いつの頃のものかはきとしない一通の書状が在る。忠利から「榊飛騨」に宛てられたものだが、「榊飛騨」とは榊原職直のことであろう。忠利の私信とも思われる、切々とした言い様が胸に迫る。
畢竟はや五十ニあまり申候間幾程之命も無之候 無左とも人間の作法はつれ候てハいきたるかひハ更ニ無之と人毎ニ申候も尤ニて候 此心さへ候へハ何國之國々ニ居候ても能候 作法はつれ候てハいきたるかひハ無之大身ほとうらめしき儀候と我等をはしめて朝夕存候間可御心安候 いけんかましき書状かヽせ候もはつかしく候間火中被成候可被下候事
忠利は前日父・三齋を口切の振舞を行っている。
自筆にて可申候へとも三齋被参て亭主ふりニ草臥申候間才兵衛ニ書せ進候 と、三齋の接待に草臥れ果てたと結んでいる。
忠利は、寛永十八年(1641)56歳 で亡くなるが、「五十ニ(50に)あまり申候」とあるところから、死の数年前のことであることが分かる。忠利の心情が吐露されている貴重な書状である。
畢竟はや五十ニあまり申候間幾程之命も無之候 無左とも人間の作法はつれ候てハいきたるかひハ更ニ無之と人毎ニ申候も尤ニて候 此心さへ候へハ何國之國々ニ居候ても能候 作法はつれ候てハいきたるかひハ無之大身ほとうらめしき儀候と我等をはしめて朝夕存候間可御心安候 いけんかましき書状かヽせ候もはつかしく候間火中被成候可被下候事
忠利は前日父・三齋を口切の振舞を行っている。
自筆にて可申候へとも三齋被参て亭主ふりニ草臥申候間才兵衛ニ書せ進候 と、三齋の接待に草臥れ果てたと結んでいる。
忠利は、寛永十八年(1641)56歳 で亡くなるが、「五十ニ(50に)あまり申候」とあるところから、死の数年前のことであることが分かる。忠利の心情が吐露されている貴重な書状である。