津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

誕生御祝い

2008-09-03 21:03:45 | 歴史
 東福門院和子(徳川秀忠・女)に若宮(高仁親王)が誕生した一報は、寛永三年十一月廿一日注進の為の小早によってもたらされた。翌日には早速お祝いの為の太刀献上の手配がなされているが、この内容が面白い。

 今度 中宮様 若宮様御誕生ニ付、方々より御太刀上り申はすニ候ハヽ、能被聞合、只今被成御上候長光ノ御太刀ノさや、青い(葵)ノ丸ノ内をけし、きくニ仕直シ可申御意ニ候事

 徳川家からの下賜の太刀でもあろうか、さやにある「葵の御紋」を細工して、「菊の御紋」に作り変えようという話である。
 十一月廿六日、親王誕生の祝儀の使者として、三渕昭知(細川藤孝の兄・藤英の息)が命じられ未の下刻に出発する。
 十二月廿七日の「日帳」には次のように有る。
 中宮様御誕生■■御祝儀、去十九日ニあかり、権大納言(烏丸光広)殿よりノ御文、并御進物ノ目録・寺嶋平兵衛言上ノ状、又知首座よりノ状、何も三宅勘三郎を以上ケ申候事
当然あの太刀も「御進物の目録」に載せられているのだろう。
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「ゑもんこう」なる人

2008-09-03 13:03:57 | 歴史
 細川光尚に殉死した人の中に、山中又兵衛・氏連という人がある。
 
 慶安三年正月月十六日 於・熊本 二百石
 嫡子太郎八三歳ニ而跡目・明暦二年病死(十二歳?)
 又兵衛弟ニ被為拝領跡目之事慶安三年七月十一日六丸君より御家老中ニ被成下御印之覚書
 「山中又兵衛知行弐百石嫡子山中太郎八ニ遣之候事」     (綿考輯録-巻65)

 殉死の理由は次のように伝えられている。
            
 阿部一族誅伐事件にあたり阿部隣家の栖本又七郎は「御意」を破って討ち入り高名するが、同じく隣家であった又兵衛は「御意」を守り「出合不申」おれば「人口悪敷聞へ候間、又兵衛是非に不及次第と存候而御暇願申候処、光直君聞召(中略)山中か御意を守りしハ其筈の事也とて御留メ被遊候、又兵衛是をふかく有かたく奉存候に付、御追腹仕候となり」      (綿考輯録・巻60)

 この山中又兵衛は、山中鹿之助の末流だとされる。
その召し出しに係わる文書を「熊本県史料・近世編第一」の「部分御舊記 御書附并御書部七(十三)」から見つけ出した。(p421)
忠利が六(光尚)に宛てた文書である。又兵衛が光尚子飼いの臣であることが理解できる。

    以上
一筆申候ゑもんこう弟大喜多又兵衛と申者其方へ奉公させ度申由ゑもんのこう
申候間召出仕可被申候 爰元易事無之候 上様大坂へ去廿五日御成ニ而候 
我々下國も程有る間敷候 猶國より可申候 恐々謹言

    (寛永十一年)壬七月廿八日       忠利御判
       
         進候

 「ゑもんこう」「ゑもんのこう」がよく分からない。「ゑもん」は衛門ではないか、奥勤めの女性ではないかと推察するのだが、なんとも材料不足である。
膨大な史料を目を凝らして眺めていると、こんな幸せに出っくわす。
                  
 
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