この話は何度も書いたが、私がこの地に住まいを構えてから半世紀以上が経過した。
この間、環境としての大変化は、田園地帯の中に集落があったという光景がすっかり逆転し、いまや住宅を始め、商業施設やその他の建造物に取り囲まれて、ひっそりと田園が残っているという感じに逆転したことだ。
さらにここ2,3年は、建造物は建っていないものの、耕作が放置された田がやたら目立つようになったことだ。これは私の実感のみならず、2,3日前の「朝日」が報じるところによれば、どうやら全国的な傾向らしい。
その要因は、零細農家の高齢化に伴い、それを継承する耕作者がいないまま、耕作が打ち切られる例と、そして、このコロナ禍による米需要の低下(外食の減少によるところが大とか)による米価の値下がりが続いていることらしい。
この後者の要因が、前者の要因に拍車をかけているのであろうか。
自分のブログを見たら、この8月10日にもそれに関連した記事を以下のように載せている。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210810
今日改めて書くのは、いわばこの田の後日談である。
この田の付近は、岐阜駅に出るためのバスや自転車、それに月2回ほどのクリニック通いで比較的よく通る。
この田は、耕作されている折りには、この付近でも有数の美田で、収穫時期には、穫れた稲を稲架掛けにして天日干しにしていた。
この稲架掛けの写真は2018年10月12日のものである。
おそらくそれ以降、耕作は行われていない。
以下の写真は、2021年8月1日のものである。
この田は、春先には他の田と同様にきれいに地ならしが行われる、水も張られるので、すわ、今年は耕作か?と期待を起こさせるのだが、やはり田植えは行われない。
それにしても、雑草も生えず、きれいな地肌を晒しているので、強力な除草剤かなんかで処理しているのかなぁと思っていた。同時に、あまり強力な除草剤など使用すると、耕作を再開するときに害があるのでは・・・・と心配したりもした。
昨年6月
本年6月
今週はじめのことである。クリニックに薬をもらいに行くためにここを通りかかった。誰かがこの田にしゃがみこんで作業をしている。それを見て、私の強力な除草剤云々の思い入れは杞憂であったことがわかった。
なんとこの女性、田に生えた草を一本一本手作業で抜いているのだ。この写真で見る限り、周辺から抜き始め、いまはもう中心の一部を残すのみとなっている。
何ごとにも面倒くさがり屋の私にとっては、まるでシジフォスの苦行のような話ではないか。
一般的にいっても、今どき、田の草を一本一本引くというのはまるで非効率、非現実的で無為に等しい行為といえよう。
しかし、実際にそれを眼前でしている人がいるのだ。しかも、何となく彼女の姿は揺るぎないもの、内から突き上げる声に忠実に従っているかのような安定したものに見えてくるではないか。
休耕しているからといって田に草を繁殖させないというのも美学としてわかる。しかしそれにしても、草刈り機もあれば、それこそ除草剤だってあるではないか。にもかかわらず、手作業による一本一本の草抜き・・・・。
これはなんであろう。やはり、弥生以来稲作に馴染んできた土の民に内在している自然との向き合いの伝統なのだろか。
なにか、軽々しい気持ちで覗き見てはならない秘儀の現場に行き合せてしまったような、負い目のような気持ちを背負いながら家路についた。
【付】今日の昼餉・・・・「和風焼き蕎麦」