寛永六年(1629)正月十五日「日帳」にある記事である。
かゝみ善右衛門尉むすこ三太郎召連候而、登城にて被申候は、いまた三太郎御目見え不仕せ候間、懸御目候とて登城仕候 左様ニ御座候へハ、私手前も不罷成候間、監物(米田是季)殿へ奉公仕せ申度候、如何可有御座候やと被申候、此方よりノ返事ニ、いまた御目見えも不仕候ハゝ、可然之由申候、并兄むすこ、是は如御存知御目見え仕せ候而、御岩様(岩千代)様へ御奉公申度候由、■せかれ申之由、善右衛門尉申候、是は御目見え仕候儀ニ候間無用之由、返事申候事
船頭の総元締めともいうべき、鏡善右衛門の息子の仕官に付いてである。兄は松井寄之に、弟は米田監物に仕官したいと言っている。善右衛門の立場であれば、本藩での仕官も可能であろうと思われるのだが、なかなか面白い判断である。
元和三年(1617)生まれの岩千代は、この年13歳である。
かゝみ善右衛門尉むすこ三太郎召連候而、登城にて被申候は、いまた三太郎御目見え不仕せ候間、懸御目候とて登城仕候 左様ニ御座候へハ、私手前も不罷成候間、監物(米田是季)殿へ奉公仕せ申度候、如何可有御座候やと被申候、此方よりノ返事ニ、いまた御目見えも不仕候ハゝ、可然之由申候、并兄むすこ、是は如御存知御目見え仕せ候而、御岩様(岩千代)様へ御奉公申度候由、■せかれ申之由、善右衛門尉申候、是は御目見え仕候儀ニ候間無用之由、返事申候事
船頭の総元締めともいうべき、鏡善右衛門の息子の仕官に付いてである。兄は松井寄之に、弟は米田監物に仕官したいと言っている。善右衛門の立場であれば、本藩での仕官も可能であろうと思われるのだが、なかなか面白い判断である。
元和三年(1617)生まれの岩千代は、この年13歳である。