雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

雪高う降りて

2014-06-21 11:00:07 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十九段  雪高う降りて

雪高う降りて、今もなほ降るに、五位も四位も、色うるはしう若やかなるが、袍(ウヘノキヌ)の色いと清らにて、革の帯の形つきたるを、宿直姿にひきはこへて、紫の指貫も、雪に冴え映えて濃さまさりたるを着て、衵の、紅ならずばおどろおどろしき山吹を出だして、傘をさしたるに、風のいたう吹きて、横ざまに雪を吹きかくれば、少し傾けて歩み来るに、深き沓・半靴などの膝巾(ハバキ・脚絆)まで、雪のいと白うかかりたるこそ、をかしけれ。

雪が高く降り積もって、今もなお降り続いている時に、五位でも四位でも、容姿端麗で若々しい男性が、袍の色がとてもあざやかで(四位は浅紫、五位は浅緋)、皮の帯(束帯姿の時につける石帯)の跡が付いているのを、宿直姿の指貫の中にたくしこんで、紫の指貫も、雪に一層引き立って濃さを増しているのを着て、衵(アコメ・上着のすぐ下に着る服)は、紅か、そうでなければ目の覚めるような山吹色のものを出だし衣にして、傘を差しているところに、風が強く吹きつけ、横ざまに雪が吹きかかると、傘を少し傾けて歩いてくるが、深靴や半靴などの膝巾までが、雪がたいそう白く付いている姿などは、とても風情があります。


容姿端麗な若者がご贔屓の、少納言さまの面目躍如といった章段です。
「君達」とはいわず、「五位も四位も」と表現していますから、必ずしも良家の若君に限っていないのかもしれません。しかし、若くして五位とか四位になっているとすれば、いわゆる受領階級では無理でしょうから、やはり少納言さま、容姿端麗に加えて家柄にも注文がありそうです。
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細殿の遣戸を

2014-06-20 11:00:58 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十段  細殿の遣戸を
  
細殿の遣戸を、いと疾う押し開けたれば、御湯殿の馬道より下りて来る殿上人、萎えたる直衣・指貫の、いみじう綻びたれば、色々の衣どものこぼれ出でたるを、押し入れなどして、北の陣ざまに歩みゆくに、開きたる戸の前を過ぐとて、纓をひき越して、顔にふたぎて去(イ)ぬるも、をかし。

細殿の遣戸を、朝、とても早くに押しあけたところ、御湯殿の馬道(メダウ・二つの建物の間に厚板を渡し廊下のようにした所。必要に応じ板を取り外し、馬などを通した)より下りてくる殿上人は、着崩れした直衣や指貫が、ひどくはだけていて、その下の色々な着物もはみ出しているのを、たくしこんだりしながら、北の陣に向かって歩いて行くのに、細殿の開けられた戸の前を通るというので、纓(エイ・冠の後ろに長く垂れている部分)を肩の前へ廻して、顔に覆いをして去っていくのが、可笑しい。


宮中での形式ばった様子ではなく、殿上人がふと息抜きをしている姿を描写しています。
この時、少納言さまは自室からぼんやりと外を見ていたのでしょうか。それともご自身もまた宿直明けだったのでしょうか。
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ちょっと一息 ・ 「あはれ」なりけり

2014-06-19 11:00:15 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
     枕草子  ちょっと一息 


「あはれ」なりけり

清少納言が仕えた中宮定子(後に皇后)は、中関白家の姫君として栄華の絶頂を経験しますが、やがて、父道隆の死去と共に不遇となり、道長の娘彰子にその地位を奪われていきます。そして、第二皇女誕生と共に崩御。数え年で二十四歳という短い生涯を閉じています。

清少納言は、中関白家の絶頂も衰退も間近で見ているはずです。定子の悲哀も痛いほど感じ取っているはずです。しかし、枕草子に登場する定子に悲壮感などほとんど見られません。何が清少納言をそうさせたのか、色々な意見が発表されていますが、本当はどうなのでしょうか。私は、それが「少納言さまの心意気」だと感じ取っているのですが。

第二百二十三段には、
『御手にて書かせたまへる、いみじうあはれなり』
という部分があります。
これが、枕草子全体を通して、清少納言が定子を描くのに、「あはれ」という言葉を、悲哀を表す言葉として用いている唯一の例です。
まなじりを決するようにして筆を取っていた清少納言が、ふと漏らしてしまった本音だとすれば、まことに「あはれ」なかぎりです。
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岡は船岡

2014-06-18 11:00:37 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十一段  岡は船岡

岡は、
船岡。片岡。
鞆岡は、笹の生ひたるが、をかしきなり。
談の岡。人見の岡。


岡は、
船岡。片岡。
鞆岡は、笹が生えているのが、いいのです。
談(カタラヒ)の岡。人見の岡。



いずれも、山城と大和に実在するもののようです。
果たして、少納言さまが実際に見られたのかどうか分かりませんが、どれも古歌などに登場するもののようです。
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降るものは雪

2014-06-17 11:00:57 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十二段  降るものは雪

降るものは、
雪。
霰。
霙は憎けれど、白き雪のまじりて降る、をかし。


降るものは、
ゆき。
あられ。
みぞれは憎らしいけれど、白い雪が混じって降るのは、情緒があります。



少納言さまのお好みといいますか、情緒のあるものを挙げていると思うのですが、あられというのは意外な気もします。
また、みぞれといっても、雨に近いみぞれは憎らしくて、雪に近いみぞれは良いとしているあたり、なかなか繊細なところを伝えてくれています。
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雪は檜皮葺いとめでたし

2014-06-16 11:00:25 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十三段  雪は檜皮葺いとめでたし

雪は、檜皮葺、いとめでたし。すこし消えがたになりたるほど。
まだいと多うも降らぬが、瓦の目毎に入りて、黒う丸に見えたる、いとをかし。
時雨・霰は、板屋。
霜も、板屋、庭。


雪は、檜皮葺(ヒハダブキ)の屋根に降るのが、とても良い。そして、少し消えかかって檜皮が見えるところなど。
まだそれそれほど多く降らないで、瓦の目の一つ一つに吹き溜まって、瓦が黒い丸に見えるのが、とても良い。
しぐれ・あられは、板葺の屋根に降るのが良い。
霜も、板葺の屋根や庭が良く似合う。



いずれも少納言さまらしい繊細な観察ですが、しぐれ・あられは、板葺の屋根に降るのが良いというのは、激しく打ち付ける音がお気に召したのでしょうか。
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日は入日

2014-06-15 11:00:34 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十四段  日は入日

日は、
入日。入り果てぬる山の端に、光、なほとまりて、赤う見ゆるに、淡黄ばみたる雲の、たなびきわたりたる、いとあはれなり。


日は、日没の頃。沈みきった後の山の端に、光はまだ残っていて、その辺りが赤く染まって見え、薄黄色に染まった雲が、たなびき広がっているのが、とても情緒に満ちている。


第一段の「春は、あけぼの・・・」を彷彿させる文章です。
下手な現代訳など無視していただいて、少納言さまの感性を直接味わっていただくのが一番良いと思います。
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月は有明の

2014-06-14 11:00:49 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十五段  月は有明の
 
月は、
有明の、東の山際に、細くて出づるほど、いとあはれなり。


月は、
明け方、東の山際に、細い姿を見せるのが、とても情緒があります。



有明の月というのは、日の出の後にも西に残っている下弦の月のことを指します。
少納言さまがここで描写している月は、太陽と競うように東の山に姿を見せる細い月です。おそらく、三日月の頃なのでしょう。
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運命紀行  華やかに哀しく

2014-06-14 08:00:00 | 運命紀行
          運命紀行
               華やかに哀しく

好き嫌いは別にして、戦国時代の人物のうち、最も華やかでドラマチックな活躍を見せた人物となれば、やはり豊臣秀吉ではないだろうか。
貧しい家に生まれ、戦国の世にあって武力的に優れていたわけではないが、その智謀と胆力を駆使して出世街道を駆け上ってゆく生涯は、真偽入り乱れながらも、数多くの物語を世に送り出している。
その秀吉が、最晩年にあたって、残された生命力を振り絞るようにして催したのが、「醍醐の花見」と今に伝えられる大規模な花見会であった。

慶長三年(1598)三月十五日、京都醍醐寺に続く山麓で催された花見の宴は、秀頼、北政所、淀殿らの一族をはじめ、女房衆や女中らを中心に千三百人を召し従えた壮大なものであったという。
諸大名らも召集されていたが、彼らは、伏見城から醍醐寺に至る沿道の警護や、会場のあちらこちらに設えられた茶屋の運営にあたっていて、花見の宴に招かれたのは女性ばかりで、男性といえば、秀吉、秀頼の父子のほかは、前田利家ただ一人であったという。

招かれた女性たちの輿の順番は、第一番が北政所、二番が西の丸殿、三番目が松の丸殿、四番目が三の丸殿、五番目が加賀殿、六番目が前田利家夫人となっていた。贅の限りを尽くした輿と衣装は、満開の桜さえ圧倒するほどであったという。
第一番目の北政所とは、もちろん正妻ねねのことである。二番目の西の丸殿とは、秀頼生母である淀殿である。三番目の松の丸殿とは、京極竜子である。四番目の三の丸殿とは、今回の主人公であるが、織田信長の六女である。五番目の加賀殿は、前田利家の娘である。そして、最後に輿を連ねていたのは、利家夫人のまつである。
前田利家が男性としてただ一人宴の客として招かれており、夫人のまつは、秀吉の正妻や側室たちと同列に扱われていたのである。この頃の秀吉が、利家をいかに頼りにしていたかよく分かるが、まつもまた、豊臣家の家政に深くかかわっていたらしいことが窺える出来事といえる。

この宴席において、盃を受ける順番をめぐってトラブルがあったというエピソードが残っている。本稿の別の作品で既に紹介しているが、改めて書かせていただく。
秀吉から妻妾に下される盃の順番については、第一番の北政所についは誰にも異存はなかった。それは、正室であるからということであるが、それにも増して、家中での存在感や秀吉の信頼感が図抜けていたからである。
問題は誰が二番目かということであった。輿の順序や、秀頼の生母であるということから、淀殿にすれば当然自分だと考えていたはずである。しかし、これに真正面から苦情を申し出た女性がいたのである。松の丸殿京極竜子である。
この女性は、それこそ数えきれないほどの秀吉の妻妾や単に関係のあっただけの女性たちの中で、抜群の美貌の持ち主であったという。

竜子は、はじめ若狭国守護武田元明に嫁ぎ二男一女を儲けている。元明は、織田信長から三千石の知行を得ていたが、本能寺の変の後、若狭一国を与えるとの約束を得て明智光秀に味方した。結果は明知方の惨敗となり、元明は討ち取られ竜子も捕らわれた。しかし、秀吉はその美貌に引かれ側室としたのである。
竜子は、単なる美貌だけの女性ではなく才色兼備のうえ気位は強く、時には秀吉さえも手におえないこともあったらしい。竜子は名門京極氏の生まれであるが、京極氏は淀殿の血筋である浅井氏の主筋にあたり、従姉妹の関係でもある淀殿の下風に立つことなど許せなかったのである。
京極氏は、いわゆる守護大名から幕末まで大名として残った数少ない家柄の一つであるが、それには、竜子の働きが極めて大きかったのである。
また、後年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、秀頼の息子国松が処刑されるという悲劇があるが、この時、遺体を引き取って葬ったのは竜子なのである。

さて、淀殿と竜子の争いは、再現できるものなら見てみたいと思うほど激しいものであったらしいが、この騒動を鎮めたのは利家夫人のまつであったと伝えられている。
つまり、まつは、豊臣家の家政において、淀殿らの秀吉の側室さえも抑えるだけの発言力を有していたのである。
最晩年の秀吉は、前田利家・まつ夫妻を誰よりも頼りにしていたと考えられる。
利家は、秀吉に半年ばかり後れて世を去っているが、その直後から時代は関ヶ原の合戦への流れが速まり、戦後処理の一環として、徳川家康がまつを人質として江戸に移すことに拘ったのは、この夫婦の豊臣家中における存在の大きさを熟知していたからであろう。

秀吉は、この盛大な花見の宴の五か月後に世を去っている。
秀吉が、わが国の歴史上傑出した英雄の一人であることは間違いないとしても、この頃の秀吉の言論や行動には、壮年期と同一人物とは思えないほどの衰えを見せていたようだ。その秀吉が、朝鮮半島出兵中の中で催したこの催しは、何を思い何を目的として行われたものであったのか。
ただ言えることは、この催しは単なる花見というには規模が大きく、四百年余を経た今日ても、歴史上の出来事として伝えられるほどのものとなったことは確かである。


     ☆   ☆   ☆

豊臣秀吉にとって、醍醐の花見はその生涯の最期を飾るにふさわしい大イベントであったことは紛れもない事実である。
その行事の持つ意味や目的などということは、いろいろ詮索する方がスケールが小さいだけで、秀吉にとっては花見の宴そのものが目的であって、生涯を締めくくる豪華で華やかな、自分へのご褒美のようなものであったのかもしれない。

しかし、その宴席に晴れがましい席を与えられた人たちにとっては、果たしてどのようなものであったのだろうか。
贅を尽くした舞台装置に、桃山文化の最高峰といえる衣装や茶道具などに囲まれて、接待役は天下のそうそうたる大名たちだったのである。
ある人は、晴れがましさに身を震わせていたかもしれないし、ある人は、秀吉権力の頂点を過ぎようとしていることを感じ取っていたかもしれない。さらに言えば、脇役の接待役を申し付けられた諸大名たちは、秀吉の衰えを承知している人も少なくないはずで、密かに将来への布石を考えていたのかもしれない。

四番目の輿で登場した三の丸殿は、この花見の宴をどのような心境で過ごしたのであろうか。
先に述べたように、宴席では淀殿と竜子との派手なバトルがあったようだが、三の丸殿については、この席に限らず秀吉側室としての特別なエピソードも伝えられていないようだ。
信長の娘である三の丸殿は、秀吉にとって勲章のような存在であったはずで、粗略に扱われることなどなかったはずであるが、特別自我を通すようなこともなかったらしい。

三の丸殿の生年は未詳である。生母は、信長の嫡男・信忠の乳母である慈徳院である。
信長には、確認されるだけで男子・女子共に大勢の子が存在する。
三の丸殿は六女となっているが、本当は他にも異母姉が存在する可能性もある。
伝えられている姉妹を列記してみると、長女は徳川家康の嫡男・松平信康に嫁いだ徳姫。次女は蒲生氏郷の妻・冬姫。三女は筒井定次の妻・秀子。四女は前田利家の嫡男・利長に嫁いだ永姫。五女は丹羽長重の妻・報恩院。そして、六女が三の丸殿であるが、この他にも、何女ともはっきりしない女子が五人以上はいる。

このうち、四女と五女の生年は、天正二年(1574)とされているので、三の丸殿の生年はおそらく天正三、四年の頃と推定され、信長の没年が天正十年であるが、そこまではくだらないと思われる。
例えば、仮に天正四年の生年と考えれば、信長が天下人としての地位を固めつつある時であった。石山本願寺をはじめ、敵対する勢力はまだまだ多かったが、前年には、権大納言に叙され、さらに右近衛大将にも就いている。この地位は征夷大将軍にも匹敵するもので、形式的には武家の棟梁の地位を公認されたといえる。もっとも、この種の権威の必要性を認めていなかった信長は、すぐに職を辞している。
そして、ほぼ同時期の頃であるが、織田家の家督を信忠に譲っている。もちろん、実権は信長が握ったままであるが、後継者を確定させたわけで、信忠の乳母である三の丸殿の母・慈徳院の存在感も大きくなったことであろう。
三の丸殿は、織田一族の中でも、最も恵まれた環境の中で誕生したのである。

しかし、やがて信長は本能寺の変で自刃する。おそらく三の丸殿が七歳の頃と考えられるが、信忠も同時に倒れており、慈徳院の悲しみはいかばかりであったか。
慈徳院というのは、この時出家したのちの号であるが、この後、信忠の菩提を弔ったという。
天下は激しく動揺したが、瞬く間に羽柴(豊臣)秀吉が全国平定を果たしていく。
三の丸殿が秀吉の側室になった時期は分からないが、秀吉が全国を掌握する天正十八年(1590)前後のことであろうか。
あるいは、蒲生氏郷の養女として輿入れしていることから、織田氏一族の安泰を図る為であったとすれば、もう少し早い時期かもしれない。いずれにしても、三の丸殿は十五歳前後であろう。
側室に入るということは、近代のいわゆる妾になるということとは全く次元の違う話なので、通常の結婚と大きく変わらない程度に考えるべきだと思われる。しかし、その婚儀成立には三の丸殿の意向など全く配慮されないものであったことも確かである。

三の丸殿の心境はともかく、秀吉の側室ともなれば、それも信長の息女ということなので、秀吉が軽んじることなどなかったと思われ、淀殿ほどではないとしても、望めば大抵のものは手に入れることができる生活であったと想像される。なお、三の丸殿という呼び名は、伏見城の三の丸に住んだことに由来する。
秀吉の側室としての生活は十年近くになったのだろうか。やがて、秀吉もこの世を去った。
三の丸殿は、その翌年に、二条昭実に再度嫁いでいる。継室としてであるが、昭実の前妻は信長の養女であったことや、豊臣家との関係が深かったことからの縁組らしい。
二条昭実は、摂関家の一つである二条家の当主である。関白職を秀吉に譲ったことでも知られているが、その後、後水尾天皇のもとでも関白職に復帰するなど、徳川家康との関係も良く、公卿としては超一流の人物である。

三の丸殿は、信長が天下人として認知された頃に娘として生まれ、父が倒れた後も、秀吉という、こちらは正真正銘の天下人の側室となり、その死後には、公卿の頂点に立つ昭実の継室となっている。
そのいずれの時期も、栄華に満ちた日々を送ったように思われるが、残されている消息は極めて少ない。
与えられる運命をそのまま受け止めて、水が流れるように静かな日々を送っていたように思われてならない。

三の丸殿は、二条家継室として、慶長八年(1603)二月、静かに世を去った。享年は、まだ二十歳代後半であったという。

                                                      ( 完 )





 
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星は昴

2014-06-13 11:00:05 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百三十六段  星は昴

星は、
昴。牽牛星。太白星。
よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。


星は、
すばる。ひこぼし。ゆふづつ(金星)。
よばひ星(流れ星)は、少し良いです。尾なんかがなければ、もっと良いのですが。



少納言さまの時代にも、多くの星に名がつけられていたようです。もっとも、これはわが国だけでなく、世界中で行われていたことのようてす。
最後の、よばひ星とは流れ星を指しますが、続く文章を見ますと、彗星を指しているのかもしれません。
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