津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠利の心情

2008-09-02 15:15:42 | 歴史
 いつの頃のものかはきとしない一通の書状が在る。忠利から「榊飛騨」に宛てられたものだが、「榊飛騨」とは榊原職直のことであろう。忠利の私信とも思われる、切々とした言い様が胸に迫る。

 畢竟はや五十ニあまり申候間幾程之命も無之候 無左とも人間の作法はつれ候てハいきたるかひハ更ニ無之と人毎ニ申候も尤ニて候 此心さへ候へハ何國之國々ニ居候ても能候 作法はつれ候てハいきたるかひハ無之大身ほとうらめしき儀候と我等をはしめて朝夕存候間可御心安候 いけんかましき書状かヽせ候もはつかしく候間火中被成候可被下候事

 忠利は前日父・三齋を口切の振舞を行っている。

自筆にて可申候へとも三齋被参て亭主ふりニ草臥申候間才兵衛ニ書せ進候 と、三齋の接待に草臥れ果てたと結んでいる。
忠利は、寛永十八年(1641)56歳 で亡くなるが、「五十ニ(50に)あまり申候」とあるところから、死の数年前のことであることが分かる。忠利の心情が吐露されている貴重な書状である。
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寛永改元

2008-09-02 10:17:22 | 歴史
 寛永元年八月に亡くなった沼田延元(8/31ブログ)は、元和十年四月廿二日上洛療養のために貸米を受けている。「長岡勘解由殿御煩ニ付而、御上洛候ニ、米五十石、惣談之上にてかし被進候事、御上洛ハ今月廿七日之由、惣右衛門申候事」

 よくよく考えると元和十年という年は、二月三十日に改元されて寛永に成っている。つまり延元の上洛は寛永元年四月のことであり、四ヶ月後に亡くなったということに成る。

 小倉細川藩の奉行所の「日帳」は、元和は四月廿九日迄続いていた。詳細に眺めてみると元和十年(寛永元年)三月十三日の条に「年号替り申候通、諸与頭へ触状披廻候事」とある。触状を発した奉行所がこの有様だから、一般への周知には相当の時間を有した事が推察される。 
          ja.wikipedia.org/wiki/寛永
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