きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

模擬裁判

2008-12-07 | 巷の話題
昨日NHKを見ていたら、裁判制度の模擬みたいなものをやっていた。
殺人事件の被告を死罪か無期にするかを3日に渡って考え、話し合うのである。

私は小さい頃から目立つのがキライで、自分だけ人と異なる考えを持つ事を非常に怖れていた。
それは幼稚園時代のひどいイジメのせいである。ひどくイジメられる経験を持つと、人とは自分に自信がなくなり、どうしていいか分からなくなるので、周りの人と同じような考えにしておけば無難に過せる(=イジメられない)、と思うようになる。したがって、「自分がどう感じるか」より「他人がどう感じているか」を優先させるようになる。

しかし、これは「思いやり」ではない。あくまでもへりくだった従属関係である。自分を殺してそれ以上虐められないために他人にへりくだっていくのである。それが心地よい関係であるはずがない。相手はどんどん図に乗っていく。しかし当の本人は「これでイジメられなくて済む=うまく行っている」と思い込んでいる。周りも「あの子達は仲がいい」と信じている。やがて従属関係は客観的にはイジメに変わっている。でも、誰も気がつかない。当の本人は自分がどう感じるか、を捨ててしまっているから。
(これはイジメだけでなく、廃れきった男女関係でもよくあるパターン)
そんな訳で、私は幼稚園時代にあれだけイジメられながらも、誰にも通告することもないまま、「やめてくれ!」はもちろん「行きたくない!」と言う気持さえ表に出せないまま、淡々と通園して当たり前のようにイジメられ続けたのであった。


話は逸れてしまったが、だから小学生の私は「自分がどう思うか」と言う思考回路がないので、何か多数決をとるたびに、後だしジャンケンっぽくして大勢手が上がっている方にいつも手を上げた。自分と言うものを持たず大衆に媚びていこうというのが私の生活の知恵であり、敵から逃れる手段でもあった。それは今でも変わらない。

そんな私が裁判員になった所で一体何ができるのだろう。
昨日見たこの話し合いの場でもおそらく、一度も自分の意見を述べる事もないだろうし、何か質問さえする気がないだろう。
誰かががああ言えば「そうだなぁ」と思い、違う人が「そうじゃないよ」と意見を述べれば「それもそうかもしれないなぁ」と思うだけである。

現にその裁判の模擬も、「被害者の子供は極刑を望んでいます」と言われれば「当然だな、命を持って命を償え!」と思うし、「被告の母親は死刑になったら自殺してしまうかもしれません、そう言う例もありました」と裁判官がアドバイスをすれば同情もするのである。

この模擬番組では、裁判員(もちろん模擬だから実際の事件ではない被告も演技)の心の葛藤(本当に自分の手で極刑を与えていいものだろうか)なども綴られていて、これからいよいよどんな判決に至るのか・・・と言う所で、お風呂から上がってきたkekeが、当たり前のようにメチャイケに番組を切り替えて終了。

「あのぉ・・・さっきの見てたんですけど。」
「メチャイケの方が面白いよ。」

TVは警察の服を着たメチャイケメンバーが、「あのぉ~私結婚しました」と言う鈴木サリナを無視して走り出していく場面であった。
その場面を見た後で、今更番組を切り替える意欲もムードもなくなった。

kekeの話では、そう言う殺人事件でもあるスジの人が関わっている事件に遭遇してしまって、裁判員が命まで狙われるケースがアメリカではあるらしい。そんなの勘弁してほしい。くじ引きで命を狙われるような目には遭いたくない。(もっともそう言う恐ろしい人は塀から二度と外には出てこないでほしいとも思うが)

裁判はプロか、本当に人を裁こうという意思がある人だけを集めてやってくれればいいのに。
私は人が決めた判決にもう二度と文句は言わないつもりだから。

しかし、あの後、模擬裁判はどうなったのだろうか。
やはりkekeを押しのけて、続きを見ればよかった。思い出したら、ますます消化不良である。