「まったく性格が異なっていたにもかかわらず、血を分けた兄弟のように信じていることができた。一緒にほろんでもいいと、無条件で思っていた二人の男がいた。その一人が彼だった。」
【目を閉じると浮かぶのは、あいつに初めて会った頃のことばかりだ。
16歳の秋。屋上の部室だったか、パンドラだったか、大神宮の地下の雀荘だったか。その隣のバリケードに差し入れを持ちこんだママのいたバンバンだったか。靖国神社だったか、人形の家だったか。軽い心だったか。クラスは一度も一緒にならなかった。たぶん16歳の秋。
お茶の水のMDに泊まり込んでいた夜更け、あいつと正門前に来る屋台のおでん屋によく行った。高校生だとわかってからは、おやじがいつも半額にしてくれた。引き手のところに汚く錆びついたような鉱石ラジオがぶら下がっていて、ひび割れた音で深夜放送がいつも流れていた。“突破あるのみ”が迫っていたある夜、腹いっぱいにしておこうとあいつが言いだし、ヘルメット片手に食べに出た。ラジオから、「♪明日という字は明るい日と書くのねぇ」と「♪圭子の夢は夜ひらく」が流れていた。がんもを食う手を止めた。16歳の高校生が二人、ため息をつきながらその歌を聴いていた。
17歳の秋に二人で作ったガリ版刷りの同人誌に使ったあいつの名が〈塊打無鉄〉。書いた散文のタイトルが「無間地獄」だった、はず。神田のウニタ書房に100部置いてもらったことを唐突に思い出した。全部売れ、あいつが安酒に消した。走ると早く酔えるからと、九段坂を駆け足で3往復して、屋上の部屋でタバコをふかしながらさぼっていた。あいつとおれは、ピースを吸っていた。
あいつは、鮎川信夫の詩「死んだ男」と吉本隆明の詩集だけを読む老成した17歳だった。星霜が過ぎてもなお、あいつはそんなふうにおれの中に生きている。
「知ろうとして知ったら負けると気がついて知りたくはなし知るほかになし」、そんなことば遊びがあったのを思い出す。あいつはそういうのを好んでいた。おかしな17歳だった。】 ・・・略・・・
M氏によって綴られたことで初めて知ることができた弟の高校時代でした。M氏には昔から何度かお会いする機会もありました。この時の仲間にも。こんな生活をしながら、弟は3年間で高校を卒業しました。卒業アルバムに、校庭の朝礼台で演説をぶっている写真が残されています。一年後、大学に進学。ゲバ棒はペンに持ち替えました。倒れた時、カレンダーには10日先の締め切り日が2件書かれてありました。
姉と弟、同じ家庭で育ちながらこの高校時代の異なり様には衝撃を受けます。しかし同時に、彼が「時代」の中で真剣に生きていたことも理解しようと思えるのです。
弟さんはもしお倒れにならなかったらすばらしい一流の作家になっていらっしゃったんですね。
私はなにか熱いものの衝撃を受け、心打たれて感動しております。
それをお姉さんが実際に目を通す機会に恵まれて。その思いをお盆にお披露目。
素敵な演出の思わず拍手です。
それにしても、もっと生きていて欲しい弟さんでしたね。
義妹さんや姪御さんに囲まれて、何度目かのお盆をお迎えなのでしょうが、keiさんの心の中から消えることのない弟さん。
素晴らしいお姉さんに感謝されていることでしょう。
暴力的な性格などではない、3人姉弟の中でもいちばん心も広くやさしさのある、親思いの弟でした。
学生運動の中にどっぷり入り込んだ3年間。
後年、よく話題にしましたが、具体的なことは知らない部分も多く、亡くなってから友人のMさんのおかげで、知ることができました。
ハチャメチャな生活でもあるのですが、そうだったのかと思いますので、未熟でもそれなりの思想の中で生きていたんだなと・・・。
それでもやはり少し悲しくなります。
私達家族を通して彼らとの面識もあって・・・、若い血をたぎらせて何かに燃えていたんですね。
当時、弟とはいえどんな本を読んで何をしていたのか、細かな部分は知る由もありませんでした。
私が高校3年の年、彼が1年に入学でした。高校生で大学紛争に参加していくこの出会いを、
「魂の故郷だ」と懐かしんでくれる友人たちですが、危うい時代でした。
1年に1,2度読むことがあるくらいですが、家族の知ることのなかった顔を想像しながらも、
懐かしく昔を思い出します。 やはりじんわりと涙が出てきてしまいます。