京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

こころが遊ぶ場所

2024年01月13日 | 日々の暮らしの中で
絵は絵師のこころの力で描くのだ。絵師の情熱がたぎっていれば、観る者は必ずこころを揺り動かされると信じて疑っていなかった永徳。そして、画面の中の世界を、熱い情念と周到な計算でどう構築するかを考えてきた。(『花鳥の夢』山本兼一)

永徳は父・松栄の絵には「なにかが欠けている」と思っている。
花を描いても鳥、竹林、虎を描いても、端正な構図で丁寧な運筆で精緻だが、生命力に乏しく、地味で、見る者に迫ってくるものが乏しい。人物も、さほど思い入れがなさそうなたたずまい、面持ちにみえる。人を描くには、こころを描かなくてはならないと考えていた。


父は言った。
「こころは観ている者にあるのではないか。観ている者のこころが遊ぶ場所をなくしてしまおうというのか」「押しつけがましい絵はうるさくてかなわぬ。観る者が……気ままにこころをたゆたわせる場所がある方がよかろう」
「おまえの絵は気負いがありすぎて、見ていると疲れることがあった」
永徳は、等伯に描かせた屏風の小下絵を見て「空白が多いな。なぜだ」と問う。
等伯には、観る者が心を自在に遊ばせる場所、気ままにこころをたゆたわせる場所、余白に関しては譲らぬ「絵師としての強い信念」があった。
「あまり書き込み過ぎますと、絵を観ている方の居場所がなくなり、息苦しくなる気がいたしまして…」

『花鳥の夢』を読みながら、文章を書くことと重ねて考えもした。
「言葉の過剰が芸を滅ぼすのです」。山田稔さんの言葉を忘れたくない。


寒い日になりましたが、寺子屋エッセイの集いは今日が新年会でした。
大学入学共通テストと重なった不在者のガンバリを期待しつつ、春よ来い来い。
ひと月先には蕾もこのようにふくらむのを想像して心温め、春を待ちます。

コメント (6)
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