10月31日
本日は久賀島の観光、朝からこの島の公民館にお勤めの女性が案内に来てくださって、まずは宿の周辺をお散歩。
宿の前に広がる浅い湾、ここには昔大きな十字架が投げ込まれ、透明度の高い水の中に数十年前まではその姿を見ることができたと言う。
こちらも宿の近くの小さな神社。
扉を閉ざして既に氏子もいないように見えるが、隙間から覗くと中はきれいに保たれている。
敷地の奥の小さな祠の中にはまさかりのようなものを持った変わった像が。
なにやらいわくありげで、我らがオタク添乗員、大喜び。
こちらのお地蔵様の1人も、わかるだろうか、十字架をかついでいる。
この小さな島には他にも不思議なものがたくさんありそうで、なにやらロマンを感じてしまう。
宿を出発したあとはまた海上タクシーを使って旧五輪教会の見学に行く。
この教会は同じ久賀島にあるが、車よりも海上からの方が簡単に行けるとのこと。
港から見えるオレンジ色の建物は現在の五輪教会。
これができたので古い教会は旧五輪教会と呼ばれるのだが、
こちらは大きな瓦屋根が立派な木造の建物。昔の学校のようにも見えるが、窓の形がハイカラで素敵だ。
中に入ってみると
木造でゴシック風に作り上げた天井が美しい。
木枠の扉や窓もチャーミングだ。
祭壇の真ん中にいらっしゃるのはイエスを抱いた聖ヨゼフ。これはちょっと珍しいのではないかと思ったが、五島では他にもこのような教会がいくつかあった。
もちろんマリア様も側廊にいらっしゃる。
この美しい教会は1881年に地元の大工が作った日本でも最古の木造教会の一つとのこと。しかし老朽化で雨漏りなどがひどく、あやうく取り壊されるところを県の文化財に指定されてなんとか残った、と通りがかった村の方が教えてくださった。
キプロスのトロードスを訪れた時も聞かされたが、古い教会は趣はあっても実際の信者さんには使い勝手が悪いことも多いだろう。そして信者の数が少ないとなれば補修、維持もままならない。信者としてはここの五輪教会のように新しい教会を建てる方がうれしいことが多いよう。
建築物として古い教会を愛でる者とは視点が違うが、実際に教会を守り使い続けていくのは信者さん。教会の存続に関する苦労はこの先も思いやられることが多かった。
五輪教会を見学した後はまた船で田ノ浦に戻り、バスで牢屋の窄(ろうやのさく)殉教記念聖堂へ。
ここは明治元年、五島崩れと呼ばれるキリシタン迫害の発端となったところで、わずか6坪の牢屋に老人子供まで含めた200人以上が8ヶ月も閉じ込められ、そのうち42人が亡くなったという所。
左が昔の牢屋の写真、右の聖堂内の白い部分が牢屋の広さ。
ここに200人とはどんな感じかとツアーの何人かで並んでみたが、どう考えても朝の山手線のラッシュ以上の詰め込み方だとしか思えない。そのような中で8ヶ月も過ごし、死者が42人しかいなかったという方が不思議な感じがするが
犠牲者の碑を見るとやはり子供が多く窒息や渇き、感染症のために亡くなっている。
「蛆に下腹をかまれて死亡」なんて悲惨すぎる。
しかし事件の凄惨さに比べ、聖堂内はとても明るい。
「暗い事件だからこそ記念聖堂は明るくして犠牲者を慰めたいのです」とはこの教区の司祭様から後で聞いた話。
この日は実はここで殉教祭というミサがあり、田ノ浦から信者さんたちとここまで歩いて参加する予定だった。しかし風が強く、雨も降るかもしれないということで巡礼は中止、ミサは田ノ浦の浜脇教会で行われることになった。
こちらがその浜脇教会とミサ後の教会内部。
ミサの時にはこの教会がいっぱいになり、2階のバルコニーまで信者さんであふれた。
お年寄りから子供まで、晴れ着こそ着ていないが女性はベールをかけ、お説教を聴き、聖歌を歌う。ここではキリスト教が生きていると感じられる。
この日参列した信者の多くは、しかしこの殉教祭のために久賀島以外からいらしたそうだ。
ミサの後、船で久賀島をあとにした。
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本日は久賀島の観光、朝からこの島の公民館にお勤めの女性が案内に来てくださって、まずは宿の周辺をお散歩。
宿の前に広がる浅い湾、ここには昔大きな十字架が投げ込まれ、透明度の高い水の中に数十年前まではその姿を見ることができたと言う。
こちらも宿の近くの小さな神社。
扉を閉ざして既に氏子もいないように見えるが、隙間から覗くと中はきれいに保たれている。
敷地の奥の小さな祠の中にはまさかりのようなものを持った変わった像が。
なにやらいわくありげで、我らがオタク添乗員、大喜び。
こちらのお地蔵様の1人も、わかるだろうか、十字架をかついでいる。
この小さな島には他にも不思議なものがたくさんありそうで、なにやらロマンを感じてしまう。
宿を出発したあとはまた海上タクシーを使って旧五輪教会の見学に行く。
この教会は同じ久賀島にあるが、車よりも海上からの方が簡単に行けるとのこと。
港から見えるオレンジ色の建物は現在の五輪教会。
これができたので古い教会は旧五輪教会と呼ばれるのだが、
こちらは大きな瓦屋根が立派な木造の建物。昔の学校のようにも見えるが、窓の形がハイカラで素敵だ。
中に入ってみると
木造でゴシック風に作り上げた天井が美しい。
木枠の扉や窓もチャーミングだ。
祭壇の真ん中にいらっしゃるのはイエスを抱いた聖ヨゼフ。これはちょっと珍しいのではないかと思ったが、五島では他にもこのような教会がいくつかあった。
もちろんマリア様も側廊にいらっしゃる。
この美しい教会は1881年に地元の大工が作った日本でも最古の木造教会の一つとのこと。しかし老朽化で雨漏りなどがひどく、あやうく取り壊されるところを県の文化財に指定されてなんとか残った、と通りがかった村の方が教えてくださった。
キプロスのトロードスを訪れた時も聞かされたが、古い教会は趣はあっても実際の信者さんには使い勝手が悪いことも多いだろう。そして信者の数が少ないとなれば補修、維持もままならない。信者としてはここの五輪教会のように新しい教会を建てる方がうれしいことが多いよう。
建築物として古い教会を愛でる者とは視点が違うが、実際に教会を守り使い続けていくのは信者さん。教会の存続に関する苦労はこの先も思いやられることが多かった。
五輪教会を見学した後はまた船で田ノ浦に戻り、バスで牢屋の窄(ろうやのさく)殉教記念聖堂へ。
ここは明治元年、五島崩れと呼ばれるキリシタン迫害の発端となったところで、わずか6坪の牢屋に老人子供まで含めた200人以上が8ヶ月も閉じ込められ、そのうち42人が亡くなったという所。
左が昔の牢屋の写真、右の聖堂内の白い部分が牢屋の広さ。
ここに200人とはどんな感じかとツアーの何人かで並んでみたが、どう考えても朝の山手線のラッシュ以上の詰め込み方だとしか思えない。そのような中で8ヶ月も過ごし、死者が42人しかいなかったという方が不思議な感じがするが
犠牲者の碑を見るとやはり子供が多く窒息や渇き、感染症のために亡くなっている。
「蛆に下腹をかまれて死亡」なんて悲惨すぎる。
しかし事件の凄惨さに比べ、聖堂内はとても明るい。
「暗い事件だからこそ記念聖堂は明るくして犠牲者を慰めたいのです」とはこの教区の司祭様から後で聞いた話。
この日は実はここで殉教祭というミサがあり、田ノ浦から信者さんたちとここまで歩いて参加する予定だった。しかし風が強く、雨も降るかもしれないということで巡礼は中止、ミサは田ノ浦の浜脇教会で行われることになった。
こちらがその浜脇教会とミサ後の教会内部。
ミサの時にはこの教会がいっぱいになり、2階のバルコニーまで信者さんであふれた。
お年寄りから子供まで、晴れ着こそ着ていないが女性はベールをかけ、お説教を聴き、聖歌を歌う。ここではキリスト教が生きていると感じられる。
この日参列した信者の多くは、しかしこの殉教祭のために久賀島以外からいらしたそうだ。
ミサの後、船で久賀島をあとにした。
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