かって我がサイトに「細川三齋の艶聞」という文章二話を載せていたが、何時の時期にか取り外してしまった。ここでは七十を過ぎた三齋が二人の娘をなしている事が分かる。
年代不明だが、忠利が八代の三齋を訪ね帰熊後に書いた書状に興味深い一文がある。
「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
(熊本縣資料・近世編第一 p534・一楽宛)
この文章からは、どうも三齋の娘ではないかと察せられるが、「おしほ」という名前は初見である。これは「艶聞-3」かもしれないがこれ以上のことは現況分からない。
「三斎公の艶聞」を、今一度ご紹介しておこう。
■三斎公晩年の艶聞-1
三斎は孫娘祢々(三斎女・萬 *烏丸中納言光賢卿簾中* の女、細川光尚室)のお側に幼少のころから召し置かれていた「みつ」という娘を、十四歳になったころもらい受けた。「格別の御憐憫を以召仕れ」ていたが寛永十七年八月、俄かに深尾長兵衛なる者に下し置かれた。身重であったみつは翌月女の子を出産する。「くま」と名付けられたこの赤子は当然の事ながら三斎の子である。三斎七十八歳であった。「御老年の御事ニ御座候とて、御隠密ニ被遊度思召上られ」たが、お七夜には産屋に入り守刀や産着、白銀、御樽・肴を届けたという。また台所向賄いを心配し乳母抱守の手配をし、長兵衛には知行五百石が宛てがわれた。後くまは名をすまとかえる。三斎の没後は烏丸光賢卿簾中萬からすまに対し扶持が下されたらしい。生前の三斎の配慮ではなかったのだろうか。後年長兵衛は弟伊兵衛を養子とし、すまと娶わせ家督させる。源六という子をなすが源六が五歳の時すまは亡くなったらしい。みつなる人の消息は知れない。享保三年深尾源六の記録である。
(正保二年十二月付け「八代分領侍帳」に深尾長兵衛五百石、おすま二百石などの記載が確認できる。深尾長兵衛は忠興死後、肥後を離れている。細川興秋を葬ったという京都稲荷山近くの、南谷という所に「ありのやま墓地」があり、ここに長兵衛の墓がある。傍らに深尾源六郎の妻という墓があるという。はたして何方だろうか)
■三斎公晩年の艶聞-2
或記、三斎君八代江被成御座候節、御側江被召仕候糸と申御女中ニ御女子様御出生あり、御名を御百様と申候、早速御聴に達し、志水金右衛門を召し、在中ニ遺候而穏便に養育いたし候様ニ被仰付候、依之八代郡永田村百姓善兵衛と申者の妻よろしき乳房持候由吟味之上、善兵衛所江被為入候、御五歳之時御城江被為召、御目見被成候、三斎君御逝去後、立法院殿八代御城より小川御茶屋江御移ニ付、お百様を右金右衛門御供ニ而立法院殿御方江御出なされ、彼方江被成御座候、其後御さん様方江御移なされ候、御成長の上、浪人余宮娘之由ニ而、水野伊左衛門と申者之妻ニ被下候、寺尾(生)嘉九次曾祖母之由申伝候
(寛永九年忠利の熊本への国替えに伴い三斎は八代に入った。当時三斎は七十歳であり以降十二年余を愛息立孝等と過ごす事に成る。三斎のお側には側室立法院がいた。そんな中、三斎の御身周りの世話をしていた女中「糸」にお手がつき女の子が生まれたのである。お百さまと名付けられた。はたして三斎幾つの頃の話だろうか。「城中での養育はまずい」と考えた三斎は家臣志水金右衛門に赤子の将来についていろいろ相談・指示をした。百姓善兵衛の妻が「よろしき乳房」をもっている(?)として養育を頼んだのである。五歳になってお百さまは三斎にお目見えする。三斎の没後は小川の御茶屋の三斎側室立法院のもとで育てられ、後には立孝夫人おさん様のもとに引き取られる。おさん様は立法院の姪であり三斎の養女として立孝の夫人となった人である。お百さまは余宮某の娘として水野伊左衛門なる人に嫁したという。この人が寺尾嘉九次の曾祖母だと申し伝えられている。)
平清盛の血を引く肥後宗氏の胤が浄勝寺を興すが、二代目祐閑の二男を寺尾就右衛門といい、その妻は水野伊左衛門の娘である。この伊左衛門の妻が三斎の娘お百であると「浄勝寺善慶父子武功覚書」は記している。(参考:鈴木喬著 肥後宗氏一族の盛衰)
この二つの話いずれも「綿考輯録-巻二十六」に記載されている。
まことにお盛んな三齋公ではある。
追記:この書状の前段に、「千世姫様・御袋様御他界ニ・・・」とある。忠利の他の書状から考えると千世姫とは家光の娘・千代姫(尾張藩主徳川光友正室)であることが類推される。御袋様とは生母自証院(振姫)であり、その没年は寛永17年(1640年)8月21日である。そうすると名前が違うものの【艶聞-1】のことかとも思われるが・・?
年代不明だが、忠利が八代の三齋を訪ね帰熊後に書いた書状に興味深い一文がある。
「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
(熊本縣資料・近世編第一 p534・一楽宛)
この文章からは、どうも三齋の娘ではないかと察せられるが、「おしほ」という名前は初見である。これは「艶聞-3」かもしれないがこれ以上のことは現況分からない。
「三斎公の艶聞」を、今一度ご紹介しておこう。
■三斎公晩年の艶聞-1
三斎は孫娘祢々(三斎女・萬 *烏丸中納言光賢卿簾中* の女、細川光尚室)のお側に幼少のころから召し置かれていた「みつ」という娘を、十四歳になったころもらい受けた。「格別の御憐憫を以召仕れ」ていたが寛永十七年八月、俄かに深尾長兵衛なる者に下し置かれた。身重であったみつは翌月女の子を出産する。「くま」と名付けられたこの赤子は当然の事ながら三斎の子である。三斎七十八歳であった。「御老年の御事ニ御座候とて、御隠密ニ被遊度思召上られ」たが、お七夜には産屋に入り守刀や産着、白銀、御樽・肴を届けたという。また台所向賄いを心配し乳母抱守の手配をし、長兵衛には知行五百石が宛てがわれた。後くまは名をすまとかえる。三斎の没後は烏丸光賢卿簾中萬からすまに対し扶持が下されたらしい。生前の三斎の配慮ではなかったのだろうか。後年長兵衛は弟伊兵衛を養子とし、すまと娶わせ家督させる。源六という子をなすが源六が五歳の時すまは亡くなったらしい。みつなる人の消息は知れない。享保三年深尾源六の記録である。
(正保二年十二月付け「八代分領侍帳」に深尾長兵衛五百石、おすま二百石などの記載が確認できる。深尾長兵衛は忠興死後、肥後を離れている。細川興秋を葬ったという京都稲荷山近くの、南谷という所に「ありのやま墓地」があり、ここに長兵衛の墓がある。傍らに深尾源六郎の妻という墓があるという。はたして何方だろうか)
■三斎公晩年の艶聞-2
或記、三斎君八代江被成御座候節、御側江被召仕候糸と申御女中ニ御女子様御出生あり、御名を御百様と申候、早速御聴に達し、志水金右衛門を召し、在中ニ遺候而穏便に養育いたし候様ニ被仰付候、依之八代郡永田村百姓善兵衛と申者の妻よろしき乳房持候由吟味之上、善兵衛所江被為入候、御五歳之時御城江被為召、御目見被成候、三斎君御逝去後、立法院殿八代御城より小川御茶屋江御移ニ付、お百様を右金右衛門御供ニ而立法院殿御方江御出なされ、彼方江被成御座候、其後御さん様方江御移なされ候、御成長の上、浪人余宮娘之由ニ而、水野伊左衛門と申者之妻ニ被下候、寺尾(生)嘉九次曾祖母之由申伝候
(寛永九年忠利の熊本への国替えに伴い三斎は八代に入った。当時三斎は七十歳であり以降十二年余を愛息立孝等と過ごす事に成る。三斎のお側には側室立法院がいた。そんな中、三斎の御身周りの世話をしていた女中「糸」にお手がつき女の子が生まれたのである。お百さまと名付けられた。はたして三斎幾つの頃の話だろうか。「城中での養育はまずい」と考えた三斎は家臣志水金右衛門に赤子の将来についていろいろ相談・指示をした。百姓善兵衛の妻が「よろしき乳房」をもっている(?)として養育を頼んだのである。五歳になってお百さまは三斎にお目見えする。三斎の没後は小川の御茶屋の三斎側室立法院のもとで育てられ、後には立孝夫人おさん様のもとに引き取られる。おさん様は立法院の姪であり三斎の養女として立孝の夫人となった人である。お百さまは余宮某の娘として水野伊左衛門なる人に嫁したという。この人が寺尾嘉九次の曾祖母だと申し伝えられている。)
平清盛の血を引く肥後宗氏の胤が浄勝寺を興すが、二代目祐閑の二男を寺尾就右衛門といい、その妻は水野伊左衛門の娘である。この伊左衛門の妻が三斎の娘お百であると「浄勝寺善慶父子武功覚書」は記している。(参考:鈴木喬著 肥後宗氏一族の盛衰)
この二つの話いずれも「綿考輯録-巻二十六」に記載されている。
まことにお盛んな三齋公ではある。
追記:この書状の前段に、「千世姫様・御袋様御他界ニ・・・」とある。忠利の他の書状から考えると千世姫とは家光の娘・千代姫(尾張藩主徳川光友正室)であることが類推される。御袋様とは生母自証院(振姫)であり、その没年は寛永17年(1640年)8月21日である。そうすると名前が違うものの【艶聞-1】のことかとも思われるが・・?