寛永十五年(1638)七月十三日、三齋の娘・お萬の舅烏丸光廣が亡くなった。
八月廿一日付の三齋の忠利宛書状に次のように記している。(抜粋)
烏丸大納言殿儀笑止千萬絶言語迄ニ候 院様より腫物之刻内薬を
醫師ニ被 仰付あたへさせ被成候 此薬ゆへと申候天下道具にて
候つるニおしき事ニて候
この時期の書状でよく目にする「笑止千萬」は、現代の「非常にこっけいなさま」という意味ではなく、「たいそう気の毒なさま」である。
烏丸光廣は正式には権大納言である。慶長五年の幽齋の田邊城籠城に際しては、開城の為の勅使を勤めた。同七年、幽齋により古今伝授を受ける。慶長十四年七月におきた、侍従猪熊教利による女官密通事件に連座して勅勘をこうむったが慶長十六年勅免となった。
八月廿一日付の三齋の忠利宛書状に次のように記している。(抜粋)
烏丸大納言殿儀笑止千萬絶言語迄ニ候 院様より腫物之刻内薬を
醫師ニ被 仰付あたへさせ被成候 此薬ゆへと申候天下道具にて
候つるニおしき事ニて候
この時期の書状でよく目にする「笑止千萬」は、現代の「非常にこっけいなさま」という意味ではなく、「たいそう気の毒なさま」である。
烏丸光廣は正式には権大納言である。慶長五年の幽齋の田邊城籠城に際しては、開城の為の勅使を勤めた。同七年、幽齋により古今伝授を受ける。慶長十四年七月におきた、侍従猪熊教利による女官密通事件に連座して勅勘をこうむったが慶長十六年勅免となった。