きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

完璧な正しさは正しくはない

2015-12-07 | 母子家庭だから思うこと
今日はいつもより20分も早く出勤。

でも2年前はこの時間に家を出ていた。
これでは自転車で通勤するのと同じ時間じゃないか、と思いながら。

いつしかどんどん家を出る時間が遅れ、起きるのは6時前なのにシャワーを浴びたり弁当を作ったりして、いつもギリギリになっていた。

今日は20分も早く家を出たから、道行く人の顔ぶれも違う。
たまたま駐車場の近くで工事があり、遠回りをしなければならなかったが、それも早く出勤しているから余裕のよっちゃん。

私はいつしか「今日だけは今日だけは」と思いながら、ほぼ毎日遅刻ギリギリで飛び込んでいたのだ。心底早く家を出ようと思えばこうして出られるのに。。。余裕があればこうしてゆっくり安全運転で行けるのだ。


なんて心に傲慢さがあったのだろう。
私は今まで無事故だったのをいいことに傲慢になっていたのだ。
本当にそれがよく分かった。

あんなに「正しい運転は教習所の運転だ!」と言いながら、そうでない運転をいつしかしていたのである。自分の自覚がないままに。。。

傲慢さというのはこうしていつしか忍び寄ってくるものなのだ。


「常に正しいことは、むしろ誤りなのだ。」

私はそう思った。

私は離婚をした。

それまでは「離婚をする人間なんてどこか欠陥があるのだろう」と思っていた。口にこそ出さなかったが、心の底ではそういう傲慢さをどこかで持っていたのだ。

子供のこともそうだ。
「子供がひきこもるなんて、何か欠陥があったのだろう」と心のどこかで思っていた。

周りの人間もそうだ。
だから、私がkekeのことで相談しても、「一人親で甘やかせていたんだろう」と言う奴が何人もいた。それはとても悔しかった。


悔しい。

自分ではそうだとは限らないと言いたいのに言えない。
それはとても悔しい。

でも、そういう世間と、それまでの自分も同じなのである。

自分が間違えるたびに、それをひきかえに私は優しい気持も与えてもらえたと思うことにしよう。


たまに何の間違いもなくすばらしい人生を歩んでいる人がいる。
でも、その人とは何か話しても違和感を感じることがある。

何が悪いわけでもない、思いやりも有る素敵な人。
でも何かバカにされているような気がして、いつも会いたいとは思わない・・・・。

それはその人がある種の弱さや優しさを持っていないからかもしれない。
それがもしも弱点であるとするならば、常に正しいことも、弱点になるのである。


だから私は、失敗も含めてこれから起こる全部を、自分で引き受ける覚悟をする。
その時その時選んだ、全ての行動を、これからの人生に役立てれば、何一つ失敗なんてないのだ、と信じる。

なぜなら、失敗を経験することに意味があるからなのだ。
それだけ心の容量がまた大きくなるのだから。。。。



そして、今はどんな相手であっても、自分が変わればまた変わっていくのだろう。

私がいつしか教習所の運転でなくなったように悪く変わることもあるだろうし、それを越えて、また変わることもあるだろう。
(希望を捨てるな、自分。)