8月8日
朝一番、町はずれの小高い丘の上にあるペンジケント遺跡へ。
ペンジケントは5世紀頃から8世紀のアラブ人侵入まで栄えたというソグド人の都市。
ここまでいくつも見てきた遺跡を築いたソグド人はシルクロードの商業で栄えた民族で、その勢力範囲の中心はサマルカンドやブハラにあった。王国ではあったが商人の国なので絶対王政ではなく、王様といえども商人組合の長ぐらいの地位で、「政治的結束より商売優先。だからアラブ人にあっさり負けちゃったんですよね、きっと」とは自称前世ソグド人の弁。
サマルカンドやブハラがソグド人の後にも次々と都市を築かれたのに対して、ペンジケントは8世紀以降は放棄されて、おかげで1933年に発見されるまで遺跡は埋もれたままだった。その後は1950年代からロシアの考古学者たちに発掘されている。
とは言え遺跡の発掘、特に日干し煉瓦の遺跡は崩れやすいので、掘って研究したら埋め戻すのが基本。
だから我々の目に映るのはでこぼこした地面だけ。
知識がないとこれを楽しむのは難しい。
ほとんど唯一建物らしいのは拝火教神殿の跡。
ソグド人はゾロアスター教徒だったが商人の国なので異教にも寛容で、すぐ隣にはヒンドゥー寺院やら仏教寺院もあったとか。
丘の端に立つと眼下に現在のペンジケントの町が広がる。
小さな町だが緑が多くて気持ちがいい。
タジクの子供たちはソグド人のことを学校で教わるのかと聞くと、「教科書に名前がちょっと出てくるだけでほとんどのタジク人はソグドのことは知りません。皆さんの方がずっとくわしいです」とタジク人ガイドさんはくやしそう。
アラブ人に滅ぼされたので、イスラム回帰中のこの国ではあまり触れたくないのではないかと言う。
遺跡を見て回っていると現在発掘作業中の現場に出くわした。
作業員は地元の学生アルバイトで、教授が食事中なのでみんな日陰でだべっている。
声をかけると助手らしい英語を話せる子が壁画が出たと見せてくれた。
おお、確かに波型装飾がはっきり見える!
裕福なソグド人の住居は華やかな壁画で飾られていて、出土した主なものはエルミタージュに持って行かれたが、ドゥシャンベの国立博物館にもあると言うので楽しみだ。
見物しているうちに責任者のロシア人教授が戻ってきて、とたんに学生たちが働き出すのがおかしい。
暑い夏の発掘は大変じゃないですか、と聞くと「早朝から作業しているから大丈夫。ウズベキスタンでの発掘に比べれば全然楽」なのだそうだ。
遺跡の入り口には小さな博物館がある。
土器や文字の書かれた木簡が並べられているが、貴重なものは壁画ともどもロシアだろう。
ペンジケントを出たら元来た道をアイニまで戻り、南のドゥシャンベを目指す。
川沿いには緑があるが、周りの山は茶色い岩山ばかり。
この古いミナレットがあったのはなんという町だろうか。
ドゥシャンベに入る手前にはまた高い山脈があり、この山越えのアンゾーブ峠にも標高2635メートルにトンネルができている。
イランが作ったこのトンネルはしかし悪名が高い。というのも地質学者が水が出ることを警告したにもかかわらず強行してしまったとかで、実際2本のトンネルの片方は川になっている。
トンネルに入ると中は照明がなく真っ暗。道はデコボコで、途中からは路面が水浸し。しかも狭い坑内に対向車もあり、通気もよくないので5.8キロの道のりが長い。
出た時にはほっとしたが、「今日はたいして水が出ていなかった」と添乗員はちょっとがっかりした様子。ひどい時には本当に洪水のようになるのだとか。
トンネルを出ると道はぐんぐん標高を下げていく。
1時間ほどして川のほとりまで下りると車はストップ。
と言うのもここで洗車をするため。
ドゥシャンベに入る車はすべて事前にきれいにしなければならないという決まりがあるのだそうで、汚いままのところを発見されると罰金を取られるとか。
若いお兄ちゃんが洗剤も使ってきれいにして、一台300円ほどの料金。
ここに日本の洗車機を持ってきたらいい商売になるんじゃないだろうか。
さらに山を下りていくと途中にはこぎれいな別荘やプールや遊園施設のついたリゾートホテル、撮影禁止の豪華な大統領の別荘などが立ち並んでいる。標高900メートルにあるドゥシャンベは暑いので、山の中に避暑地があるわけだ。
どんな人が別荘を持てるのかと聞くと「政府のお役人」とは、さもありなん。
避暑地から30分ほどでようやくドゥシャンベ市内。
ソ連時代に作られた首都は広い道の両側に大きな木が立ち並んでなかなかきれいだ。
さすがに首都には普通のホテルがある。
ペンジケントからドゥシャンベまで、昼食休憩を入れて8時間弱かかった。
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朝一番、町はずれの小高い丘の上にあるペンジケント遺跡へ。
ペンジケントは5世紀頃から8世紀のアラブ人侵入まで栄えたというソグド人の都市。
ここまでいくつも見てきた遺跡を築いたソグド人はシルクロードの商業で栄えた民族で、その勢力範囲の中心はサマルカンドやブハラにあった。王国ではあったが商人の国なので絶対王政ではなく、王様といえども商人組合の長ぐらいの地位で、「政治的結束より商売優先。だからアラブ人にあっさり負けちゃったんですよね、きっと」とは自称前世ソグド人の弁。
サマルカンドやブハラがソグド人の後にも次々と都市を築かれたのに対して、ペンジケントは8世紀以降は放棄されて、おかげで1933年に発見されるまで遺跡は埋もれたままだった。その後は1950年代からロシアの考古学者たちに発掘されている。
とは言え遺跡の発掘、特に日干し煉瓦の遺跡は崩れやすいので、掘って研究したら埋め戻すのが基本。
だから我々の目に映るのはでこぼこした地面だけ。
知識がないとこれを楽しむのは難しい。
ほとんど唯一建物らしいのは拝火教神殿の跡。
ソグド人はゾロアスター教徒だったが商人の国なので異教にも寛容で、すぐ隣にはヒンドゥー寺院やら仏教寺院もあったとか。
丘の端に立つと眼下に現在のペンジケントの町が広がる。
小さな町だが緑が多くて気持ちがいい。
タジクの子供たちはソグド人のことを学校で教わるのかと聞くと、「教科書に名前がちょっと出てくるだけでほとんどのタジク人はソグドのことは知りません。皆さんの方がずっとくわしいです」とタジク人ガイドさんはくやしそう。
アラブ人に滅ぼされたので、イスラム回帰中のこの国ではあまり触れたくないのではないかと言う。
遺跡を見て回っていると現在発掘作業中の現場に出くわした。
作業員は地元の学生アルバイトで、教授が食事中なのでみんな日陰でだべっている。
声をかけると助手らしい英語を話せる子が壁画が出たと見せてくれた。
おお、確かに波型装飾がはっきり見える!
裕福なソグド人の住居は華やかな壁画で飾られていて、出土した主なものはエルミタージュに持って行かれたが、ドゥシャンベの国立博物館にもあると言うので楽しみだ。
見物しているうちに責任者のロシア人教授が戻ってきて、とたんに学生たちが働き出すのがおかしい。
暑い夏の発掘は大変じゃないですか、と聞くと「早朝から作業しているから大丈夫。ウズベキスタンでの発掘に比べれば全然楽」なのだそうだ。
遺跡の入り口には小さな博物館がある。
土器や文字の書かれた木簡が並べられているが、貴重なものは壁画ともどもロシアだろう。
ペンジケントを出たら元来た道をアイニまで戻り、南のドゥシャンベを目指す。
川沿いには緑があるが、周りの山は茶色い岩山ばかり。
この古いミナレットがあったのはなんという町だろうか。
ドゥシャンベに入る手前にはまた高い山脈があり、この山越えのアンゾーブ峠にも標高2635メートルにトンネルができている。
イランが作ったこのトンネルはしかし悪名が高い。というのも地質学者が水が出ることを警告したにもかかわらず強行してしまったとかで、実際2本のトンネルの片方は川になっている。
トンネルに入ると中は照明がなく真っ暗。道はデコボコで、途中からは路面が水浸し。しかも狭い坑内に対向車もあり、通気もよくないので5.8キロの道のりが長い。
出た時にはほっとしたが、「今日はたいして水が出ていなかった」と添乗員はちょっとがっかりした様子。ひどい時には本当に洪水のようになるのだとか。
トンネルを出ると道はぐんぐん標高を下げていく。
1時間ほどして川のほとりまで下りると車はストップ。
と言うのもここで洗車をするため。
ドゥシャンベに入る車はすべて事前にきれいにしなければならないという決まりがあるのだそうで、汚いままのところを発見されると罰金を取られるとか。
若いお兄ちゃんが洗剤も使ってきれいにして、一台300円ほどの料金。
ここに日本の洗車機を持ってきたらいい商売になるんじゃないだろうか。
さらに山を下りていくと途中にはこぎれいな別荘やプールや遊園施設のついたリゾートホテル、撮影禁止の豪華な大統領の別荘などが立ち並んでいる。標高900メートルにあるドゥシャンベは暑いので、山の中に避暑地があるわけだ。
どんな人が別荘を持てるのかと聞くと「政府のお役人」とは、さもありなん。
避暑地から30分ほどでようやくドゥシャンベ市内。
ソ連時代に作られた首都は広い道の両側に大きな木が立ち並んでなかなかきれいだ。
さすがに首都には普通のホテルがある。
ペンジケントからドゥシャンベまで、昼食休憩を入れて8時間弱かかった。
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