こんばんわ。
今日は、昨日アップした24系「出雲」の番外編として、14系寝台客車の「出雲」とその前身である「いなば」の写真をアップしたいと思います。
まずは「いなば」です。
愛称から歴史を辿ると、元々「いなば」は、広島~鳥取や大阪~鳥取を結ぶ準急・急行に使用されていた愛称で、特急「いなば」としてはこの東京~米子間の寝台特急が初めてです。
また、列車から歴史を辿ってみると、東京~大阪に運転されていた急行「銀河」がその起源となります。「銀河」は新幹線博多開業前まで2往復が設定されていましたが、寝台・座席併結の「銀河2号」を現在の「銀河」として存置し、寝台専用急行であった「銀河1号」を出雲市まで延長の上、特急に格上げすることにしました。
昨日の「出雲」の時にも記しましたが、当時、東京から山陰方面への直通列車がこの「出雲」1往復のみであり、線路の有効長の関係から編成も増結することができなかったため、大変指定が確保しづらい列車でありました。そして、これを補完する列車として誕生したのが「いなば」であったわけです。
※ちなみに、「銀河1号」時代に併結していた紀伊勝浦発着の急行「紀伊」も、この改正において特急に格上げとなり、「いなば」と東京~名古屋間において併結運転されました。
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昭和53年9月 東京駅にて スハネフ14使用の特急「いなば」
「いなば」の車両は、新幹線博多開業により廃止された14系「あさかぜ」の車両を充てています。「紀伊」との併結運転ですから、14系がもっとも適任であったと言えるでしょう。
写真は、「いなば」としては晩年の頃。昭和53年10月、発展的解消により「いなば」の愛称は消滅いたしました。よって、イラストのトレインマークも準備されませんでした。
そして、昭和53年10月の大改正において、米子~出雲市間を延長し、名称も「出雲」に改められることになり、元からある24系(後の25型)の「出雲」と合わせて2往復体制となります。
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昭和55年8月 山陰本線 荒島~揖屋間にて 14系使用の「出雲」
この頃になると、ブルートレインにもすべてイラストのマークが採用されています。妻面がアッサリしており、左上に煙突が見えるので、スハネフ14形であることが判ります。
この頃の牽引機はDD51型でしたが、まだ全国的にヘッドマークが復活していなかったため、大変残念でした。その後、「出雲」が廃止になる際に、オリジナル色のDD51牽引の「出雲」が脚光を浴びたことは記憶に新しいですね。
ちなみに、「いなば」~「出雲」への流れを汲む列車は、終始EF58が運用についており、また、「紀伊」との併結であったことも災いしてか、最後までヘッドマークを掲げることはありませんでした。
その後、一旦は消滅した「いなば」の愛称もディーゼル特急として復活し、列車としての「出雲」は発展的解消として「サンライズ出雲」に引き継がれています。
しかし、伝統であったディーゼル機牽引の「出雲」がなくなってしまったことは非常にショックでした。昔は貧乏旅行しかできなかったので、普通列車の「山陰」を利用していましたが、今となっては1回でも「出雲」に乗っておけば良かったと悔やまれます。
24系「出雲」 → http://diary.jp.aol.com/marutetsu/354.html
今日は、昨日アップした24系「出雲」の番外編として、14系寝台客車の「出雲」とその前身である「いなば」の写真をアップしたいと思います。
まずは「いなば」です。
愛称から歴史を辿ると、元々「いなば」は、広島~鳥取や大阪~鳥取を結ぶ準急・急行に使用されていた愛称で、特急「いなば」としてはこの東京~米子間の寝台特急が初めてです。
また、列車から歴史を辿ってみると、東京~大阪に運転されていた急行「銀河」がその起源となります。「銀河」は新幹線博多開業前まで2往復が設定されていましたが、寝台・座席併結の「銀河2号」を現在の「銀河」として存置し、寝台専用急行であった「銀河1号」を出雲市まで延長の上、特急に格上げすることにしました。
昨日の「出雲」の時にも記しましたが、当時、東京から山陰方面への直通列車がこの「出雲」1往復のみであり、線路の有効長の関係から編成も増結することができなかったため、大変指定が確保しづらい列車でありました。そして、これを補完する列車として誕生したのが「いなば」であったわけです。
※ちなみに、「銀河1号」時代に併結していた紀伊勝浦発着の急行「紀伊」も、この改正において特急に格上げとなり、「いなば」と東京~名古屋間において併結運転されました。
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昭和53年9月 東京駅にて スハネフ14使用の特急「いなば」
「いなば」の車両は、新幹線博多開業により廃止された14系「あさかぜ」の車両を充てています。「紀伊」との併結運転ですから、14系がもっとも適任であったと言えるでしょう。
写真は、「いなば」としては晩年の頃。昭和53年10月、発展的解消により「いなば」の愛称は消滅いたしました。よって、イラストのトレインマークも準備されませんでした。
そして、昭和53年10月の大改正において、米子~出雲市間を延長し、名称も「出雲」に改められることになり、元からある24系(後の25型)の「出雲」と合わせて2往復体制となります。
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昭和55年8月 山陰本線 荒島~揖屋間にて 14系使用の「出雲」
この頃になると、ブルートレインにもすべてイラストのマークが採用されています。妻面がアッサリしており、左上に煙突が見えるので、スハネフ14形であることが判ります。
この頃の牽引機はDD51型でしたが、まだ全国的にヘッドマークが復活していなかったため、大変残念でした。その後、「出雲」が廃止になる際に、オリジナル色のDD51牽引の「出雲」が脚光を浴びたことは記憶に新しいですね。
ちなみに、「いなば」~「出雲」への流れを汲む列車は、終始EF58が運用についており、また、「紀伊」との併結であったことも災いしてか、最後までヘッドマークを掲げることはありませんでした。
その後、一旦は消滅した「いなば」の愛称もディーゼル特急として復活し、列車としての「出雲」は発展的解消として「サンライズ出雲」に引き継がれています。
しかし、伝統であったディーゼル機牽引の「出雲」がなくなってしまったことは非常にショックでした。昔は貧乏旅行しかできなかったので、普通列車の「山陰」を利用していましたが、今となっては1回でも「出雲」に乗っておけば良かったと悔やまれます。
24系「出雲」 → http://diary.jp.aol.com/marutetsu/354.html