わらないだろう…。
「移し染めにしよう」とは「或る男にめあわせようとすること」だったわ。
つまり、あらぬ男に娘を捕られてしまった親の気持ちをうたっているのだった。

ま、それだけの話だけれど、
よろず(万)の歌(葉)を集めた書だと、早合点はどこへやら、やはり文学だなあと早わかりする。

彼岸の入りを前にお花を立て、堂内を清め…。
その合間に、『万葉集』から秋の歌を拾い読みのひと休み。

一雨あった。秋の空気には程遠い。
コメント (2)
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