弘法さんや天神さんの市では、茣蓙の上や陶器が並ぶブルーシートの隅に段ボールに入ったままの雛人形を見つけることがある。
目や口の周りや頬の白い塗りは剥がれ落ち、黒髪がそそけた官女雛。15センチほどの高さで、ほとんど重さを感じさせない古雛は、小袖に長袴の装束をまとう。経年で劣化しているはずが、白と朱赤の色が妙に鮮やかに映る。それが傷ましい。それらの雛に宿された思いの強さの名残りと見えなくもない。
娘の幸せを願い、成長を喜びとする家族の中にあったはずの雛。どんな事情があって、春の陽の下にさらされているのか。
もてなし好きだった義母は、雛段の美しさを感嘆しているだけの人ではなかった。どう楽しもうか、思いはいつもそこにあった。近所の女の子たちを招き、やがては娘本人の親しい友人たちに変わっていくが、彼女たちの雛会を歓待し支えた。
あの賑やかさが消えて久しいが、今年も少し多めのでんぶを添えて、華やかな彩りのばら寿司を供えよう。
春を召しませ。
このひな人形たちにも晴れやかな日もあったのでしょうね。
どのような運命でこの市にあるのかは
誰にも分りませんが、
ふとKeiさんの目に留まり幸せとおもいます。
名古屋の大須観音の境内で月一回骨董市が
開かれていますが、
いまはコロナで開かれていないかもしれません。
人の会話もよこちょで耳にしてオモシロガッタリしています。
五月人形も目にしますが、その流離を思うとやはり寂しい気がしますね。
青空文庫に柳宗悦の「京都の朝市」という作品がありまして様子が知れます。
私は「物事にこだわりを持たない」と、自認・公言して断捨離を決行しますが、一つだけ、人形(動物も)の形を残したまま破棄できないのですね、だから、破棄する時は、バラバラに解体し、心でゴメン!と謝りながら焼却(自宅で)しています。
この行為が正しいのかどうかは分かりません、自分自身の行為を正当化させる為か・・とも考えます。
ただ、こんな性格上、人形等を自分で買う事は殆どありません(頂き物は断われないので・・・)。
その代わりが「植物(花)」なのかも知れない・・・と、今、ふと思いました。
どのような形であれ、お気持ちは人形供養につながるのでしょう。
我が家には多くはありませんが、未だに子供たちの犬のぬいぐるみや人形がほんのいくつか残ったままです。
話しかければ応えてくれるでしょうし、命のサイクルは自ずと循環して…。
花のいのちに人間は寄り添えますね。
伊豆の花園に早く春本番が来てほしいですね!