昔、近所の工務店の息子にK君という男の子がいた。自分よりも3~4つ年長であり野球は上手く、手先は器用で家業で出た廃材をつかっては車や飛行機をよく作っていた。彼のうちは仕事柄、材木の廃材が倉庫に積み上げられており、それを燃料に使って薪風呂を焚いていた。うちはガス風呂だったので薪で沸かす風呂はもの珍しかったのである。彼の家の倉庫の中には遊ぶところやアイテムがふんだんにあった。現代ではこの倉庫内の環境は危険だらけと評価され、きっと関係者以外立ち入り禁止にされるだろう。しかし大らかな時代である。この危険な環境こそが子供達にとってはスリリングで蜜の味なのである。当時は楽しくも今ではゾッとすることがあった。
その後、あの亡くなった大工さんの奥さんは近所で牛乳かヤクルトか何かの配達をして生計を立てていたようである。しかし自分が中学になっても近所にいる彼らと顔をあわすことはなかった。そんなある夜のことであった。近所から火の手が上がり、うちの2階の窓からも火事の火柱が手に取るように見えた。消防車が数台駆けつけ、所狭しとホースを路地にはわせた。火元はあの彼のうちだった。火は程なくして鎮火したが彼のうちは全焼した。火の不始末が原因のようであったが、どんな火の不始末かは知る由もなかった。彼らはそれ以来、どちらかに引っ越していったようであったが以後の消息はまったく知らない。彼らは今どうしているのだろうか? 半世紀前の話である。
子供にはあまりしがらみというものがないものである。当時自分は近所の子供達にくっついていっては、よくその子の家にあがりこんで遊んでいた。おおらかな時代だったろうが、昼間はたいていの家の門戸はあけてあり、鍵のかかっている家は余り多くはなかったと記憶している。あの「ノーナン火傷」(脳軟化症)の息子さんの家にも時々出入りして遊んだ記憶がある。しかしさすがにお父さんの具合が悪くなってからは上がりこんだことはなかった。子供心に家人がいない時、その子と一緒に上がりこむのが暗黙のルールだったような気がする。しかし以降、小学校の高学年になって自分は転校したので近所の子供達と遊ぶ機会はなくなった。
その後、随分しばらくはその「ノーナン火傷」の大工さんは来院しなかったようである。ほどなくしてその大工さんが亡くなった話を聞いた。確かお子さんは3人くらいだったと思われるが、一番上の息子さんは自分と同年齢くらいであったと思う。彼は少し精神発達遅滞があったようだが、当時良く一緒に遊んだ記憶がある。昭和30年代の話だが、彼のうちは近所の家と家の間の狭い路地を入った陽当たりの悪い裏手に建てられた木造の小さなバラックだった。当時は戦後にバタバタと建てられたであろうと思われるこのような家が随所に存在していた。因みに後年知ったが、その大工さんの死因は「脳軟化症」であったそうだ。なんだヤケドじゃなかったんだ(笑)。
昔、先代亡父が診療していたころの話である。たぶん自分は小学校1~2年だったと思うが、診療所の玄関に男性が倒れていた。父に「大変だ!人が倒れているよ」と告げたところ、父は「いいんだ、そのまま寝かせておきなさい。「ノーナン火傷」なのでしょうがない」と言った。なんだか訳の分からない病気で重症なのかなと思った。その人は近所に住む大工さんであった。かなりお酒を頻繁に飲む人だと父から聞いていたので「お酒を飲みすぎるとヤケドする病気なんだ」「もしかしたらお燗をつける時に熱湯でヤケドするんだ」と理解していた。でも火傷(ヤケド)の人なのになぜ診療所の玄関に寝ていたのか不思議であった。その大工さんは夕方には奥さんに付き添われ帰宅していった。
7月に警察から電話があった。「〇〇さんという方が自宅で亡くなられて発見されました。吉田クリニックの診察券をお持ちだったので何か治療中の重篤なご病気でもあったのでしょうか?」と。これは照会の電話である。しかしお名前に記憶がない。いそいでカルテを見てみると過去に風邪で1回来たきりの高齢の患者さんだった。その旨伝えて電話を切った。
今年の夏は熱中症でお亡くなりになる方がかなり多い。部屋を閉め切ったまま冷房をかけていない状態で発見されるそうである。暑さを感じない、汗をかかない、喉の渇きを感じないというのが危険信号である。冷房で寒ければ窓を開放し、喉の渇きの有無ではなく30分に1回毎の水分補給を心がけてほしいものである。
今回の「隠密指令」シリーズでは、個人情報保護の立場から、登場人物の年齢、性別、また治療疾患などの設定を最初から架空のものに変更いたしております。しかしながら登場人物のセリフや話の流れは実在のものでありますので、個人の特定には至りませんが、当該患者さんがお読みになられた場合、誤解を受ける可能性もあり、特段、個人情報保護法には抵触しないものの、諸般の事情を勘案いたしまして、この「隠密指令」シリーズを自主規制し、シリーズ半ばではございますが続編を中止させていただくことになりました。このシリーズをお楽しみ頂いておられましたならまことに残念ではありますが、中止させていただくとともにここにお詫びを申し上げます。
機嫌の良い時は、自分が旅行した時の写真などをみせてくれたし、すでに亡くなられたご主人の写真をみせてくれたりもした。話しぶりでは独居の寡婦だと思っていた。まあ診療には従ってくれなかったが、ご高齢なので急な方向転換は拒否反応がでるであろうし、徐々にこちらのペースにもって行ければいいと考えていた。ところがある日、突然、同居している兄という人が来院してきた。いままで同居の家族、兄弟の話は一切出てこなかったので突然の出現に驚いた。しかも複数名いるご家族の構成や事情は複雑だった。兄は妹のことで相談があると話しを始めた。
近所にお住まいの高齢の女性である。高齢といってもカクシャクとして、よく遠出もされている。うちのクリニックには血圧や糖尿などで通院されていた。確かに話があちこちに飛んで会話にまとまりがないのが気になっていたがキャラクターのせいであろうと思っていた。また検査や治療内容をご自分で決定しこちらの指示に従ってくれないことがよくあった。例えば「今日は糖尿の薬はいらないの。調子いいからしばらく飲まないわ」とか「血糖の採血? この前やったからいらないわよ」といった調子であった。そのため血圧も糖尿もきちんとコントロールできておらず、診療もやりにくかった。