枕草子 第百二十三段 関白殿黒戸より出でさせたまふ
関白殿、黒戸より出でさせたまふとて、女房の、ひまなくさぶらふを、
「あな、いみじのおもとたちや。翁を、いかに笑ひたまふらむ」
とて、分け出でさせたまへば、戸口近き人々、いろいろの袖口して、御簾ひき上げたるに、権大納言の、御沓とりて、はかせたてまつりたまふ。
いとものものしく、きよげに、よそほしげに、下襲の裾長く曳き、所狭くてさぶらひたまふ、「あなめでた。大納言ばかりに、沓とらせたてまつりたまふよ」と見ゆ。
(以下割愛)
関白殿が黒戸からお出になられるということで、中宮様の女房が隙間なく伺候しているのを、
「やあ、美人揃いの女房方よ。この年寄りを、どんなに笑いものにするのかな」
などと言って、間をかき分けるようにしてお出ましになるので、戸口に近い女房たちが、色合い華やかな袖口を見せて、御簾を引き上げますと、権大納言(関白の三男、伊周)が、関白殿の御沓を取ってお履かせになられる。
その様子は、大変重々しくて、美しくて、礼儀正しくて、下襲の裾を長く引いて、あたりを圧するようにして付き添っていらっしゃるのは、「まあすばらしい。大納言ほどのお方に、沓をお取らせ申し上げになるなんて」と拝せられます。
山の井の大納言、それ以下のご子息たちでお身内ではない人々(中宮とは異腹の兄弟)などが、黒いものをひき散らしてあるように(四位以上の人が着用した袍の色が黒っぽい色であった)、藤壺の塀のきわから、登華殿の前までひざまずいて並んでいるところに、関白殿はすっきりとした優雅なお姿で、御佩刀の具合などをお直しになりながら、少し足を止めておられると、宮の大夫殿(関白道隆の弟である藤原道長。当時従二位権大納言中宮大夫で二十九歳)は清涼殿の戸の前にお立ちなっておられたので、「大夫殿はひざまずかれることはないだろう」と思っていましたが、関白殿が戸口から少しお出ましになられると、その途端にひざまずかれたのは何とも驚きましたわねぇ、「やっぱり、前世にお積みになった御善業がどれほど大きかったのか」と関白殿をお見申し上げた時は、実に感銘深いことでございました。
女房の中納言の君が、忌日ということで、殊勝らしくお勤めをしておられるので、
「お貸し下さい、その数珠をしばらく。お勤めをして関白さまの結構なご運にあやかりたいものですから」と、数珠を借りようと若い女房たちが集って笑うけれど、中宮様のお辛い気持ちを思うと切ないのですが、それでも、まあ結構なことではあります。
中宮様も、この騒ぎを耳にされて、
「あの世で成仏されるほうが、関白としてこの世におられるよりはましでしょう」
と言って、微笑んでおられるのを、私はもう、うっとりとしてしまって、そのお姿に見とれておりました。
大夫殿が関白殿をひざまずいて迎えられた時のことを、関白殿の威光として繰り返し申し上げましたのですが、中宮様は、
「いつもの、贔屓の人ね」
と、お笑いになられたものです・・・。
それにしましても、大夫殿のこのあとの栄華のありさまを中宮様がご覧になられたならば、私が大夫殿を賞嘆したのも道理とお思いになられることでしょうに。
それほど長い文章ではありませんが、実に多くのことが書かれていて興味深い章段だといえます。
最初の部分は、中宮定子の父道隆の絶頂期の一場面を描いています。
そして、後に藤原氏の全盛期を築き上げる道長が登場しています。そして、「ひざまずく・・・」というくだりは、道長が若くから兄たちに対しても遠慮することのない豪胆な人物として知られていたことがうかがえます。
なお、「大夫殿」と敬称をつけているのは、道長が氏の長者に上り詰めた後にこの文章が書かれたためのようです。
中頃の、「女房の中納言の君・・・」からの部分は、中宮の父である関白道隆が亡くなって間もない頃の逸話のようです。
ここには、少納言さまが道長を随分評価しているらしい様子が中宮により語られています。この部分などを指して、少納言さまと道長が恋人関係にあったという説もあるようですが、個人的には否定的に考えています。
ただ、この頃中宮職の上司であり、道長という人物と接する機会も多く、少納言さまが高く評価していたことは事実でしょうから、知己の間柄であったことは間違いないでしょう。
そして、最後の部分は、中宮定子が亡くなられた後での追想になっています。
この章段全体が、かなり後に書かれたようですが、少納言さまのお気持ちはいかばかりだったのでしょうか。
関白殿、黒戸より出でさせたまふとて、女房の、ひまなくさぶらふを、
「あな、いみじのおもとたちや。翁を、いかに笑ひたまふらむ」
とて、分け出でさせたまへば、戸口近き人々、いろいろの袖口して、御簾ひき上げたるに、権大納言の、御沓とりて、はかせたてまつりたまふ。
いとものものしく、きよげに、よそほしげに、下襲の裾長く曳き、所狭くてさぶらひたまふ、「あなめでた。大納言ばかりに、沓とらせたてまつりたまふよ」と見ゆ。
(以下割愛)
関白殿が黒戸からお出になられるということで、中宮様の女房が隙間なく伺候しているのを、
「やあ、美人揃いの女房方よ。この年寄りを、どんなに笑いものにするのかな」
などと言って、間をかき分けるようにしてお出ましになるので、戸口に近い女房たちが、色合い華やかな袖口を見せて、御簾を引き上げますと、権大納言(関白の三男、伊周)が、関白殿の御沓を取ってお履かせになられる。
その様子は、大変重々しくて、美しくて、礼儀正しくて、下襲の裾を長く引いて、あたりを圧するようにして付き添っていらっしゃるのは、「まあすばらしい。大納言ほどのお方に、沓をお取らせ申し上げになるなんて」と拝せられます。
山の井の大納言、それ以下のご子息たちでお身内ではない人々(中宮とは異腹の兄弟)などが、黒いものをひき散らしてあるように(四位以上の人が着用した袍の色が黒っぽい色であった)、藤壺の塀のきわから、登華殿の前までひざまずいて並んでいるところに、関白殿はすっきりとした優雅なお姿で、御佩刀の具合などをお直しになりながら、少し足を止めておられると、宮の大夫殿(関白道隆の弟である藤原道長。当時従二位権大納言中宮大夫で二十九歳)は清涼殿の戸の前にお立ちなっておられたので、「大夫殿はひざまずかれることはないだろう」と思っていましたが、関白殿が戸口から少しお出ましになられると、その途端にひざまずかれたのは何とも驚きましたわねぇ、「やっぱり、前世にお積みになった御善業がどれほど大きかったのか」と関白殿をお見申し上げた時は、実に感銘深いことでございました。
女房の中納言の君が、忌日ということで、殊勝らしくお勤めをしておられるので、
「お貸し下さい、その数珠をしばらく。お勤めをして関白さまの結構なご運にあやかりたいものですから」と、数珠を借りようと若い女房たちが集って笑うけれど、中宮様のお辛い気持ちを思うと切ないのですが、それでも、まあ結構なことではあります。
中宮様も、この騒ぎを耳にされて、
「あの世で成仏されるほうが、関白としてこの世におられるよりはましでしょう」
と言って、微笑んでおられるのを、私はもう、うっとりとしてしまって、そのお姿に見とれておりました。
大夫殿が関白殿をひざまずいて迎えられた時のことを、関白殿の威光として繰り返し申し上げましたのですが、中宮様は、
「いつもの、贔屓の人ね」
と、お笑いになられたものです・・・。
それにしましても、大夫殿のこのあとの栄華のありさまを中宮様がご覧になられたならば、私が大夫殿を賞嘆したのも道理とお思いになられることでしょうに。
それほど長い文章ではありませんが、実に多くのことが書かれていて興味深い章段だといえます。
最初の部分は、中宮定子の父道隆の絶頂期の一場面を描いています。
そして、後に藤原氏の全盛期を築き上げる道長が登場しています。そして、「ひざまずく・・・」というくだりは、道長が若くから兄たちに対しても遠慮することのない豪胆な人物として知られていたことがうかがえます。
なお、「大夫殿」と敬称をつけているのは、道長が氏の長者に上り詰めた後にこの文章が書かれたためのようです。
中頃の、「女房の中納言の君・・・」からの部分は、中宮の父である関白道隆が亡くなって間もない頃の逸話のようです。
ここには、少納言さまが道長を随分評価しているらしい様子が中宮により語られています。この部分などを指して、少納言さまと道長が恋人関係にあったという説もあるようですが、個人的には否定的に考えています。
ただ、この頃中宮職の上司であり、道長という人物と接する機会も多く、少納言さまが高く評価していたことは事実でしょうから、知己の間柄であったことは間違いないでしょう。
そして、最後の部分は、中宮定子が亡くなられた後での追想になっています。
この章段全体が、かなり後に書かれたようですが、少納言さまのお気持ちはいかばかりだったのでしょうか。